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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第57話 夫婦の間に黒い壁が現れ、互いの声だけが聞こえました

 黒い壁が立ち上がった瞬間。


 世界から。


 アレクシスの姿だけが消えた。


「アレクシス!」


「リリアーヌ!」


 声は聞こえる。


 近い。


 手を伸ばせば届くはずの場所にいる。


 それなのに、指先が触れたのは、冷たい壁だった。


 石ではない。


 水でもない。


 黒い霧を無理やり固めたような、不快な感触。


「そこにいますか!」


「いる。動くな」


「動いていません!」


「本当に?」


「こんなときに疑うんですか!」


「お前は、動くなと言うと動く」


「あなたにだけは言われたくありません!」


 返ってくる声。


 言い方。


 こんな状況でも腹が立つところ。


 本物のアレクシスだ。


 そう思った。


 その直後。


 耳元で。


 別の声がした。


「領地のためだ」


 振り返る。


 そこに。


 アレクシスが立っていた。


「……え?」


 黒い壁のこちら側。


 私と同じ空間に。


 夫がいる。


 騎士服も。


 泥のついた外套も。


 左腕の古い傷も。


 すべて本物に見えた。


「アレクシス?」


「ああ」


「どうして、こちらに」


「決めたからだ」


 彼は。


 私へ近づかなかった。


「何を?」


「お前を隔離する」


「それは、もう」


「公爵邸ではない」


 低い声。


 いつもの声なのに。


 温度がない。


「大神殿へ引き渡す」


「……」


「子どもたちの被害を止めるためだ」


「私が原因だと?」


「ああ」


 胸が。


 きつく締めつけられた。


「まだ、そう決まったわけでは」


「お前の手首に呪印が出た」


「それは」


「黒碑も、お前へ反応している」


「調べれば」


「これ以上、領民を危険にさらせない」


 正しい。


 領主としてなら。


 正しい判断かもしれない。


「私を」


 声が震える。


「捨てるんですか」


「妻一人と領民を比べるまでもない」


 幻だ。


 そう思わなければならない。


 でも。


 黒い壁の向こうから聞こえていた声が。


 いつの間にか消えていた。


「アレクシス!」


 壁へ向かって呼ぶ。


 返事がない。


 目の前のアレクシスだけがいる。


「呼んでも無駄だ」


「あなたは誰です」


「お前の夫だ」


「違う」


「何が違う」


「アレクシスは」


 何と言えばいい?


 私を捨てない?


 でも。


 領民の命と私のどちらかを、本当に選ばなければならないとき。


 彼は。


 私を選ぶのだろうか。


 私は。


 選んでほしいのだろうか。


「ほら」


 幻が言う。


「言えない」


「……」


「お前も分かっている。俺は領主だ」


「はい」


「妻を守るために、子どもたちを犠牲にはできない」


「はい」


「なら来い」


 差し出された手。


 以前なら。


 触れたかもしれない。


 私を捨てないと言って。


 領民より私を選んでと。


 叫んだかもしれない。


「いいえ」


 私は答えた。


「何?」


「あなたが本物のアレクシスなら、私へ選ばせます」


 幻の顔が。


 わずかに歪んだ。


「危険だから閉じ込めることはあっても」


「それは認めるのか」


「認めません。大喧嘩します」


「……」


「でも、最後には聞くはずです」


 私の身体。


 私の人生。


 隔離されるとしても。


 彼は。


「触れていいかと聞く人が」


 私は差し出された手を見た。


「何も聞かずに、私の手を取ろうとはしません」


 幻のアレクシスが。


 黒い煙へ崩れた。


     ◇


「リリアーヌ!」


 遠くから声がする。


「聞こえます!」


「どこにいる!」


「壁のこちらです!」


「幻を見たか」


「はい!」


「何を言われた!」


「あなたが、私を大神殿へ引き渡すと!」


 壁の向こうが。


 一瞬静かになった。


「殺す」


「誰をです?」


「俺の姿を使ったものを」


「自分の幻を斬らないでください!」


「お前を捨てると言った」


「幻です!」


「許せない」


「あなたが怒っても、話がややこしくなるだけです!」


 返事がある。


 いつものアレクシス。


 安心しかけた、そのとき。


「あなたの隣にいる限り」


 今度は。


 私の声が聞こえた。


 壁の向こう側。


 アレクシスのいる場所から。


「私は、呪いから逃げられません」


 私ではない。


 けれど。


 私の声だった。


「リリアーヌ?」


 本物のアレクシスが。


 迷っている。


「違います!」


 叫ぶ。


「今のは私ではありません!」


「あなたのそばでは、眠れない」


 偽物の私が続ける。


「契約も呪いも終わったのに、あなたは私を離してくれない」


「違う!」


「王都へ帰ります」


「リリアーヌ」


「聞かないで!」


 壁を叩く。


「そちらの私は偽物です!」


「私を妻にしたのは、眠るためでしょう?」


 幻の声が。


 私自身の一番深い場所へ刺さる。


「私はずっと、呪いの代わりだった」


「やめて!」


「あなたは、私ではなく、安心して眠れる夜を愛しただけ」


 それは。


 私が。


 隔離初夜に気づいた恐怖だった。


 同じベッドで眠ることを。


 必要とされている証明にしていた。


「アレクシス!」


 返事がない。


「聞こえますか!」


 壁の向こうから。


 小さく。


「聞こえている」


「幻の言葉を信じないでください」


「なら」


 声が低い。


「証明しろ」


「何を?」


「お前が本物だと」


 無茶を言う。


「どうやって!」


「俺しか知らないことを言え」


「あなたしか知らないこと?」


 思い出す。


 契約結婚の夜。


 呪い。


 神殿。


 婚礼。


 洪水。


 春祭り。


「最初の夜、ベッドに枕を十個並べました」


「黒碑も知っているかもしれない」


「あなたが境界線を越えました」


「違う。お前が寝相で蹴った」


「蹴っていません!」


「朝、俺の枕が落ちていた」


「あなたが勝手に近づいたからでしょう!」


「証明にならない」


 こんなときに。


 本当に面倒だ。


「では、あなたは豆を残します!」


「誰でも知っている」


「肉を減らすと、ものすごく不機嫌になります」


「領内中が知っている」


「ローディンさんの隊章を、曲がったまま直さない」


「ミレイユも知っている」


「春祭りで二度目の求婚をしたとき」


 私は言葉を探す。


「私が先に『はい』と答えたら、あなたは『まだ何も聞いていない』と言いました」


 沈黙。


「それは」


「私たちしか知りません」


「近くに村人がいた」


「遠かったでしょう!」


「声が大きければ」


「では、あなたも証明してください!」


「何を言えばいい」


「私しか知らないことを」


 壁の向こうで。


 アレクシスが考えている。


 長い。


「まだですか」


「考えている」


「時間がかかりすぎです」


「難しい」


「夫婦なのに?」


「知っていることが多すぎる」


 少し。


 笑いそうになった。


「では、一つだけ」


「ああ」


「私が本当に怒っているとき、どうなります?」


「静かになる」


 即答だった。


「……」


「声を荒らげているときは、まだ話す気がある。本当に怒ると、丁寧な言葉になる」


「よく分かっていますね」


「ああ」


「では、今の私は?」


「かなり怖がっている」


「怒っているかを聞きました」


「怖いとき、お前は怒る」


「……」


「俺へ怒鳴っている間は、まだ大丈夫だ」


 目の奥が熱くなる。


「本物ですね」


「ああ」


「かなり腹が立ちますけど」


「お前も本物だ」


「なぜ?」


「幻なら、もう少し素直だ」


「失礼です!」


 壁の向こうから。


 小さく笑う声がした。


 アレクシスが。


 笑った。


 それだけで。


 黒い空間が少し薄くなった気がした。


     ◇


「アレクシス」


「何だ」


「幻の私は、何と言いました?」


「王都へ帰ると」


「他には?」


「俺の隣にいれば、呪いから逃げられない」


「……」


「お前は、そう思っているのか」


 正直に。


 答えなければならない。


 幻は。


 何もないところから言葉を作ったわけではない。


 私たちの奥にある恐怖を。


 形にした。


「思ったことはあります」


 壁の向こうが静かになる。


「いつ」


「隔離が始まったとき」


「俺から離れたいと?」


「違います」


「では」


「あなたといることで、あなたまでまた呪われたらと」


「俺は構わない」


「私は構います!」


「知っている」


「それから」


 言いにくい。


 でも。


 怖いときは、怖いと言う約束。


「あなたが私を必要とする理由が」


「ああ」


「呪いと一緒に消えるのではないかと、以前は怖かったです」


「以前?」


「今も少し」


 嘘は言わない。


「同じベッドで眠れなくなって。触れられなくなって。それでも妻だと言ってもらえるまで」


「言った」


「はい」


「何度でも言う」


「はい」


「呪いがなくても、お前が必要だ」


「睡眠のためではなく?」


「眠れるなら助かる」


「そこは否定してください!」


「嘘になる」


「こういうときくらい、格好のいいことを言えません?」


「お前がいれば眠れる。いなくても妻だ」


 不器用。


 でも。


 その言葉のほうが。


 信じられた。


「私は」


 壁へ掌を当てる。


「同じ場所にいないと、選ばれていない気がしていました」


「ああ」


「でも、洪水の夜に知りました」


 私はエドナ村。


 アレクシスはミゼル村。


 互いの姿は見えなかった。


 触れられなかった。


 それでも。


 同じ朝へ帰った。


「隣にいない夜があっても」


 黒い壁の向こうへ。


 届くように言う。


「あなたが私を選んでいることは変わりません」


「ああ」


「私があなたを選んでいることも」


「ああ」


「見えなくても」


「ああ」


「触れられなくても」


 壁へ押しつけた手が。


 冷たい。


「夫婦です」


「ああ」


「返事が全部同じです」


「他に必要か」


「もう少し何か」


「愛している」


 不意打ちだった。


「……」


「聞こえたか」


「聞こえました」


「返事は」


「今、顔が見えないので」


「関係ない」


「少し待ってください」


「なぜ」


「心の準備が」


「夫婦だろう」


「夫婦でも必要です!」


「返事をしろ」


「命令しないでください!」


 黒い壁の表面に。


 細い亀裂が走った。


 私たちの言い争いに合わせるように。


 ぱきり。


 ぱきり。


「リリアーヌ」


「何です」


「もう一度言う」


「はい」


「愛している」


 今度は。


 逃げずに答える。


「私も愛しています」


 壁の亀裂が。


 一気に広がった。


     ◇


 けれど。


 まだ壊れない。


 黒い壁の向こうから。


 別の声が溢れ出す。


『お前が来なければ、皆は死ななかった』


『忘れたほうが楽だ』


『痛みを捨てろ』


『相手へ渡せ』


 ローディンさん。


 セレネのお父様。


 子どもたち。


 誰のものとも分からない声が。


 何重にも重なる。


「アレクシス!」


「聞くな!」


「聞こえます!」


「俺の声だけ聞け!」


「たくさん話してください!」


「何を」


「何でも!」


「豆が嫌いだ」


「知っています!」


「枕は多いほうがいい」


「十個は多すぎます!」


「お前は寝ている間に境界を越える」


「越えていません!」


「俺の腕へ頭を乗せる」


「あなたが引き寄せています!」


「お前は朝、髪が右側だけ跳ねる」


「どうして今それを!」


「俺しか知らないことだ」


 黒い声に負けないように。


 アレクシスは。


 次々と。


 どうでもいいことを話し始めた。


「お前は考えごとをすると、紅茶へ砂糖を二回入れる」


「一度です!」


「二度だ」


「見間違いです」


「甘すぎて、あとで水を飲む」


「……一度くらいはあったかもしれません」


「俺が夜中に目を覚ますと、お前は寝たまま俺の服を掴んでいる」


「知りません!」


「俺は知っている」


「では、あなたは!」


 私も負けずに言う。


「大事な話をするとき、必ず剣の柄へ触れます!」


「ああ」


「怖いときほど、声が冷たくなります!」


「ああ」


「私の食事量を、使用人から秘密で聞いています!」


「秘密ではない」


「本人に知らせないのは秘密です!」


「健康管理だ」


「そして」


 声が。


 少し震える。


「私が目を覚ますまで、何時間でも待っています」


「ああ」


「触れたいときも、聞いてくれます」


「ああ」


「怒っても。怖くても。面倒でも」


 壁を叩く。


「最後には、私へ選ばせてくれる」


 アレクシスの返事は。


 少し遅れた。


「ああ」


 その一言と同時に。


 黒い壁が砕けた。


     ◇


 光。


 眩しい。


 黒い欠片が。


 雪のように崩れ落ちる。


 向こう側に。


 アレクシスがいた。


 手を伸ばしたまま。


 私も。


 同じ姿勢だった。


 触れられる。


 でも。


 指先が重なる直前。


 彼は止まった。


「触れていいか」


 こんなときまで。


 律儀。


 涙が出た。


「はい」


 その瞬間。


 強く引き寄せられた。


 息が苦しくなるほどの抱擁。


「強いです」


「我慢しろ」


「同意したのは、苦しいほどとは」


 腕が少し緩む。


「これでいいか」


「もう少し強くても」


「どちらだ」


「面倒ですね」


「お前が言うな」


 胸へ顔を埋める。


 心臓の音。


 速い。


 生きている。


「本物ですね」


「ああ」


「確かめても?」


「好きなだけ」


 背中へ腕を回す。


 ようやく。


 触れられた。


     ◇


 黒い空間が消えると。


 私たちは、礼拝堂の地下へ立っていた。


 周囲には。


 ヴィクトール司祭。


 ガルドさん。


 ミレイユ。


 騎士たち。


 全員が倒れている。


「ミレイユさん!」


 駆け寄ろうとすると。


 アレクシスが腰を掴んだ。


「待て」


「でも」


「床を見ろ」


 地下室の床には。


 砕けた黒い護符が。


 円を描くように並んでいた。


 その中央に。


 セレネが座り込んでいる。


 胸へ。


 三十七個目と思われる大きな黒石を抱えて。


「近づかないで」


 彼女が言った。


 声は。


 泣き疲れていた。


「もう終わりです」


 私が答える。


「終わっていません」


「壁は壊れました」


「あなたたちの壁だけ」


 セレネが。


 黒石へ頬を寄せる。


「子どもたちは、まだ繋がっている」


「何ですって」


「護符を壊したから」


 黒石の表面に。


 十二人の子どもの顔が浮かぶ。


 皆。


 目を閉じている。


「今度こそ、永遠に眠る」


「セレネ!」


 ヴィクトール司祭が目を覚まし、身体を起こす。


「その石を離しなさい!」


「嫌」


「子どもたちが戻れなくなる!」


「眠れないより、幸せでしょう?」


 セレネが笑う。


 でも。


 もう。


 聖女の笑顔ではなかった。


「夢を見なければ」


 涙が頬を伝う。


「痛くない」


 黒石が。


 大きく脈打った。


 どくん。


 どくん。


 まるで。


 巨大な心臓のように。


 そして。


 離れたヴァル村で眠る十二人の子どもたちが。


 同時に。


 息を止めた。


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