第43話 亡くなった副隊長の娘が「父を返してください」と訪ねてきました
「お父様を返してください」
少女は、公爵邸の玄関広間でそう言った。
外では朝から雪が降っている。
少女の外套にも、まだ溶けていない雪がいくつもついていた。赤くなった頬。濡れた髪。両手には、持ち手の傷んだ小さな旅行鞄を抱えている。
十六歳だと、あとで聞いた。
けれどそのときの彼女は、もっと幼く見えた。
「あなたが」
少女の声が震える。
「あなたが神殿へ連れていかなければ、お父様は死ななかった」
視線の先には、アレクシスがいた。
私の隣。
いつもの黒い礼装姿で、何も言わずに少女を見ている。
何も言い返さない。
否定もしない。
「返してください」
もう一度、少女が言った。
「今すぐ、お父様を返してください!」
玄関広間に、声が響いた。
使用人たちは動けないでいる。エマは口元を押さえ、ハロルドは少女とアレクシスの間へ入るべきか迷っているようだった。
私も。
すぐには何も言えなかった。
この少女へ、何を言える?
お父様は立派に亡くなりました。
アレクシスを救ってくれました。
彼のせいではありません。
どれも。
今は、言ってはいけない気がした。
「名前は」
アレクシスが尋ねた。
低い声。
少女が唇を噛む。
「……ミレイユ・カールです」
カール。
神殿の石碑。
一番上に刻まれていた名を思い出す。
ローディン・カール。
アレクシスの副隊長だった人。
夢の中で。
生きろ、と叫んだ人。
「ローディンの娘か」
「お父様の名前を、気安く呼ばないでください!」
「分かった」
「……」
少女は少し戸惑った顔をした。
もっと怒鳴り返されると思っていたのかもしれない。
あるいは。
公爵の権力で追い出されると。
「ハロルド」
「はい」
「客間を用意しろ」
「必要ありません!」
ミレイユが叫ぶ。
「私は泊まりに来たのではありません!」
「外は雪だ」
「帰れます」
「街道は夕方まで閉鎖されている」
「歩きます!」
「死ぬぞ」
「お父様は死にました!」
言葉が。
アレクシスの胸へ突き刺さるのが見えた。
彼は表情を変えなかった。
けれど。
隣にいる私には分かる。
指先が。
わずかに動いた。
「そうだ」
アレクシスが答える。
「ローディンは死んだ」
「あなたのせいで」
「ああ」
「アレクシス」
思わず、名前を呼んだ。
彼は私を見ない。
「俺が神殿へ向かわなければ、あいつは死ななかった」
「違います」
「違わない」
「全部あなたの責任ではありません」
「リリアーヌ様!」
ミレイユが私を睨んだ。
「奥様だから庇うんですか?」
「そう聞こえましたか」
「だって、そうでしょう!」
少女は旅行鞄を床へ置いた。
拳を握り、肩を震わせている。
「公爵様は呪いが解けて、結婚して、幸せになった。お父様は帰ってこない。なのに、どうして全部あなたのせいではないなんて言えるんですか!」
「ごめんなさい」
「謝らないでください!」
「でも、今の言い方はよくなかったわ」
私は正直に認めた。
アレクシスを守ろうとした。
また。
本人が背負おうとするから。
私が代わりに否定しなければと思った。
でも。
それはミレイユの前ですることではなかった。
「あなたのお父様が亡くなったことを、私は説明で軽くしてはいけなかった」
「……」
「ただ」
私はアレクシスを見る。
「この人がすべて悪いと決めることも、今はできません」
「なぜですか」
「私が、十年前のことをすべて見たわけではないからです」
「公爵様本人が認めたでしょう」
「この人は、自分が悪いことにすれば話が早いと思う癖があります」
「おい」
ようやくアレクシスが口を挟んだ。
「違いますか?」
「……」
「黙りましたね」
ミレイユが、私たちを交互に見る。
「何なんですか」
「何が?」
「今、喧嘩をしてるんですか?」
「少し」
「していない」
私とアレクシスの声が重なった。
「どちらです?」
「しています」
「していない」
「アレクシス」
「何だ」
「あなたがまた一人で全部背負おうとするからです」
「俺の過去だ」
「今は私の夫の過去でもあります」
「だから何だ」
「私にも口を出す権利があります」
「権利を便利に使うな」
「あなたに言われたくありません」
ミレイユが唖然としている。
当然だと思う。
父の仇だと思っている冷徹公爵と、その妻が、玄関で夫婦喧嘩を始めたのだから。
「申し訳ありません」
ハロルドが少女へ頭を下げた。
「お二人は、重要な場面ほど話が横道へ逸れる傾向がございます」
「ハロルド」
「事実でございます」
ミレイユの口元が、ほんの一瞬だけ動いた。
笑った。
のかもしれない。
けれど、すぐに顔を硬くした。
「私は」
少女はアレクシスを見た。
「謝ってほしくて来たんじゃありません」
「では、何だ」
「……」
「金か」
ミレイユの顔が赤くなる。
「違います!」
「生活に困っているなら」
「違うって言ってるでしょう!」
彼女は旅行鞄を蹴りそうになり、寸前で足を止めた。
「お父様が死んでから、母は一人で私を育てました。公爵家から送られたお金は、ほとんど手をつけていません」
「なぜ」
「受け取りたくなかったからです」
「だが」
「お父様の命の代金みたいだった!」
アレクシスが黙る。
私も。
何も言えなかった。
補償は必要だった。
残された家族が暮らしていくために。
でも。
金額を決める側が、どれほど丁寧に考えても。
受け取る側には、命の値段に見えてしまうことがある。
「母は、一年前に亡くなりました」
ミレイユが言った。
「病気で」
「知らなかった」
「知らせませんでした」
「なぜ」
「公爵様に知られて、またお金を送られるのが嫌だったからです」
アレクシスの顔がわずかに歪む。
「そうか」
「母は最後まで、あなたを恨まないようにと言いました」
「……」
「お父様が選んだことだから。公爵様を助けるために残ったのだから、恨んではいけないって」
少女の目に、涙が浮かぶ。
「でも、そんなの無理です」
「無理でいい」
アレクシスが答えた。
「え?」
「恨むなと言われて、恨まなくなるものではない」
「……公爵様が言うんですか」
「ああ」
「自分が恨まれているのに?」
「ああ」
「変な人」
「よく言われる」
「私が言っています」
思わず口を挟むと、アレクシスがこちらを見る。
「今は黙っていろ」
「どうして」
「話が進まない」
「あなたにだけは言われたくありません!」
ミレイユが、今度こそ少し笑った。
すぐに涙へ戻ったけれど。
「母が死んで」
少女は袖で乱暴に目元を拭う。
「家を片づけていたら、お父様の古い手紙が出てきました」
「手紙?」
「神殿へ行く前に書いたものじゃありません。もっと前のです。公爵様の悪口ばかり書いてありました」
「ローディンらしい」
アレクシスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「やっぱり、嫌われていたんじゃないですか」
「嫌われていた」
「そんな簡単に認めるんですか」
「あいつは俺の命令を聞かなかった」
「あなたも、人の話を聞きません」
「リリアーヌ」
「事実です」
ミレイユは不思議そうにアレクシスを見ていた。
たぶん。
母親や周囲から聞かされていた「公爵様」と、目の前の男が噛み合わないのだ。
「手紙には」
彼女が続ける。
「公爵様のことを、若造とか、死に急ぎとか、飯を食わない馬鹿とか書いてありました」
「あいつ」
「事実ですね」
「ああ」
「否定しないんですか」
「当時は食事を忘れていた」
「今も忘れます」
「最近はお前がいる」
「私がいなければ忘れるという意味ですよね?」
「そうとも言う」
「あとで話し合いましょう」
アレクシスが少しだけ目を逸らす。
ミレイユの顔に、また一瞬だけ笑いが浮かんだ。
「その手紙を読んだら」
少女は静かに言う。
「お父様が、公爵様のことを嫌いだったのか、大事にしていたのか、分からなくなりました」
「両方だろう」
「そんなことありますか」
「ある」
アレクシスは迷わなかった。
「俺もローディンを大事に思っていた。だが、腹が立つことも多かった」
「どんなところに?」
「説教が長い」
「父らしいです」
「酒を飲むと泣く」
「聞いてません」
「歌が下手だ」
「それは母も言ってました」
ほんの少し。
空気が変わる。
死んだ副隊長。
石碑の名前ではなく。
酒を飲んで泣き。
歌が下手で。
若い隊長へ説教をする父親。
「私が知りたいのは」
ミレイユが旅行鞄を握る。
「お父様が最後に何を言ったかです」
アレクシスの表情が止まった。
「誰も教えてくれなかった。母も知りませんでした。生き残った人たちは、お父様は立派だったとしか言わない」
「……」
「立派だったなんて、聞きたいんじゃない」
少女の涙が、頬を流れた。
「怖がっていたのか。帰りたいと言ったのか。母や私の名前を呼んだのか。公爵様を恨んだのか」
声が崩れる。
「最後まで、私たちのことを覚えていたのか」
ようやく。
この少女がここへ来た理由が分かった。
父を返してほしい。
本当に返るとは思っていない。
ただ。
返らない人の最後を知りたい。
残された自分が、何を思えばいいのか知りたい。
「アレクシス」
私は彼を見る。
彼の顔が、青ざめていた。
「……覚えていない」
低い声。
「え?」
「最後に、何と言ったか」
「そんな」
「俺は」
アレクシスの指が握られる。
「あの日、途中で意識を失った」
「では、誰なら知っているんです?」
「ガルドなら」
「ガルドさん?」
「ああ」
彼も神殿から生還した一人。
「呼べますか」
「呼ぶ」
「すぐに?」
「ああ」
アレクシスは迷わなかった。
「それから」
「まだあるんですか」
「ローディンの遺品が、公爵家の保管庫に残っている」
ミレイユの目が見開かれた。
「遺品?」
「ああ」
「どうして私たちに返さなかったんです」
「……」
アレクシスが黙る。
嫌な予感がした。
「アレクシス」
「何だ」
「まさか」
「俺が保管すると決めた」
「どうして!」
「返せなかった」
「返せなかったとは?」
「遺族に会う資格がないと思った」
腹が立った。
本当に。
この人は。
「それで、十年間しまい込んだんですか?」
「ああ」
「誰にも相談せず?」
「ああ」
「ミレイユさんには、お父様の遺品を受け取る権利があったでしょう!」
「分かっている」
「分かっていません!」
「リリアーヌ様」
ミレイユが、戸惑いながら私を呼ぶ。
「何でしょう」
「どうして、奥様が怒るんですか」
「この人が、また勝手に一人で決めたからです!」
「でも、父の遺品を隠していたことは、私が怒るところでは」
「二人で怒りましょう」
「え?」
「あなたは遺品を返さなかったことへ。私は、アレクシスが勝手に苦しみ続けたことへ」
「リリアーヌ」
「何です」
「今は俺が責められる場面だ」
「知っています」
「なら庇うな」
「庇っていません。あとで私も怒ります」
「……」
「夕食の肉料理を減らします」
アレクシスの顔色が変わった。
「それは関係ない」
「一人で背負った罰です」
「横暴だ」
「あなたに言われたくありません」
ミレイユが、泣きながら笑った。
「変なご夫婦ですね」
「よく言われます」
「俺は言われていない」
「二人まとめて言われているんです!」
アレクシスが、私とミレイユを交互に見る。
それから。
少女へ向かい、深く頭を下げた。
北方を治める公爵が。
十六歳の少女へ。
「すまなかった」
ミレイユの笑みが消える。
「遺品を返さなかったことも。ローディンの最後を伝えなかったことも。俺が罪悪感から逃げたせいだ」
「……」
「お前に許してほしいとは言わない」
アレクシスの声は、わずかに震えていた。
「だが、知りたいことはすべて調べる。俺が覚えていることも、覚えていないことも、隠さず話す」
「本当に?」
「ああ」
「公爵様に都合が悪いことも?」
「ああ」
「お父様が、あなたを嫌いだったと言っても?」
「ああ」
「殺してやりたいと言っていても?」
一瞬。
アレクシスが止まる。
「それも伝える」
ミレイユは、長い間彼を見ていた。
「……今日は帰れないんですよね」
「ああ」
「泊まったら」
少女は少しだけ目を逸らす。
「遺品を見せてもらえますか」
「ああ」
「食事も出るんですか」
「出す」
「お金は」
「取らない」
「私は施しを」
「客に食事を出すのは普通です」
私が口を挟む。
「でも」
「それとも、私たちと同じ食卓は嫌?」
ミレイユは困ったような顔をした。
すぐには答えない。
「……嫌かもしれません」
「正直ね」
「でも」
彼女はアレクシスを見る。
「公爵様がどんな人か、少し見てみたいです」
「つまらないぞ」
「それは私が決めます」
強い返事。
アレクシスが少し驚く。
「ローディンに似ている」
「お父様にも、そう言われたんですか」
「ああ。お前に決めるな、とよく怒鳴られた」
「では、公爵様は十年間、何も変わっていないんですね」
「少しは変わりました」
私が答える。
「どこがです?」
「最近は、怒られる前に『ああ』と認めます」
「それだけ?」
「重要です」
「そうですか?」
「重要だ」
アレクシス本人まで同意した。
ハロルドが旅行鞄を持ち上げる。
「ミレイユ様。お部屋へご案内いたします」
「様はいりません」
「公爵家の客人でございますので」
「でも」
「慣れてください」
有無を言わせない穏やかさ。
さすがハロルドだった。
ミレイユが階段へ向かう。
その途中で、振り返った。
「公爵様」
「何だ」
「まだ、あなたを許していません」
「ああ」
「お父様を返してほしいと思っています」
「ああ」
「それでも、遺品は見ます」
「ああ」
「変だと思いますか」
「思わない」
「どうして」
アレクシスは少し考えた。
「大事な人を失ったあとの気持ちは、一つではない」
ミレイユは何も答えなかった。
ただ。
今度は背を向け、ハロルドと一緒に階段を上っていった。
◇
少女の姿が見えなくなると、アレクシスが長く息を吐いた。
「アレクシス」
「なんだ」
「夕食のお肉は減らします」
「まだ言うのか」
「本気です」
「リリアーヌ」
「遺品を十年も隠していたんですよ?」
「隠したつもりは」
「本人に知らせなければ同じです!」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「何が分かりました?」
「肉を減らされる」
「そこしか分かっていません!」
私は夫の腕を掴んだ。
「一緒に保管庫へ行きます」
「俺だけでいい」
「また!」
「整理してから見せる」
「整理しないでください」
「なぜ」
「都合の悪いものを除くでしょう」
「除かない」
「信用できません」
「妻だろう」
「妻だから信用できないんです。あなたが自分に都合の悪いものではなく、自分を責めるものばかり残すことを知っていますから」
アレクシスが黙った。
図星だった。
「一緒に見ます」
「ああ」
「ミレイユさんへ渡すものも、彼女自身に選んでもらいます」
「ああ」
「そして」
私は彼の手を握った。
「あなたも、逃げないでください」
「逃げていない」
「十年間、遺品を保管庫へ閉じ込めた人が言います?」
「……」
「怖いんですね」
返事はない。
けれど。
握った手が少し強くなった。
「ローディンさんの娘に、嫌われるのが」
「ああ」
「お父様の最後を聞かれて、答えられないのが」
「ああ」
「それでも」
私は彼を見る。
「一緒に行きましょう」
「お前には関係ない」
「あります」
「なぜ」
「あなたが私の夫だからです」
その言葉は。
今でもよく効く。
「……ずるいな」
「あなたに教わりました」
「俺はそんな使い方を教えていない」
「妻が勝手に覚えました」
保管庫へ続く廊下は、屋敷の北側にある。
窓の外。
雪はまだ降り続いていた。
十年間。
開けられなかった箱。
返せなかった遺品。
伝えられなかった最後の言葉。
その中に。
アレクシスがまだ知らない。
副隊長ローディンの手紙が眠っていることを。
このときの私たちは。
まだ知らなかった。




