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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第48話 王都の貴族が「女に領地経営は無理だ」と笑いました

 工事期限まで、あと九日。


 予定より遅れていたラハ村の堤防は、アレクシスが連れてきた騎士団の参加によって、ようやく工程の七割まで進んでいた。


 エドナ村では石材が不足している。


 ミゼル村では鉄製の留め具が足りない。


 どこも順調とは言えない。


 それでも、少しずつ前へ進んでいる。


 そう思えた日の昼過ぎだった。


「作業を止めろ!」


 馬車から降りるより先に、男の声が工事現場へ響いた。


 泥と雪解け水にまみれて働いていた職人たちが、いっせいに手を止める。


 やってきたのは、六台の豪華な馬車だった。


 先頭の馬車には、王都貴族の家紋。


 金色の鷲と、三本の塔。


 私はその紋章を知っていた。


「フォルバート侯爵家」


 隣にいた会計官が、小さく呟く。


「ベルナード商会の後ろ盾です」


「本人が来たのですか」


「おそらく」


 馬車から降りてきたのは、五十代ほどの男性だった。


 白い毛皮をふんだんに使った外套。


 泥を避けるための高価な革靴。


 雪解けの村へ来る服装ではない。


 その後ろから、ベルナード商会の代理人であるドミニクも降りてきた。


 彼は私を見つけると、丁寧に頭を下げた。


「公爵夫人。またお会いできて光栄です」


「その割には、ずいぶん大勢でいらしたのですね」


「商取引に関する重大な問題が発生しましたので」


「問題?」


 フォルバート侯爵が、私たちの会話へ割り込んだ。


「公爵家の名を騙った、不正な契約だ」


 周囲がざわめく。


「不正とは、何を指していますか」


 私が尋ねると、侯爵は私を頭の先から足元まで見た。


 泥のついた外套。


 現場用の簡素なドレス。


 川へ落ちた際に痛めた膝へ巻かれた包帯。


 そのすべてを見て。


 鼻で笑った。


「なるほど」


「何がです?」


「王太子妃の座を失った娘が、今度は領地経営ごっこか」


 職人たちの間から、不快そうな声が漏れる。


 私より先に。


 少し離れた場所にいたアレクシスが歩き出した。


 腰には剣。


 顔は無表情。


 けれど。


 ものすごく怒っている。


「アレクシス」


 呼ぶと、彼は足を止めた。


「まだ話の途中です」


「ああ」


「私へ任せてください」


「……ああ」


 返事はした。


 しかし右手は、剣の柄に触れている。


「手も離してください」


「なぜ」


「任せてくださるのでしょう?」


 数秒。


 アレクシスは侯爵を睨みつけたあと、ゆっくり剣から手を離した。


 それを見たフォルバート侯爵が、また笑う。


「グランツ公爵も、ずいぶん変わられたものだ。妻の後ろへ隠れるとは」


「隠れていない」


「では、黙って見ている理由は?」


「妻が、お前と話すと言ったからだ」


「女に領地経営ができると?」


 アレクシスの目が細くなる。


 今度こそ、侯爵の命が危ない。


「侯爵閣下」


 私は一歩前へ出た。


「私が女であることと、今回の契約にどのような関係がありますか」


「大いにある」


 侯爵は胸を張る。


「領地に関わる資材契約は、領主または正式に権限を委任された代官が結ぶものだ。公爵夫人が勝手に署名した契約など、後日いくらでも無効にできる」


 職人たちの顔色が変わる。


 この九日間。


 私は領内の採石場、鍛冶場、木工組合、運送業者と、数十件の契約を結んだ。


 資材の代金。


 職人の賃金。


 家族への食料保証。


 工事後の雇用。


 もしそれが無効になるなら。


 彼らは働いたぶんの金を受け取れない可能性がある。


「聞いたか!」


 侯爵が職人たちへ呼びかける。


「この工事へ参加しても、報酬を受け取れる保証はない! 公爵夫人の署名には法的な根拠がないのだ!」


「本当なのか?」


 誰かが声を上げる。


「奥様、俺たちの契約は」


「支払いは、必ず行います」


「何を根拠に!」


 侯爵が強く言う。


「公爵夫人。あなたは領主ではない。公爵と同じ寝室で眠っているからといって、領主の権限まで与えられたつもりか?」


 空気が凍った。


 アレクシスの剣が。


 鞘の中で、わずかに鳴った。


「アレクシス」


「今のは殺していいだろう」


「駄目です!」


「なぜ」


「人前です!」


「人前でなければいいのか」


「そういう意味ではありません!」


 私が止めなければ、本当に斬りそうだ。


 侯爵は一瞬怯んだが、すぐに余裕を取り戻す。


「やはり、まともな領地運営ではない。公爵夫人の感情に振り回され、公爵は判断力を失っている」


「感情的なのは、どちらでしょう」


 私はハロルドへ手を差し出した。


 彼はすでに準備していたらしく、革の書類箱を渡してくれる。


「何のつもりだ」


「契約の根拠を知りたいと仰いましたね」


 最初の書類を取り出す。


「これは、私とアレクシスが正式に婚姻した際、王家へ届け出た領地運営権限の分担書です」


 羊皮紙を広げる。


 末尾には。


 アレクシスの署名。


 私の署名。


 国王陛下の承認印。


 北方領の大印が並んでいる。


「公爵夫人は、領内の民政、救済、食料備蓄、災害対策に関する契約を、公爵と同等の権限で締結できると定められています」


 侯爵の顔が、わずかに変わった。


「そんなものは」


「写しを王都の中央記録院にも提出しています。確認なさいますか?」


「婚姻直後に作られた書類だろう。今回のような大規模工事までは」


「第二条第三項」


 私は該当箇所を指す。


「洪水、飢饉、雪害、疫病その他、領民の生命および財産へ緊急の危険がある場合、公爵夫人は公爵の不在、在席にかかわらず、必要な徴用以外の契約を締結できる」


「……」


「読んでいただけます?」


「必要ない」


「先ほどは根拠を求めたのに?」


 職人たちの中から。


 小さな笑いが起きた。


 侯爵の顔が赤くなる。


「権限があったとしても、この計画が適切とは限らない」


「その点は同意します」


「何?」


「権限を持つことと、正しい判断をすることは別です」


 私は別の書類を取り出す。


「ですから、数字で確認しましょう」


 地図を広げるために使っていた作業台へ、資料を一枚ずつ並べる。


「こちらは、ベルナード商会が提示した見積書」


 三倍近い価格。


「こちらは、過去五年間に公爵家が同じ商会から購入した石材、木材、鉄具の価格表」


 平時の単価。


「こちらは、王都から北方までの輸送に必要な人員、馬、護衛費の平均」


 ドミニクの笑みが消える。


「今回の価格と比較すると、輸送費を通常の二倍で計上しても、差額が大きく残ります」


「緊急時には、品薄による相場の変動が」


「品薄ではありません」


 次の書類。


「ベルナード商会が王都西部の倉庫へ確保している資材量です」


「なぜ、それを」


 ドミニクが初めて動揺した。


「商会は、王都へ納める商業税を申告する義務があります」


 王太子妃教育で。


 私は何年も、こうした帳簿を読んだ。


 当時は。


 役に立っても愛されなかった七年間だと思っていた。


 でも。


 身につけたものまで、あの人たちへ返す必要はない。


「商会の申告によれば、石材と木材の在庫は昨年同時期の一・八倍。鉄具も不足していません」


「帳簿上の数字だけで、実際に北方へ出せるとは」


「そのうち半数は、北方の工事が発表された翌日に倉庫へ移されています」


 周囲がざわめいた。


「商会は」


 私はドミニクを見る。


「洪水対策に大量の資材が必要になると知り、先に市場から買い集めたのですね」


「商人が需要を予測するのは当然です!」


「当然です」


「なら」


「その直後、北方と取引しようとした二つの小商会へ圧力をかけ、契約を断念させたことも?」


 ドミニクの顔色が変わる。


 フォルバート侯爵が、彼を見る。


「何の話だ」


「侯爵閣下、これは」


「ベルナード商会から、小商会へ送られた書状です」


 私は写しを取り出した。


「北方との取引を続けるなら、王都の倉庫を貸さない。商業組合から除名するよう働きかける。そう書かれています」


「偽物だ!」


「原本は中央記録院へ送りました」


「なぜ記録院へ!」


「商取引を妨害し、災害に乗じて不当な利益を得ようとした疑いがありますので」


 ドミニクの額に汗が浮かぶ。


 フォルバート侯爵の声が低くなる。


「私へ相談せず、そんな書状を出したのか」


「侯爵閣下もご存じのはずです」


「何?」


「利益の一部は、侯爵家へ」


「黙れ!」


 怒鳴り声が響く。


 誰も。


 もう工事を止めた職人ではなく。


 二人を見ている。


 互いを庇うために来たはずの者たちが。


 自分の責任を押しつけ合い始めた。


「証拠は、それだけではありません」


 私は最後の帳簿を開いた。


「過去三年間。ベルナード商会からフォルバート侯爵家へ、顧問料という名目で定期的な支払いがあります」


「貴族家が商会へ助言を行い、報酬を受けることに問題はない」


「問題はありません」


「なら」


「ただし、王都商業組合の監督役である侯爵家が、特定の商会から報酬を受けながら、競合商会を排除するよう組合へ働きかけていた場合は別です」


 侯爵の口が閉じる。


「私を脅すつもりか」


「いいえ」


「なら、この資料を引っ込めろ」


「それはできません」


「女が」


 侯爵が吐き捨てる。


「少し帳簿が読めるからと、調子に乗るな。領地経営は、数字遊びではない。村人も、職人も、最後に従うのは男の権威だ」


 胸の奥に。


 昔の痛みが蘇る。


 どれだけ学んでも。


 どれだけ役に立っても。


 最後には。


 女だから。


 娘だから。


 妹より可愛げがないから。


 妻として価値がないから。


 そんな言葉で。


 私自身を見なかった人たち。


「そうかもしれません」


 私が言うと、侯爵が鼻を鳴らした。


「ようやく理解したか」


「数字だけでは、領地は動きません」


 作業を止めている職人たちを見る。


「だから私は、村へ行きました」


 ベンさんが腕を組み、こちらを見ている。


「怒鳴られました。約束を疑われました。川にも落ちました」


「最後はいらない」


 アレクシスが言う。


「必要です。かなり痛かったので」


「なら現場へ来るな」


「その話は終わりました!」


 周囲から笑いが漏れる。


「私は完璧ではありません」


 侯爵へ向き直る。


「失敗もします。現場の人へ教えられることも多い。机の上で決めた計画を、何度も直しています」


「ならば、なおさら」


「それでも」


 言葉を重ねる。


「私はここへ来ました」


 泥の中へ。


 寒い村へ。


 怒っている人たちの前へ。


「あなたは今日、初めて来ましたね」


「何だと」


「それも、工事を助けるためではなく。止めるために」


 侯爵の顔が引きつる。


「どちらが、この領地を見ていると思います?」


 誰も答えなかった。


 でも。


 答えは。


 職人たちの顔に出ていた。


「奥様!」


 ベンさんが声を上げる。


「俺たちの金は、本当に出るんだな?」


「出します」


「契約は無効にならねえ?」


「なりません」


「工事が失敗しても?」


「働いたぶんは、必ず支払います」


「公爵様も認めるのか?」


 全員が、アレクシスを見る。


 彼は。


 すぐには答えなかった。


 私の隣へ歩いてくる。


「俺が認めるのか、ではない」


 低い声が、現場へ響く。


「リリアーヌが結んだ契約だ」


「ですが、公爵様」


「彼女には、その権限がある」


「公爵夫人だから?」


 誰かが尋ねた。


 アレクシスは、私を見た。


 そして。


「違う」


 はっきり答えた。


「彼女は俺の妻だから、ここにいるのではない」


 胸が。


 強く打つ。


「彼女自身の能力で、この領地に必要とされている」


 王太子の隣にいた七年間。


 私は何度も。


 役に立つ人間であろうとした。


 でも。


 役に立つことと。


 必要とされることは。


 私の中では、ずっと違うものだった。


「リリアーヌが決めたことに異議があるなら、彼女へ説明しろ」


 アレクシスが続ける。


「女だから。妻だから。そんな理由で決定を覆すことは、俺が許さない」


「公爵は妻の言いなりか!」


 侯爵が叫ぶ。


「ああ」


「アレクシス!」


「何だ」


「そこは違います!」


「話を聞いている」


「言いなりとは言いません!」


「妻の話を聞く夫だ」


「それならいいです」


 また笑いが広がる。


 フォルバート侯爵は、怒りで顔を赤くした。


「この無礼を、王都へ報告する」


「どうぞ」


 私が答える。


「こちらも帳簿と書状を、すべて提出します」


「後悔するぞ」


「その言葉は、何度か聞きました」


「何?」


「でも」


 私は地図へ置かれた三つの赤い石を見る。


「今後悔している時間はありません。村が沈むまで、あと九日しかないので」


 侯爵は何も言えなかった。


 外套を翻し、馬車へ戻る。


 ドミニクも追いかけようとする。


「ベルナード殿」


 私が呼び止める。


「何でしょう」


「商会との契約は結びません」


「最初から、そのおつもりだったのでしょう」


「いいえ。適正価格で、二十日以内に運べるなら契約するつもりでした」


「……」


「ですが、競合商会を脅した者と、村の命を預ける契約はできません」


 ドミニクの顔に。


 初めて。


 後悔らしいものが浮かんだ。


 けれど、もう遅い。


 彼は一礼もせず、馬車へ乗り込んだ。


     ◇


 馬車の一団が見えなくなってから。


 ベンさんが、頭を掻いた。


「それで」


「はい」


「工事、続けていいんだよな?」


「もちろんです」


「給金も?」


「何度聞くんです?」


「大事だからな!」


「はい。必ず支払います」


「なら、止まってる場合じゃねえ!」


 ベンさんが振り返る。


「おい! 石運びを再開しろ! 侯爵様が帰ったぶん、道が広くなったぞ!」


 歓声と笑いが起きる。


 木槌の音。


 荷車の車輪。


 職人たちの怒鳴り声。


 止まっていた現場が、再び動き始める。


「リリアーヌ」


 隣から呼ばれた。


「何です?」


「怒っているか」


「誰に?」


「俺に」


「どうして」


「途中で口を出した」


「最後だけでしょう」


「ああ」


「許します」


「そうか」


「でも、言いなりという言葉を認めたことは、あとで話し合います」


「聞いているという意味だ」


「世間では違う意味になります!」


 アレクシスが少し笑う。


「任せるのは」


 私は彼を見る。


「怖くありませんでした?」


「怖かった」


「侯爵に負けると?」


「違う」


「では」


「お前が傷つけられるのを、黙って見ることが」


 正直な答え。


「何度も剣へ触れていましたね」


「ああ」


「抜かなくて偉かったです」


「子供を褒める言い方だな」


「かなり我慢したでしょう?」


「侯爵の首を落とす場面を、七通り考えた」


「考えすぎです!」


「全部やめた」


「当たり前です」


「お前が任せろと言ったからだ」


 その一言が。


 胸へ静かに残った。


 守られた。


 でも。


 私の前へ立ち、代わりに戦ったのではない。


 私が戦う場所を守り。


 終わるまで待ってくれた。


「ありがとうございます」


「ああ」


「私を信じてくれて」


「信じている」


「いつから?」


「最初から」


「嘘」


「……途中から」


「どのあたりです?」


「契約書を読まずに署名しなかったとき」


「かなり最初ですね」


「ああ」


「では、どうしてすぐ一人で決めるんです?」


「信じることと、心配することは別だ」


「便利な言葉ですね」


「お前に習った」


「私、そんなことを教えました?」


「ああ」


 言い返そうとしたところで。


 上流側から、騎馬の伝令が走ってきた。


「公爵閣下! 公爵夫人!」


 馬が止まるより先に、青年が叫ぶ。


「ミゼル村から緊急報告です!」


 現場の空気が変わる。


「何があった」


 アレクシスが尋ねる。


「上流の氷が割れました!」


「予定より早い?」


「はい! 水位が急激に上昇しています!」


「堤防は」


「まだ基礎が終わっていません!」


 私とアレクシスは、地図を見る。


 期限まで九日。


 そう考えていた。


 けれど。


 河は。


 人間の計画など待ってくれない。


「あと、どれくらいです」


 私が尋ねる。


 伝令の青年は。


 青ざめた顔で答えた。


「二日です」


 たった二日で。


 最初の増水が。


 三つの村へ到達する。


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