第50話 北方の春が来た日、夫からもう一度求婚されました
アレクシスがエドナ村へ戻ってきたのは、朝日が丘の上まで昇った頃だった。
伝令から無事を聞いていた。
旧銀山を経由した救助隊と合流し、取り残されていた村人も騎士も全員助かったことも。左腕の傷は浅く、本人は歩けることも。
それでも、遠くの街道に黒い騎馬の一団が見えた瞬間、私は考えるより先に走り出していた。
「奥様、膝が!」
護衛の声が後ろから飛んでくる。
分かっている。
昨日、川へ落ちたときに擦りむいた膝は、まだ曲げるたびに痛む。
けれど、止まれなかった。
ぬかるんだ道へ足を取られながら坂を下る。途中で靴が泥へ沈み、危うく転びそうになった。
騎馬の先頭にいたアレクシスが、私に気づいた。
次の瞬間、彼は馬から飛び降りた。
「走るな!」
「そちらこそ、飛び降りないでください!」
「膝を怪我しているだろう!」
「あなたは腕を怪我しているでしょう!」
再会して最初の言葉が、それだった。
彼は泥を跳ね上げながらこちらへ来る。私も足を止めない。
「傷を見せてください」
「先にお前の膝だ」
「私は昨日、医師に診てもらいました」
「俺も診てもらった」
「どこの医師に?」
「ミゼル村の」
「村の薬師ではなく?」
「同じようなものだ」
「違います!」
あと数歩というところで、痛めた膝に力が入らなくなった。
「あっ」
身体が傾く。
すぐにアレクシスの腕が伸びてきた。
腰を抱かれ、その胸へ倒れ込む。
「だから走るなと言った」
「あなたが早く来ないからです」
「来た」
「遅いです」
「夜明けまで住民を避難させていた」
「知っています!」
「なら」
「知っていますけど、遅いです!」
無茶なことを言っている。
分かっている。
でも、そう言わなければ。
無事な顔を見た途端に涙が出そうだった。
アレクシスの胸元には、泥がこびりついている。礼装ではなく、濡れた騎士服。少し曲がった副隊長の隊章も、泥で汚れていた。
左腕には布が巻かれている。
その布には、赤黒い染みがあった。
「軽傷ではないでしょう」
「軽い」
「血が出ています」
「止まっている」
「包帯を替えます」
「先に膝を」
「その話は終わりませんね?」
「ああ」
いつもの返事。
腹が立つ。
そして。
安心する。
「アレクシス」
「何だ」
「触れていいか、聞かないんですか」
彼は私の腰を抱いたままだった。
「もう触れている」
「そうですね」
「嫌か」
「嫌ではありません」
「なら、このままでいい」
「皆が見ていますよ」
「構わない」
後ろから来た騎士たちも。
丘の上で待っていたエドナ村の人たちも。
確かに見ている。
けれど、誰もからかおうとはしなかった。
皆。
同じ夜を越えてきた顔をしていた。
「戻ってきましたね」
私が言う。
「ああ」
「約束を守りましたね」
「ああ」
「私も守りました」
「聞いた」
「エドナ村を離れませんでした」
「ああ」
「本当は、すぐ行きたかったです」
アレクシスの腕に力が入る。
「来なくてよかった」
「分かっています」
「来ていたら怒った」
「今でも怒っています?」
「ああ」
「何に」
「お前が川へ落ちたことに」
「昨日の話です!」
「一生怒る」
「では私も、あなたが濁流の向こうへ取り残されたことを一生怒ります」
「俺のせいではない」
「私も木材が足場へ当たっただけです」
「違う」
「同じです!」
周囲から、ついに笑い声が漏れた。
ベンさんが腕を組み、大きな声で言う。
「公爵様! とりあえず二人とも生きてるんだから、喧嘩は飯を食ってからにしてくれ!」
「俺は食べた」
アレクシスが答える。
「いつ?」
「夜」
「夜の何時です?」
「……覚えていない」
「食べていませんね?」
「干し肉は口にした」
「ローディンさんの手紙に書かれていた頃から何も変わっていない!」
「お前も黒パンを半分しか食べていないと聞いた」
「誰から!」
「護衛だ」
私の護衛たちが、一斉に目を逸らす。
「皆さん、報告が細かすぎません?」
「公爵閣下から、奥様の食事量も必ず報告するようにと」
「いつ命じたんです!」
「出発前だ」
「また私に相談せず!」
「健康管理は命令を覆す行為ではない」
「帰ったら話し合います」
「今でもいい」
「まず医師です!」
私たちの言い争いを聞きながら、村の人々が笑っている。
昨日。
家を失うかもしれないと怯えていた人たちが。
朝の光の中で。
生きて笑っている。
それだけで。
胸がいっぱいになった。
◇
洪水が完全に収まるまで、さらに三日かかった。
被害がなかったわけではない。
エドナ村では南側の畑が広く水に浸かった。十八軒の家屋が床上まで濡れ、家財の多くが使えなくなった。
ミゼル村では西側の堤防が一部崩れ、家畜小屋が流された。騎士一名が脚を骨折し、村人にも軽い怪我人が出た。
ラハ村は、完成した堤防が水を食い止めた。
三村を合わせれば、失ったものは多い。
それでも。
死者は、一人も出なかった。
「奇跡だ」
王都から派遣された調査官はそう言った。
私は首を横に振った。
「奇跡ではありません」
「では、何と?」
「皆が働いた結果です」
石を運んだ人。
用水路を掘った人。
夜中に老人を背負って丘へ上がった人。
旧銀山の廃道を走り、救助隊を案内した職人たち。
濁流の向こうで住民を守った騎士たち。
そして。
家を置いて避難するという、怖い決断をしてくれた人たち。
「奇跡と言ってしまえば」
私は水の引いた畑を見る。
「次も誰かが助けてくれると思ってしまいます。次の洪水までに、もっと強い堤防を作らなければなりません」
「もう次の話か」
隣にいたアレクシスが言った。
「当然です」
「少し休め」
「あなたも」
「俺は休んだ」
「いつ?」
「昨夜」
「三時間です!」
「眠った」
「子供みたいな言い訳をしないでください!」
調査官は、私たちを見ながら困ったように笑っていた。
「王都では、グランツ公爵夫妻は非常に仲が良いと伺っております」
「誰からです?」
「国王陛下から」
「兄は余計なことしか言わない」
アレクシスが不機嫌になる。
「ですが」
調査官が、堪えきれないように続けた。
「確かに、仲がおよろしい」
「今、喧嘩していましたよ?」
「喧嘩ができるのは、互いの言葉を聞くおつもりがあるからでしょう」
私とアレクシスは、同時に黙った。
「……王都の調査官は、そういうことも調査するんですか」
「いいえ。個人的な感想です」
少し恥ずかしくなり。
私は畑へ視線を逸らした。
◇
ミレイユが公爵家で働きたいと言い出したのは、洪水から二週間後だった。
私たちは公爵邸の朝食室にいた。
「もう一度、言ってもらえますか」
私が頼むと、彼女は背筋を伸ばした。
「公爵家の文官見習いにしてください」
「どうして?」
「洪水の夜、私も公爵邸にいました」
ミレイユは、王都や各村から届く書簡の整理を手伝っていた。
どの村に資材があるか。
どの道が通れるか。
どの家に病人がいるか。
文字を読める人間が一人でも多く必要だったのだ。
「最初は、お父様の最後を知ったら帰るつもりでした」
「はい」
「公爵様を許すつもりもありませんでした」
アレクシスが、パンを切る手を止める。
「今は?」
「まだ許していません」
「ああ」
「でも」
ミレイユが少しだけ笑う。
「お父様の手紙に書いてあったことが、本当だと分かりました」
「何が」
「公爵様は、皆を守るとき、自分を人数に数えません」
アレクシスが眉を寄せる。
「今回は帰った」
「奥様との約束があったからでしょう」
「ああ」
「それなら」
ミレイユは私を見る。
「公爵様が勝手に自分を数から外さないよう、数える人がもっと必要だと思いました」
「私は一人で十分です」
私が答える。
「足りていません」
「え?」
「奥様も、ときどき自分を数えません」
「……」
「川へ落ちました」
「事故です」
「食事を半分しか食べませんでした」
「あれは時間が」
「眠らず仕事をしました」
「緊急時でした」
「アレクシス」
夫がこちらを見る。
「何です」
「ミレイユを採用する」
「どうして今だけ即決するんです!」
「お前を監視できる」
「文官の仕事ではありません!」
「公爵夫妻を監視する役目なら」
ハロルドが静かに紅茶を置く。
「私も補助いたしましょう」
「ハロルドさんまで!」
ミレイユが笑った。
「私、計算はできます。母が病気になってから、家のお金も管理していました」
「文字は?」
「読めます。書けます。父の手紙よりは、きれいな字です」
「比較対象が低いな」
アレクシスが言う。
「公爵様の字も、かなり読みにくいです」
「読める」
「奥様しか読めない書類があります」
「それは署名だ」
「署名でも、もう少し丁寧に書いてください」
こうして。
ミレイユは、公爵家の文官見習いになった。
最初の仕事は。
洪水被害を受けた三村の補償台帳を作ること。
彼女は、予想以上に細かかった。
「奥様」
「何でしょう」
「ベンさんの家の柱について、『以前より太いもの』とあります」
「本人が希望しました」
「どれくらい太く?」
「聞いていません」
「駄目です。あとで『思っていたより細い』と言われます」
「確かに」
「現地で測ります」
「私も行きます」
「公爵様へ予定を伝えました?」
「これからです」
「護衛は?」
「これから決めます」
「食事は?」
「まだ昼前ですよ!」
「全部確認してから、現地視察を許可します」
「誰が上司なの?」
「奥様です」
「そうですよね?」
「でも、公爵様からも命じられています」
「やっぱり監視役ではありませんか!」
ローディンさん。
あなたの娘は。
父親に似て、かなり面倒な部下になりそうです。
◇
北方に本当の春が訪れたのは、洪水から一月後だった。
雪はほとんど消え。
水に浸かった畑からも、土の匂いが戻ってきた。
三つの村の復旧を祝い、延期していた春祭りを合同で開くことになった。
祭りの会場は、ラハ村とエドナ村の中間にある草原。
まだ草は短い。
けれど、あちこちに小さな白い花が咲いていた。
「奥様、これを!」
村の女性たちが、焼きたてのパンを持ってくる。
「公爵様には、こっち!」
アレクシスへ渡された皿には、肉料理の横に大量の豆が添えられていた。
「豆が多い」
「肉を食べるなら、同じだけ野菜を食べろって奥様が!」
「誰が教えた」
「ミレイユちゃんだよ!」
少し離れた場所で台帳を抱えていたミレイユが、何も聞いていない顔をする。
「有能ですね」
私が言うと、アレクシスが不満そうに私を見る。
「解雇する」
「横暴です」
「俺への監視が多すぎる」
「私への監視も多いです」
「必要だ」
「あなたにも必要です」
「なら解雇できないな」
「そういう結論です」
祭りでは。
村ごとの料理が並び。
騎士たちと職人たちが酒を飲み。
子供たちは、新しい堤防の上を走り回っていた。
ベンさんの家の柱は。
以前より本当に太くなった。
「太すぎる」
完成した柱を見た本人は、そう文句を言った。
「あなたが太いものをと仰ったのでしょう!」
「限度があるだろう!」
「ミレイユさんが三度も確認しました!」
「三度聞かれたから、どんどん太く言っちまったんだ!」
「子供ですか!」
それでも。
ベンさんは嬉しそうだった。
家が。
戻ったから。
◇
日が傾き。
祭りの中央で音楽が始まった頃。
アレクシスが、私の手を取った。
「来い」
「どこへ?」
「少しだけだ」
「また相談なく予定を変えるんですか」
「護衛には伝えた」
「私には?」
「今伝えた」
「それを相談とは」
「いいから」
珍しく。
少し落ち着かない様子だった。
連れていかれたのは、新しく補強された堤防の上。
祭りの灯りが。
遠くに見える。
河は、洪水の夜が嘘のように穏やかだった。
「ここで何を?」
「話がある」
「改まって?」
「ああ」
「何か壊しました?」
「壊していない」
「隠している書類が?」
「ない」
「肉料理を残しました?」
「今日は食べた」
「では」
アレクシスが。
私の前で片膝をついた。
「……何をしているんです?」
「求婚だ」
「もう結婚しています」
「ああ」
「一年以上前に」
「ああ」
「王都の大聖堂で、かなり大きな式もしました」
「知っている」
「では、なぜ」
アレクシスは。
私の手を両手で包んだ。
「最初は契約だった」
「はい」
「次は、呪いを解くためだった」
「正式な婚礼は、そのあとです」
「王家が決めた」
「私たちも同意しました」
「ああ」
「それでも?」
「ああ」
彼は言葉を探している。
この人が。
自分の気持ちを、逃げずに言葉へしようとしている。
だから。
私は急かさなかった。
「俺は」
やがて。
アレクシスが口を開いた。
「お前と一緒にいる理由を、何度も外に求めた」
呪い。
契約。
婚姻。
領地。
夫婦だから。
「だが」
彼が私を見る。
「全部なくなっても、俺はお前といたい」
胸が。
静かに熱くなる。
「呪いがなくても」
「ああ」
「契約がなくても」
「ああ」
「私が公爵夫人として役に立たなくても?」
「関係ない」
「仕事を失敗しても?」
「一緒に直す」
「川へ落ちても?」
「それは二度と許さない」
「そこだけ違いますね」
「ああ」
アレクシスの手が。
少し震えている。
「何度選び直しても」
低い声。
けれど。
迷いはない。
「俺は、お前を妻にしたい」
涙が出そうになった。
でも。
少し意地悪も言いたかった。
「今の私は、すでにあなたの妻です」
「ああ」
「断ったら?」
「困る」
「困るだけ?」
「何度でも聞く」
「毎日?」
「ああ」
「仕事中も?」
「ああ」
「夜中も?」
「ああ」
「かなり面倒ですね」
「知っているだろう」
私は笑った。
「では」
片膝をついた夫の前へ。
私も少し身を屈める。
「何度でも、私に聞いてください」
「ああ」
「そのたびに」
彼の頬へ触れる。
「毎回、はいと答えます」
アレクシスの目が。
柔らかくなる。
「本当に?」
「さっそく確認します?」
「ああ」
「はい」
「まだ何も聞いていない」
「何度でも妻になります」
「そうか」
「でも」
私は少しだけ顔を近づけた。
「いつまで膝をついているんです?」
「口づけていいか聞くまでだ」
「では、聞いてください」
「リリアーヌ」
「はい」
「触れていいか」
「はい」
彼が立ち上がる。
腰へ腕が回る。
唇が触れる前に。
祭り会場のほうから、大きな声が飛んできた。
「公爵様ー! 豆を残して逃げたでしょう!」
ミレイユだった。
アレクシスの顔が固まる。
「残していない」
「皿に半分あります!」
「あとで食べる」
「冷めます!」
「今は重要な話を」
「奥様も連れて戻ってください! 奥様もパンを半分しか食べていません!」
「ミレイユさん!」
今度は私が声を上げる。
堤防の下から。
村の人々の笑い声が聞こえた。
「……戻るか」
アレクシスが言う。
「そうですね」
「その前に」
「一度だけですよ」
「ああ」
春の河のそばで。
私たちは短く口づけた。
契約から始まり。
呪いを分け。
夫婦になり。
離れた場所で、互いを信じることを覚えた。
きっと。
これからも。
選び直さなければならない日は来る。
怒る日も。
怖くなる夜も。
言葉が足りず。
同じことを何度も話し合う日も。
それでも。
この人なら。
何度でも。
「アレクシス」
「何だ」
「帰りましょう」
「ああ」
「皆のところへ」
手を繋ぐ。
祭りの灯りへ向かう。
春の北方には。
笑い声と。
音楽と。
少し焦げた肉の匂いが満ちていた。
「肉が焦げている」
アレクシスが言う。
「豆も食べてください」
「求婚の直後だぞ」
「関係ありません」
「少しくらい優しくしてもいいだろう」
「守ることと甘やかすことは違うのでしょう?」
「誰に習った」
「あなたです」
「教えた覚えはない」
「妻が勝手に覚えました」
私たちの言い争いは。
春祭りの賑わいへ溶けていった。




