第51話 眠れない子どもが、私の名前を夢の中で呼びました
異変を知らせる手紙が届いたのは、春祭りから十二日後の朝だった。
「奥様」
朝食室へ入ってきたミレイユは、手紙を一通だけ持っていた。
普段の彼女なら、急ぎの書簡、返答待ちの書簡、アレクシスには見せると面倒になる書簡を、きちんと三つに分けて運んでくる。
今日は一通だけ。
しかも、封筒の端を強く握っている。
「どうしました?」
「ヴァル村からです」
「ヴァル村?」
北方領の北西部。
山の斜面にある、小さな村だ。
冬は雪に閉ざされ、春になっても街道の開通が遅い。薬草と山羊の乳で作る硬いチーズが特産だったはず。
「村長から?」
「いいえ。教師をしている女性からです」
「公的な要請ではないのですか」
「村長は、外へ知らせる必要はないと言っているそうです」
その言い方が気になった。
私は手を差し出す。
「見せてください」
ミレイユが手紙を渡す。
紙は粗末で、文字も少し乱れていた。
『グランツ公爵夫人様。
突然のお手紙をお許しください。
村の子どもたちが眠れなくなりました。
最初は一人でした。今は七人です。
三日間、ほとんど眠っておりません。
眠りかけると、黒い石の部屋が来ると泣き叫びます。
村長は春の疲れだと言います。
神官様は、子どもが怠けるためについた嘘だと叱りました。
ですが、嘘ではありません。
どうか助けてください』
最後の署名は、エレナ・モール。
村の教師。
「七人」
私は読み終えた手紙を机へ置いた。
「年齢は?」
「五歳から十二歳まで」
「同じ家族?」
「違います」
「食べ物は?」
「共通するものは、まだ分かりません」
「熱や発疹は?」
「書かれていません」
アレクシスが、向かいの席から手紙を取った。
先ほどまで、豆を皿の端へ少しずつ寄せるという、たいへん不自然な作業をしていた人である。
「いつ届いた」
「今朝です」
「手紙が書かれたのは三日前だな」
「はい」
「なら、今はもっと増えている可能性がある」
「私もそう思います」
アレクシスはすぐに立ち上がった。
「医師を集める。昼までに出る」
「待ってください」
「何だ」
「私も行きます」
「駄目だ」
「なぜです?」
「子どもたちの症状が、病気かどうか分からない」
「だから行くんです」
「感染する可能性がある」
「医師も同行します」
「お前は残れ」
「またですか!」
春祭りの夜に、何度選び直しても妻にしたいと言われた。
その十二日後には、妻を仕事から外そうとしている。
この夫の愛情は、油断するとすぐ過保護へ変質する。
「子どもたちが『黒い石の部屋』と言っているんですよ」
「ああ」
「私たちが行かずに、誰が事情を理解できます?」
「俺が行く」
「私たち、と言ったでしょう!」
「お前が行く必要はない」
「アレクシス」
「何だ」
「何度選び直しても、私を妻にしたいと言いましたね」
「ああ」
「では、選んだ妻を置いていかないでください」
「その言葉を使うな」
「効くので」
「ずるい」
「あなたに教わりました」
アレクシスは不満そうに黙った。
勝った。
そう思ったところで、ミレイユが口を挟む。
「奥様も行くべきではありません」
「ミレイユさんまで?」
「症状が伝染するなら、公爵夫妻が同時に倒れるのは困ります」
「それは」
「それから、奥様は最近、三日続けて夜遅くまで仕事をしていました」
「今回は関係ありません」
「寝不足の人が、不眠の子どもを診に行くんですか」
「私は眠れています」
「何時間?」
「……六時間ほど」
「昨夜は?」
「四時間半」
「一昨日は?」
「なぜ覚えているんです?」
「監督役ですから」
「文官見習いですよね?」
「兼任です」
誰が兼任を認めたのか。
隣の夫を見る。
目を逸らされた。
「アレクシス」
「何だ」
「ミレイユさんに、私の睡眠時間を報告させています?」
「違う」
「では?」
「ハロルドが報告している」
「もっと悪いです!」
扉のそばに控えていたハロルドは、平然としている。
「リリアーヌ様の健康管理も、執事の大切な務めでございます」
「私に知られないように行う必要があります?」
「知られますと、睡眠時間を多めに申告なさいますので」
「信用がありません!」
「過去の実績に基づく判断でございます」
反論できない。
悔しい。
「話を戻します」
私は手紙を指差す。
「私もヴァル村へ行きます。ただし、感染症の可能性を考え、医師の指示には従う。子どもたちへ直接触れる前には許可を取ります」
「俺からも取れ」
「なぜです?」
「必要だからだ」
「医師より先に?」
「ああ」
「医学的根拠は?」
「夫だ」
「根拠になっていません!」
「俺にはなる」
結局。
医師二名。
薬師一名。
騎士十二名。
生活物資を積んだ荷車三台。
そして、私とアレクシス。
文官として記録を取ると言い張ったミレイユも同行することになった。
「あなたは残ってもいいんですよ」
馬車へ乗る前に言うと、彼女は眉を寄せた。
「お父様の事件と関係があるかもしれません」
「黒い石という言葉だけで?」
「その言葉だけでもです」
「怖くない?」
「怖いです」
即答だった。
「でも、知らないままのほうが嫌です」
「そう」
「奥様は?」
「私も怖いです」
「公爵様へは言いました?」
「まだ」
「言ってください」
「言う必要があります?」
「この前、怖いときは怖いと言う約束をしたでしょう」
よく覚えている。
本当に。
かなり面倒な文官見習いになった。
「分かりました」
私は馬車の反対側にいるアレクシスを呼ぶ。
「アレクシス」
「何だ」
「怖いです」
唐突に言われ。
彼は、わずかに目を見開いた。
「何が」
「子どもたちの夢です」
「……ああ」
「黒碑は砕けました。呪いも消えた。でも、まだ何か残っているのかもしれない」
「ああ」
「私たちのせいで、村へ広がったのだったら」
「それはまだ分からない」
「分かっています」
アレクシスが近づく。
私の手へ触れる直前に止まった。
「握っていいか」
「はい」
指が絡む。
「俺も怖い」
「あなたも?」
「ああ」
「何がです」
「お前が、また黒碑に触れることが」
「触りません」
「必要だと思えば触る」
「否定しにくいですね」
「だから一人にしない」
「はい」
「勝手に子どもへ触れるな」
「それは医師と相談します」
「俺とも」
「まだ言います?」
「ああ」
「分かりました」
少しだけ。
握られた手が温かくなった。
◇
ヴァル村へ着いたのは、翌日の昼前だった。
村は山の斜面へ沿うように作られている。
石造りの家。
細い道。
雪はほとんど解けていたが、日陰にはまだ白く残っている。
出迎えたのは、手紙を書いたエレナ先生だった。
三十代半ばほどの、小柄な女性。
私たちを見るなり、深く頭を下げた。
「来てくださって、ありがとうございます」
「子どもたちは?」
「学校の建物に集めています」
「家ではなく?」
「眠れない子同士で一緒にいたいと言うんです。家族といると、眠れと何度も言われるから嫌だと」
少し分かる。
眠れない人へ「早く眠れ」と言うほど、眠りを遠ざける言葉はない。
「今は何人です?」
「十一人です」
「増えたんですね」
「はい」
エレナ先生の顔が歪む。
「昨日から、三歳の子まで」
「村長は?」
「こちらです」
村の集会所。
長い机を挟み、六十代の村長が待っていた。
「公爵閣下。公爵夫人。わざわざ山奥までお越しいただき、恐れ入ります」
言葉は丁寧。
けれど。
歓迎している顔ではない。
「子どもたちの症状について聞きたい」
アレクシスが言う。
「大げさな話でございます」
村長はすぐに答えた。
「春になれば、子どもは浮かれるものです。夜更かしをして、怖い夢を見たのでしょう」
「三日以上眠れていない子がいると」
「親が甘やかすからです」
「医師には?」
「村の神官様が診ております」
「神官は医師ではない」
「この村では、昔から病も祈りで」
「眠れていない」
アレクシスの声が低くなる。
「祈りで治ったのか」
「それは」
「治っていないから、手紙が来た」
「教師が勝手に送ったのです!」
村長がエレナ先生を睨む。
「村の恥を外へ知らせるなど」
「恥ではありません」
私は言った。
「子どもが眠れないことは、家族の育て方が悪い証明でも、村が劣っている証明でもありません」
「しかし、公爵夫人」
「病気かもしれない。食事や井戸水が原因かもしれない。何かに怯えているのかもしれない」
「子どもの作り話です」
「十一人が、同じ話を?」
「子ども同士で口裏を」
「では」
私は村長を見る。
「それを確認しましょう」
「確認?」
「一人ずつ、別の部屋で話を聞きます。誰にも聞こえないように」
村長が黙る。
「同じ話になるなら、口裏合わせ以外の可能性を考えます」
「それでも、村の中だけで」
「もう公爵領の問題です」
アレクシスが言った。
「子どもが十一人、眠れていない。放置はしない」
「ですが」
「異論があるなら、子どもたちが眠ったあとに聞く」
村長は、ようやく頭を下げた。
◇
学校の建物へ入った瞬間。
私は息を止めた。
子どもたちは。
騒いでいなかった。
十一人。
年齢の違う子どもたちが、壁際の毛布や長椅子へ座っている。
誰も眠っていない。
けれど。
元気でもない。
目の下には濃い影。
瞬きが遅い。
小さな子は母親へ抱かれながら、何度も頭を落としかけ、そのたびに怯えたように顔を上げる。
「眠くないの?」
エレナ先生が優しく尋ねる。
五歳くらいの少女が、首を横に振る。
「眠くない」
嘘だった。
目が閉じそうになっている。
「眠っても大丈夫よ」
「駄目」
「どうして?」
「石のお部屋が来るから」
私の背中へ。
冷たいものが走った。
「どんなお部屋?」
医師が、子どもの前へしゃがむ。
「黒いの」
「壁が?」
「全部」
「誰かいる?」
少女は。
アレクシスを見た。
その瞬間。
小さな身体が震えた。
「この人」
「俺?」
「でも、もっと小さい」
アレクシスの顔が変わる。
「若い頃の、あなたを見たのでしょうか」
私が小声で言う。
「分からない」
「お兄さんが」
少女が続ける。
「いっぱい血を出してる」
母親が娘を抱きしめた。
「もう話さなくていい!」
「待ってください」
私は言う。
「無理には聞きません。でも、本人が話したいなら」
「こんな怖いことを思い出させるんですか!」
「話さないまま、眠るたびに見るほうがつらいかもしれません」
「あなたに何が分かるの!」
母親の声が尖る。
私はすぐには答えなかった。
「完全には分かりません」
「なら」
「でも、怖い夢を誰にも言えず、一人で抱える苦しさは知っています」
黒碑。
婚約破棄。
家を追い出された夜。
人に話せば軽くなることばかりではない。
それでも。
言葉にしなければ。
恐怖が自分の中で、何倍にも大きくなることがある。
「少しずつで構いません」
母親へではなく。
少女へ言う。
「話したくなったら、教えてください」
「……怒らない?」
「怒りません」
「嘘って言わない?」
「言いません」
少女は。
母親の服を握ったまま。
小さく頷いた。
◇
十一人へ聞き取りを行った。
別々の部屋で。
家族にも席を外してもらい。
医師とエレナ先生だけが同席した。
絵を描ける子には、夢で見たものを描いてもらった。
結果。
全員が、黒い石の部屋を見ていた。
壁のない部屋。
黒い床。
中央に立つ、縦長の石。
泣いている男。
倒れている騎士。
そして。
「声がするの」
十歳の少年が言った。
「どんな声?」
「女の人」
「何と言うの?」
「まだ足りないって」
「何が?」
「痛いのが」
ミレイユの手が、記録用紙の上で止まる。
「他には?」
「忘れたら、また始まるって」
「何を忘れると?」
「分からない」
黒碑は。
愛する者を失った痛みを忘れないための儀式。
それが歪み。
アレクシスを十年間苦しめた。
偶然とは思えない。
「子どもたちに共通するものを調べましょう」
私は医師へ言った。
「食事。水。遊び場。最近、村へ来た行商人や神官も」
「分かりました」
「それから、眠れない子を叱らないよう家族へ説明を」
「しかし、休ませなければ体力が」
「眠らせようと押さえつければ、余計に怖がります」
医師が頷く。
「灯りをつけたままでもいい。誰かが起きて見守る。それから、短い時間でも眠れたら起こさず記録を取ります」
「奥様」
エレナ先生が呼ぶ。
「まだ、一人います」
部屋の隅。
十二歳ほどの少年が、長椅子へ横たわっていた。
「眠っている?」
「先ほど、急に」
「三日ぶりです」
母親が泣きながら答える。
「やっと眠ったんです」
「起こさないでください」
私たちは声を落とした。
少年の名前は、ノア。
最初に眠れなくなった子だという。
「三日前、山の礼拝堂へ行ったそうです」
エレナ先生が言った。
「礼拝堂?」
「今は使われていません。子どもたちが遊び場にしていて」
「他の子も?」
「七人は一緒に行ったと」
黒い石。
使われていない礼拝堂。
嫌なものが。
少しずつ繋がっていく。
「礼拝堂を調べる」
アレクシスが言った。
「今から?」
「ああ」
「私も」
「お前は残れ」
「また!」
「今度は理由がある」
「言ってください」
「子どもたちのそばに、お前が必要だ」
思っていた言葉と違った。
「俺は礼拝堂を見る。お前はここで、聞き取りを続けろ」
「……はい」
「意外そうな顔をするな」
「あなたが私へ任せたので」
「前にも任せた」
「最近、少しずつですね」
「嫌なら連れていく」
「残ります!」
夫婦の成長を。
自分で無駄にするところだった。
「護衛を置いてください」
「ああ」
「単独行動は?」
「しない」
「礼拝堂に黒い石があっても、触らない」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「報告を」
「三時間ごと」
洪水の夜と同じ。
「今回は一時間ごとです」
「増えたな」
「状況が違います」
「分かった」
アレクシスが出ていこうとする。
そのとき。
眠っていたノアが、低い声を漏らした。
「……来る」
母親が駆け寄る。
「ノア?」
「来る」
「何が来るの?」
「黒い部屋」
少年の瞼は閉じたまま。
呼吸だけが速くなっていく。
「起こしたほうが」
母親が肩を揺らそうとする。
「待って」
私は止めた。
「ノア。聞こえますか」
返事はない。
「ここは学校です。お母様もいます」
「違う」
「何が違うの?」
「ここじゃない」
少年の指が。
何かを探すように動く。
「手を握ってもいいですか」
母親へ尋ねると、彼女は迷いながら頷いた。
「お願いします」
私は長椅子の脇へ膝をつく。
少年の手へ。
指先で触れる。
冷たい。
眠れていない子どもの手とは思えないほど。
石のように。
「ノア」
手を包む。
「大丈夫です。あなたは一人ではありません」
少年の指が。
私の手を掴んだ。
驚くほど強い。
「痛い」
呟き。
「どこが痛いの?」
「違う」
「何が?」
「お前が」
声が。
変わった。
十二歳の少年の声ではない。
低く。
掠れ。
女とも男ともつかない。
「ノア?」
「違う」
少年の顔が。
ゆっくり私へ向く。
目は閉じたまま。
それなのに。
見られている。
そう感じた。
「リリアーヌ」
全身が凍る。
母親が息を呑む。
ミレイユが立ち上がる。
アレクシスが、すぐに私の肩を掴んだ。
「手を離せ」
「待って」
「離せ!」
少年の指が食い込む。
痛い。
でも。
それ以上に。
言葉が。
胸へ刺さった。
「今度は」
眠ったままの少年が。
私の名前を知るはずのない少年が。
笑った。
「お前が、痛みを覚えろ」
その瞬間。
部屋の灯りが。
すべて。
同時に消えた。




