第46話 春の雪解けで三つの村が沈むと分かりました
北方の春は、音から始まる。
屋根に積もった雪が崩れ落ちる音。
凍りついていた川の表面へ、細い亀裂が走る音。
軒下から落ちる雫が、夜ごと少しずつ速くなる音。
長い冬を越えた人々にとって、それは待ち望んだ季節の知らせだった。
けれど、その年だけは違った。
「三つの村が沈みます」
技師長のバルドが、会議室の中央でそう言った。
大きな机の上には、北方を流れるアルヴァ河と周辺の村々を描いた地図が広げられている。青い線で示された河の両岸に、赤い石が三つ置かれていた。
ラハ村。
エドナ村。
ミゼル村。
どれも、雪解けのあとに小麦や豆を育てる農村だ。
「沈む、というのは」
私は地図から顔を上げた。
「畑だけではなく、家屋も?」
「はい。最悪の場合は」
バルドは五十代の、日に焼けた男性だった。技術者らしく言葉は簡潔で、必要以上に不安を煽るような言い方はしない。
その彼が「最悪の場合」と口にする。
それだけで、事態の深刻さが分かった。
「雪の量は、昨年の一・四倍。ですが問題は量だけではありません」
彼が地図の上流部を指す。
「一昨日から気温が急に上がっています。このままなら、山間部の雪が十日ほどで一気に溶ける。通常なら三十日かけて河へ流れ込む水が、その半分以下の期間に集中します」
「堤防は?」
アレクシスが尋ねた。
「三年前から補修を申請しております」
バルドの声が少し硬くなる。
「だが、昨年は西街道の修繕を優先した」
「はい。公爵閣下の判断が間違っていたとは申しません。街道が閉ざされれば、冬の食料が届かなかった村もありますから」
「慰めはいらない」
アレクシスの声は冷たかった。
「俺が堤防を後回しにした。それは事実だ」
「アレクシス」
「今は責任の話をしている場合では」
そう言いかけた私を、彼が見た。
「分かっている」
分かっている顔ではない。
自分を責める癖が、もう出ている。
けれど、今ここで夫婦喧嘩を始めるわけにはいかなかった。
「補強工事をすれば、間に合いますか」
私がバルドへ尋ねる。
「資材と人手が揃えば」
「必要なものは?」
「石材。木材。鉄製の杭と留め具。土嚢用の麻袋。それから、荷車と馬です」
横にいた会計官が書類を差し出した。
「概算です」
受け取って目を通す。
私は一行目で止まった。
「……これは」
「通常価格ではございません」
会計官が苦い顔をする。
「王都のベルナード商会より提示された価格です」
「三倍近いですね」
「はい」
「輸送費を含めても、これほどにはならないでしょう」
「なりません」
「他の商会は?」
「北方への資材輸送は、ベルナード商会と提携する三商会がほぼ独占しております。いずれも同じ価格を提示しました」
分かりやすい。
あまりにも。
「足元を見ていますね」
「ああ」
アレクシスの声が低くなる。
「商会長を呼べ」
「もう来ています」
ハロルドが答えた。
「別室でお待ちです」
「通せ」
「アレクシス」
「話を聞くだけだ」
「本当に?」
「ああ」
「剣を外してください」
「なぜ」
「話を聞くだけの人は、剣の柄に手を置きません」
アレクシスは自分の右手を見た。
無意識だったらしい。
「外す必要はない」
「では、私が預かります」
「嫌だ」
「話を聞くだけなのでしょう?」
「……ハロルド」
「はい」
「持っていろ」
素直に剣を渡した。
少しだけ。
本当に少しだけ、成長した。
◇
ベルナード商会の代理人は、丸い腹をした四十代の男だった。
名をドミニク・ベルナード。
商会長の弟らしい。
部屋へ入るなり深々と頭を下げたが、その目は机の上の地図と、私たちの表情を素早く確認していた。
「公爵閣下、公爵夫人。北方領の危機に際し、弊商会がお役に立てることを光栄に存じます」
「三倍の価格で?」
私が尋ねると、ドミニクの笑顔が少し硬くなった。
「冬明けの輸送には危険が伴います。街道の状態も悪く、荷馬車の損耗、護衛の雇用、倉庫からの移送費などを考えますと」
「その内訳は?」
「はい?」
「三倍になる理由を、一項目ずつ書面でご提出ください」
「もちろん、概算の資料は」
「概算ではなく、実費と利益率を分けて」
ドミニクが一瞬黙る。
「公爵夫人は、商いにお詳しいのですな」
「王太子妃教育で、国家予算と商業税を七年間学びました」
「それは、それは」
笑っている。
けれど目は笑っていない。
「利益を得ることが悪いとは申しません」
私は書類を机へ置いた。
「商会も職人も、利益がなければ働けません。ただし、人命に関わる緊急工事で、他に選択肢がないと見込んで価格をつり上げることを、正当な利益とは呼びません」
「誤解でございます」
「では、通常価格との差額を説明してください」
「ですから、輸送の危険が」
「どの街道が、どれだけ危険です?」
ドミニクが答えに詰まった。
アレクシスは黙っている。
ただし。
ものすごく睨んでいる。
「公爵閣下」
ドミニクが助けを求めるように彼へ向き直る。
「弊商会は長年、北方領と良好な取引を」
「妻の質問に答えろ」
「……」
「俺ではなく、妻が聞いている」
ドミニクの顔から、少しだけ余裕が消えた。
「もちろんでございます。ですが、今回の取引は規模も大きく、通常とは事情が」
「納期は?」
私が聞く。
「正式な契約から二十五日ほど」
「間に合いません」
「街道の状況が」
「二十日で必要です」
「それは、いくら弊商会でも」
「できない?」
「できないとは申しませんが、さらに人員を増やす必要があり、価格は」
アレクシスが立ち上がった。
ドミニクの顔が引きつる。
「アレクシス」
「軍を出す」
「何に?」
「王都へ向かう街道の倉庫を押さえる」
「駄目です」
「資材はある」
「所有者がいます」
「金は払う」
「向こうの言い値で?」
「適正価格を置いていく」
「それは徴発です!」
「領民が沈むよりいい」
アレクシスの声は平静だった。
だからこそ怖い。
本気で軍を動かすつもりだ。
「公爵閣下!」
ドミニクが立ち上がる。
「弊商会の倉庫へ軍を差し向けるなど、王都の商業組合が黙っておりませんぞ!」
「黙らせる」
「国王陛下もお許しには」
「兄にはあとで話す」
「あとででは済みません!」
「アレクシス」
私は彼の袖を掴んだ。
「座ってください」
「時間がない」
「だからこそです」
「今から軍を出せば、十日で戻れる」
「戻ってきても、今後北方へ物を売る商会がいなくなります」
「必要なら自前で作る」
「一日では作れません!」
「なら今から始める」
「そういう話ではありません!」
ドミニクが、私たちのやり取りを見ながら、少しだけ口元を緩めた。
困っている。
そう思ったのだろう。
軍を出せば問題になる。
出せなければ、彼らの価格を飲むしかない。
たぶん。
その二つしか選択肢がないと考えている。
「ベルナード殿」
私は彼へ向き直った。
「本日のところはお帰りください」
「しかし、ご契約の返答を」
「明日の正午までに、通常価格との差額の内訳と、二十日以内の納品計画をご提出ください」
「それが難しい場合は?」
「契約しません」
ドミニクの眉が上がる。
「他に、これだけの資材を用意できる商会はございません」
「そうかもしれませんね」
「では」
「ご提出ください」
私は微笑んだ。
「選択肢がないかどうかは、こちらで決めます」
◇
ドミニクが退出すると、アレクシスはすぐに言った。
「時間の無駄だ」
「何が?」
「あいつらは価格を下げない」
「そうでしょうね」
「なら軍を出す」
「出しません」
「なぜ」
「別の方法を探します」
「二十日しかない」
「分かっています」
「石材だけでも、必要量は荷車四百台分だ」
「資料を見ました」
「木材は二百台。鉄具は」
「分かっています!」
少し声が大きくなった。
アレクシスが黙る。
「……すみません」
「謝るな」
「では怒っています」
「ああ」
「どうして、すぐ一人で決めるんです?」
「一人ではない」
「軍を出すと、私に相談しました?」
「今話した」
「宣言しただけです!」
「違いは?」
「大違いです!」
机の端で、バルド技師長が気まずそうに視線を逸らしている。
会計官は、書類を読むふりをしている。
ハロルドだけが、いつもどおりだった。
「公爵夫人」
バルドが、恐る恐る口を開く。
「別の方法というのは」
「領内で調達します」
私が答えると、全員がこちらを見た。
「可能か?」
アレクシスが尋ねる。
「可能にします」
「具体的には」
「まず石材です。北東部に、十年前に閉鎖された小規模採石場がありますね」
バルドが驚いた顔をする。
「ラド鉱山の近くですか」
「はい。昨年の土地台帳で見ました。石質が建築用に向かず閉鎖されたと」
「確かに、細かな加工には向きません。しかし堤防の基礎なら」
「使えますか」
「検査は必要ですが、おそらく」
「次に木材。冬の間、伐採したまま山間の集積所へ置かれているものがあります」
会計官が資料をめくる。
「北西部の木工組合のものです。しかし春用の建材として、すでに買い手が」
「全部買う必要はありません。堤防工事へ使ったぶんは、公爵家が代替材を夏までに保証します」
「鉄具は?」
アレクシスが聞く。
「廃坑になった旧銀山に、使われなくなった鉄製の支柱と軌道が残っています」
バルドが首を傾げた。
「あれは錆びている」
「溶かして打ち直せますか」
「鍛冶場が足りません」
「領都に三か所。南部の騎士団駐屯地に二か所。それから」
私はミレイユを見る。
彼女は会議室の端に座っていた。
遺品を整理したあとも、雪で街道が閉じたままのため、公爵邸に滞在している。
「ミレイユさん。お母様の故郷は、鉄工職人の町でしたね」
「はい。ベルグ村です」
「今も鍛冶職人は?」
「います。でも、冬の間は仕事が少なくて、王都へ出る人も多いです」
「手紙を出せますか」
「私が?」
「知っている方がいれば」
ミレイユは少し戸惑ったあと、頷いた。
「母の兄が、鍛冶場をやっています」
「協力をお願いしたいのです」
「でも、私が頼んで聞いてくれるか」
「公爵家から正式な依頼を出します。ただ、あなたから事情を伝えてもらえれば、話を聞いてもらいやすいかもしれません」
ミレイユが、アレクシスを見る。
「公爵様のためですか」
問いかけは鋭かった。
「領民のためです」
私が答える。
「公爵家の面子ではなく、三つの村が沈まないために」
「……分かりました」
少女が頷く。
「書きます」
「ありがとう」
「礼は、村が助かってからにしてください」
「そうします」
アレクシスが地図を見つめる。
「人手は」
「村ごとに工事隊を作ります」
「農民を使うのか」
「強制ではありません。賃金を支払い、春の種蒔きへ影響が出る家には、公爵家の備蓄から食料を貸し出します」
「貸す?」
「無償で配れば、受け取りたくない人もいます。収穫後、少額ずつ返してもらう形にします。ただし洪水被害が出た場合は免除」
会計官が顔をしかめる。
「公爵家の支出が大きすぎます」
「村が沈めば、税収そのものがなくなります」
「しかし」
「三年分で考えてください」
私は紙を引き寄せ、計算を書く。
「今年の工事費。備蓄の放出。職人への賃金。これを合計しても、三村が水没した場合の家屋再建費、救援食料、翌年の免税額より少ない」
会計官が数字を追う。
「……確かに」
「それに、領内の職人へ支払った金は、領内で使われます。王都商会へ三倍払えば、資金は外へ出るだけです」
「リリアーヌ」
アレクシスが私を見ている。
「何です」
「いつから考えていた」
「ベルナード商会の価格表を見たときからです」
「短いな」
「王太子妃教育では、もっと無茶な課題を出されました」
「どんな」
「架空の飢饉で、三日以内に五万人分の食料を用意しろ、と」
「用意したのか」
「答案の中では」
「今回は答案ではない」
「分かっています」
胸が少し苦しくなる。
数字の上では、できる。
でも。
現実には人がいる。
雪がある。
馬が疲れる。
職人が病気になることもある。
計算どおりにいかないことばかりだ。
「怖いです」
私は言った。
皆の前で。
「失敗したら、村が沈みます」
会議室が静かになる。
「王宮にいた頃は、失敗しない顔をすることが仕事でした。でも今は、怖いまま進むしかありません」
「なら俺が」
「一人で背負わないでください」
アレクシスの言葉を止める。
「私の計画です。でも、私一人ではできません」
バルドを見る。
「採石場と堤防工事の指揮をお願いします」
「はい」
会計官へ。
「資金の組み替えを。春の祝宴予算は全額回してください」
「祝宴を中止に?」
「村が沈みそうなときに、宴会はできません」
「国王陛下の使節が来る予定ですが」
「事情を説明します。怒られたら、私が謝ります」
「俺も謝る」
アレクシスが言った。
「兄は俺が止める」
「怒ってきたら?」
「追い返す」
「謝る話はどこへ行ったんです!」
「必要なら謝る」
「必要です!」
バルドが、堪えきれないように笑った。
「失礼しました」
「いいえ」
私は地図へ目を落とす。
「ミレイユさんには、ベルグ村への連絡を。ハロルドさんは、各村の代表者を明日の朝までに集められますか」
「可能でございます」
「アレクシスは」
彼を見る。
「何をすればいい」
「騎士団から、輸送と工事に慣れた人員を選んでください」
「ああ」
「ただし、軍による強制徴発は禁止です」
「……ああ」
「間がありましたね?」
「なかった」
「ありました」
「それから」
私は続ける。
「ベルナード商会への返答は、明日まで待ちます」
「まだ使うのか」
「価格を下げ、二十日で一部だけでも運ぶなら使います」
「信用できない」
「信用はしません。契約で縛ります」
「それで守るか」
「守らなければ違約金を取ります」
「甘い」
「倉庫を軍で押さえるよりはましです!」
アレクシスは不満そうだった。
それでも。
もう軍を出すとは言わなかった。
「期間は」
バルドが尋ねる。
私は地図の赤い石を見る。
三つの村。
そこに暮らす人々。
家。
畑。
家畜。
冬を越え、春を待っている人たち。
「二十日です」
言葉にすると。
あまりにも短い。
「本格的な雪解けが始まるまでに、三か所の堤防補強を終わらせます」
「不可能に近い」
バルドが正直に言った。
「はい」
「雨が降れば、さらに短くなる」
「はい」
「人手も資材も、まだ決まっていない」
「はい」
私は一度、息を吸った。
「それでも、やります」
アレクシスが私の隣へ立つ。
「やる」
今度は。
一人で決める声ではなかった。
「三つとも守る」
机の周りにいた全員が、ゆっくり頷いた。
その日の夜から。
公爵邸のすべての窓に。
朝まで明かりが灯り続けた。




