第47話 公爵夫人が川へ落ちたと聞いて、夫が軍を連れてきました
工事開始から七日目。
ラハ村の堤防には、朝から怒鳴り声が飛び交っていた。
「その石は東側じゃない! 崩れた箇所へ先に運んでくれ!」
「荷車が通れねえんだよ!」
「道を塞いでいる木材を動かせ!」
「誰が動かすんだ! こっちは昨日から寝てねえ!」
「寝てないのは皆同じだ!」
職人も、村人も、騎士も、疲れている。
雪が解けてぬかるんだ地面では、荷車の車輪が何度も泥へはまり、そのたびに作業が止まった。採石場から届く石材は予定より少なく、ベルグ村から運ばれた鉄具も、一部の寸法が合わない。
計画表の上では、今日までに堤防の基礎部分をすべて終えるはずだった。
現実には、まだ六割ほど。
「公爵夫人」
技師長のバルドさんが、泥だらけの長靴で駆け寄ってくる。
「西側の住民が、工事を止めろと言っています」
「どうしてです?」
「堤防を広げるために、共同放牧地の一部を掘り返す必要があると説明したのですが」
「冬明けに家畜を放せなくなると?」
「はい。洪水の危険を説明しても、今年の餌がなければ、洪水の前に家畜が死ぬと」
もっともだった。
村が沈むかもしれない。
けれど、沈まない可能性もある。
そのために、確実に必要な放牧地を失えと言われれば、すぐには納得できない。
「私が話します」
「しかし、現場は足場が悪い。こちらへ代表者を」
「向こうは、私たちが安全な場所から命令していると思っています」
「実際、奥様は公爵夫人です。危険な場所へ行く必要は」
「そういう言い方をすると、アレクシスと同じになりますよ」
バルドさんが口を閉じた。
「……それは困りますな」
「でしょう?」
この一週間で、領内の人たちはアレクシスの過保護をかなり正確に理解していた。
「護衛を二人つけてください。それならいいでしょう?」
「四人」
「二人」
「三人」
「交渉が上手くなりましたね」
「公爵夫妻を見ておりますと、嫌でも覚えます」
結局、騎士三人とバルドさんを連れ、西側の工事現場へ向かった。
◇
「俺たちの家畜を殺すつもりか!」
村人たちの代表は、四十代半ばの大柄な男性だった。
名をベンといい、羊を三十頭ほど飼っているらしい。後ろには十数人の住民が並び、皆、険しい顔をしていた。
「殺すつもりはありません」
「放牧地を潰せば同じだ!」
「代わりの土地を用意します」
「どこに!」
「北側の公有地です」
「あそこはまだ雪が深い!」
「騎士団と村の共同作業で、雪を除きます」
「その人手がどこにある! 男は皆、堤防工事へ出てる!」
「では、工事へ参加していない領都の人員を送ります」
ベンさんが鼻で笑った。
「領都のお偉いさんが、羊のために雪かきをするって?」
「お偉いさんではありません。公爵家が賃金を払って雇います」
「金の問題じゃねえ!」
怒鳴られて。
私は一度、口を閉じた。
正しい案を出せば納得してもらえる。
そんな考えが、まだ自分のどこかに残っていたのかもしれない。
「では」
私は尋ねた。
「何が問題ですか」
「全部だ!」
「全部では分かりません」
「いきなり兵隊が来て、石を運べ、木を切れ、土地を掘らせろって! 俺たちは、公爵様の駒じゃねえ!」
「そうです」
認めると、ベンさんが止まった。
「皆さんは駒ではありません」
「なら」
「だから、話を聞きに来ました」
私は泥の上へ広げた簡易地図を指差す。
「この放牧地を守る方法も検討しました。しかし、ここを残したまま堤防を広げると、河の曲がり角が弱くなります。水が増えた場合、最初に破れる可能性が高い」
「可能性だろう」
「はい」
「今年は大丈夫かもしれない」
「そうかもしれません」
「なら、何で羊を飢えさせなきゃならねえ!」
「ベン!」
後ろにいた老女が声を上げた。
「公爵夫人様に怒鳴るんじゃないよ!」
「婆さんは黙ってろ!」
「黙るもんか! あんたの親父が洪水で死んだのを忘れたのかい!」
住民たちの間に、重い沈黙が落ちた。
ベンさんの顔が歪む。
「……忘れてねえよ」
「なら」
「忘れてないから言ってんだ!」
彼は老女へ向き直った。
「親父が死んだ年も、お偉いさんは堤防を直すって言った! 村から男を集めて、畑仕事を遅らせて、それでも結局間に合わなかった!」
ようやく。
彼が怒っている理由が見えた。
「今回も同じだと思っているんですね」
「違うって言えるのか」
「言えません」
「公爵夫人!」
バルドさんが小声で止める。
でも。
確実に成功すると言えるはずがない。
「間に合わない可能性もあります」
住民たちがざわめく。
「資材が届かないかもしれない。雨が早く降るかもしれない。工事中に別の場所が崩れるかもしれません」
「なら!」
「それでも、何もしなければ沈む可能性がもっと高い」
私はベンさんを見る。
「絶対に助かるとは言いません。でも、失敗したときに皆さんだけへ責任を押しつけることもしません」
「口では何とでも言える」
「そうですね」
私は、自分の外套の留め具を外した。
「公爵夫人?」
「何してるんです」
護衛が慌てる。
外套を畳み、近くの木箱へ置く。
「今日から、私もここで作業します」
「は?」
ベンさんが間の抜けた声を出した。
「放牧地の代替地が使える状態になるまで、私も雪かきへ参加します」
「無理に決まってる!」
「やってみなければ分かりません」
「あんたみたいな細い女に何が」
「細いは余計です」
「褒めたつもりじゃねえ!」
「分かっています!」
村人の何人かが、堪えきれずに笑った。
「もちろん、私一人では足りません。領都から百人を雇います。家畜の餌が足りなければ、公爵家の備蓄も放出する」
「また借りろって?」
「今回は工事によって使えなくなる土地の補償です。返済は求めません」
ベンさんが目を細める。
「書面にできるか」
「できます」
「公爵様が後から駄目だと言ったら?」
「私が喧嘩します」
「……勝てるのか」
「勝つまで終わらせません」
バルドさんが、後ろで頷いている。
「それは保証できます」
「バルドさん!」
「この一年、何度も拝見しましたので」
村人たちの緊張が、少しだけ緩んだ。
「ただし」
私は続ける。
「工事に協力してほしい。納得できないことがあれば、怒鳴っても構いません。でも、何も言わずに作業を止めないでください」
「俺たちの話を、本当に聞くのか」
「今、聞いています」
ベンさんは長く黙った。
やがて。
「書面を見てからだ」
「はい」
「餌の量も、雪かきの人数も全部書け」
「分かりました」
「あと」
「まだあります?」
「あんたが雪かきして腰を痛めたら、公爵様が村ごと燃やしに来そうだから、作業はしなくていい」
「燃やしません!」
「本当か?」
断言しようとして。
少し迷った。
「……たぶん」
「たぶんなのかよ!」
今度こそ。
周囲に笑いが起きた。
◇
話し合いが終わり、工事現場へ戻ろうとしたときだった。
河岸へ渡すための仮設足場が、泥の上へ組まれていた。
「奥様、こちらは危険です」
護衛の一人が先へ出る。
「一人ずつ渡れば問題ないと聞きました」
「今朝から水位が上がっています」
「では、あなたが先に」
騎士が慎重に板の上へ乗る。
問題なく向こう岸へ渡った。
次にバルドさん。
そして私。
板は濡れていたが、幅は十分にある。手すり代わりの縄を握り、一歩ずつ進む。
河の流れは速い。
けれど深くはない。岸に近いこの場所なら、膝上ほどだと聞いていた。
あと三歩。
そのとき。
背後で、馬の嘶きが響いた。
泥へ車輪を取られた荷車が傾き、積まれていた木材の一本が滑り落ちる。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
木材が、足場の支柱へ当たった。
板が大きく揺れる。
私は縄を掴もうとした。
けれど、手袋が濡れていた。
指が滑る。
「リリアーヌ様!」
身体が傾いた。
次の瞬間。
冷たい水が、全身を包んだ。
◇
浅い。
そう聞いていた。
実際、立ち上がれば腰にも届かないほどだった。
しかし落ちた瞬間は、上下が分からなくなる。
冷たさで息が止まり、濁った水が口へ入った。
何かに腕を掴まれる。
「奥様!」
護衛の騎士だった。
引き起こされる。
「立てますか!」
「はい、たぶん」
足をつく。
右膝が痛い。
でも、動く。
護衛とバルドさんに支えられ、岸へ上がった。
「怪我は!」
「膝を少し」
「医師を呼べ!」
「その前に、伝令を!」
現場監督が叫ぶ。
「公爵邸へ報告しろ! 公爵夫人が川へ落ちた!」
「待ってください」
私は咳き込みながら声を出した。
「浅瀬です。怪我も軽いと、きちんと」
「おい、早く行け!」
若い伝令役は顔を真っ青にし、馬へ飛び乗った。
「だから、正確に伝えて!」
聞こえたかどうか。
彼は振り返らず、泥を跳ね上げて走り去った。
「嫌な予感がします」
私が言うと、バルドさんも青い顔で頷いた。
「私もでございます」
◇
濡れた衣服を村長宅で着替え、医師に膝を診てもらった。
擦り傷。
少し腫れているが、骨には異常なし。
「今日は安静に」
「分かりました」
「本当に?」
「現場へは戻りません」
「公爵邸へお戻りを」
「書面を完成させてから」
「奥様」
「部屋の中で書きます」
医師は納得していなかったが、最後には折れた。
ベンさんたちとの合意書をまとめていると。
外から、地響きのような音がした。
「何です?」
窓辺にいたバルドさんが、外を見る。
そして。
顔を引きつらせた。
「騎士団です」
「何人?」
「見えるだけで、五十……いや、百は」
「百!?」
私は立ち上がった。
「痛っ」
「動かないでください!」
「そういう場合ではありません!」
玄関を出る。
村の中央道を。
黒い騎士服の一団が、雪と泥を蹴り上げながら進んでくる。
先頭には。
黒馬に乗ったアレクシス。
顔が。
怖い。
呪いで苦しんでいた頃よりも。
黒碑を前にしたときよりも。
たぶん、今まで見た中で一番怖い。
「全員、工事を止めろ!」
馬を降りるより先に、声が響いた。
「公爵夫人を屋敷へ戻す! 今後、リリアーヌを河岸へ近づけるな!」
「アレクシス!」
私が呼ぶ。
彼の顔がこちらを向く。
視線が。
頭から足まで。
何度も確認する。
泥のついていない服。
包帯を巻いた膝。
立っている私。
「どこを怪我した」
「膝を少し擦っただけです」
「医師は」
「診てもらいました」
「他には」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
アレクシスが私の前まで歩いてくる。
手を伸ばし。
頬へ触れる寸前で止めた。
「触れていいか」
声が、わずかに震えている。
「はい」
頬。
首。
肩。
確かめるように触れる。
冷たい指だった。
「生きている」
「見れば分かるでしょう」
「ああ」
「心配をかけました」
「ああ」
「伝令が大げさに」
「濁流に呑まれ、行方不明になったと聞いた」
「どこから行方不明が増えたんですか!」
周囲にいた人々が、気まずそうに目を逸らす。
伝令役の青年が、騎士団の後方で縮こまっていた。
「すみません! 俺、公爵夫人様が水に消えたって聞いて、それで!」
「私はすぐ立ち上がりました!」
「見てませんでした!」
「なぜ!」
「怖くて馬に乗ったので!」
責める気が失せた。
本人も、命がないと思った顔をしている。
「もういいです。次からは確認して」
「次はない」
アレクシスが割り込む。
「え?」
「お前は工事現場へ行くな」
「今、何と言いました?」
「視察を禁じる」
周囲の空気が、凍った。
「公爵命令だ」
胸の奥が。
冷たくなる。
「撤回してください」
「しない」
「アレクシス」
「危険すぎる」
「今日の事故は、足場へ木材が当たったためです。安全策を見直します」
「駄目だ」
「護衛も増やします」
「駄目だ」
「私の話を」
「聞く必要がない」
その一言。
一年前なら。
黙っていたかもしれない。
守ろうとしてくれている。
心配で、余裕がない。
そう自分へ言い聞かせて。
でも。
今は。
「皆さん」
私は周囲を見る。
「工事を再開してください」
「リリアーヌ」
「止める必要はありません」
「俺が止めろと言った」
「止めません」
騎士たちも、村人たちも動けない。
公爵と公爵夫人。
どちらの命令を聞けばいいのか分からないのだ。
「奥様」
バルドさんが小声で言う。
「場所を変えたほうが」
「そうですね」
私も同意した。
「アレクシス。村長宅へ来てください」
「お前は馬車へ乗れ」
「話し合います」
「必要ない」
「必要です!」
声が響いた。
村中の人が見ている。
それでも。
もう止められなかった。
「私を守るために、私から役目まで奪わないでください!」
アレクシスの顔が固まる。
「役目より命だ」
「私は命を軽く考えていません!」
「川へ落ちた」
「事故です」
「死んだかもしれない」
「あなたも工事現場へ出ています!」
「俺は違う」
「何が違うんです!」
「俺は戦える」
「川と戦うつもりですか!」
村人の誰かが、笑いそうになり。
隣の人に肘で止められている。
今は笑ってほしかった。
そうすれば、少し冷静になれたかもしれない。
「お前は公爵邸で指示を出せばいい」
「現場を見ずに?」
「報告を聞け」
「今日、村の人たちが工事を止めようとした理由を、報告書だけで理解できたと思いますか?」
「それは部下に任せろ」
「私が話したから、合意できたんです!」
「他の者でもできる」
「できたかもしれません。でも、今日は私がやりました!」
言ったあと。
自分でも、子供のようだと思った。
功績を取られたくないと言っているようで。
けれど。
それも本音だった。
私はここで働いた。
泥の中を歩き。
怒鳴られ。
話し。
ようやく信じてもらった。
それを。
夫の一言で無かったことにされたくない。
「私の仕事です」
「お前の命より大事な仕事はない」
「仕事か命か、二つに一つではありません!」
「今日死にかけた」
「死にかけていません!」
「俺には同じだ!」
アレクシスが叫んだ。
滅多に。
声を荒らげない人が。
肩で息をしている。
「お前が川へ落ちたと聞いた」
声が震える。
「見つからないと」
「それは誤報です」
「分かっている!」
拳が握られる。
「今は分かっている。だが、ここへ来るまでの間、何度考えたと思う」
「……」
「もっと早く止めればよかった。仕事を任せなければよかった。朝、屋敷から出さなければ」
「アレクシス」
「また俺が」
言葉が途切れる。
「大事な人を、自分の判断で死なせたと思った」
怒りが。
少しずつ。
別のものへ変わった。
「呪いは消えた」
アレクシスが言う。
「胸も痛くない。眠れるようにもなった」
灰銀色の目が、私を見る。
「だが、失うのが怖いことだけは消えない」
周囲は静まり返っている。
夫婦だけの話を。
村人も。
騎士も。
皆、聞いている。
恥ずかしい。
でも。
今は逃げたくなかった。
「私も怖いです」
私は答えた。
「あなたが視察へ行くたび。騎士団を率いて出るたび。戻らないかもしれないと思います」
「なら分かるだろう」
「分かるから、止めません」
「なぜ」
「止めたら、あなたではなくなるからです」
アレクシスが黙る。
「私は、あなたに屋敷から一歩も出ないでほしいわけではありません。危険を減らし、帰ってくる約束を守ってほしい」
「……」
「私も同じです」
「同じではない」
「同じです」
「お前は」
「公爵夫人だから?」
「ああ」
「女だから?」
アレクシスが止まる。
「それは」
「戦えないから?」
「ああ」
「それでも、私にしかできないことがあります」
ベンさんたちを見る。
「今日の話し合いもそうでした」
「……」
「守るために仕事を奪えば、私はあなたの隣にいる人ではなく、守られるだけの荷物になります」
「荷物だと思っていない」
「では、選ばせてください」
神殿の前でも。
呪いを分けるときも。
何度も繰り返した言葉。
「危険を知ったうえで、何をするか選ばせてください」
アレクシスは長く黙った。
騎士団を率いてきたときの怒りは。
もう表情にはなかった。
残っているのは、疲れと恐怖。
「条件がある」
「聞きます」
「危険な現場へ行く前に、場所と予定を俺へ知らせる」
「はい」
「護衛は最低四人」
「三人」
「五人」
「増えましたね?」
「四人」
「分かりました」
「帰還時刻を決める。遅れる場合は必ず伝令を出す」
「はい」
「単独行動は禁止」
「あなたもです」
「俺は」
「あなたもです」
強く言う。
「分かった」
「命令を、相手へ相談なく覆さない」
「……ああ」
「今日の視察禁止命令は撤回してください」
「撤回する」
周囲から。
小さな安堵の息が漏れた。
「私も約束します」
私は続ける。
「無理をしていないと言い張りません」
「本当に?」
「たぶん」
「おい」
「努力します」
「約束しろ」
「では、怪我や体調不良を隠しません」
「ああ」
「あなたも」
「ああ」
「胸が痛くなくても、疲れたら言う」
「ああ」
「食事を抜かない」
「今関係あるか?」
「あります」
村人たちから、とうとう笑いが起きた。
アレクシスが周囲を見る。
「笑うな」
「無理ですよ、公爵様!」
ベンさんが声を上げる。
「百人も兵隊連れてきて、結局奥様に条件つけられて帰るんだから!」
「帰らない」
「え?」
「騎士団は工事へ加わる」
アレクシスが言った。
「連れてきた以上、働かせる」
騎士たちの顔が一瞬固まる。
「異議がある者は?」
「ありません!」
声が揃った。
たぶん。
公爵夫妻の喧嘩をこれ以上見せられるより、泥を運ぶほうがましなのだ。
「アレクシス」
「何だ」
「私を迎えに来たんですよね」
「ああ」
「帰らないんですか」
「工事の進捗を確認する」
「心配だから?」
「ああ」
素直。
「では、私も残ります」
「今日は休め」
「でも」
「怪我を隠さない約束をした直後だ」
言い返せない。
「……分かりました」
「馬車で休め」
「村長宅で書類を」
「寝ろ」
「少しだけ」
「寝ろ」
「命令を勝手に」
「医師の命令だ」
医師を見る。
力強く頷かれた。
「奥様。お休みください」
「皆さん、急にアレクシスの味方になりましたね?」
「公爵様が正しいことも、まれにはございます」
「まれに?」
アレクシスの声が低くなる。
また笑いが起きた。
◇
村長宅の一室で横になったのは、夕方前だった。
膝は少し痛む。
身体も冷えていたらしい。毛布へ包まれると、すぐに眠気が来た。
「アレクシス」
ベッド脇に座る夫へ声をかける。
「何だ」
「工事は?」
「バルドに任せた」
「あなたも現場へ行くのでは」
「お前が眠るまでいる」
「子供ではありません」
「ああ」
「でも、いてください」
「ああ」
手を差し出す。
「握っていいですか」
「俺が聞くところだ」
「今日は私からです」
「……ああ」
指を絡める。
強い手。
けれど、まだ少し冷たい。
「怖かったんですね」
「ああ」
「私も、水へ落ちたときは怖かったです」
初めて。
口にした。
浅いと分かっていた。
すぐ助けられた。
それでも、水の中で上下が分からなくなった瞬間。
このまま流されるかもしれないと思った。
「なら、なぜ平気な顔をする」
「皆が不安になるからです」
「俺の前でも?」
「あなたが怒っていたから、私まで怖いと言えませんでした」
アレクシスが目を伏せる。
「すまない」
「はい」
「そこは、いいと言わないんだな」
「怒鳴られましたから」
「ああ」
「人前で仕事を取り上げられました」
「ああ」
「かなり腹が立ちました」
「ああ」
「でも」
握った手へ力を込める。
「来てくれて、安心しました」
アレクシスが私を見る。
「百人は多すぎですけど」
「ああ」
「次は二十人くらいにしてください」
「次はない」
「事故が?」
「ああ」
「それは約束できません」
「では、川へ近づくな」
「話し合いが戻っています!」
アレクシスの口元が。
ほんの少しだけ緩んだ。
「リリアーヌ」
「何です」
「眠れ」
「はい」
「起きたら、屋敷へ帰る」
「工事は?」
「明日また来る」
「一緒に?」
「ああ」
「護衛四人で?」
「十人」
「多いです」
「八人」
「四人」
「六人」
「五人」
「分かった」
交渉成立。
目を閉じる。
アレクシスの親指が、私の手の甲をゆっくり撫でている。
「アレクシス」
「まだ何かあるのか」
「あります」
「何だ」
「二人とも、怖いときは怖いと言いましょう」
少しの沈黙。
「ああ」
「怒る前に」
「努力する」
「約束」
「……約束する」
その返事を聞いて。
私はようやく眠った。
工事の期限まで。
あと十三日。
夫婦喧嘩に使っている時間はない。
それでも。
こうして話し合わなければ。
私たちは、同じ方向へ走っているつもりで。
いつか互いを置き去りにしてしまう。
守ることと。
信じて任せること。
その違いを。
私たちはまだ。
覚え始めたばかりだった。




