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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第49話 洪水の夜、私たちは別々の村で朝を迎えました

 増水まで、あと二日。


 そう報告された一時間後には、三つの村をすべて同じ方法で守ることは不可能だと分かった。


「ラハ村は、騎士団を増やせば今日中に補強を終えられます」


 技師長のバルドさんが、地図の上へ指を置く。


「問題はエドナ村とミゼル村です。どちらも基礎工事が遅れている。資材を均等に分ければ、両方とも間に合いません」


「どちらかを捨てろというのか」


 アレクシスの声が低くなる。


「申し上げにくいことですが」


「駄目だ」


「まだ説明の途中です」


 私が止めると、アレクシスは口を閉じた。


 この数日で。


 話を最後まで聞くことだけは、少し上手くなった。


「村を捨てる必要はありません」


 バルドさんが続ける。


「ただし、守り方を変えます。ミゼル村は河の曲がり角にあり、堤防が破れれば水が一気に入る。残っている石材と騎士団の大半を集中し、堤防を予定どおりの高さまで上げます」


「エドナ村は?」


 私が尋ねる。


「堤防の完成を諦めます」


 胸が冷える。


「代わりに、低地の住民を丘へ避難させます。村の南側に古い用水路がある。そこを広げて水を逃がせば、家屋の水没は避けられなくとも、人命と備蓄倉庫は守れる可能性があります」


「可能性」


「はい」


「どのくらい?」


「六割」


 低い。


 けれど。


 何もしなければ、もっと低い。


「俺がミゼルへ行く」


 アレクシスが言った。


「リリアーヌも連れていく」


「私はエドナ村へ行きます」


「駄目だ」


「今、最後まで聞くと決めたばかりでしょう」


「聞いたうえで駄目だ」


「まだ理由を話していません!」


 会議室にいる全員が、視線を地図へ落とした。


 また始まった。


 そう思っているに違いない。


「エドナ村では、避難と食料配分、住民への補償を同時に決める必要があります。私が行くべきです」


「代官を送る」


「緊急時に家を捨てろと言われて、皆が簡単に従うと思いますか?」


「騎士団に命じさせる」


「力ずくで避難させれば、戻ろうとする人が出ます」


「なら俺がエドナへ行く」


「ミゼル村は?」


「ガルドに任せる」


 会議へ参加していたガルドさんが、腕を組んだ。


「俺は構わねえが、ミゼルは閣下が行ったほうがいい」


「なぜ」


「あそこの住民は、十年前の洪水で公爵家の避難命令が遅れたことを、まだ根に持ってる。閣下が自分で泥を運べば、少しは言うことを聞くだろうよ」


「俺が泥を運べばいいのか」


「そこだけ拾うな。顔を見せろって話だ」


 アレクシスは不満そうだった。


「私たちは、別々に動くべきです」


 私は改めて言った。


「嫌だ」


「即答しないでください」


「川へ落ちたばかりだ」


「今回は足場へ乗りません」


「信用できない」


「どうして!」


「お前は必要だと思えば乗る」


 否定できない。


「では、護衛を増やします」


「十人」


「五人の約束です」


「状況が変わった」


「八人」


「十二人」


「増えています!」


 ガルドさんが、深いため息をついた。


「夫婦喧嘩なら道中でやってくれ。水は待ってくれねえぞ」


「喧嘩ではない」


「立派な喧嘩です」


 私が言うと、アレクシスがこちらを睨んだ。


「リリアーヌ」


「何です」


「一緒に行け」


 命令ではなかった。


 お願いに近い声。


「私も、一緒にいたいです」


「なら」


「でも」


 彼の手を取る。


「一緒にいることと、同じ場所にいることは違います」


 アレクシスの指が、わずかに強くなる。


「詭弁だ」


「そうかもしれません」


「俺が見えない場所へ行くな」


「あなたも、私が見えない場所へ行くでしょう」


「俺は戻る」


「私も戻ります」


「確実ではない」


「あなたもです」


 彼は何も言えなくなった。


 私だって怖い。


 ミゼル村は、三つの村の中で最も危険だ。


 もし堤防が破れれば。


 アレクシスは必ず、最後まで住民の避難を優先する。


 自分を人数に数えない男。


 ローディンさんの手紙に書かれていたとおり。


「約束を確認しましょう」


 私は言った。


「危険な場所と予定を、互いに共有する」


「ああ」


「単独行動はしない」


「ああ」


「帰還時刻を決め、遅れる場合は伝令を出す」


「ああ」


「命令を、相談なく覆さない」


「……ああ」


「間がありましたね」


「なかった」


「ありました」


 それでも。


 彼が頷いたことを信じるしかない。


「夜明けまでに、一度は必ず連絡を」


「一度では足りない。二時間ごとだ」


「伝令の負担が大きすぎます」


「三時間」


「四時間」


「三時間」


「分かりました」


「お前からも出せ」


「はい」


「怪我を隠すな」


「はい」


「食事を抜くな」


「あなたも」


「ああ」


「眠れるときは少しでも眠る」


「お前もだ」


「分かっています」


 周囲が静かになっている。


 皆が。


 公爵夫妻の約束が終わるのを待っていた。


「あと」


 アレクシスが言う。


「何です?」


「触れていいか」


「今?」


「ああ」


「皆がいます」


「知っている」


「アレクシス」


「出発したら、しばらく触れられない」


 その言い方が。


 ずるい。


「少しだけです」


「ああ」


 彼は私を抱きしめた。


 いつもより強い。


 それでも。


 私が苦しくなる寸前で、力を緩める。


「帰ってこい」


 耳元で言われた。


「あなたも」


「ああ」


「約束ですよ」


「ああ」


 腕が離れる。


 私は彼の外套の胸元を見る。


 少し曲がったままの副隊長の隊章。


 ミレイユがつけたもの。


「ローディンさんも見ています」


「曲がっているから見えにくい」


「直してはいけないと言われたでしょう」


「ああ」


「必ず帰って、ミレイユさんに文句を言ってください」


「分かった」


 私たちは。


 別々の扉から会議室を出た。


     ◇


 エドナ村へ着いたときには、すでに夕方近かった。


 避難を始めるよう、先に伝令を送っていた。


 しかし。


 村の広場に集まっていた住民の半数は、荷物すらまとめていなかった。


「家を置いていけるわけがない!」


 最初に声を上げたのは、六十代ほどの男性だった。


「水が来るかもしれないってだけだろう!」


「上流の氷は、すでに割れています」


「毎年割れる!」


「今年は量が違います」


「公爵家は、俺たちを追い出して土地を取るつもりじゃないのか!」


「違います」


「なら、何で家を捨てろって言う!」


 怒り。


 恐怖。


 疑い。


 どれも当然だった。


「家財は、できる限り高い場所へ運びます」


「全部は無理だ!」


「はい」


「家畜は?」


「丘の反対側へ臨時の柵を作っています」


「もし洪水が来なかったら、誰が責任を取る!」


「私が取ります」


「どうやって!」


 男性が私へ詰め寄る。


 護衛が前へ出ようとするのを、手で止めた。


「避難によって失った仕事。移動中に壊れた家財。家畜の餌。公爵家が補償します」


「金で何でも済むと思うな!」


「思っていません」


 私は、その人の家を見る。


 古い。


 けれど、扉には子供が彫ったような小さな花の模様があった。


「その家は」


「何だ」


「ご自分で建てたのですか」


「親父とだ」


「何年前に?」


「三十五年だ」


「それなら、置いていくのは嫌ですよね」


 男性の顔が歪んだ。


「当たり前だ」


「私にも、帰りたい家があります」


「公爵邸と、こんな家を一緒にするな」


「同じではありません。でも、帰る場所を失いたくない気持ちは分かります」


「分かった顔をするな」


「完全には分かりません」


 それも。


 正直に言う。


「だから、家を捨てろとは言いません」


「では」


「今夜だけ、命を優先してください」


 男性が黙る。


「水が来なければ、明日、皆で笑いながら戻りましょう。公爵家の大げさな命令に付き合わされたと、私へ文句を言ってください」


「来たら?」


「家は守れないかもしれません」


「……」


「でも、あなたが生きていれば、もう一度建てられるよう力を貸せます」


「簡単に言う」


「簡単ではありません」


 婚約を破棄された夜。


 私は。


 家を失った。


 あの場所へ戻りたいとは、もう思わない。


 でも。


 追い出された直後には。


 二度と帰れないことが、怖かった。


「お願いします」


 私は頭を下げた。


「今夜だけ、私を信じてください」


 公爵夫人が。


 村人へ頭を下げる。


 周囲がざわめく。


「奥様」


 代官が小声で止める。


 でも。


 頭を上げなかった。


 やがて。


 大きなため息が聞こえた。


「三十五年だぞ」


 男性が言う。


「はい」


「壊れたら、本当に手伝え」


「約束します」


「木材も寄こせ」


「はい」


「俺の家は、柱が太い」


「記録しておきます」


「……分かった。婆さんを起こしてくる」


 男性が家へ向かう。


 それを見て。


 他の住民たちも、少しずつ動き始めた。


「荷車を出せ!」


「子供と老人を先に!」


「羊をまとめろ!」


「備蓄倉庫の穀物は、丘へ運ぶ!」


 村が。


 避難へ向かって動き出す。


     ◇


 日が落ちる頃には。


 住民の八割が丘の上へ移動していた。


 残るのは、家財を運んでいる者と、用水路を広げる作業員。


「奥様」


 代官が走ってくる。


「ラハ村から木材が二十台分届きました」


「予定より多いですね」


「ラハの工事が終わったので、余った分をすべて送ると」


「ラハ村の皆さんが?」


「はい。ベンという男が、『川へ落ちた奥様に貸しを作る』と」


「もっと普通に送ってくれればいいのに」


 でも。


 ありがたい。


「用水路へ回してください。川側の入口を、さらに一間広げます」


「そうすると、南の畑へ水が」


「家屋へ入るよりは被害が少ないです」


「農民が反発します」


「私が説明します」


「また?」


「仕事ですから」


 護衛の一人が、すぐに口を挟む。


「足場へは乗りませんよね?」


「乗りません!」


「河岸へは?」


「十歩以上離れます」


「約束してください」


「皆さん、アレクシスのようになっていません?」


「公爵様から、奥様を危険へ近づけたら全員減俸と」


「いつの間に!」


「出発前です」


 命令を勝手に覆さない約束は。


 自分がいない場所で、護衛へ細かな命令を出すことまで含まれていなかったらしい。


「帰ったら話し合います」


「帰ってからにしてください」


 護衛が真顔で言う。


 そのとおりだった。


     ◇


 最初の連絡は、夜九時に届いた。


『ミゼル村、補強工事は八割。水位上昇は予測より遅い。負傷者なし』


 アレクシス本人の字で、最後に一行。


『食事をした。お前も食べろ』


「命令みたい」


 私は呟いた。


 でも。


 少し笑った。


「返事を」


 伝令役が待っている。


 紙へ書く。


『エドナ村、住民の避難は八割。用水路の拡張を継続。怪我なし。食事もしました』


 少し迷い。


 最後に加える。


『約束を守ってください。必ず帰ること』


 折り畳み、伝令へ渡す。


「ミゼル村まで、どれくらい?」


「今の道なら二時間ほどです」


「危険を感じたら無理をしないで」


「はい」


 馬が夜の中へ消える。


 次の連絡は、深夜零時の予定だった。


 しかし。


 零時を過ぎても。


 伝令は戻らなかった。


     ◇


「まだですか」


「はい」


 代官が答える。


 外では。


 風が強くなっている。


 丘の上へ建てた仮設避難所には、老人や子供たちが身を寄せていた。泣く子。家へ戻ると言い張る老人。眠れずに口論を始める夫婦。


 私は一人ずつ話をし。


 食料の配分を決め。


 不足している毛布を、荷車の覆いで代用するよう指示した。


 忙しくしていれば。


 アレクシスから連絡が来ないことを考えずに済む。


 そう思った。


 でも。


 時計を見るたび。


 胸の奥が冷たくなった。


「奥様」


 護衛が声をかける。


「少しお休みを」


「まだ避難していない家が三軒あります」


「騎士たちが向かっています」


「用水路は?」


「あと半刻で開通します」


「では、それを確認してから」


「河岸へ近づかない約束です」


「遠くから見ます」


「私たち全員が同行します」


「五人も?」


「六人です」


「一人増えていません?」


「公爵様の命令です」


 本当に。


 帰ったら。


 かなり長い話し合いが必要だ。


 帰ったら。


 その言葉で。


 胸がさらに痛くなった。


     ◇


 深夜一時を過ぎた頃。


 遠くから。


 馬の蹄の音が聞こえた。


「伝令です!」


 私は立ち上がる。


 丘を駆け上がってきた馬は、汗と泥にまみれていた。


 乗っている騎士も。


 顔に血がついている。


「アレクシスは!」


 馬から降りる前に、私は尋ねた。


「ミゼル村の堤防が、一部決壊しました!」


 周囲の住民たちが息を呑む。


「被害は?」


「西側の家屋へ浸水! 住民はほぼ避難しましたが」


「アレクシスはどこです!」


 騎士が一瞬。


 答えを躊躇した。


「公爵閣下は」


「早く!」


「濁流の向こう側へ、取り残されています」


 音が。


 消えた気がした。


 風も。


 住民の声も。


 何も聞こえない。


「取り残されたとは」


 自分の声が。


 妙に冷静だった。


「決壊箇所を塞ぐため、閣下は騎士十五名と東岸へ渡りました。その直後、仮設橋が流され」


「怪我は」


「確認できていません」


「連絡は?」


「対岸へ声は届きません。火を焚いているのは見えましたので、生存者はいます」


「アレクシス本人は見たのですか」


「暗くて」


「では、生きているか分からない?」


「……はい」


 身体が。


 勝手に前へ出た。


「馬を」


「奥様!」


「ミゼル村へ行きます」


「駄目です!」


 護衛たちが止める。


「夫が取り残されているんです!」


「ですが、エドナ村も」


「代官に任せます!」


 言った瞬間。


 胸の奥で。


 何かが止めた。


 エドナ村を見る。


 丘の上には。


 避難した人々がいる。


 まだ用水路の工事は終わっていない。


 水が来れば。


 誰かが判断しなければならない。


 私がここを離れれば。


 代官がいる。


 技師もいる。


 騎士もいる。


 きっと。


 何とかしてくれる。


 アレクシスも。


 ラハ村で私が川へ落ちたとき。


 そう考えたのだろうか。


 役目より命だ。


 今すぐ。


 私も同じことをしようとしている。


「奥様」


 代官が、苦しそうな顔をしている。


「ここはお任せください」


 行ける。


 彼がそう言えば。


 私は夫のもとへ行ける。


 でも。


 それでいいの?


「ミゼル村では、救助隊を?」


 私は伝令へ尋ねた。


「ガルド殿が編成しています。ただ、上流から回り込むには四時間以上」


「舟は」


「流れが速すぎます」


「ロープを渡す方法は?」


「明るくならなければ距離が測れません」


 私は地図を広げた。


 手が震えている。


 でも。


 数字と地形は裏切らない。


「ミゼル村の東岸は、どこへ続いています?」


「山道です。春は雪崩の危険が」


「旧銀山へ抜ける道は?」


 騎士が首を傾げる。


「廃道になっています」


「鉄具を運び出すために、先週整備しました」


 会議で使った地図を指す。


「ここです。旧銀山から南へ下れば、ミゼル村の東岸へ出られるはず」


「しかし、かなり狭い」


「大人数は無理でも、救助隊なら通れます」


「夜中に?」


「ベルグ村の職人が道を知っています」


 ミレイユの叔父たち。


 鉄具を打ち直すため、旧銀山へ何度も通っている。


「すぐにベルグ村へ伝令を」


「はい!」


「ガルドさんへも、旧銀山経由で東岸へ向かうよう伝えてください」


「奥様は?」


 護衛が尋ねる。


 行きたい。


 今すぐ。


 馬を潰してでも。


 アレクシスを探しに行きたい。


 でも。


 私は。


 彼の妻である前に。


 今は。


 ここを任された公爵夫人だ。


「残ります」


 声が震えた。


「本当に?」


「はい」


「公爵閣下が」


「あの人なら、何と言うと思います?」


 護衛たちが黙る。


「来るなと言うでしょう」


 絶対に。


 ものすごく怒る。


「だから」


 私は唇を噛む。


「腹が立ちます」


 周囲が少しだけ戸惑った。


「でも、今は言うことを聞きます」


「奥様」


「アレクシスを信じます」


 言葉にした途端。


 涙が出そうになった。


 信じる。


 簡単ではない。


 任せることは。


 何もしないことではない。


 私は救助経路を作る。


 エドナ村を守る。


 そして。


 夫が自分の役目を果たして戻ると信じる。


「伝令を急がせてください」


「はい」


「それから、ミゼル村の西岸へ大きな火を三つ焚くように」


「火を?」


「東岸の人たちへ、救助隊が向かっている合図です」


「決めていた合図ではありません」


「三つなら、自然な火には見えません」


 私は紙へ大きく書いた。


『旧銀山から救助隊を送る。夜明けまで待て。必ず迎えに行く』


「これを矢へ結び、風上から東岸へ射てますか」


「弓兵なら」


「お願いします」


 自分で行けなくても。


 言葉は送れる。


「アレクシスへ伝えてください」


 声が。


 少し掠れた。


「約束を守って、と」


     ◇


 深夜二時。


 エドナ村の用水路が開通した。


 堰を切ると。


 河から溢れ始めた水が、低い畑へ流れ込んでいく。


 冬を越えた作物の芽が。


 泥水へ沈む。


 農民たちの顔が歪んだ。


「畑が」


 誰かが呟く。


「申し訳ありません」


 私が頭を下げると。


 あの三十五年前に家を建てた男性が、首を横に振った。


「家よりはいい」


「補償します」


「分かってる」


「必ず」


「それより」


 男性が私を見る。


「旦那のところへ行かなくていいのか」


「行けません」


「公爵様が危ないんだろう」


「はい」


「平気なのか」


「平気ではありません」


 正直に答えた。


「でも、あの人も今、自分の場所で仕事をしています」


「死んだらどうする」


 胸を。


 抉られるような言葉。


「怒ります」


「死んだ相手に?」


「はい」


「それだけか」


「それから」


 私は濁った河を見る。


「一生、許しません」


 男性が。


 少しだけ笑った。


「なら、帰ってくるな」


「はい」


「公爵様が帰ったら、俺からも怒っておく」


「お願いします」


 一人ではなく。


 皆が。


 帰りを待っている。


     ◇


 深夜三時。


 水位が上がる。


 用水路は機能している。


 それでも、村の南側へ水が入り始めた。


「土嚢を追加!」


「丘へ続く道を塞ぐな!」


「家畜の柵が一つ崩れた!」


「騎士を三人回してください!」


 指示を出す。


 考える。


 動く。


 手が空くと。


 アレクシスのことを考えてしまう。


 だから。


 休まなかった。


「奥様、食事を」


「あとで」


「公爵様との約束でしょう」


 護衛が黒パンを差し出す。


 こんなときに。


 本当に。


 でも。


 約束。


「半分だけ」


「全部です」


「皆、誰に似たんです?」


「公爵夫妻に」


 言い返せなかった。


 冷たい黒パンを食べる。


 味は分からない。


     ◇


 夜明け前。


 空が。


 ほんの少し青くなった頃。


 丘の下から、馬が駆け上がってきた。


「ミゼル村からです!」


 私は走った。


 膝が痛む。


 護衛に止められる。


 それでも。


 伝令の前へ。


「アレクシスは!」


 騎士が。


 大きく息を吸った。


「ご無事です!」


 身体から。


 力が抜けた。


「本当に?」


「はい! 旧銀山から救助隊が東岸へ到着しました。閣下は騎士十四名、村人七名とともに生存。一名が脚を骨折していますが、死者はありません!」


「十五名では?」


「閣下を含め、騎士十五名です」


「そう」


 数える。


 全員。


「アレクシスに怪我は?」


「左腕に切り傷を」


「怪我があるじゃないですか!」


「軽傷です!」


「本人は何と?」


 伝令が。


 少し困った顔をした。


「奥様へ伝言が」


「早く」


「『生きている。約束は守った。お前も勝手に来るな』と」


 胸が。


 いっぱいになる。


「……本当に」


「はい」


「本当に腹が立ちます」


 笑いながら。


 涙が出た。


「それから」


「まだ?」


「『朝になったら迎えに行く』と」


「今すぐ帰ってきなさいと伝えてください」


「東岸の住民を避難させてから戻るとのことです」


「あの人は!」


 分かっていた。


 そうする人だと。


「では伝えて」


 私は涙を拭う。


「エドナ村も、全員無事です」


 丘を見る。


 夜を越した人々。


 泣き疲れて眠る子供。


 家を心配して、暗い村を見つめる大人たち。


「私も約束を守りました、と」


「はい」


 東の空から。


 朝日が昇り始める。


 私はエドナ村で。


 アレクシスはミゼル村で。


 別々の場所に立ち。


 それでも。


 同じ朝を迎えた。


「一緒にいることと」


 小さく呟く。


「同じ場所にいることは、違う」


 離れていても。


 手が届かなくても。


 信じて。


 任せて。


 帰る場所を守ることはできる。


 そのことを。


 私たちは。


 洪水の夜に、ようやく知った。


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