第44話 夫がまた一人で責任を背負おうとしたので、夕食の肉料理を減らしました
アレクシスが一人で保管庫へ入ろうとしている。
そう教えてくれたのは、ハロルドだった。
「旦那様は、夕食前に少し執務室へ寄ると仰っておられました」
「執務室へ?」
「はい」
「保管庫へ向かったのですね?」
「はい」
「止めませんでした?」
「止めました」
「それでも行った?」
「はい」
ハロルドは、いつもと変わらない穏やかな顔をしている。
しかし、よく見ると口元が少しだけ硬い。かなり腹を立てているらしい。
「どんな言い訳をしました?」
「遺品の状態を確認するだけだ、と」
「私たちが一緒に見ると決めたのに?」
「はい」
「ミレイユさん本人に選んでもらうとも?」
「はい」
「本当に、何も分かっていませんね!」
「私も、そのように申し上げました」
私は椅子から立ち上がった。
「リリアーヌ様」
「何です?」
「旦那様は、左側の階段をお使いになりました」
「右の階段から回れば、先に着きますね?」
「偶然にも」
偶然。
絶対に偶然ではない。
「ありがとうございます」
「何のことでございましょう」
ハロルドは何も知らない顔で頭を下げた。
◇
公爵邸の北側にある保管庫は、地下へ半階ほど降りた場所にあった。
王家から贈られた品。
歴代公爵の記録。
使われなくなった武具。
戦死した騎士たちの遺品。
そうしたものを保管する、石造りの広い部屋だ。
右側の階段から回った私は、扉の前で待った。
ほどなくして。
廊下の向こうから、アレクシスが現れた。
「……」
「……」
彼が止まる。
私も何も言わない。
しばらく見つめ合ったあと、アレクシスが先に口を開いた。
「何をしている」
「それは私の台詞です」
「散歩だ」
「地下の保管庫の前を?」
「ああ」
「外は雪ですが、中庭のほうが景色はいいですよ」
「静かな場所が好きだ」
「鍵を持って?」
アレクシスの右手には、大きな鉄の鍵がある。
彼は手を背中へ隠した。
「今さらです!」
「これは別の鍵だ」
「では見せてください」
「嫌だ」
「保管庫の鍵なんですね?」
「……」
「黙ると認めたことになります」
「お前は尋問官に向いているな」
「夫がすぐ嘘をつくので鍛えられました」
「嘘ではない。説明を省いた」
「それを世間では誤魔化しと言います!」
アレクシスが、扉から少しだけ離れる。
逃げるつもりかもしれない。
私は先に扉の前へ立った。
「どけ」
「嫌です」
「リリアーヌ」
「何です」
「遺品の状態を見るだけだ」
「一人で?」
「ああ」
「どうして」
「傷んでいるものがあるかもしれない」
「だから三人で確認するのでしょう」
「ミレイユに見せる前に、整理しておいたほうがいい」
「何を整理するのです?」
「血のついたものや、壊れたものだ」
「それを隠すつもりでした?」
「隠すのではない」
「では?」
「見せる必要がない」
思ったとおりだった。
「必要があるかどうかは、誰が決めるんです?」
「俺だ」
「どうして!」
「俺が保管を命じた」
「勝手に!」
「ああ」
「開き直らないでください!」
アレクシスの眉間に皺が寄る。
「十六歳の娘に、父親の血がついた外套を見せたいのか」
「見たくないと言うかもしれません」
「なら」
「でも、見たいと言うかもしれない」
「……」
「怖くても、見なければ後悔することもあります」
神殿へ向かう前。
私を置いていこうとしたアレクシスへ、同じようなことを言った。
守るという言葉を。
相手から選ぶ権利を奪う言い訳にしてはいけない。
「私たちが決めることではありません」
「だが」
「ミレイユさんへ尋ねましょう」
「泣くぞ」
「泣いてはいけないんですか?」
「……」
「傷つくでしょう。怒るでしょう。あなたをもっと嫌いになるかもしれません」
「ああ」
「それでも、自分で選んだ痛みなら、彼女のものです」
アレクシスは、扉から目を逸らした。
「俺は」
「はい」
「見せたくない」
珍しく。
とても小さな声だった。
「なぜ?」
「ローディンが死んだことを、もう一度あの娘に突きつける」
「違います」
「何が」
「あなた自身が、もう一度突きつけられるのが怖いんでしょう」
アレクシスの目が、わずかに動いた。
図星。
「十年前の血も、壊れた剣も。あなたには、自分が殺した証拠に見える」
「事実だ」
「またそれ!」
「俺が神殿へ」
「その話を、ここで二人だけで終わらせないでください」
私は、彼が持っている鍵へ手を伸ばした。
「ミレイユさんを呼びます」
「今すぐ?」
「はい」
「夕食前だ」
「だから?」
「腹が減る」
私はアレクシスの顔を見た。
「何です」
「夕食の肉料理を減らすと言っていた」
「覚えていたんですか」
「重要だ」
「遺品を隠すより?」
「比較するものではない」
「では、予定どおり減らします」
「待て」
「待ちません」
「今日の主菜は鹿肉だ」
「よくご存じですね」
「厨房から匂いがした」
「一皿減らします」
「反省している」
「今?」
「ああ」
「遺品を一人で確認しようとしたことを?」
「ああ」
「本当に?」
「肉が減るのは困る」
「そこしか反省していません!」
◇
夕食の席へ着いたミレイユは、私とアレクシスの皿を見比べた。
私の前には、香草を添えた鹿肉の煮込み。
彼女の前にも同じもの。
アレクシスの前には、野菜のスープと黒パン。それから、豆と根菜の温サラダ。
肉はない。
「……公爵様のお料理、少なくありませんか」
「罰です」
私が答える。
「何の?」
「一人で保管庫へ入ろうとしたので」
ミレイユがアレクシスを見る。
「本当に行ったんですか」
「ああ」
「私に見せる前に、何か隠そうと?」
「傷んだものを除こうとした」
「やっぱり隠すつもりだったんですね」
「違う」
「同じです」
ミレイユと私の声が重なる。
「……」
アレクシスが黙った。
ハロルドがスープを注ぎながら、小さく頷いている。
「それで、お肉を減らされたんですか」
「ああ」
「公爵様は、肉料理を減らすと言うことを聞くんですか?」
「今回だけだ」
「今後も有効です」
私が言うと、アレクシスが眉を寄せた。
「制度にするな」
「分かりやすいでしょう」
「横暴だ」
「遺品を勝手に選別する人に言われたくありません」
ミレイユが、不思議そうに首を傾げる。
「奥様は、公爵様が怖くないんですか?」
「怖かったですよ」
「いつまで?」
「最初の三日くらい?」
「短いな」
アレクシスが口を挟む。
「初日の夜は、かなり怖かったです」
「枕を十個並べた」
「それを言わないでください!」
「なぜ枕を?」
ミレイユが興味を示してしまった。
「何でもありません」
「同じベッドで眠る契約だった」
「アレクシス!」
「なぜ怒る」
「十六歳の方へ、何を説明しているんです!」
「事実だ」
「ミレイユさん、忘れてください」
「無理だと思います」
「ですよね……」
少女が、少し笑った。
昨日よりも自然な笑顔だった。
「お父様も」
ミレイユが鹿肉を小さく切りながら言う。
「食事でよく母に怒られていました」
「ローディンが?」
「はい。仕事から帰ると、つまみだけでお酒を飲むから」
「任務中も似たようなものだった」
「公爵様は止めなかったんですか」
「俺も食べていなかった」
「駄目な人が二人いたんですね」
「ああ」
「認めるんですか」
「事実だからな」
ミレイユは少し黙り、それから皿へ目を落とした。
「私が生まれたあとも、そんな感じだったんでしょうか」
「少し変わった」
「どう」
「酒を飲むと、お前の話をした」
少女の手が止まる。
「何を?」
「歩いた。喋った。歯が生えた。熱を出した」
「全部、普通ですね」
「ああ。だが毎回、初めて聞く話のようにしろと言われた」
「面倒な父」
「かなり」
「公爵様に言われたくないと思います」
「俺もそう思う」
私が言うと、アレクシスがこちらを見る。
「お前まで」
「事実です」
ミレイユは、しばらく笑っていた。
けれど、やがてその笑みが消える。
「遺品」
小さな声。
「食事のあとに見たいです」
「本当に?」
アレクシスが尋ねた。
「はい」
「血が残っているものもあるかもしれない」
「見たくないと言ったら、除いてくれますか」
「ああ」
「途中でやめても?」
「ああ」
「怒りませんか」
「怒らない」
「泣いても?」
「構わない」
「公爵様を責めても?」
少しの間。
アレクシスが黙る。
「構わない」
ミレイユは頷いた。
「では、見ます」
◇
食後。
私たちは三人で保管庫へ降りた。
ハロルドも同行したが、扉を開けたあとは少し離れた場所で待つと言った。
室内は冷えていた。
壁際には木箱と棚が並び、それぞれに年代や所属部隊の札がついている。
アレクシスは迷わず奥へ進んだ。
「覚えているんですね」
ミレイユが言う。
「ああ」
「一度も開けていないのに?」
「場所はな」
棚の最下段。
そこに、大きな箱が九つ並んでいた。
箱の側面には、それぞれ名前が刻まれている。
ローディン・カール。
マルク・ヘイゼン。
トーマ・ベル。
ユリウス・ハーン。
エドガー・ロウ。
他の四人の名も。
神殿の石碑で見たものと同じだ。
「九人」
ミレイユが呟く。
「ああ」
「お父様だけじゃない」
「ああ」
少女は、しばらく箱を見つめた。
「開けます」
「俺が」
「私が開けます」
アレクシスの手を、ミレイユが止めた。
強くはない。
それでも、彼はすぐに手を引いた。
「分かった」
少女が膝をつく。
箱の金具へ指をかける。
一度。
手が止まった。
「怖いです」
正直な声。
「はい」
私は彼女の隣へ膝をついた。
「でも、開けます」
「はい」
「奥様」
「何でしょう」
「手を握ってもらえますか」
アレクシスが、わずかに動く。
私は彼を見る。
「妹に嫉妬する人ですから、今度はミレイユさんに嫉妬するかもしれません」
「しない」
「本当に?」
「ああ」
「では」
私はミレイユの手を握った。
冷たい。
震えている。
「開けましょう」
「はい」
二人で金具を上げた。
蓋が、重い音を立てて開く。
最初に見えたのは、古い外套だった。
濃紺の布。
肩には副隊長を示す銀の刺繍。
胸元の一部が、暗く変色している。
血。
十年経っても。
完全には消えなかったもの。
ミレイユの呼吸が止まる。
「閉じるか」
アレクシスがすぐに聞いた。
「待って」
少女は震える手で、外套へ触れた。
「これ」
「ローディンが最後に着ていたものだ」
「お父様の匂いは」
言ってから、自分でも無理だと気づいたのだろう。
「……残っていませんよね」
「はい」
私は答えた。
嘘をついても仕方がない。
ミレイユは外套へ顔を近づけることはせず、ただ指で布を撫でた。
「硬い」
「ああ」
「母が洗濯すると、いつも文句を言っていました。もっと柔らかくならないのかって」
「防寒用だ」
「分かっていなかったんですね」
「ああ」
箱の中には、折れた剣。
隊章。
革手袋。
小さな酒瓶。
紙を束ねた日誌。
そして。
幼い少女と妻らしい女性が描かれた、小さな肖像画が入っていた。
「これ」
ミレイユが肖像画を持ち上げる。
「私です」
絵の中の少女は、まだ三歳ほど。
「母も」
「ローディンは、任務のたびに持っていた」
「……」
「見せて、自慢していた」
「恥ずかしい」
「かなり」
ミレイユが笑う。
涙を流しながら。
「公爵様」
「何だ」
「お父様のこと、覚えているんですね」
「ああ」
「全部?」
「全部ではない」
「でも」
「忘れたことも多い」
アレクシスは箱の中を見つめる。
「思い出せない声もある。顔も、昔より曖昧になった」
「忘れたんですか」
責めるような響き。
「忘れた」
彼は逃げなかった。
「十年あったからな」
「……」
「忘れたくなくても、人は忘れる」
「嫌です」
「ああ」
「私は忘れたくない」
「ああ」
「でも、お父様の笑い方も、少しずつ分からなくなっています」
ミレイユが、肖像画を胸へ抱いた。
「母の声も」
私は何も言えなかった。
忘れることは裏切りではない、と言うのは簡単だ。
でも。
忘れていく本人には。
そんな言葉は、たぶん何の慰めにもならない。
「だから」
ミレイユが涙を拭う。
「手紙を読みたいんです。日誌も。お父様が何を考えていたのか、知りたい」
「全部持っていけ」
アレクシスが言った。
「え?」
「これはお前のものだ」
「でも」
「最初からな」
「公爵様は?」
「俺には権利がない」
「またそうやって」
ミレイユが眉を寄せた。
昨日までとは違う。
アレクシスへ直接腹を立てる顔だった。
「何だ」
「全部渡して、自分は何も持たないんですか」
「お前の父親のものだ」
「公爵様の副隊長でもあったんでしょう」
「ああ」
「では、欲しいものはないんですか」
アレクシスが黙る。
「公爵様も選んでください」
「俺は」
「私が決めます」
きっぱりと言われ。
アレクシスが少し驚いた顔をした。
「お父様に似ているんでしょう?」
「ああ」
「なら、聞いてください」
「……分かった」
箱の中を、三人で一つずつ確認していく。
日誌。
折れた剣。
酒瓶。
手袋。
古い硬貨。
用途の分からない小さな石。
その途中。
私が外套を持ち上げたときだった。
「何か入っています」
裏地の一部が、不自然に膨らんでいる。
縫い目を確かめると、小さな内袋があった。
「アレクシス」
「知らない」
「開けますか?」
ミレイユへ尋ねる。
少女が頷いた。
慎重に内袋から取り出したのは。
一通の封書だった。
紙は黄ばみ、端が少し傷んでいる。
けれど封蝋は切られていない。
表には。
太く、不揃いな字で。
こう書かれていた。
『ミレイユへ』
『俺が帰れなかったときだけ読め』
ミレイユの指が震える。
「お父様の字です」
誰も。
すぐには封を切れなかった。
十年間。
誰にも見つけられず。
父親の外套の裏で。
娘へ届く日を待っていた手紙。
「開けます」
ミレイユが言った。
泣きながら。
それでも。
自分の手で。
封蝋へ指をかけた。




