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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第7話 昨日、私を捨てた王太子が「今すぐ戻ってこい」と言っています

「俺の妻に命令するなと伝えろ」


 アレクシス公爵の声は低かった。


 怒鳴ってはいない。


 だからこそ怖い。


 昨日、寝室で枕を投げ合っていた男と、本当に同一人物なのだろうか。


 王宮からやって来た使者は、目に見えて顔を青ざめさせた。


「し、しかし、グランツ公爵閣下。アルベルト殿下は、リリアーヌ様に至急王宮へ戻っていただくよう――」


「戻る?」


 アレクシス公爵の眉が、わずかに動く。


「この女はもう王宮の人間ではない」


「ですが」


「昨日、王太子自身が婚約を破棄したのだろう」


「それは……」


「なら戻る場所ではない」


 使者は困り果てた顔で私を見た。


 やめてほしい。


 そんな顔をされても困る。


 私だって、こんなことになるとは思っていなかったのだから。


「リリアーヌ様」


「はい」


「アルベルト殿下は、直接お話ししたいと申しております」


「何をですか?」


「それは、私にも」


「では、お断りします」


 自分でも驚くほど簡単に言えた。


 昨日までの私なら。


 きっと、違った。


 王太子から呼び出された。


 それだけで、何をしていても駆けつけただろう。


 熱があっても。


 眠っていなくても。


 泣きたい夜でも。


 でも。


 昨日。


 あの人は言った。


 私はもう婚約者ではない、と。


 だったら。


 本当に、そうなのだ。


「ですが、リリアーヌ様」


 使者が食い下がる。


「王宮内で、少々問題が起きておりまして」


「問題?」


「はい」


 嫌な予感がした。


「具体的には?」


「それは……」


「言えないのですか?」


「機密に関わることですので」


「なら、なおさら私は関係ありません」


 使者が黙る。


 私は紅茶のカップを持った。


 飲もうとした。


 でも。


 手が少し震えていた。


 気づかれたくなかった。


「帰れ」


 アレクシス公爵が言う。


 使者はもう反論しなかった。


 深々と頭を下げる。


「……失礼いたしました」


 扉が閉まった。


 食堂が静かになる。


「……」


「……」


「……」


 誰も喋らない。


 私は紅茶を飲んだ。


 もう冷めている。


「リリアーヌ様」


 ハロルドが口を開いた。


「はい」


「おかわりをお持ちいたしましょうか」


「結構です」


「ですが、その紅茶はもう」


「大丈夫です」


「しかし」


「大丈夫だと言っています」


 少し強い声になった。


 ハロルドが黙る。


 しまった。


「……ごめんなさい」


「いいえ」


「あなたに怒ったわけでは」


「存じております」


 それが余計につらかった。


 八つ当たりだ。


 最低。


 私はカップを置いた。


「少し、一人に」


「駄目だ」


 アレクシス公爵が言った。


 私は彼を見る。


「……なぜです?」


「今のお前を一人にしたくない」


「私は大丈夫です」


「大丈夫な人間は、冷めた紅茶を三回も飲もうとしない」


 私はカップを見る。


 本当に?


 三回も?


「数えていたんですか」


「ああ」


「そうですか」


「それに」


「まだ何か?」


「手が震えている」


 私は思わず右手を左手で隠した。


 遅かった。


「見ないでください」


「無理だ」


「どうしてです?」


「目の前にいる」


「……このやり取り、何度目ですか」


「知らん」


「私はもう飽きました」


「俺はまだ飽きていない」


「そうですか」


 少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 気持ちが緩んだ。


 それが悔しい。


「王太子のところへ行きたいか」


 不意に聞かれた。


「え?」


「行きたいなら止めない」


 アレクシス公爵の顔は無表情だった。


 でも。


 何となく。


 本当に何となくだけれど。


 機嫌が悪そうに見えた。


「先ほどは、あれほど行かせたくなさそうだったのに?」


「命令されるのは気に入らない」


「私が自分から行くなら?」


「止めない」


「……」


「ただし」


「ただし?」


「俺も行く」


「どうしてですか!」


「夫だからだ」


「契約上の、です」


「夫であることに変わりはない」


「変わります!」


「どこが」


「いろいろです!」


 アレクシス公爵が腕を組んだ。


「つまり、行きたいのか」


「行きません」


「本当に?」


「はい」


「王太子に会いたくない?」


「……今は」


「今は?」


 面倒くさい。


 この男、ものすごく面倒くさい。


「どうしてそんなに聞くんですか?」


「確認だ」


「何の?」


「必要な確認だ」


「答えになっていません」


「では質問を変える」


 アレクシス公爵は私を見る。


「まだ、あの男が好きなのか?」


 息が詰まった。


 ハロルドが静かに一歩後ろへ下がった。


 逃げた。


 あの執事。


 絶対に逃げた。


「今、それを聞きます?」


「ああ」


「普通、聞きませんよ」


「俺は普通ではない」


「それ、自分で便利に使いすぎです」


「答えろ」


「嫌です」


「なぜだ」


「私にも分からないからです」


 正直に言った。


 アレクシス公爵が黙る。


「七年間です」


「ああ」


「七年間、私はあの人の妻になると思って生きてきました」


「……」


「毎朝起きたら、王太子妃として恥ずかしくない一日を過ごそうと思いました。外国語を覚えて、歴史を勉強して、法律を読んで、礼儀を学んで」


「知っている」


「何をです?」


「お前が優秀だということだ」


「……そういうの、今はやめてください」


「なぜ」


「泣きそうになるからです」


 言った瞬間。


 本当に涙が出た。


 最悪。


 私は慌てて顔を背ける。


「見ないでください」


「無理だ」


「今だけは無理でも見ないで!」


「分かった」


 本当に。


 彼は顔を逸らした。


 それが、また少し優しかった。


「別に、アルベルト殿下が今でも好きだから泣いているわけではありません」


「ああ」


「たぶん」


「たぶん?」


「そこを拾わないでください!」


「分かった」


「でも」


 私は目元を拭った。


「七年間の私が、馬鹿だったみたいで」


 声が震えた。


「頑張ったのに」


「ああ」


「本当に、頑張ったんです」


「知っている」


「あなた、私の七年間を知らないでしょう」


「知らない」


「なら」


「だが、昨日からのお前を見ていれば分かる」


 私は黙った。


「お前は無駄なことでも手を抜けない女だ」


「褒めています?」


「褒めている」


「ひどい褒め方」


「それしかできない」


 少し笑った。


 泣きながら。


 格好悪い。


 でも、もういい。


「七年間が無駄でも」


 アレクシス公爵が言った。


「お前まで無駄になるわけではない」


 私は彼を見る。


「……何ですか、それ」


「分からないか」


「分かります」


「ならいい」


「でも、もう少し上手に言えません?」


「無理だ」


「でしょうね」


 また笑った。


 今度は本当に。


     ◇


 同じころ。


 王宮では。


「どういうことだ!」


 アルベルトの怒声が、執務室に響いていた。


「なぜ今日の予定表がない!」


 若い官吏が青ざめる。


「も、申し訳ございません。これまで予定表の最終調整はリリアーヌ様が」


「では誰か別の者にやらせろ!」


「昨日から試しておりますが、北方使節団の謁見と財務会議の時間が重複しておりまして、その変更には陛下の許可と――」


「だったら許可を取れ!」


「陛下は療養中でございます!」


「では宰相に!」


「宰相閣下は本日、東部諸侯との会談が」


「なぜこんなことになっている!」


 誰も答えなかった。


 答えられなかった。


 いや。


 本当は。


 全員、答えを知っていた。


 これまでリリアーヌがやっていたからだ。


 誰にも気づかれず。


 当たり前のように。


「殿下」


 セシリアがおずおずと声をかけた。


 昨日までなら。


 その可愛らしい声を聞けば、アルベルトの苛立ちは少し和らいだ。


 だが今は。


「何だ」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


 セシリアの肩が震える。


「その……私にも、何かお手伝いできることがあれば」


「何ができる?」


 言ってから。


 しまったと思った。


「……え?」


「いや」


 アルベルトは額を押さえた。


「すまない。そういう意味ではない」


「……はい」


「君は悪くない」


 そう言った。


 昨日も言った。


 彼女は悪くない。


 自分も悪くない。


 ただ恋をしただけだ。


 それなのに。


 なぜだ。


 どうしてこんなに。


 何もかもがうまくいかない。


「使者はまだ戻らないのか」


「間もなくかと」


 そこへ。


 扉が開いた。


「殿下」


 使者だった。


 アルベルトが立ち上がる。


「遅い! リリアーヌは?」


「……参りません」


「何?」


「公爵邸に残ると」


「なぜだ」


「それが」


 使者は言いづらそうに黙った。


「言え!」


「リリアーヌ様は、グランツ公爵閣下と婚姻されました」


 アルベルトは。


 一瞬。


 何を言われたのか理解できなかった。


「……誰が」


「リリアーヌ様が」


「誰と」


「アレクシス・ヴァン・グランツ公爵閣下とでございます」


「馬鹿な」


 昨日だぞ。


 昨日。


 自分との婚約が終わったばかりだ。


「あり得ない」


「ですが」


「あり得るものか!」


 机を叩いた。


 その拍子に。


 机の上の書類が床に落ちた。


 セシリアが息を呑む。


「アルベルト様……?」


「リリアーヌが、あの男と?」


 胸の奥が。


 焼けるように熱かった。


 なぜだ。


 自分が捨てた女だ。


 魅力がないと言った。


 冷たい女だと思っていた。


 なのに。


「……どうして」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


「どうして、もう他の男の妻になっている」


     ◇


「くしゃみが出そうです」


 私は鼻を押さえた。


「風邪か?」


「違います」


「なら何だ」


「誰かが噂をしているのかも」


「くだらない」


「夢がないですね」


「必要ない」


「そういうところですよ」


 私たちは朝食を終え。


 廊下を歩いていた。


 昨夜まで。


 私は一人だった。


 今は。


 隣にアレクシス公爵がいる。


「そういえば」


 私は彼を見る。


「今夜も同じベッドですよね」


「ああ」


「枕を十個用意してください」


「必要ない」


「必要です」


「どうせ全部落とす」


「事故です」


「寝相だ」


「事故!」


「なら二十個にするか」


「馬鹿にしています?」


「真面目だ」


「余計に腹が立ちます!」


 アレクシス公爵の口元が。


 本当に少しだけ緩んだ。


「今、笑いましたね」


「笑っていない」


「笑いました!」


「証拠は?」


「私です!」


「証拠になっていない」


「またそれ!」


 私は怒った。


 彼は歩く。


 私も追う。


 昨日までの人生にはなかった朝だった。


 でも。


 その穏やかな時間は。


 長くは続かなかった。


 昼過ぎ。


 今度は王宮ではなく。


 私の実家から。


 一通の手紙が届いた。


 差出人は。


 妹のセシリア。


 封を開く。


 最初の一文を読んだ瞬間。


 私は、息を止めた。


『お姉様。お願いです。王宮へ戻ってきてください。アルベルト様が、私を見てくださらないのです』


 私は。


 手紙を握ったまま。


 しばらく何も言えなかった。


 そして隣で。


 手紙を覗き込んだアレクシス公爵が。


 ものすごく低い声で言った。


「その妹は、馬鹿なのか?」


「公爵様」


「なんだ」


「否定できないときに、そういうことを言わないでください」


 どうやら。


 私を捨てた人たちは。


 私がいなくなってから。


 ようやく私を思い出し始めたらしい。


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