第2話 「妻になれ」「嫌です」「では理由を聞こう」
「俺の妻になれ」
「嫌です」
「なぜだ」
「逆に、なぜ分からないんですか?」
雨の夜だった。
私はずぶ濡れ。
髪もドレスも靴の中までびしょびしょ。
財布には銀貨四枚と銅貨十一枚。
家なし。
婚約者なし。
家族からは追放されたばかり。
そんな人生最低の日の締めくくりとして、この国でもっとも恐れられている冷徹公爵から求婚されている。
……どう考えてもおかしい。
「公爵様」
「なんだ」
「手を離していただけませんか?」
「嫌だ」
「今、私が言ったことの真似をしました?」
「していない」
「では、離してください」
「断る」
「どうしてですか?」
「お前が離れると痛みが戻る可能性がある」
「だからといって、未婚の女性の手をいつまでも握っていていい理由にはなりません」
「今、妻になれと言った」
「まだなっていません」
「なれば問題ない」
「そういう問題ではありません!」
思わず声を荒らげると、アレクシス公爵が黙った。
灰銀色の目で、じっと私を見る。
「……なんですか」
「いや」
「言いたいことがあるなら言ってください」
「意外だった」
「何がです?」
「お前は怒るのだな」
胸の奥を。
何か細い針で刺された気がした。
たった数時間前。
アルベルトにも似たようなことを言われた。
君には血が通っていないのかと思うことすらあった、と。
「怒りますよ」
「そうか」
「人間ですから」
「そうだな」
「……」
「……」
「それだけですか?」
「それ以上、何を言えばいい?」
やはりこの男とは会話がしづらい。
私は深く息を吐いた。
そして彼の手を見た。
「公爵様」
「なんだ」
「そろそろ、本当に離してもらえませんか」
「駄目だ」
「なぜです?」
「怖い」
私は瞬きをした。
「……何がですか?」
「手を離した瞬間、またあの痛みが戻るかもしれない」
とても静かな声だった。
だからこそ、冗談ではないのだと分かった。
さっきまでのアレクシス公爵は、本当に苦しそうだった。
顔色は真っ青で、立っているのもやっとに見えた。
私が腕に触れた途端、それが消えた。
「どんな痛みなんですか?」
「説明しても分からない」
「説明してください」
「心臓を内側から握り潰されているような痛みだ」
私は何も言えなくなった。
「それが毎晩続く」
「毎晩?」
「ああ」
「いつからですか?」
「十年前から」
「十年……」
思わず、彼の顔を見た。
二十九歳。
ということは十九歳から。
「お医者様は?」
「百人以上診せた」
「神官は?」
「国中の高位神官を呼んだ」
「魔術師は?」
「王宮魔術師団を三度巻き込んだ」
「……ずいぶん大騒ぎですね」
「俺の命が懸かっている」
「それはそうですが」
そこでアレクシス公爵が、ふと顔をしかめた。
「寒くないのか」
「寒いです」
「なぜ黙っていた」
「今、それを言います?」
「顔色が悪い」
「あなたに言われたくありません」
「馬車に乗れ」
「嫌です」
また黙った。
「なぜだ」
「初対面の男性の馬車に、夜中に一人で乗る令嬢がどこにいますか?」
「ここにいる」
「乗っていません」
「今から乗る」
「乗りません」
「では、雨の中で話を続けるのか」
「……」
悔しい。
正論だった。
しかも、猛烈に寒い。
私が黙っていると、公爵は馬車の扉を開けた。
「乗れ」
「命令ですか?」
「頼んでいる」
「それが人にものを頼む顔ですか?」
「生まれつきだ」
少しだけ。
本当に少しだけ、笑いそうになった。
でも笑わなかった。
たぶん、笑う元気がなかった。
私は馬車の中を覗き込んだ。
広い。
暖かそう。
柔らかそうな座席。
「……変なことをしませんか?」
「変なこと?」
「だから、その」
「具体的に言え」
「言わせるんですか?」
「何のことか分からない」
この人、本当に女性経験がないのかもしれない。
いや。
でも、見た目だけなら女性が放っておかないだろう。
黒髪。
恐ろしいほど整った顔。
長身。
公爵。
領地も広い。
顔もいい。
お金もある。
性格は。
……いったん考えないことにする。
「私に触ったりしないと約束してください」
「すでに触っている」
「手首以外です!」
アレクシス公爵が、私の手首を見た。
それから私を見る。
「約束する」
「本当に?」
「ああ」
「絶対ですよ?」
「ただし」
「ただし?」
「俺が死にかけたら触らせろ」
「……」
「嫌なのか」
「そういう言い方をされて断れると思いますか?」
「では決まりだ」
「なんだか納得できません」
それでも私は馬車に乗った。
扉が閉まる。
雨音が遠くなった。
車内は暖かかった。
それだけで。
急に泣きそうになった。
まずい。
そう思った。
人は不思議なものだ。
つらいときは泣けない。
必死だから。
でも少しだけ安全な場所に入ると、急に駄目になる。
私は窓の外を見た。
「毛布を使え」
アレクシス公爵が言った。
「大丈夫です」
「震えている」
「寒いだけです」
「だから使え」
「結構です」
「なぜだ」
「……分かりません」
本当に分からなかった。
ただ。
今、誰かに親切にされたら。
何かが壊れそうだった。
「リリアーヌ」
「なんですか」
「お前は、何に怒っている?」
その質問に。
私は、ゆっくり彼を見た。
「今、その話をします?」
「今しかない」
「いろいろありすぎるんです」
「なら一つずつ言え」
「どうしてあなたに?」
「聞きたいからだ」
「私たち、今日初めて会話したんですよ」
「以前にも見たことはある」
「そういう意味ではありません」
「分かっている」
「では、どうして聞くんですか?」
アレクシス公爵は少し黙った。
彼は何か言おうとして。
やめて。
また考えて。
ようやく口を開いた。
「お前が、ひどい顔をしているからだ」
胸が詰まった。
「……それ、女性に言ってはいけませんよ」
「そうなのか」
「そうです」
「だが事実だ」
「本当に失礼ですね」
「顔が醜いと言ったわけではない」
「では、どういう意味です?」
「泣きたいのに、泣かない顔だ」
もう。
駄目だった。
私は顔を背けた。
「……公爵様」
「なんだ」
「少し、黙っていてください」
「分かった」
「絶対に話しかけないでください」
「分かった」
「あと、こちらを見ないでください」
「分かった」
沈黙。
私は唇を噛んだ。
泣くな。
泣くな。
今さら泣いてどうする。
もう終わった。
婚約は破棄された。
父にも捨てられた。
妹に婚約者を奪われた。
終わったのだ。
「……リリアーヌ」
「話しかけないでと言いました!」
「三分たった」
「三分しか我慢できないんですか!」
「いや」
「だったら黙っていてください」
「だが、一つだけ訂正したい」
「何をです?」
「お前には、女としての魅力がないと言われたそうだな」
息が止まった。
「誰から聞いたんですか」
「舞踏会にいた」
「……聞いていたんですね」
「ああ」
「それで?」
「間違っている」
何を。
この人は何を言っているのだろう。
「慰めは結構です」
「慰めではない」
「では何ですか」
「事実だ」
アレクシス公爵は、私の顔をまっすぐ見た。
「お前は美しい」
心臓が跳ねた。
馬鹿みたいに。
たったそれだけで。
「……そういうことを簡単に言わないでください」
「なぜだ」
「本気にする人もいます」
「本気で言っている」
「だから困るんです!」
「意味が分からない」
「分からなくていいです!」
私は毛布を引っ張り、顔まで隠した。
しばらくして。
「それで」
毛布の向こうから声がした。
「まだ話すんですか」
「妻になる件だ」
「なりません」
「理由を聞こう」
「昨日まで王太子の婚約者だった女に、普通は翌日求婚しません」
「俺は普通ではない」
「それは見れば分かります」
言ったあと。
しまったと思った。
でも。
アレクシス公爵は怒らなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ。
口元が動いたような気がした。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよね?」
「十年笑っていない」
「では、今が十一年ぶりだったかもしれません」
「違う」
「本当に?」
「しつこいな」
「あなたに言われたくありません。さっきから何度求婚しているんですか」
「三度だ」
「数えていたんですか?」
「当然だ」
「普通は数えません」
「俺は普通ではない」
「それ、自分で使うんですね」
今度こそ。
私は少し笑った。
本当に少しだけ。
その瞬間。
アレクシス公爵が黙った。
「なんですか」
「いや」
「また、それですか」
「さっきよりいい顔になった」
「だから、女性の顔について簡単に」
「リリアーヌ」
声が。
少しだけ低くなった。
「俺の妻になれ」
四度目。
私は毛布から顔を出した。
「嫌です」
「なぜだ」
「あなたのことを何も知らないからです」
「なら知れ」
「え?」
「俺のことを知ってから決めればいい」
「……」
「今夜、俺の屋敷へ来い」
「それ、ものすごく危ない誘い方ですよ」
「客室を用意する」
「本当に?」
「ああ」
「同じ部屋ではなく?」
「当然だ」
「本当に本当?」
「くどい」
「だって、さっきから妻になれとしつこい人ですから」
「それとこれとは別だ」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
私は迷った。
行く場所はない。
宿に泊まる金も惜しい。
何より。
この男の痛み。
私が触れた瞬間に消えた。
そこだけは、確かに気になる。
「一晩だけですよ」
「ああ」
「客室です」
「ああ」
「勝手に入ってこないでください」
「ああ」
「朝になったら帰ります」
「それは駄目だ」
「どうしてですか!」
「お前がいなくなると困る」
アレクシス公爵は。
本当に困った顔で言った。
「だから、妻になれ」
「嫌です!」
その夜。
私はまだ知らなかった。
この強引で。
不器用で。
人の気持ちが分かっているのかいないのか、さっぱり判断できない男が。
やがて私に触れることを、誰より怖がるようになることを。
そして私もまた。
触れないでほしいと願いながら。
いつか。
触れてほしいと思うようになることを。




