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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第55話 亡くなった父の名で呼び出され、ミレイユが消えました

「ミレイユさん!」


 廊下へ出られない私は、開いた扉の内側から彼女の名前を呼んだ。


 返事はない。


 長い廊下の先には、窓から差し込む午後の光だけが落ちている。


「どうした」


 向かい側にいたアレクシスが、椅子を蹴るように立ち上がった。


「ミレイユさんが、灰鐘礼拝堂へ呼び出されています」


「何?」


「これを」


 私は拾った紙片を見せる。


 ただし、直接手渡すことはできない。


 床へ置こうとすると、ヴィクトール司祭がすぐに止めた。


「お待ちください。素手で触れさせないように」


「今さらです。私はもう拾いました」


「だからこそです」


 司祭は薄い革手袋をはめ、銀の長い鋏で紙片を挟んだ。


 透明な検査石を近づける。


 石の内側へ、墨を一滴落としたような黒い曇りが広がった。


「呪術反応があります」


「強いですか」


「公爵夫人の手首へ残っているものより濃い」


 アレクシスが私を見る。


「手を見せろ」


「何も出ていません」


「見せろ」


「距離を取る決まりです」


「今はそれどころではない」


「今だからです」


「リリアーヌ」


「あなたが隔離を破れば、私を疑っている人たちは何と言います?」


「言わせておけ」


「ミレイユさんの捜索まで、神殿と公爵家の争いにしている時間はありません!」


 アレクシスの手が扉へ伸びる。


「入ってきたら」


「どうする」


「七日間、夜の会話をしません」


 ぴたりと止まった。


「それは関係ない」


「あります」


「脅迫だ」


「選択です」


「誰に習った」


「あなたです!」


 ヴィクトール司祭が、低い声で咳払いした。


「公爵夫妻の交渉は後ほど続きをお願いできますか」


「交渉ではない」


「立派な交渉です」


 司祭も、もう遠慮しなくなっていた。


「まず屋敷の門を閉じてください」


 私は廊下に控えていた騎士へ命じる。


「厩舎と裏門も。ミレイユさんがまだ敷地内にいるなら、驚かせずに保護してください」


「保護?」


 アレクシスが聞き返す。


「逃亡者として扱わないでください」


「命令を無視して出たなら」


「正式な外出禁止命令は出していません」


「危険だと知っていた」


「知っていても、行きたくなる内容だったのでしょう」


 亡くなった父。


 十年間、知らなかった最後。


 偽物だと分かっていても。


 もしかすると、と思ってしまう。


「彼女は誘い出された被害者です」


「自分の意思で出た」


「意思があれば、被害者ではないんですか?」


「……」


「弱みにつけ込まれた人を、軽率だったと責めるだけなら簡単です。でも今それをしたら、ミレイユさんは見つかったあと、本当のことを話せなくなります」


 アレクシスは、紙片へ目を落とした。


「分かった」


「捜索隊へも伝えてください。発見しても、怒鳴らない。拘束しない。武器を向けない」


「相手がいた場合は?」


「相手には向けても構いません」


「殺していいか」


「まだ何をした人か分かりません!」


「ミレイユを攫った」


「自分で向かった可能性があります」


「なら、誘った」


「それだけで殺さないでください!」


 アレクシスは不満そうだった。


 けれど、剣へ触れなかった。


 そこは成長している。


 たぶん。


     ◇


 ミレイユが屋敷から出たことは、すぐに確認された。


 厩舎番の少年が、顔を真っ青にして報告へ来た。


「一刻ほど前です」


「どういう理由で馬を?」


 私は隔離部屋の中。


 少年は廊下のかなり離れた位置に立っている。


「偵察隊へ、追加の地図を届けると仰って」


「書面は?」


「文官見習いの通行札を」


 ミレイユには、領内の役場や工事現場へ書類を届ける権限がある。


 私が与えたものだ。


「馬は、どの馬を選びました?」


「マロウです」


「速い馬ではありませんね」


「はい。ですが山道には慣れています」


 アレクシスが壁の地図を見る。


「正規の道ではなく、森を抜ける気だ」


「どうして分かるんです?」


「マロウは平地では遅い。だが、狭い道で足を取られない」


「ミレイユさんが知っていた?」


「厩舎番とよく話していたので」


 少年が答える。


「道も聞かれました。灰鐘礼拝堂とは言われませんでしたけど、北東の山へ一番早く行く道を」


「それを、どうして止めなかった」


 アレクシスの声が低くなる。


 少年の肩が跳ねた。


「アレクシス」


「だが」


「止められません。公爵夫人の文官見習いが、仕事だと言って通行札を見せたんです」


「それでも」


「この子を責めても、ミレイユさんは戻りません」


 少年は泣きそうな顔だった。


「申し訳ありません」


「謝らなくていいです」


「でも」


「今度から、普段と違う目的地を尋ねられたら、誰かへ確認してください」


「はい」


「ミレイユさんが戻ってきたら、一緒に叱られましょう」


「奥様も?」


「通行札を渡したのは私ですから」


「お前は悪くない」


 アレクシスが言う。


「では、この子も悪くありません」


「同じではない」


「今は同じにしてください!」


 少年は少しだけ表情を緩めた。


「マロウは、腹が減ると勝手に帰ろうとします」


「それは役に立つ情報です」


「あと、干し林檎を見せると止まります」


「捜索隊に持たせましょう」


 アレクシスが眉を寄せる。


「馬を菓子で捕まえるのか」


「あなたは肉料理で話を聞きますよね」


「一緒にするな」


「よく似ています」


     ◇


 捜索隊は三つに分けた。


 一隊は正規の山道。


 一隊は木こりが使う北側の細道。


 そしてアレクシス、ガルドさん、神殿騎士を含む本隊は、偵察隊が向かった旧礼拝堂周辺へ。


「私は屋敷で指揮します」


「俺と来い」


 アレクシスが言った。


「隔離中です」


「今だけ解除させる」


「司祭様?」


「現段階では認められません」


「なら、認めさせる」


「脅さないでください!」


「妻の手首と手紙に同じ反応が出た。必要だ」


「危険だからこそ連れていきたくない、と言うところでは?」


「危険だから見える場所に置きたい」


「本音が出ましたね」


「最初から本音だ」


 アレクシスは私の部屋へ入れない。


 私は外へ出られない。


 開いた扉を挟み。


 言い争う。


「ミレイユさんは、私が行かなくても探せます」


「見つかったあと、お前を求めるかもしれない」


「そのとき考えます」


「遅い」


「では、まず見つけてください!」


 アレクシスが黙る。


「私が一緒では、あなたは私の安全ばかり気にします」


「当然だ」


「ミレイユさんの救出へ集中できないでしょう」


「できる」


「川へ落ちただけで騎士団を百人連れてきた人が?」


「今回は百二十人出す」


「増やさないでください!」


「山を囲める」


「村人が驚きます!」


 ガルドさんが、いい加減にしろという顔で割り込んだ。


「閣下。公爵夫人の言うとおりだ」


「ガルド」


「礼拝堂の中で何が起きるか分からねえ。奥方まで連れていって、二人とも動けなくなったら誰が指揮する」


「……」


「ここに残していけ。そっちのほうが、俺たちも動きやすい」


 アレクシスは不機嫌そうだった。


 でも。


 反論しなかった。


「三時間ごとに連絡を」


 私が言う。


「一時間だ」


「山道を往復する伝令が倒れます」


「二時間」


「状況が変わったときだけで構いません」


「それでは遅い」


「アレクシス」


「二時間だ」


「分かりました」


「勝手に隔離を出るな」


「出ません」


「神官に何か言われたら」


「喧嘩しません」


「俺が戻るまで決めるな」


「何を?」


「大神殿へ行くことを」


「今その話をします?」


「約束しろ」


「分かりました」


「本当に?」


「はい」


 彼はまだ動かない。


「早く行ってください!」


「触れていいか」


「今は駄目です!」


「そうだった」


 一瞬。


 本当に忘れた顔をした。


「帰ったら」


 私が言う。


「はいと答えます」


「必ずだな」


「ミレイユさんも一緒に帰してください」


「ああ」


 アレクシスは。


 ようやく背を向けた。


     ◇


 待つことは。


 何もしていないようで、一番疲れる。


 地図を広げ。


 通った道を色分けする。


 偵察隊から届いた情報を記録する。


 礼拝堂へ続く道の一つは、倒木で塞がれていた。


 別の道には、最近つけられた馬の蹄跡。


 ミレイユのものと思われる。


「奥様」


 ハロルドが扉の外から声をかけた。


「温かいお茶をお持ちしました」


「今は」


「お飲みください」


「あとで」


「ミレイユ様が戻られた際、食事を取らずに捜索していたと知られれば、叱られます」


「今、いない人を使わないでください」


「戻られると信じておりますので」


 言葉が止まる。


「……ください」


「はい」


 扉の前へ置かれた茶器を、自分で取り込む。


 一口飲む。


 味は。


 ほとんど分からなかった。


「怒っていますか」


 ヴィクトール司祭が尋ねた。


 彼は部屋から六歩離れた場所で、黒い紙片を調べている。


「誰に?」


「ミレイユ嬢へ」


「怒っています」


「では、なぜ捜索隊へ怒るなと?」


「私が怒ることと、彼女を犯罪者のように扱うことは別です」


「戻ったら叱る?」


「かなり」


「何を」


「一人で行ったことを」


「手紙を読んだことではなく?」


「読みたいと思った気持ちは、責められません」


 父親の本当の最後。


 そんな言葉を置かれて。


 何も感じない娘でいろというほうが無理だ。


「でも、一人で確かめる必要はなかった」


「それを言えるでしょうか」


「言います」


「素直に聞くと?」


「聞かないでしょうね」


「なら」


「何度でも言います」


 人は。


 一度話せば、きれいに納得するものではない。


 同じことで迷い。


 同じ場所へ戻る。


 だから。


 何度も言うしかない。


「公爵夫妻に似てきましたね」


 ヴィクトール司祭が言う。


「誰が?」


「ミレイユ嬢です」


「それは褒めています?」


「半分ほど」


「残り半分は?」


「かなり面倒だという意味です」


「否定できません」


     ◇


 最初の伝令が戻ったのは。


 日が傾き始めた頃だった。


「灰鐘礼拝堂への道を確認!」


 若い騎士が息を切らしている。


「ミレイユさんは?」


「馬を発見しました!」


「本人は!」


「おりません! 礼拝堂から二百歩ほど手前の木へ繋がれていました!」


「馬の様子は?」


「怪我はありません。鞍袋も残っています」


「何が入っていた?」


「地図、食料。それから」


 騎士が小さな包みを差し出す。


 中には。


 干し林檎。


「一枚も食べていません」


「自分から馬を降りた」


 ヴィクトール司祭が言う。


「少なくとも、そこまでは」


「礼拝堂には?」


「閣下たちが到着しました。ただ」


「何です」


「入口へ、黒い石が並べられています」


「黒碑の欠片?」


「小さな護符です。眠りについた子どもの顔が彫られている」


 胸が冷たくなる。


「触らないよう伝えました?」


「はい。神殿騎士が確認しています」


「アレクシスは」


「礼拝堂へ入ると」


「止めなかったんですか!」


「止めました!」


「それで?」


「聞いていただけませんでした!」


 知っていた。


「ガルドさんは?」


「一緒です」


「司祭様」


 私はヴィクトール司祭を見る。


「もう一度、検査石を紙片へ」


 透明な石を近づける。


 先ほどより。


 黒い曇りが濃い。


「反応が強まっています」


「礼拝堂へ近づいたから?」


「距離に反応しているのではなく」


 司祭が私の右手を見る。


「公爵夫人を通して、向こう側と繋がっている可能性があります」


「では、私が行けば」


「危険です」


「ミレイユさんの場所を特定できるかもしれない」


「隔離の目的を忘れないでください」


「忘れていません」


「あなたが黒碑の器であった場合、礼拝堂へ入れば」


「でも!」


 声が大きくなる。


「私がここにいるせいで、見つけられないなら」


「まだ、そうとは決まっておりません」


「司祭様ならどうします?」


「私は」


「あなたの家族が、中にいるとしても?」


 ヴィクトール司祭が黙った。


 ずるい聞き方だ。


 分かっている。


「公爵夫人」


 司祭が長く息を吐く。


「同行は許可できません」


「……」


「ただし」


 彼が黒い紙片を銀の箱へ入れた。


「屋敷の敷地内で行う隔離から、移動隔離へ変更します」


「移動?」


「密閉した馬車。直接接触は禁止。礼拝堂から一定の距離を取る。反応が強まれば、位置の特定へ使えるかもしれません」


「行けるんですね」


「外へ出ることと、自由に動くことは違います」


「十分です」


「公爵閣下は反対するでしょう」


「今はいません」


「戻ったあと、私が殺される可能性は?」


「止めます」


「それほど安心できない返事も珍しい」


     ◇


 馬車は。


 アレクシスたちが通った山道を追った。


 私は窓を開けられない。


 外には神殿騎士。


 向かいの席にはヴィクトール司祭。


 手首へ近づけた検査石は。


 礼拝堂へ近づくほど黒く曇った。


「痛みは?」


「ありません」


「声は聞こえますか」


「今は」


「眠気は?」


「少し」


「眠らないでください」


「分かっています」


 けれど。


 目を閉じたくなる。


 心地よい眠気ではない。


 冷たい水の底へ。


 静かに引き込まれるような。


「リリアーヌ」


 誰かに呼ばれた気がした。


「司祭様」


「何でしょう」


「今、私を呼びました?」


「呼んでおりません」


 眠ってはいけない。


 私は自分の掌へ爪を立てた。


「痛みを使わないでください」


「起きるためです」


「黒碑は、痛みへ反応します」


 すぐに手を開く。


 掌には。


 赤い跡が残っていた。


「本当に面倒ですね」


「何がです」


「眠らないために痛みを使うこともできない」


「ご自分を傷つけず、私と会話してください」


「何を話します?」


「公爵閣下の欠点でも」


「朝まで話せます」


「それは助かります」


「でも、本人がいない場所で悪口を言うのは」


「本人がいれば言えますか」


「毎日言っています」


「確かに」


 ヴィクトール司祭の声を聞きながら。


 眠気に耐える。


 やがて。


 馬車が止まった。


「着きました」


     ◇


 灰鐘礼拝堂は。


 森の奥に埋もれるように建っていた。


 屋根の半分は崩れ。


 鐘楼には鐘が残っている。


 けれど。


 鐘を鳴らすための舌がない。


 それなのに。


 かすかな鐘の音が聞こえた。


 からん。


 からん。


 遠く。


 夢の中から届くような音。


「外へ出ないでください」


 ヴィクトール司祭が言う。


「分かっています」


 馬車は礼拝堂から百歩ほど離れた場所へ止められた。


 窓越しに。


 入口の前へ立つアレクシスが見える。


 彼も。


 こちらへ気づいた。


 顔が。


 恐ろしく険しくなる。


 まっすぐ馬車へ歩いてくる。


「司祭様」


「はい」


「かなり怒っています」


「私も分かります」


「先に説明してください」


「公爵夫人の提案です」


「裏切りましたね?」


「事実です」


 馬車の扉の外で。


 アレクシスが止まる。


「なぜ来た」


 扉越しでも。


 怒っているのが分かる。


「ミレイユさんを探すためです」


「屋敷で待てと言った」


「命令ではありませんでした」


「約束した」


「大神殿へ行かない約束です。礼拝堂へ来ないとは」


「屁理屈を言うな!」


「あなたに言われたくありません!」


「今すぐ戻れ」


「戻りません」


「リリアーヌ」


「私の反応が、礼拝堂へ近づくほど強くなっています」


 アレクシスが黙る。


「場所を絞れるかもしれない」


「お前を餌にする気か」


「餌ではありません」


「同じだ」


「私が選びました」


「それが危険だと言っている」


「ミレイユさんも、自分で選んでここへ来ました」


「だから正しいわけではない」


「そうです」


 私は扉へ近づく。


 触れはしない。


「だから、連れ戻しに来ました」


 アレクシスは。


 長く何も言わなかった。


「馬車から出るな」


「はい」


「俺が戻るまで」


「はい」


「眠るな」


「努力しています」


「努力ではなく約束しろ」


「約束します」


「絶対に」


「早く行ってください!」


     ◇


 礼拝堂の内部は。


 外から見えるより広かった。


 あとでアレクシスから聞いた話では。


 崩れた祭壇の奥に、地下へ続く階段があったという。


 そのとき。


 私は馬車の中で。


 検査石の曇りを見つめていた。


「強くなっています」


 石の半分以上が黒い。


「下へ向かったのでしょう」


 ヴィクトール司祭が言う。


「アレクシスたちに」


 伝令を出そうとした瞬間。


 鐘が鳴った。


 からん。


 今度は。


 はっきりと。


 舌のない鐘が。


 三度。


 鳴った。


 手首が焼ける。


「っ!」


 黒い線が。


 皮膚の下へ浮かび上がる。


「公爵夫人!」


「ミレイユさんが」


 なぜか。


 分かった。


「地下です」


「何を」


「泣いている」


 聞こえたわけではない。


 でも。


 胸の奥へ。


 少女の声が直接触れた。


『知りたい』


『怖い』


『でも、お父様のことなら』


「行かないと」


「出てはいけません!」


「でも」


「公爵閣下が向かっています!」


 その直後。


 礼拝堂の中から。


 少女の叫び声が響いた。


「ミレイユ!」


 私は扉へ手をかけた。


 ヴィクトール司祭が止める。


「駄目です!」


「離してください!」


「あなたが入れば、何が起きるか」


「中にいるんです!」


「分かっています!」


「なら!」


 言い争う私たちの前で。


 礼拝堂の扉が。


 内側からゆっくり開いた。


 最初に現れたのは。


 ミレイユだった。


 無事。


 歩いている。


 でも。


 その首には。


 黒い石で作られた小さな護符が下がっていた。


「ミレイユさん!」


 彼女がこちらを見る。


「奥様」


 泣いている。


 けれど。


 私のもとへ走ってこない。


 その後ろから。


 一人の若い女性が現れた。


 年齢は二十歳を少し過ぎた頃。


 長い銀灰色の髪。


 白い衣服。


 裸足。


 穏やかな微笑み。


 その周囲には。


 アレクシスとガルドさん。


 騎士たちが剣を向けている。


 それでも。


 女性は恐れていなかった。


「剣を下ろしてください」


 ミレイユが叫ぶ。


「この人は、私に本当のことを教えてくれるだけです!」


「その護符を外せ」


 アレクシスが言う。


「嫌です」


「ミレイユ」


「公爵様には分からない!」


 少女の声が。


 震える。


「お父様の最後を覚えていない人には!」


 アレクシスの表情が止まる。


「ミレイユさん」


 私は馬車の中から呼びかけた。


「戻ってきてください」


「怒っていますか」


「怒っています」


 彼女の顔が歪む。


「でも」


 私は続ける。


「今は叱りません」


「……」


「怖かったでしょう」


 ミレイユの目から。


 涙が落ちた。


「お父様のことを知りたかった」


「はい」


「偽物だって、分かっていたんです」


「はい」


「でも、もし本当に何かあったらと思ったら」


「分かります」


「分かるって言わないで!」


 悲鳴に近かった。


「奥様は、お父様と暮らしたことがない!」


「はい」


「お父様の顔を忘れていく怖さも!」


「完全には分かりません」


「なら」


「でも、知りたい気持ちを利用されたあなたを責めるつもりはありません」


 銀灰色の髪の女性が。


 私を見た。


「優しいのですね」


「あなたは誰です?」


「セレネ」


 女性は胸元へ手を当てる。


「この山では、眠りの聖女と呼ばれています」


「子どもたちを眠れなくしたのは、あなたですか」


「いいえ」


 笑顔を崩さない。


「私は、眠らせてあげているのです」


 彼女の手には。


 ミレイユと同じ黒い護符。


「痛みを忘れられない子どもたちへ。眠りのない親たちへ。苦しい記憶を抱えた人へ」


「護符を配った?」


「救いを配りました」


 ヴィクトール司祭が馬車の前へ立つ。


「黒碑の欠片を、人の夢へ繋げたのですね」


「大神殿の方は、すぐに難しい言い方をなさる」


 セレネが笑う。


「私は、眠れない人を眠らせたいだけです」


「その結果、十二人の子どもが眠れなくなっています」


「最初は眠れました」


「最初は?」


「護符が痛みを食べますから」


「では、今は何を」


「痛みが足りなくなっただけです」


 ぞっとする。


「ミレイユさんからも、痛みを取るつもりですか」


「彼女が望めば」


「望んでいません!」


 私が言うと。


 ミレイユが首を振った。


「望みました」


「何を?」


「お父様の最後を知りたいって」


「それは、痛みを奪ってほしいという意味ではありません」


「同じです」


 セレネが。


 ミレイユの肩へそっと手を置く。


「本当の記憶を見れば、偽物の慰めは必要なくなる」


「触れないでください」


 アレクシスの声が。


 低くなる。


「公爵様」


 セレネは彼を見た。


「あなたは知りたくないのですか」


「何を」


「あの九人が」


 黒い護符が。


 淡く光る。


「最後に、誰を恨んだのか」


 ミレイユが息を呑む。


「やめろ」


 アレクシスが剣を構える。


 しかし。


 セレネは少女の耳元へ顔を寄せた。


「あなたのお父様が」


 甘く。


 優しい声で。


「最後に恨んだ相手を、教えてあげる」


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