第58話 眠れない夜が終わった朝、夫は枕を十一個並べました
黒石の表面に浮かんだ十二人の子どもたちが、同時に息を止めた。
「壊せ!」
アレクシスが剣を抜く。
「待ってください!」
ヴィクトール司祭が、その腕へ飛びついた。
「離せ」
「石を砕けば、子どもたちの意識まで切断されます!」
「では、どうする!」
「分かりません!」
司祭の答えに。
アレクシスの目が、恐ろしいほど冷たくなる。
「分からないなら、剣を離せ」
「分からないからこそ、斬らせられないのです!」
二人が揉み合う。
普段なら止めるところだけれど。
今は、黒石から目を離せなかった。
十二人の顔。
ノア。
最初に手を握った少年。
母親の腕の中で、眠ることを怖がっていた幼い少女。
名前も。
家族も。
それぞれにある。
黒石の中で、ただの「十二人」にしてはいけない。
「セレネさん」
私は呼びかけた。
「石から手を離してください」
「離せません」
彼女は黒石を抱いたまま、首を横に振る。
「離したら、子どもたちが落ちる」
「どこへ?」
「夢の底へ」
「あなたは戻す方法を知っているんですか」
「知りません」
「なら、どうしてこんなことを!」
ミレイユが叫ぶ。
父親の記憶を見たばかりの顔には、涙の跡が残っていた。
「眠らせたかっただけだと言いましたよね!」
「そうよ」
「息まで止めて、何が眠りです!」
「止めるつもりはなかった!」
セレネも叫び返す。
「護符を壊したから、石が子どもたちを守ろうとしているの!」
「守っていません!」
「この中なら痛くない!」
「生きてもいないでしょう!」
地下室へ。
ミレイユの声が響いた。
セレネの身体が震える。
「生きている」
「では、名前を呼んだら返事をしますか」
「……」
「お腹が空いたと言いますか。お母様へ会いたいと泣きますか。嫌いな野菜を残して怒られますか!」
「ミレイユ」
アレクシスが止めようとする。
「言わせてください!」
ミレイユは黒石の前へ膝をついた。
「私も、お父様を失いたくありませんでした」
セレネが顔を上げる。
「手紙を何度も読みました。最後の記憶があると言われたら、偽物だと分かっていても来ました」
「なら、分かるでしょう」
「分かります」
「だったら」
「でも」
ミレイユの声が。
少しだけ柔らかくなる。
「忘れないことと、苦しみ続けることは同じじゃない」
セレネの唇が開く。
声は出なかった。
「私は、お父様が苦しんだ瞬間だけを覚えていたくありません」
曲がった隊章。
読みにくい手紙。
木馬を作る約束。
若い主君へ食事をさせようと苦労していた父親。
「お父様が公爵様を恨んでいなかったと知ったからではありません」
ミレイユが言う。
「もし恨んでいたとしても、それだけをお父様の全部にはしません」
「でも、痛みは消える」
「消えてもいい痛みもあります」
「そんなこと」
「私が決めます」
強い言葉だった。
「お父様の痛みだからといって、娘の私が一生苦しまなければならないなんて、お父様は言わない」
「あなたのお父様は、そうかもしれない」
「あなたのお父様は違うんですか」
セレネは答えない。
「娘に、一生自分の苦しみを抱えてほしい人だったんですか」
「違う」
小さな声。
「だったら」
「でも、父を忘れたら」
「忘れません」
ミレイユが手を差し出す。
黒石へではなく。
セレネへ。
「私が聞きます」
「何を」
「さっきの続きです」
硬いパンが嫌いだった。
歌が下手だった。
娘の髪を左右違う高さへ結んだ。
「あなたのお父様のことを、もっと話してください」
「今?」
「今です」
「子どもたちが」
「だからです!」
ミレイユの目から。
また涙が落ちた。
「石へ痛みを渡すのではなく、私たちへ記憶を渡してください!」
◇
黒石が脈打つ。
どくん。
どくん。
十二人の子どもたちの顔は、目を閉じたまま。
ヴィクトール司祭が黒石の周囲へ銀色の杭を置き始めた。
「何をしています?」
「繋がりの拡大を止めます」
「子どもたちは?」
「石が吸い込んだ意識を戻さなければ」
「どうやって」
「この石は痛みと記憶を区別できていない」
司祭がセレネを見る。
「彼女が父親の記憶を、痛みから切り離せれば、繋がりが緩む可能性があります」
「可能性?」
アレクシスの声が低い。
「断言できません」
「またか」
「異端審問官は、未知の呪物を前に嘘を断言する訓練を受けておりません」
「役に立たない」
「公爵閣下よりは冷静です」
「何?」
「二人とも!」
私が止める。
「今、喧嘩をしている場合ではありません!」
「喧嘩ではない」
「専門的な意見交換です」
「それを喧嘩と言います!」
子どもたちの命がかかっている。
それなのに。
少しだけ。
いつもの会話をしている自分たちに気づく。
黒石は。
痛みだけを求める。
恐怖だけを膨らませる。
なら。
それ以外のものを。
この場所へ増やさなければならない。
「セレネさん」
私は言った。
「話してください」
「何から」
「一番古い、お父様の記憶は?」
「……山羊です」
「山羊?」
「私が四歳の頃、父の飼っていた山羊に頭突きされました」
突然。
本当に小さな話だった。
「怪我は?」
「尻餅をついただけ」
「お父様は?」
「笑った」
セレネが。
少し不満そうな顔をする。
「娘が泣いているのに、大笑いして。それから山羊を叱ろうとして、また頭突きされました」
ミレイユの口元が緩む。
「二度も?」
「父は山羊に嫌われていました」
「どうして?」
「餌を減らしたから」
「それは嫌われます」
「冬に備えただけなのに」
黒石の表面が。
わずかに揺れた。
「他には?」
私が促す。
「父が好きだった料理は?」
「豆の煮込み」
アレクシスが嫌そうな顔をした。
「豆か」
「今そこへ反応します?」
「重要だ」
「重要ではありません!」
セレネが。
ほんの少し笑った。
「公爵様は、豆が嫌いなんですか」
「嫌いではない」
「残します」
私が答える。
「残していない」
「皿の端へ寄せます」
「食事の順番だ」
「最後まで残るでしょう!」
黒石が。
また揺れる。
十二人のうち、一人。
幼い少女の唇が。
かすかに動いた。
「反応しています!」
ヴィクトール司祭が叫ぶ。
「続けてください!」
「何を」
「何でもいい。痛み以外の記憶を!」
セレネは黒石を抱きしめたまま。
途切れ途切れに話した。
「父は、雨の日が嫌いでした」
「どうして?」
「膝が痛むから」
「それは痛みです」
ミレイユが言う。
「でも、雨の日は仕事を休んで、家にいた」
「何をしていました?」
「木を削っていました」
「何を作ったんです」
「匙。椅子。私の人形」
「上手でした?」
「下手でした」
「下手なんですか」
「人形の右腕が、左腕より長かった」
「どうして捨てなかったんです?」
「父が作ったから!」
セレネが。
泣きながら叫ぶ。
「下手でも。左右が違っても。父が私のために作ったから」
黒石の表面へ。
亀裂が入った。
「壊れる!」
アレクシスが剣へ手をかける。
「斬らないで!」
ヴィクトール司祭が止める。
「自然に繋がりが解けています!」
石に浮かぶ子どもたちが。
一人ずつ。
息を吐き始める。
胸が。
小さく上下する。
「ノア」
私は最初の少年の名前を呼ぶ。
「お母様が待っています」
黒石の中の少年が。
眉を寄せた。
「目を覚ましてください」
次の子。
「エラ。学校で描きかけの絵が残っています」
エレナ先生の記録で読んだ。
少女は。
春の花の絵を描いていた。
「トーマス。妹へ木の笛を作る約束をしたでしょう」
一人ずつ。
名前を呼ぶ。
十二人という集まりではなく。
それぞれが。
帰る場所を持つ人間だと伝える。
ミレイユも。
記録を見ながら名前を呼んだ。
ガルドさんは。
どう声をかけていいか分からず。
「起きろ! 飯の時間だ!」
と怒鳴った。
「もう少し優しく言えません?」
「子どもへ何を言えばいいか分からねえ!」
「眠っているのに怒鳴らないでください!」
「聞こえなきゃ意味がねえだろ!」
一人の少年が。
石の中で顔をしかめた。
「反応しました」
「俺の声が効いた」
「うるさかっただけです!」
それでも。
呼吸は戻っていく。
◇
最後に残ったのは。
ノアだった。
黒石の中で。
目を閉じたまま。
苦しそうに顔を歪めている。
「なぜ戻らない」
アレクシスが言う。
「最初に繋がった子だから、深い場所にいるのかもしれません」
ヴィクトール司祭が黒石へ手をかざす。
「何かを握っています」
「何を?」
「痛みです」
セレネの表情が変わった。
「ノアのお母様」
「何です」
「最初に護符を渡した相手ですね」
「はい」
「お母様の痛みを、ノア君が代わりに持っている?」
「夫を亡くしてから、毎晩泣いていました」
「護符で、その悲しみが子どもへ移った」
「そんなつもりでは」
「分かっています」
でも。
意図しなくても。
起きたことは消えない。
「ノア君へ返させてはいけません」
私は言った。
「お母様の痛みを、本人へ戻すんですか」
ミレイユが尋ねる。
「いいえ」
「では」
「誰か一人が持つものにしない」
夫を失った母親。
父親を失った子。
悲しみを完全に消すことはできない。
けれど。
一人の夢へ押し込める必要もない。
「セレネさん」
「はい」
「ノア君のお母様へ、あなたがしたことを話せますか」
「……」
「怒られます」
「はい」
「許してもらえないかもしれない」
「はい」
「それでも?」
「話してください」
セレネは。
長く目を閉じた。
「私が」
黒石へ向かって言う。
「あなたのお母様へ護符を渡しました」
ノアの表情が。
わずかに動く。
「眠れれば救われると思った」
セレネの声が震える。
「でも、あなたへ痛みが移った」
謝罪は。
言えば許されるための言葉ではない。
「ごめんなさい」
だから。
許しを求めずに。
ただ。
自分がしたことを認める。
「お母様へも話します」
セレネが続ける。
「あなたが苦しんだことを隠しません」
黒石に。
大きな亀裂が走る。
「だから」
セレネの腕から力が抜けた。
「お母様の悲しみを、あなた一人で持たないで」
ノアが。
目を開いた。
◇
黒石は。
音を立てずに崩れた。
粉ではなく。
黒い光の粒へ変わり。
地下室の天井へ昇っていく。
十二人の子どもたちの姿も。
一人ずつ消えた。
「戻ったのですか」
私が尋ねる。
ヴィクトール司祭が。
銀の検査石を見つめる。
黒く曇っていた石が。
ゆっくり透明へ戻っていく。
「繋がりは消えました」
「子どもたちは?」
「生きています」
身体から。
力が抜けた。
「本当に?」
「はい」
膝が崩れそうになる。
アレクシスの腕が伸びる。
途中で止まる。
「触れていいか」
「今さら聞くんです?」
「必要だろう」
「はい」
支えられる。
今度は。
苦しくない程度の強さ。
「隔離中ですが」
ヴィクトール司祭が言った。
アレクシスの腕が。
さらに強くなる。
「今言うのか」
「規則です」
「黒碑の反応は消えた」
「確認が必要です」
「妻が倒れる」
「抱く必要は」
「ある」
「医師を」
「俺が支える」
「公爵閣下」
「司祭様」
私は。
二人の間へ割って入る。
「少し静かにしてください」
「俺は」
「あなたです」
「……ああ」
素直だった。
珍しい。
◇
セレネは。
地下室の床へ座ったまま。
崩れた黒石の跡を見つめていた。
「なくなった」
「はい」
私が答える。
「父が」
「いいえ」
「でも」
「話してください」
「何を?」
「山羊に二度も頭突きされたお父様のことを」
セレネが。
顔を歪める。
「そんな、くだらないこと」
「くだらなくありません」
「誰が覚えるの」
「私が」
ミレイユも隣へ座る。
「私も覚えます」
ガルドさんが腕を組んだ。
「俺も聞いた」
「お前は忘れそうだ」
アレクシスが言う。
「何で閣下に決められなきゃならねえ」
「十年前のことを忘れていた」
「お前もだろ!」
「なら記録する」
ミレイユが言った。
「文官見習いとして、証言記録を作ります」
「公爵家の正式な記録に?」
セレネが尋ねる。
「はい」
「父は、犯罪者になる?」
「黒碑の儀式へ関与しています。事実は書きます」
「……」
「でも、公爵家に雇われた案内人だったこと。助けを求めても門前で追い返されたことも書きます」
都合の悪い部分だけを。
消さない。
「私がしたことも?」
「書きます」
「子どもたちへ」
「はい」
「私は、聖女ではなかった」
「最初から違います」
ヴィクトール司祭が言う。
「司祭様」
「事実です」
「少し言い方を」
「ですが」
彼はセレネの前へ膝をついた。
「大神殿が、あなたの父上を追い返したことも調べます」
「記録はないと言ったでしょう」
「ないことを理由に、なかったとはいたしません」
「あなた一人が調べても」
「私が異端審問官である理由は、罪を見つけるためだけではない」
ヴィクトール司祭の声は。
静かだった。
「神殿が犯した誤りも、審問の対象です」
「信じられない」
「今すぐ信じる必要はありません」
私と同じ言葉。
司祭がこちらを見る。
「何でしょう」
「あなたの言葉を借りました」
「使用料をいただきます」
「公爵家へ請求してください」
「俺は払わない」
「あなたが決めないでください!」
セレネが。
ほんの少し。
笑った。
◇
ヴァル村から。
子どもたちが目を覚ましたという知らせが届いたのは、夜明け前だった。
「十二人全員、呼吸も安定しています!」
馬を飛ばしてきた伝令が。
礼拝堂の前で叫んだ。
「ノアは?」
「目を覚まして、最初に腹が減ったと!」
ガルドさんが胸を張る。
「俺の声が効いたな」
「離れた村まで届いていません」
ミレイユが冷静に答える。
「夢の中だ」
「都合よく解釈しないでください」
「うるせえ文官だな」
「見習いです」
「そこは訂正するのか」
皆が。
少しだけ笑った。
夜が明ける。
森の向こうから。
薄い光が差し込む。
長かった。
本当に。
長い夜だった。
◇
セレネの処遇については。
意見が分かれた。
「牢へ入れるべきだ」
アレクシスは即答した。
「死者が出なかったのは結果です。子どもたちを危険へさらした事実は変わらない」
その判断は。
領主として正しい。
「私は逃げません」
セレネも言った。
「牢へ行きます」
「それで終わりにしないでください」
私が言うと。
アレクシスがこちらを見る。
「許せと?」
「違います」
「なら」
「牢へ入っているだけでは、子どもたちへ何も返せません」
「何をさせる」
「治療院で働いてもらいます」
「危険だ」
「もちろん監視をつけます。黒石や呪物へは触れさせない。医師と神官の指示に従う」
「子どもへ近づけるのか」
「被害を受けた家族が拒否すれば、会わせません」
償いは。
謝って終わりではない。
許されるとも限らない。
「眠れなかった子どもたちの世話。夜間の見守り。記録の整理」
「奥様」
ミレイユが手を挙げる。
「私が監督役をします」
「あなたが?」
「父の字を真似たことは、まだ許していません」
セレネの肩が小さくなる。
「かなり長く怒るつもりです」
「はい」
「でも、逃げないかも見ます」
「はい」
「食事を抜いたら報告します」
「それも?」
「黒い石より先に、健康管理が必要です」
私はアレクシスを見る。
「誰かに似ましたね」
「お前だ」
「あなたです!」
「両方です」
ヴィクトール司祭が言った。
否定できなかった。
◇
条件付き隔離は。
予定より二日早く解除された。
黒碑の反応が消え。
私の手首にも。
検査石にも。
異常が出なかったからだ。
「本当に、同じ部屋へ戻っていいんですね」
私が確認すると。
ヴィクトール司祭は、疲れ切った顔で頷いた。
「結構です」
「同じ寝台も?」
「神殿として止める理由はございません」
「触れても?」
「ご夫婦で同意のうえなら、ご自由に」
アレクシスが立ち上がる。
「帰るぞ」
「司祭様へお礼を」
「もう言った」
「いつ?」
「帰れと言った」
「それはお礼ではありません!」
ヴィクトール司祭は。
手を振った。
「もう結構です。どうぞ、お戻りください」
「本当に疲れていますね」
「公爵夫妻の隔離監督を担当した者には、特別休暇が必要だと大神殿へ進言いたします」
「今後も担当していただく可能性が」
「ございません」
強い返事だった。
◇
五日ぶりに。
自分たちの寝室へ戻った。
懐かしい。
たった五日なのに。
扉。
窓。
暖炉。
すべてが少し違って見える。
「……アレクシス」
「何だ」
「これは?」
寝台の中央に。
枕が並べられていた。
一つ。
二つ。
三つ。
数える。
「十一個あります」
「ああ」
「以前は十個でした」
「ああ」
「どうして増えたんです?」
アレクシスは。
真顔だった。
「十個では、お前が向こう側へ行く気がした」
「何の向こう側です?」
「枕の」
「一本増やせば防げるんですか」
「ああ」
「根拠は?」
「十一人目が問題だった」
「今回の事件へ、変な影響を受けないでください!」
私は一つ目の枕を床へ落とした。
「何をする」
「必要ありません」
二つ目。
三つ目。
「全部落とすのか」
「はい」
「境界線は」
「作りません」
「本当に?」
「嫌ですか」
「嫌ではない」
「では」
十一個。
すべて。
床へ落とした。
寝台の中央には。
何もない。
「広いですね」
「ああ」
「数日前は、扉一枚が遠かったのに」
「ああ」
アレクシスが。
私の前で手を止める。
「触れていいか」
「はい」
抱きしめられる。
今度は。
すぐには離れなかった。
「苦しいです」
「少しだけだ」
「少しではありません」
腕が緩む。
「これで?」
「はい」
「眠れるか」
「たぶん」
「俺は眠れる」
「まだ横にもなっていませんよ」
「お前がいる」
「それだけで?」
「ああ」
寝台へ入る。
枕が一つずつ。
夫婦の頭の下にあるだけ。
境界線はない。
「アレクシス」
「何だ」
「今夜、手を握ってもいいですか」
「ああ」
「聞かないんです?」
「お前から聞いた」
「そうでした」
指を絡める。
「離れた夜があっても」
「ああ」
「夫婦でしたね」
「ああ」
「でも」
私は彼の肩へ頭を寄せた。
「一緒に眠れる夜のほうが、やっぱり好きです」
「俺もだ」
「眠るためではなく?」
「両方だ」
「格好よく終われません?」
「嘘を言うよりいい」
「そうですね」
暖炉の火が。
静かに揺れている。
目を閉じる。
呼吸が聞こえる。
心臓の音が聞こえる。
それを。
必要とされている証明にしなくても。
ただ。
愛する人が隣で生きている音として。
聞くことができた。
◇
翌朝。
私たちを起こしたのは。
激しく扉を叩く音だった。
「奥様! 公爵様!」
ミレイユの声。
「ヴァル村から報告です!」
アレクシスが目を開ける。
「うるさい」
「起きてください」
「まだ早い」
「報告ですよ」
「お前が聞け」
「二人宛てです!」
仕方なく。
寝台から起きる。
扉を開けると。
ミレイユが紙を一枚抱えていた。
「十二人全員からです」
「何と?」
彼女は。
少し笑った。
「昨夜は」
読み上げる。
「誰も、黒い部屋の夢を見なかったそうです」
長い。
眠れない夜が。
終わった。
「それから」
「まだあるんですか」
「ノア君が、公爵様へ」
ミレイユが紙を見る。
「『豆を残すと、怖い夢を見るぞ』と」
「誰が教えた」
アレクシスの声が低くなる。
「私です」
「解雇する」
「できません」
「なぜ」
「奥様が雇用主です」
「リリアーヌ」
「有能なので残します」
「妻まで」
「豆を食べてください」
朝の光の中で。
また。
いつもの言い争いが始まる。
それでいい。
痛みを忘れなくても。
痛みだけを見なくてもいい。
眠れない夜のあとには。
少し面倒で。
温かい朝が来るのだから。




