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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第1話 婚約破棄された夜、冷徹公爵に「俺の妻になれ」と言われました

「リリアーヌ。君との婚約を、今日限りで破棄する」


 最初に思ったことは。


 ――ああ。


 だった。


 本当に、それだけだった。


 悲しいでもない。


 苦しいでもない。


 どうして、とさえ思わなかった。


 ただ、ああ、と。


 まるで誰かが紅茶のカップを落としたときのような、間の抜けた感想だけが頭に浮かんだ。


 たぶん、心が理解するのを拒んだのだと思う。


 王宮の大広間。


 百を超える蝋燭。


 天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア。


 磨き上げられた床には、絹や宝石に身を包んだ貴族たちの姿が映っている。


 楽団は演奏を止めていた。


 誰も喋らない。


 誰も動かない。


 なのに、息遣いだけは聞こえた。


 皆、聞き耳を立てている。


 私がどんな顔をするのか。


 泣くのか。


 喚くのか。


 王太子殿下の足元にすがるのか。


 もしかすると、賭けでもしていたのかもしれない。


 私は少しだけ息を吸った。


「……今、何と仰いましたか?」


 分かっていた。


 聞こえていた。


 それでも、聞き返してしまった。


 七年間も婚約者をしていれば、こういうところだけ妙に律儀になる。


 殿下――アルベルトは、目を逸らさなかった。


 それだけは少し意外だった。


 昔は、嘘をつくと必ず左を向く人だったのに。


「君との婚約を破棄すると言った」


「そうですか」


 自分でも驚くほど、普通の声が出た。


 周囲がざわついた。


 どうやら彼らは、私が悲鳴でも上げると思っていたらしい。


 申し訳ない。


 期待に応えられなくて。


 私はドレスの裾を軽くつまみ、頭を下げた。


「承知いたしました」


「……それだけか?」


「はい?」


 今度は本当に分からなかった。


 何を求められているのだろう。


 アルベルトの眉間に、わずかに皺が寄った。


「何か、言いたいことはないのか」


「婚約を破棄なさるのは殿下です。私が何を言っても、御心は変わらないのでしょう?」


「それは……そうだが」


「でしたら、承知いたしました、としか」


「そういうところだ」


「はい?」


「君の、そういうところだよ、リリアーヌ」


 アルベルトが吐き出すように言った。


 何かをずっと我慢していた人の声だった。


 ただ、それが何なのか、私には分からない。


「いつも正しい。いつも冷静だ。何を言っても、そうですか、分かりました、承知しました。そればかりだ。君には血が通っていないのかと思うことすらあった」


 それは、少し傷ついた。


 さすがに私にも、心くらいはある。


 あるからこそ、ここで泣かないようにしているのだけれど。


「王太子妃となる者は、感情を表に出しすぎてはならないと教えられましたので」


「ほら、またそれだ」


「……では、どうすればよかったのですか?」


 思わず聞いた。


 七年間。


 本当は、ずっと聞きたかったのかもしれない。


「殿下がお怒りになれば、私は謝りました。殿下がお困りならば、解決策を探しました。御公務に必要な書類は事前に確認しましたし、他国の使節が来ると聞けば相手国の言葉も覚えました。陛下が体調を崩されたときには、あなたが混乱なさらないよう、三日間眠らず日程を整理しました。それでも足りなかったのでしょうか」


「だから、そういう話をしているんじゃない!」


 アルベルトが声を荒らげた。


 大広間のどこかで、誰かが小さく息を呑んだ。


 私は黙った。


 アルベルトも黙った。


 嫌な沈黙だった。


 こういう沈黙を、私は昔から知っている。


 父と母が私について話すとき。


 教師が私の欠点を探しているとき。


 そして――アルベルトが、私に言いにくいことを言おうとしているとき。


「君には、女としての魅力がない」


 ああ。


 そうなのか。


 私は、なぜか納得してしまった。


 七年間。


 手を繋いだことさえ、ほとんどない。


 初めて手を繋いだのは十六歳の夏だった。


 王宮の庭園で、私が階段を踏み外しかけたとき。


 アルベルトが咄嗟に手を取ってくれた。


 あの夜、私は眠れなかった。


 馬鹿みたいに何度も右手を見た。


 誰にも言わなかった。


 翌朝には、いつもの婚約者の顔をした。


 だって。


 王太子の婚約者が、手を繋いだくらいで浮かれてはいけないと思ったから。


 もしかして。


 あのとき、嬉しかったと言えばよかったのだろうか。


「そう、ですか」


 ようやく、それだけ言った。


「リリアーヌ」


「大丈夫です」


「俺は別に、君を傷つけたいわけじゃない」


 思わず笑いそうになった。


 ひどいことを言うものだ。


 七年の婚約を破棄して。


 女として魅力がないと言って。


 それでも傷つけるつもりはなかったらしい。


 人間とは、とても便利な生き物だ。


 自分が悪者になりたくなければ、何でも言える。


「では、どなたとご結婚されるのですか?」


 私は聞いた。


 聞かなくてもいいと思った。


 それでも聞いた。


 もしかすると、その時点ではまだ心のどこかで、遠い国の王女か、どこかの大公家の令嬢だと思っていたのかもしれない。


 アルベルトは答えなかった。


 代わりに。


「お姉様」


 聞き慣れた声がした。


 振り向く必要などなかった。


 妹のセシリアだった。


 二十歳。


 私より三つ年下。


 ふわふわした蜂蜜色の髪。


 大きな青い瞳。


 笑うと頬に小さなえくぼができる。


 誰からも愛される妹だった。


 セシリアは、おずおずとアルベルトの隣へ進んだ。


 そして。


 彼の腕に、自分の腕を絡ませた。


「ごめんなさい、お姉様」


 やめてほしいと思った。


 謝らないでほしかった。


 だって、謝られたら。


 私はあなたに怒らなければならなくなる。


「セシリア」


「違うんです。私、最初はそんなつもりじゃなくて。本当です。ただ、殿下がとてもお寂しそうで……お姉様はお忙しいでしょう? 王妃教育とか、お仕事とか。だから私、少しくらいならお話し相手になってもいいかなって」


「いつから?」


 自分でも驚くほど、声が低くなった。


 セシリアは唇を噛んだ。


「え?」


「いつからなの」


「……半年くらい、前です」


 半年。


 長い。


 あまりにも長かった。


 私が外交使節団との折衝準備をしていたころ。


 アルベルトの誕生日のために、北方から贈られる馬の選定をしていたころ。


 高熱を出しても仕事を休めず、侍女に隠れて吐いたころ。


 そのころには、もう。


「お姉様、本当に違うの。私、奪おうなんて思っていなかったのよ。ただ、好きになってしまっただけ。好きになる気持ちは、止められないでしょう?」


 セシリアは泣いていた。


 本当に悲しそうだった。


 それが、いちばん腹立たしかった。


「そうね」


 私は答えた。


「好きになる気持ちは、止められないのかもしれないわね」


「お姉様……!」


「でも、姉の婚約者と半年間密会するのをやめることはできたでしょう?」


 セシリアの顔から、表情が消えた。


 周囲がざわついた。


 私は少し後悔した。


 言わなければよかった。


 でも、もう遅い。


「そんな言い方……」


「ごめんなさい」


「……え?」


「あなたが欲しい言葉ではなかったわね」


「私は、ただ……」


「許してほしい?」


 聞くと、セシリアは黙った。


 そこでようやく分かった。


 この子は。


 私に許してほしいのではない。


 自分が悪者ではないと言ってほしいのだ。


 姉から婚約者を奪ったのではない。


 ただ恋をしただけ。


 仕方なかった。


 誰も悪くない。


 そういう話にしたいのだ。


「今は無理よ」


 私は言った。


 セシリアが目を見開いた。


「ごめんなさい。今すぐあなたを許せるほど、私は優しくないの」


「……お姉様、ひどい」


 ああ。


 そうなるのか。


 なぜ私が悪いのだろう。


 でも、きっとセシリアの中では、本当に私がひどいのだ。


 人間とは、自分が主人公である限り、どんなことにも理由をつけられる。


「リリアーヌ、セシリアを責めるな」


 アルベルトが言った。


「彼女は悪くない。すべて俺の責任だ」


「でしたら、殿下を責めてもよろしいのですか?」


「……」


「冗談です」


 たぶん、少しだけ嫌な女になった。


 もう婚約者ではないのだから。


 これくらいは許してほしい。


 私は二人に背を向けた。


「リリアーヌ」


「失礼いたします」


「待て。話はまだ」


「殿下」


 私は振り返った。


「私はもう、あなたの婚約者ではございません」


 アルベルトが黙る。


「ですから、命令なさらないでください」


 言ってしまった。


 胸が少し震えた。


 七年間、一度だって、こんなことは言わなかった。


 でも。


 もういいだろう。


 私は頭を下げた。


 そして、大広間を出た。


 誰も追ってこなかった。


     ◇


「お前には失望した」


 屋敷に戻って一時間後。


 父は開口一番、そう言った。


 私は濡れたドレスのまま、父の執務室に立っていた。


 本当は着替えたかった。


 でも、呼ばれたのだから仕方ない。


「申し訳ございません」


「何をどうすれば、王太子に捨てられるんだ」


 その言葉は。


 アルベルトに婚約破棄を告げられたときより、少しだけ痛かった。


「私にも、分かりません」


「分からないでは済まん!」


 机を叩く音。


 私は目を閉じなかった。


 昔から父は、怒ると机を叩く。


 でも、人を殴ったことはない。


 だから怖くない。


 怖くないと、覚えてしまった。


「セシリアが殿下の新しい婚約者になるそうだ」


「はい」


「幸いだった。我が家と王家との縁は切れずに済む」


「そうですね」


「お前も、しばらくすれば適当な嫁ぎ先を探してやる」


 適当な。


 少し笑いそうになった。


「ありがとうございます」


「だが、それまでは屋敷にいられても困る」


 私は父を見た。


「……はい?」


「セシリアと殿下が結婚する。お前が同じ屋敷にいては、あの子が気まずいだろう」


「私が、出ていくのですか?」


「当然だ」


「今夜?」


「早いほうがいい」


 さすがに。


 さすがに、それは。


「お父様。私は先ほど婚約を破棄されたばかりです」


「分かっている」


「雨も降っています」


「馬車を用意させる」


「どこへ行けばよいのでしょう」


「それくらい、自分で考えなさい」


 そこで。


 何かが切れた。


 大きな音はしなかった。


 怒りも湧かなかった。


 ただ。


 ああ。


 もういいな、と思った。


「分かりました」


「リリアーヌ」


「はい」


「家門に泥を塗るような真似だけはするな」


「承知いたしました」


 最後まで。


 私は、承知いたしました、と答えた。


 父が嫌う、私らしい答え方で。


     ◇


 馬車には乗らなかった。


 行き先がないのだから。


 荷物は小さな鞄一つ。


 財布の中には銀貨が数枚。


 王太子妃になる予定だった女の全財産としては、なかなか笑える。


 雨はまだ降っていた。


 髪が濡れる。


 ドレスも重い。


 靴の中に水が入って、歩くたびに気持ち悪い。


「……最悪」


 口に出してみた。


 少し楽になった。


「本当に、最悪」


 もう一度言った。


 今度は笑ってしまった。


 変な笑いだった。


 婚約者を妹に奪われた。


 父に追い出された。


 今夜眠る場所もない。


 なのに、笑っている。


「何がおかしいのかしら、私」


 誰も答えない。


 当然だ。


 夜の王都を、一人で歩いた。


 貴族令嬢が夜道を一人で歩くなど、褒められたものではない。


 でも、もうどうでもよかった。


 明日からどうしよう。


 仕事を探そうか。


 私は王妃教育しか受けていない。


 いや、外交も会計も法律も分かる。


 刺繍もできる。


 料理は。


 ……やめよう。


 あれは人間の食べ物ではなくなる。


「宿屋くらいなら、泊まれるかしら」


 財布を開く。


 銀貨、四枚。


 銅貨、十一枚。


「……高級宿は無理ね」


 当たり前である。


「安宿なら」


 そこで、馬車の音がした。


 黒い馬車だった。


 ずいぶん立派なものだ。


 この雨の中でも、車輪の音は静かだった。


 私の前を通り過ぎる。


 そう思った。


 しかし馬車は。


 止まった。


「……?」


 扉が開いた。


 最初に見えたのは、黒い革靴。


 次に、長い脚。


 そして。


 一人の男が降りてきた。


 黒髪。


 灰銀色の瞳。


 背が高い。


 黒を基調にした礼装。


 雨の夜だというのに、その男だけは周囲の闇より濃く見えた。


 知らない人ではない。


 この国の貴族で、彼を知らない者はいない。


 アレクシス・ヴァン・グランツ公爵。


 北部最大の領地を支配する大貴族。


 王国最強の騎士。


 そして。


 氷獄公爵。


 十年間、笑った顔を誰も見たことがないと言われる男。


 どうして。


 そんな人が。


 私の前に?


「リリアーヌ・エヴァレット」


 低い声だった。


「はい」


「なぜこんなところにいる」


「散歩です」


 言ってから。


 我ながら無理があると思った。


 真夜中。


 大雨。


 ずぶ濡れ。


 大きな鞄。


 これで散歩は無理だ。


 アレクシス公爵も黙った。


「……」


「……」


「散歩です」


 なぜ二度言ったのだろう。


「そうか」


 信じたの!?


 思わず顔を上げた。


 その瞬間だった。


 アレクシス公爵の身体が揺れた。


「公爵様?」


 彼が胸を押さえる。


 顔色が一気に変わった。


「大丈夫ですか?」


「来るな」


「でも」


「来るな!」


 怒鳴られた。


 普通なら、止まる。


 私は止まらなかった。


 たぶん。


 もう今夜はいろいろありすぎて、人から言われたことを素直に聞く余力がなかったのだ。


「大丈夫ではありませんよね」


「触るな」


「そんなことを言っている場合ですか?」


「触るな!」


「嫌です!」


 今日初めて、大声を出した。


 自分でも驚いた。


 アレクシス公爵も驚いた顔をした。


「倒れそうな人を放っておけません!」


 私は彼の腕を掴んだ。


 その瞬間。


 彼の身体が止まった。


「……え?」


 アレクシス公爵が私を見る。


 正確には。


 私の手を見ていた。


 私が掴んでいる、彼の腕を。


「公爵様?」


 返事がない。


「本当に大丈夫ですか?」


 彼はまだ黙っていた。


 私は急に不安になった。


「あの、もしかして、掴まれるのがお嫌いでしたか?」


「……痛くない」


「はい?」


「痛みが、消えた」


 意味が分からなかった。


 彼も同じだったのかもしれない。


 灰銀色の目が大きく開いている。


 氷獄公爵と呼ばれる男が。


 呆然としていた。


 次の瞬間。


 今度は彼が私の手首を掴んだ。


「きゃっ」


 強い。


 ただし、痛くはない。


 逃がさないという意思だけが、はっきり伝わる。


「公爵様?」


「見つけた」


「……何をですか?」


 彼は答えなかった。


 ただ私を見た。


 顔を。


 目を。


 濡れた髪を。


 まるで長い間探していた何かを確かめるように。


「公爵様、手を」


「俺の妻になれ」


 雨の音が。


 一瞬、消えた気がした。


「……はい?」


「俺の妻になれ」


「聞こえなかったわけではありません」


「なら、返事をしろ」


「嫌です」


 即答した。


 アレクシス公爵が黙る。


 私は続けた。


「今日、婚約破棄されたばかりなんです」


「知っている」


「妹に婚約者を奪われたんです」


「知っている」


「父にも家を追い出されました」


「それも知っている」


「全部知っているんですか?」


「ああ」


「それで、どうして今、私に求婚するんですか?」


「必要だからだ」


「私が?」


「ああ」


「何に?」


 アレクシス公爵はしばらく黙った。


 それから。


 おそろしく真剣な顔で言った。


「俺が生きるために」


「……」


「リリアーヌ・エヴァレット」


「はい」


「俺の妻になれ」


「ですから嫌です」


 雨の中。


 私と、この国で最も恐れられる冷徹公爵は。


 しばらく無言で睨み合った。


 まさかこのときの私は、知るはずもなかった。


 この男と。


 毎晩。


 同じベッドで眠ることになるなんて。


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