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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第45話 死んだ父の手紙には、公爵様への悪口ばかり書かれていました

 ミレイユは、すぐには封を切れなかった。


 十年間、父親の外套の内側に隠されていた手紙。


『ミレイユへ。俺が帰れなかったときだけ読め』


 太く、少し右へ傾いた文字を、少女は何度も指でなぞっている。


「開けないのか」


 アレクシスが尋ねた。


「今、開けようとしています」


「そうか」


「急かさないでください」


「急かしていない」


「聞かれたら急かされている気がします」


「では黙る」


「そんな不機嫌そうに黙らないでください」


「どうすればいい」


「普通に待ってください!」


 アレクシスが私を見る。


「普通とは何だ」


「私に聞かないでください」


「お前なら知っているかと」


「なぜです?」


「俺よりは普通だからだ」


「比較対象があなたなら、ほとんどの人が普通になります!」


 ミレイユが、手紙を持ったまま小さく吹き出した。


「すみません」


「謝らなくていいですよ」


 私は答える。


「この人は、大事な場面ほど変なことを言うので」


「緊張している」


 アレクシスが言った。


「公爵様が?」


「ああ」


「私が手紙を読むだけなのに?」


「ローディンが何を書いたか分からない」


「公爵様の悪口だと思います」


「それは分かっている」


「なら、どうして緊張するんです?」


 ミレイユに問われ、アレクシスは黙った。


 自分でも、うまく説明できないのだろう。


「怖いんですよ」


 私が代わりに言った。


「何が書かれているか」


「リリアーヌ」


「違いますか?」


「……違わない」


 ミレイユは、アレクシスの顔をじっと見た。


「公爵様にも怖いものがあるんですね」


「ある」


「何ですか」


「お前の父親の手紙」


「今の話ではなく」


「今の話だ」


「他には?」


 アレクシスが、今度は私を見た。


「妻が怒っているとき」


「それは、あなたが怒らせるからでしょう!」


「怖くないんですか?」


 ミレイユが私へ尋ねる。


「怖がってほしいですね」


「怒り方を変えろ」


「変えません」


 こんな会話をしている場合ではない。


 分かっている。


 けれど、ミレイユの指の震えは少し収まっていた。


「開けます」


 少女が言った。


「はい」


 私は隣で頷く。


 ミレイユの爪が、古い封蝋へかかる。


 乾いた音を立て、封が割れた。


 中から出てきたのは、四つ折りにされた数枚の紙だった。手紙としては、かなり長い。


「お父様、手紙が長いんです」


「説教も長かった」


「公爵様へ似たんじゃないですか」


「俺は長く話さない」


「言葉が足りないだけです」


 私が指摘すると、アレクシスは何も言わなくなった。


 ミレイユが一枚目を広げる。


 最初の行を読み。


 眉を寄せた。


「……何ですか、これ」


「どうした?」


「読みます」


 ミレイユは、少し困った顔で声に出した。


「『隊長は今日も飯を食わなかった。あの馬鹿は、俺がいなければ三日で倒れる』」


 保管庫が静まり返る。


 私は、ゆっくりアレクシスを見た。


「事実ですね」


「十年前の話だ」


「現在も、私がいなければ三日で倒れません?」


「五日は持つ」


「胸を張らないでください!」


 ミレイユが続きを読む。


「『昼に干し肉を渡したら、夜まで懐へ入れたままだった。干し肉に謝れ。牛にも謝れ』」


「そこまで書く必要があるか」


「あなたが食べなかったからでしょう」


「忙しかった」


「言い訳まで十年前から同じです!」


 ミレイユの口元が、少しずつ上がっていく。


「まだあります」


「読まなくていい」


「私宛ての手紙です」


「そうだったな」


「『隊長は剣だけは馬鹿みたいに強いが、人と話すのが致命的に下手だ。あれで公爵家の跡取りだというから国の未来が心配になる』」


「ローディン」


「当たっていますね」


「リリアーヌ」


「褒めています」


「どこが」


「剣が強いところです」


「だけ、と書いてある」


「そこは私ではなく、ローディンさんへ怒ってください」


 ミレイユが、とうとう声を上げて笑った。


 泣いていた少女が。


 父親の手紙を読みながら。


 父親の悪口で。


「お父様らしい」


 笑いの途中で、涙が落ちる。


「本当に、お父様らしいです」


 アレクシスは何も言わず、少女を見ていた。


 その目は。


 十年前の友人を、そこに見ているようだった。


「続きを読んでも?」


「ああ」


 今度の返事は柔らかかった。


「『ミレイユ、お前がこれを読んでいるなら、俺は帰れなかったのだろう。まず母さんの言うことを聞け。いや、全部聞く必要はない。母さんは怒ると話が長い。半分くらい聞け』」


「お母様が読んでいたら、お父様は死んだあとも怒られていましたね」


「間違いない」


 アレクシスが答える。


「『俺がいなくなって、母さんが何でも一人でやろうとしたら止めろ。あの人は、できないことまで、できる顔をする』」


 私は、少しだけ息を止めた。


 その言葉。


 どこか。


 自分にも刺さった。


「『お前も同じだ。泣きたいときは泣け。腹が立ったら怒れ。立派な娘になろうとするな。俺の娘なんだから、少しくらい出来が悪くても誰も驚かない』」


「ひどい」


 ミレイユが笑う。


「自分の娘に、出来が悪くてもって」


「ローディンは自分を基準にしている」


「公爵様も、よく似たことを言いません?」


「言わない」


「私には、少しくらい失敗しても公爵夫人を辞めさせないと言いました」


「意味が違う」


「似ています」


「違う」


 ミレイユが私たちを見比べる。


「お父様と公爵様、本当は似ていたんじゃないですか」


「似ていない」


 アレクシスは即答した。


「似ていたんですね」


「なぜそうなる」


「否定が早すぎるからです」


 十六歳。


 なかなか鋭い。


「続きを」


 アレクシスが促す。


「急かしています」


「読んでほしい」


「そう言えばいいんです」


 ミレイユは少しだけ得意そうに言い、二枚目を開いた。


「『俺が帰れなかった理由を、誰かのせいにしたくなる日が来ると思う』」


 空気が変わった。


 少女の笑いが、静かに消える。


「『隊長のせいにしてもいい。俺のせいにしてもいい。神様でも、天気でも、運でもいい。誰かを恨んでいる間だけ、立っていられる日もある』」


 アレクシスの目が伏せられる。


「『ただし、自分のせいにはするな。お前がもっと良い娘なら俺が帰った、なんて馬鹿なことだけは考えるな』」


 ミレイユの声が震えた。


「お母様が」


 手紙から目を離さないまま、言う。


「よく言っていました。私が泣き虫だから、お父様は心配で帰れなかったんじゃないって」


「違う」


 アレクシスが、すぐに言った。


「お前とは関係ない」


「分かっています」


「本当に?」


「分かっているつもりです。でも、時々考えました」


 ミレイユが唇を噛む。


「私が生まれていなければ、お父様はもっと自由だったんじゃないか。家族がいなければ、神殿へ残らず逃げたんじゃないかって」


「逆だ」


「え?」


「ローディンは、お前がいたから帰ろうとした」


 アレクシスの声に、迷いはなかった。


「神殿へ入る前も、お前の話をしていた。次の休暇には、自分でお前へ木馬を作ると言っていた」


「木馬?」


「ああ」


「お父様、手先は不器用でした」


「知っている。だから俺がやめろと言った」


「それで?」


「殴られた」


「本当に仲が良かったんですね」


「よくない」


「公爵様」


「何だ」


「もう、その否定は信じません」


 アレクシスは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。


 ミレイユは涙を拭き、三枚目へ進む。


「『母さんには、俺の剣を渡してくれ。売って生活費にしてもいい。飾る必要はない。剣は壁に掛けるより、金になったほうが役に立つ』」


「売っていいんですか」


「ああ」


 アレクシスが答える。


「ローディンなら言う」


「公爵様は?」


「何が」


「売ってほしいですか」


 アレクシスは、すぐには答えなかった。


「……分からない」


「欲しい?」


「少し」


 正直な答え。


「では、半分にできますか」


「剣を?」


「はい」


「使えなくなる」


「もう使わないでしょう」


「そうだが」


「柄を私が。鞘を公爵様が持つとか」


「お前が決めていい」


「では、あとで考えます」


 ミレイユは手紙へ戻る。


「『隊章は隊長にやってくれ。あいつは自分のものを持たないから、俺のくらい押しつけてやれ』」


 少女が顔を上げる。


「お父様、最初から公爵様へ渡すものを決めていますよ」


「余計なことを」


「嬉しくないんですか」


「……」


「アレクシス」


 私も見る。


「嬉しくないんです?」


「嬉しい」


 とても小さな声。


「聞こえません」


「聞こえただろう」


「ミレイユさんは?」


「聞こえました。でも、もう一度言ってもらってもいいです」


「お前たちは」


「二人で守ることになりましたから」


 私が言うと、アレクシスが眉を寄せる。


「いつ決まった」


「昨日です」


「俺は聞いていない」


「守られる人へ相談する必要はありません」


「横暴だ」


「あなたに言われたくありません」


 ミレイユは、少し笑いながら最後の紙を広げた。


「まだあります」


「長いな」


「説教が長かったんでしょう」


「ああ」


「公爵様が認めるくらいなら、本当に長いんですね」


「かなり」


 少女は、最後の部分へ目を落とす。


 しばらく。


 読まなかった。


「どうした?」


「公爵様のことです」


「読め」


「悪口ではありません」


 アレクシスの表情が硬くなった。


「なら、なおさら読め」


 ミレイユが深く息を吸う。


「『隊長のことを恨んでもいい。あいつが無茶をしなければ、俺たちは神殿へ行かなかった。それは事実だ』」


 アレクシスの指が、わずかに握られる。


「『だが、あいつは俺たちを死なせようとして行ったわけじゃない』」


 静かな声。


「『あいつは皆を守ろうとして、自分を人数に数えない』」


 私は。


 アレクシスを見た。


 彼は動かなかった。


「『十人守ると言いながら、あいつ自身を入れれば十一人なのに、それが分からない馬鹿だ』」


「ローディン」


 アレクシスの声が掠れた。


「『だから、もし俺が帰れなかったら』」


 ミレイユも泣いている。


 けれど。


 最後まで読み上げた。


「『誰かが、あいつを守ってやってくれ』」


 手紙が。


 少女の手の中で震えた。


 保管庫には、三人の呼吸だけが聞こえている。


「ずるいです」


 ミレイユが言った。


「何が」


「お父様です」


 涙を拭わず、アレクシスを見る。


「自分は帰ってこなかったのに、公爵様のことを頼むなんて」


「ああ」


「私に恨んでもいいと書いて、そのあとに、守れって」


「お前へ頼んだわけではない」


「でも、この手紙を読んだのは私です」


「……」


「公爵様を許せないのに、放っておくのも嫌になったじゃないですか」


 人の感情は。


 本当に面倒だ。


 嫌い。


 許せない。


 それでも。


 大事だった父が守ろうとした人を、壊れても構わないとは思えない。


「ミレイユさん」


 私は声をかける。


「あなたが引き受ける必要はありません」


「でも、お父様が」


「亡くなった人の願いを、すべて守る義務はないんです」


「奥様は、そう思えるんですか」


「思えるようになりました」


 以前の私なら。


 父の期待も。


 王家の期待も。


 亡き母が望んだはずの未来も。


 すべて背負わなければならないと思っていた。


「ローディンさんがあなたへ残した一番大切な言葉は、自分のせいにするな、だったのではありませんか」


「……はい」


「なら、アレクシスを守るかどうかも、あなた自身で選んでいい」


 ミレイユは手紙を見る。


「奥様は?」


「何がです?」


「公爵様を守りますか」


「はい」


 迷わなかった。


 私は、手紙へ向かって少し頭を下げる。


「任されました」


「リリアーヌ」


「何です」


「俺は頼んでいない」


「あなたは自分から頼まないでしょう」


「必要ない」


「そう言うと思いました」


 手紙へ、もう一度視線を落とす。


「ですが、ローディンさん」


 もちろん。


 返事はない。


 それでも言った。


「かなり面倒な任務です」


「おい」


「食事は忘れる。痛くても隠す。過保護。嫉妬深い。すぐ一人で責任を背負う」


「そこまで言う必要があるか」


「まだあります」


「やめろ」


「話し合いの途中で勝手に結論を出します」


「リリアーヌ」


「触れる前に許可を聞くところだけは、とても立派です」


 アレクシスが黙る。


 ミレイユが、泣きながら笑った。


「お父様」


 少女も手紙へ話しかける。


「奥様がいます」


 声が震える。


「だから、公爵様はたぶん大丈夫です」


「たぶん?」


 アレクシスが聞く。


「自分で自分を危なくするので」


「違いないです」


「リリアーヌ」


「二人とも、あなたを見て言っているんです」


 アレクシスは不満そうに眉を寄せた。


 けれど。


 その目が少し赤いことを。


 誰も指摘しなかった。


     ◇


 手紙を読み終えたあと、遺品の分け方を決めた。


 家族の肖像画と日誌、革手袋、酒瓶はミレイユが持つ。


 折れた剣は、柄をミレイユへ。鞘をアレクシスへ。


 副隊長の隊章は。


 ローディンの希望どおり、アレクシスが受け取った。


「つけてください」


 ミレイユが言った。


「今?」


「はい」


「古い隊章だ」


「嫌ですか」


「嫌ではない」


「では」


 少女がアレクシスの礼装へ隊章をつける。


 少し位置が曲がった。


 アレクシスが直そうとすると、ミレイユが手を叩いた。


「触らないでください」


「曲がっている」


「お父様なら、たぶん曲げてつけます」


「なぜ」


「公爵様が嫌がるから」


「ローディンならやるな」


 アレクシスは、曲がったままの隊章へ触れなかった。


「公爵様」


「何だ」


「まだ許していません」


「ああ」


「お父様の最後も、ガルドさんに聞きます」


「ああ」


「でも」


 ミレイユは少し迷い。


 深く頭を下げた。


「遺品を残していてくれて、ありがとうございました」


 アレクシスは、すぐには答えられなかった。


「返すのが遅すぎた」


「はい」


「すまなかった」


「はい」


「礼を言われることではない」


「それでも、燃やさずにいてくれたから、手紙が読めました」


 アレクシスの手が、曲がった隊章のすぐそばで止まる。


「……ああ」


 ようやく。


 それだけ答えた。


 ミレイユが保管庫を出たあと。


 私はアレクシスの隣に残った。


「泣きます?」


「泣かない」


「私しかいませんよ」


「だから何だ」


「抱きしめますか」


「どちらが」


「私が、あなたを」


 アレクシスが私を見る。


「許可を聞かないのか」


「嫌ですか?」


「嫌ではない」


「では」


 私は腕を回し、彼を抱きしめた。


 いつもとは逆。


 私が彼の頭を胸元へ抱えるような、少し不格好な形になった。


「苦しい」


「我慢してください」


「守ると言った直後に苦しめるのか」


「守ることと甘やかすことは違います」


「誰に習った」


「あなたです」


「俺は教えていない」


 アレクシスの腕が、ゆっくり私の背中へ回る。


「リリアーヌ」


「何です」


「ありがとう」


 とても小さかった。


 でも。


 聞き逃さなかった。


「どういたしまして」


「それだけか」


「嬉しすぎて困っている、と言いましょうか?」


「言わなくていい」


「恥ずかしいんですね」


「ああ」


 本当に。


 少しずつ。


 素直になった。


 保管庫の外では、雪解けの水が屋根から落ちる音がしていた。


 冬が。


 終わろうとしている。


 けれど、その年の春が。


 北方にとって。


 穏やかなものにはならないことを。


 私たちはまだ知らなかった。


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