第56話 偽りの聖女は「眠らせてあげる」と子どもたちへ黒い石を配っていました
「あなたのお父様が、最後に恨んだ相手を教えてあげる」
眠りの聖女を名乗ったセレネは、微笑んだままそう言った。
ミレイユの肩へ置かれた白い指。
その指先から、首に下げた黒い護符へ細い光が流れていく。
「触るな」
アレクシスが一歩踏み出した。
剣の切っ先は、セレネの喉元へ向けられている。
「その手を離せ」
「嫌です」
答えたのは、セレネではなかった。
ミレイユだった。
「ミレイユ」
「私は、この人の話を聞きます」
「護符を外せ」
「嫌です!」
少女の声が、礼拝堂の前へ響く。
「公爵様には分からないでしょう! お父様が最後に何を思ったのか、何も覚えていないんだから!」
「だから、こんなものに頼るのか」
「こんなものって言わないでください!」
「黒碑の欠片だ」
「お父様の記憶が残っています!」
「残っているとは限らない」
「では、どうやって確かめるんです!」
ミレイユは泣いていた。
怒っているのか。
怖いのか。
自分でも分からない顔だった。
「手紙も読みました。ガルドさんの話も聞きました。でも、それは生き残った人の記憶でしょう?」
「そうだ」
「お父様の言葉じゃない!」
その一言に。
誰も、すぐには返事をできなかった。
私は馬車の中から扉を叩いた。
「開けてください」
「駄目です」
向かいに座るヴィクトール司祭が、即座に答える。
「ここからでは話ができません」
「十分聞こえております」
「顔が見えない人へ、言葉は届きません」
「隔離中です」
「ミレイユさんが黒碑の欠片を身につけているんですよ!」
「だからこそ、あなたまで近づけるわけには」
「司祭様」
私は扉の取っ手を握った。
「自分で開けます」
「公爵閣下に殺されるのは、私なのですが」
「止めます」
「そのお約束を、あまり信用できません」
それでも。
ヴィクトール司祭は長く息を吐くと、神殿騎士へ合図した。
扉が開く。
「馬車から三歩までです」
「五歩」
「三歩です」
「四歩」
「公爵夫妻と交渉しているうちに、私まで数字を刻むようになってしまいました」
四歩。
それ以上は近づかない。
私は地面へ降りた。
「リリアーヌ!」
アレクシスが振り返る。
「馬車から出るなと言った」
「馬車の中にいては、ミレイユさんの顔が見えません」
「隔離は」
「四歩までです」
「誰が決めた」
「司祭様と私です」
「俺は聞いていない」
「あなたは礼拝堂へ勝手に入りましたよね?」
「それとこれは」
「同じです」
「違う」
「今はその話をしている場合ではありません!」
ミレイユが、泣きながらこちらを見た。
「また喧嘩してる」
「喧嘩ではありません」
「喧嘩だ」
アレクシスが言う。
「あなたが認めないでください!」
セレネの笑みが、ほんの少し深くなった。
「不思議なご夫婦」
「よく言われます」
「私は言われていない」
「あなたも一緒です!」
普段なら。
誰かが笑ったかもしれない。
でも。
今は誰も笑わなかった。
◇
「セレネさん」
私は彼女を見る。
「ミレイユさんへ、何を見せるつもりですか」
「父親の最後です」
「すべて?」
「残っているものを」
「どこに残っているのです?」
セレネが、黒い護符を持ち上げる。
「この石は、痛みを覚えています」
「記憶ではなく?」
「痛みには、記憶が宿ります」
「それは同じではありません」
私が言うと。
セレネの微笑みが、初めて少しだけ消えた。
「何が違うのです?」
「痛みは、出来事の一部です」
「一部でも、嘘ではない」
「はい。ですが、すべてでもありません」
人は。
一番苦しかった瞬間に。
本心とは違う言葉を叫ぶことがある。
助けてほしいのに、近づくなと言う。
寂しいのに、放っておいてと言う。
愛しているからこそ。
怒る。
「ローディンさんが誰かの名前を叫んだとしても」
私は続ける。
「それだけで、恨んでいたとは決められません」
「奥様は」
ミレイユが震える声を出す。
「お父様が、公爵様を恨んでいなかったと思いたいだけでは?」
「そうかもしれません」
否定しなかった。
「私はアレクシスを愛しています。だから、都合のいい意味を選びたくなる」
「なら」
「でも、セレネさんも同じです」
彼女を見る。
「公爵家が父親を見捨てたと信じている。だから、ローディンさんの声にも、一番残酷な意味を与えようとしている」
セレネの目が細くなる。
「私の父を、ご存じなのですか」
「知りません」
「なら、何も言わないで」
「教えてください」
「何を」
「あなたのお父様のことを」
「今さら?」
「今だからです」
セレネは。
しばらく私を見つめた。
やがて。
ミレイユの肩から手を離した。
「父の名前は、エルンスト・レイン」
ガルドさんが顔を上げる。
「レイン?」
「知っているのですか」
「いや」
彼は額へ手を当てた。
「知らねえはずなのに、聞いたことがある気がする」
「当然です」
セレネが言う。
「あなたたちは父へ会った」
「灰色の案内人」
「その呼び方は、父が自分で名乗ったものではありません」
「では、なぜ神殿にいた」
アレクシスが尋ねる。
「公爵家に雇われたからです」
「記録にない」
「消されたのです」
「誰に」
「あなたたちに」
アレクシスの顔が冷たくなる。
「俺は知らない」
「それで済むのですね」
「済むとは言っていない」
「でも、覚えていない。だから責任はないと?」
「言っていない!」
アレクシスの声が響く。
セレネは怯まなかった。
「父は、山の古い信仰や洞窟に詳しかった。騎士団が黒い神殿を探していると聞き、案内役として雇われました」
「誰が雇った」
「当時の北方軍務官です」
「名は?」
「バルゼル伯爵」
ガルドさんが舌打ちした。
「十年前に死んでる」
「都合よく」
「病死だ」
「公爵家の記録では、でしょう?」
「セレネ」
ヴィクトール司祭が静かに言う。
「推測と事実を分けなさい」
「大神殿の人が、それを言うのですか」
セレネは笑った。
けれど。
目は泣いていた。
「父が神殿から戻ったあと、最初に助けを求めたのは大神殿です」
ヴィクトール司祭が黙る。
「毎晩、知らない人の痛みを夢に見る。自分の名前も、娘の顔も分からなくなる。黒い石が頭の中で喋る。そう訴えました」
「記録は」
「ありません」
「それなら」
「追い返されたからです!」
セレネの声が。
初めて激しく揺れた。
「酔っ払いの妄想だと! 山の民が金を欲しがっているだけだと!」
ヴィクトール司祭は。
すぐに反論しなかった。
「公爵家にも行きました」
セレネが続ける。
「門番へ何度も話した。神殿へ案内した。公爵を助けてほしい。自分の中にも何かがいる、と」
「俺のところへは来ていない」
「あなたは、呪いで誰とも会えなかった!」
「なら家令が」
「追い返しました」
「ハロルドではない」
「先代の家令です」
十年前。
ハロルドさんが今の地位に就く前。
アレクシスは。
苦しみの中で。
屋敷の奥に閉じこもっていた。
「父は」
セレネが黒い護符を握る。
「最後には、私の名前も忘れました」
「……」
「食事を持っていくと、誰だと怒鳴った。夜になると、知らない騎士の名前を叫んだ。ローディン。ガルド。アレクシス」
ミレイユが息を呑む。
「お父様の名前を?」
「何度も」
「何と言っていたんです」
「痛い。やめろ。まだ足りない」
セレネの唇が震える。
「それから」
彼女はアレクシスを見る。
「全部、お前が持っていけ、と」
「父が?」
ミレイユが聞く。
「誰の言葉かは分かりません」
「では」
「父の中には、何人もの記憶がありました」
黒碑が。
騎士たちの痛みを吸い上げ。
案内人だったエルンストへも。
その残滓を残した。
「父は、冬の朝に死にました」
セレネが言う。
「小屋の床で。誰にも看取られずに」
「あなたは?」
「いました」
「でも、誰にも?」
「父は最後まで、私を娘だと思い出さなかったから」
その言葉に。
胸が痛くなる。
「だから、黒い石を使ったのですか」
「父の遺品に、欠片が残っていました」
「最初は?」
「眠れました」
セレネの表情が。
穏やかになる。
「石を枕元に置くと、父は叫ばなかった。私も眠れた。夢を見なかった」
「一時的に、痛みを吸った」
ヴィクトール司祭が言う。
「はい」
「しかし吸える量には限界がある」
「父が死んだあとも、私は研究しました」
「研究?」
「砕き、磨き、祈りを刻んだ。痛みに苦しむ人へ渡した」
「ヴァル村の人たちへ」
「最初に頼ってきたのは、大人です」
夜ごと戦で死んだ夫を夢に見る女性。
雪崩で子を失った父親。
病気で眠れない老人。
「皆、眠れるようになりました」
「一時的に」
「一晩でも眠れることが、どれほど救いになるか分かりますか」
「分かります」
私が答える。
アレクシスが。
十年間。
眠ることすらできなかった。
そばにいて。
ほんの数時間でも眠れた朝の顔を。
私は知っている。
「だからこそ」
続ける。
「途中で間違いを認めるのが、怖かったのですね」
セレネの顔が固まる。
「間違っていません」
「子どもたちは眠れていません」
「それは、護符を外したからです」
「違います」
「外さなければ、また眠れます」
「でも、石は痛みを求める」
ヴィクトール司祭が言う。
「自分の持ち主から吸い尽くせば、周囲へ繋がる。家族。友人。近くにいる者。そして、夢の中で抵抗の弱い子どもへ」
「違う」
「十二人が同じ夢を見ています」
「私は子どもには配っていません!」
「親が持っていた?」
私が尋ねる。
セレネの目が揺れた。
「最初に眠れなくなったノア君のお母様へ、護符を渡したのでは?」
「彼女は、夫を亡くしてから眠れなかった」
「家へ置いた」
「眠れるようになった」
「その代わり、ノア君へ繋がった」
「違う!」
セレネの声が裏返る。
「私は、助けたかっただけ!」
「はい」
「聖女だと言ったのも、村人が勝手に」
「はい」
「お金だって、ほとんど取っていない!」
「信じます」
「なら!」
「善意だったことと、傷つけていることは両立します」
セレネが。
言葉を失う。
「そんなの」
小さな声。
「そんなの、ずるい」
「はい」
私は答えた。
「人は、善意なら間違えないようにはできていません」
「私は」
「お父様を救えなかった方法を、誰かを救った方法にしたかったのですね」
「違う」
「そうすれば、お父様の苦しみに意味ができるから」
「違う!」
セレネが黒い護符を握りしめる。
「あなたに何が分かる!」
「分かりません」
「また、それ?」
「分かったふりをして、あなたの話を奪いたくないからです」
私だって。
役に立つことで。
婚約者として過ごした七年間を無駄ではなかったと思いたかった。
苦しんだ時間に。
意味をつけなければ、自分が壊れそうだった。
「ですが」
私は言う。
「子どもたちは、あなたのお父様の救済のために苦しむ必要はありません」
セレネの手が震える。
「護符を外してください」
「嫌です」
「石を渡してください」
「嫌!」
「セレネさん」
「これを失ったら」
彼女の声が。
幼い子どものように変わった。
「父が、本当にいなくなる」
そうか。
セレネが守りたいのは。
力でも。
聖女という立場でもない。
黒碑の欠片に残る。
父親の痛み。
それだけが。
彼女の知る父親との繋がりだった。
「失いません」
「嘘」
「私たちが覚えます」
「父を知らないでしょう!」
「教えてください」
「今さら!」
「何度でも聞きます」
「そんなことで」
「石に残った痛みだけではなく」
私は彼女を見る。
「あなたが覚えている、お父様を教えてください」
「……」
「好きだった食べ物。怒るときの癖。笑った声。あなたを娘だと分かっていた頃の話を」
セレネの目から。
涙が一筋落ちた。
「そんなもの」
「ありますか」
「……硬いパンが嫌いでした」
突然だった。
「はい」
「山で何日も食べるから。家では柔らかいパンがいいと言って」
「他には?」
「歌が下手」
「どんな歌を?」
「冬越しの歌」
「他には?」
「私の髪を結ぶのが」
声が詰まる。
「いつも左右で高さが違った」
「それは困りますね」
「私が怒ると、笑った」
「ひどいお父様です」
「でも」
セレネの唇が。
わずかに笑う。
「毎朝、結んでくれました」
それが。
エルンスト・レイン。
黒碑の案内人ではなく。
一人の父親。
「石がなくても」
私は言う。
「今のお話は消えません」
「消えます」
「では、記録します」
「文字にしても」
「ミレイユさんが覚えます」
ミレイユが顔を上げる。
「私?」
「文官見習いでしょう」
「今それを使います?」
「使います」
ミレイユは。
涙を拭った。
「覚えます」
セレネを見る。
「私のお父様のことも、覚えてくれるなら」
「……」
「交換です」
ミレイユが言う。
「あなたのお父様の話を聞きます。あなたも、私のお父様の話を聞いてください」
「あなたは、私を恨んでいないの」
「恨んでいます」
即答だった。
「私の父の字を真似しました」
「……」
「一人でここへ呼び出しました」
「はい」
「護符も勝手につけた」
「あなたが受け取った」
「外せば父の記憶が消えると言ったでしょう!」
「それは」
「だから、かなり怒っています」
ミレイユは。
セレネの手を振り払った。
「でも」
黒い護符へ手をかける。
「お父様が、あなたの都合のいい言葉だけを残したとは思いません」
「やめなさい」
「外します」
「そうすれば、見られない!」
「一度見ました」
「まだ全部では」
「全部ではないから」
ミレイユが。
護符の紐を引きちぎった。
「勝手に完成させません」
黒い石が。
地面へ落ちる。
ぱきり。
小さな音。
その瞬間。
ミレイユの身体が大きく震えた。
「ミレイユ!」
アレクシスが駆け寄る。
少女の目が。
真っ黒に染まった。
◇
「お父様」
ミレイユの口から。
幼い声が漏れる。
けれど。
彼女が見ているものは、今ではない。
「ミレイユさん、聞こえますか!」
私の声には反応しない。
「アレクシス!」
少女が叫んだ。
ローディンの声。
以前、ノアから聞こえたものより。
ずっとはっきりしていた。
「アレクシス!」
アレクシスの顔が強張る。
「やはり」
セレネが。
泣きながら笑った。
「恨んでいた」
「まだです」
私は言う。
「名前だけです」
「叫び方で分かるでしょう!」
「分かりません!」
ミレイユの身体を。
アレクシスが支える。
けれど。
直接触れた彼の腕へ。
黒い線が這い上がり始めた。
「離れて!」
「離せない」
「呪いが」
「ミレイユが倒れる」
少女の口が。
もう一度開く。
「アレクシス!」
怒り。
苦痛。
恐怖。
全部が混ざった声。
「どうして」
セレネが呟く。
「ほら」
「続きがあります」
「何を」
「聞いて!」
私は叫んだ。
ミレイユの唇が震える。
「アレクシス……」
声が。
少しずつ弱くなる。
「お前まで」
アレクシスが息を呑む。
「ローディン」
「お前まで、来るな」
沈黙。
「……え?」
セレネが呟いた。
「俺たちは、もう駄目だ」
ローディンの声が。
ミレイユの口から零れる。
「娘に」
一度。
深く息をする。
「ミレイユに、伝えてくれ」
恨みではない。
助けを求めていた。
命令でもない。
「帰れ」
ローディンは。
最後まで。
若い主君を守ろうとしていた。
「帰ってくれ、アレクシス」
ミレイユの膝から。
力が抜けた。
アレクシスが抱き止める。
「お父様……」
少女の目が。
元の色へ戻る。
「お父様は」
泣きながら。
アレクシスの騎士服を掴む。
「公爵様を、恨んでいなかった」
アレクシスは答えない。
答えられなかった。
「俺は」
やがて。
低い声を出す。
「帰らなかった」
「はい」
「全部を引き受けた」
「はい」
「命令を無視した」
ミレイユが。
涙の中で少し笑う。
「今と同じですね」
「……ああ」
「お父様、怒っていたと思います」
「ああ」
「でも、恨んでいたわけではない」
「ああ」
ミレイユは。
ようやく。
自分の手で護符を遠ざけた。
◇
「亡くなった人の一言を」
私はセレネを見る。
「生きている私たちの都合で、完成させてはいけません」
セレネは。
地面に落ちた護符を見つめていた。
「私は」
「はい」
「父も、同じだったと思いたかった」
「何が?」
「公爵家を恨んでいたと」
「恨んでいたかもしれません」
私は答えた。
セレネが顔を上げる。
「助けを求めても、追い返された。怒って当然です」
「なら」
「でも、それだけではなかったはずです」
娘の髪を結び。
硬いパンを嫌い。
下手な歌を歌った父親。
その人の全部を。
恨みだけへ閉じ込めてはいけない。
「あなたのお父様の最後も」
私は言う。
「一緒に探しましょう」
「信じられない」
「信じなくても構いません」
「では、なぜ」
「今すぐ信じる必要はないからです」
セレネの顔が歪む。
「そんなことを言って」
「怒ってもいい。疑ってもいい。逃げたくなってもいいです」
「逃がしてくれるの?」
「それは駄目です」
「……」
「子どもたちを苦しめた責任は、取ってもらいます」
「優しいふりをして」
「優しいだけでは、被害を受けた人が納得しません」
「では、私を牢へ?」
「まず、護符をすべて回収します」
「嫌」
「子どもたちを眠らせるためです」
「護符がなければ、私は」
「あなたも眠れるようにします」
「できるの?」
「分かりません」
「また分からないと言う」
「分からないことを、できると約束したくないので」
セレネは。
少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
「本当に、慰め方が下手」
「二人目に言われました」
「最初は誰?」
「ガルドさんです」
「俺を数えるな」
ガルドさんが不満そうに言う。
ほんの少し。
張り詰めた空気が緩んだ。
そのときだった。
地面へ落ちた護符が。
再び光った。
「触るな!」
ヴィクトール司祭が叫ぶ。
誰も触れていない。
それなのに。
礼拝堂の地下から。
何かが応えるように。
鐘が鳴った。
からん。
からん。
からん。
「セレネ」
司祭の顔色が変わる。
「護符は、全部でいくつ作った」
「三十七」
「ここにあるのは?」
「十二」
「残りは!」
「地下に」
大地が震えた。
崩れかけた礼拝堂の窓から。
黒い霧が噴き出す。
「リリアーヌ!」
アレクシスがこちらへ走る。
「来ないで!」
「馬車へ戻れ!」
私も彼へ向かって。
一歩踏み出してしまった。
隔離も。
約束も。
その瞬間には忘れていた。
手を伸ばす。
あと少し。
指先が触れる。
その直前。
私たちの間へ。
黒い壁が立ち上がった。
「アレクシス!」
「リリアーヌ!」
姿が。
消える。
手も。
顔も。
何も見えない。
ただ。
壁の向こうから。
彼の声だけが聞こえた。
「そこにいるか!」
「います!」
「動くな!」
「あなたも!」
黒い霧が。
空も地面も覆っていく。
「リリアーヌ!」
「はい!」
「返事をし続けろ!」
「はい!」
姿は見えない。
触れられない。
それでも。
声だけは。
まだ。
届いていた。




