第42話 一年後、呪いは治ったのに夫が別々の寝室を認めません
「却下する」
領地運営会議が終わってから、まだ半刻も経っていなかった。
私は執務机の向こうに座るアレクシスを見つめ、手にしていた書類を静かに置いた。
「……まだ、最後まで説明していません」
「聞く必要がない」
「あります」
「結論は変わらない」
「それは話し合いとは呼びません!」
執務室の隅では、ハロルドが何事も起きていないかのように、届いたばかりの書簡を分類していた。
結婚してから一年。
呪いは一度も再発していない。
アレクシスは夜ごとの痛みに怯えることなく眠れるようになり、私も黒碑の夢を見ることはなくなった。
つまり。
私たちは今、呪いとは一切関係なく夫婦喧嘩をしている。
「リリアーヌ」
「何です」
「別の寝室はいらない」
「私専用の寝室を作りたいとは言っていません。仕事が夜遅くなった日に使える、仮眠室が欲しいと言っただけです」
「同じだ」
「全然違います!」
私は、先ほど置いた書類をもう一度持ち上げた。
北方の公爵領には、冬の間にしか片づけられない仕事が多い。道路が雪で閉ざされれば、各地から届く報告は減る。その代わり、春から始める工事や農地整備、税の調整、備蓄倉庫の修繕計画をまとめるのは冬の役目になる。
公爵夫人として仕事へ加わるようになってから、私は執務室に残る時間が増えた。
「昨夜だって、私が寝室へ戻ったのは夜中でした」
「ああ」
「あなたを起こしました」
「起きて待っていた」
「それが問題なのです!」
「なぜ」
「先に寝ていてくださいと伝えたでしょう?」
「眠れなかった」
あまりにも当然のように答えられ、私は言葉に詰まった。
「……呪いは治りましたよね?」
「ああ」
「胸の痛みも?」
「ない」
「悪夢も?」
「ほとんど見ない」
「では、どうして眠れないんです」
アレクシスは少しだけ考えた。
「お前がいないからだ」
「子供ですか!」
「ああ」
「一年経っても、それを認めるんですね」
「事実だからな」
結婚当初よりも、妙なところで素直になった。
その一方で、面倒な部分はほとんど治っていない。むしろ正式な夫になったことで、遠慮が減ったぶん悪化したところもある。
「私は書類を読みながら、机で眠りそうになったんです」
「だから俺が迎えに行った」
「抱えて寝室まで運ぶ必要はありませんでした!」
「歩かせたら階段で転ぶ」
「転びません!」
「北方へ向かう旅で何度転んだ」
「一年前の話をいつまで使うつもりです?」
「一生」
「そんなところだけ記憶力が良すぎます!」
ハロルドが、一通の書簡を机へ置いた。
「失礼ながら、私から申し上げてもよろしいでしょうか」
「駄目だ」
「旦那様には聞いておりません」
アレクシスの眉間に皺が寄る。
「リリアーヌ様の仰る仮眠室は、必要かと存じます」
「ハロルドさん」
「公爵夫人としてのお仕事が増え、領民との面会が長引く日もございます。夜間、寝室へ戻らず休める場所があれば、お身体の負担は減りましょう」
「なら俺の執務室に寝台を置く」
「なぜ、あなたの部屋なんです!」
「近い」
「監視するつもりでしょう」
「ああ」
「認めないでください!」
ハロルドが深く息を吐いた。
「一年前、呪いが解けたと伺った際には、旦那様の過保護も多少は改善されるかと期待しておりました」
「呪いとこれは関係ない」
「それが問題なのでございます」
「ハロルドさん、もっと言ってください」
「リリアーヌも働きすぎだ」
「急にこちらを責めないでください」
「昨夜、夕食を半分残した」
「仕事が立て込んでいたからです」
「昼食も少なかった」
「どうして知っているんです?」
「料理長に聞いた」
「監視ではありませんか!」
「確認だ」
「同じです!」
アレクシスが椅子から立ち上がり、私の前まで歩いてくる。
「夜遅くまで仕事をする。食事を減らす。疲れても休まない。そのための仮眠室なら却下する」
「では、どうすれば許してくれます?」
「仕事を減らせ」
「無理です」
「なぜ」
「春の融雪による川の氾濫を防ぐため、堤防工事の計画を今月中に決める必要があります。昨年は三つの村で畑が水に浸かりました。今年も同じことを繰り返したくありません」
「それは俺の仕事だ」
「公爵夫人である私の仕事でもあります」
「俺がやる」
「全部一人で抱えない約束でしょう」
アレクシスが黙った。
効いた。
この言葉は今でも、彼に一番よく効く。
「半分ずつです」
「その言葉を便利に使いすぎだ」
「あなたに教わったんです」
「だが」
「それなら条件を決めましょう」
私は指を一本立てる。
「夜十時を過ぎる仕事は、週に二度まで」
「一度」
「二度です」
「一度」
「では、一度半」
「どうやって半分にする」
「交渉してください!」
ハロルドが口元を押さえている。
「笑いましたね?」
「いいえ」
「絶対に笑いました」
「では」
アレクシスが、私の手を取った。
「週に一度。それ以上必要な日は、俺も残る」
「それでは二人とも寝不足になります」
「一人よりいい」
「そういう問題ではありません」
「仮眠室は作ってもいい」
意外な言葉に、私は瞬きをした。
「本当に?」
「ああ。ただし、俺も使う」
「なぜ」
「夫婦だからだ」
「仮眠まで一緒にする必要はありません!」
「俺はある」
「ありません!」
話し合いは、結局そこからさらに半刻続いた。
最終的に、仮眠室は作る。ただし寝台は一つではなく二つ。週二回まで使用可能で、食事を抜かない。夜十一時を過ぎたら、どちらかが必ず相手を止める。
まともな規則になったようで、最後の項目だけ曖昧だった。
「二人とも続けたいと言ったら?」
私が尋ねると、ハロルドが答えた。
「私がお止めいたします」
「どうやって」
「書類を取り上げます」
「俺の命令でも?」
「夫婦そろって健康を損なうご命令には従いかねます」
「ハロルドさんが一番強いですね」
「ああ」
アレクシスも、そこだけは素直に認めた。
◇
午後、王都から手紙が届いた。
差出人はセシリア。
結婚式から一年の間に、彼女から届いた手紙は十四通になった。
最初の手紙には謝罪しか書かれていなかった。
二通目には、王宮で受けている教育がつらいこと。
三通目には、アルベルトとの婚約を正式に解消したことが書かれていた。
二人は互いに、自分が選んだ相手そのものではなく、「姉とは違う妹」と「自分を頼る令嬢」という役割を求めていたのだと気づいたらしい。
四通目からは、庭に咲いた花や、王妃様に怒られた話、刺繍を失敗した話などが混じるようになった。
私の返事は、まだ九通。
すぐには書けないこともあった。
怒りが蘇り、途中まで書いた手紙を破ったこともある。
セシリアは本当に、次の手紙へ「破る用の予備」と書いた紙を一枚入れてきた。
「何と書いてある」
アレクシスが隣から覗き込む。
「近いです」
「見たい」
「私宛てですよ」
「夫婦に秘密はない」
「あります」
「何が」
「妹との手紙です」
私は少し身体をずらした。
アレクシスも、同じだけ近づく。
「アレクシス」
「何だ」
「読まないでください」
「なら内容を話せ」
「どうしてそこまで気になるんです?」
「前に、毎晩何をしているか聞かれた」
「まだ覚えていたんですか!」
「ああ」
「一年も前です!」
「一生覚えている」
契約書から切り取った私の署名も、今なお寝室の金庫にしまってある。
木製の騎士人形の隣に。
私が見つけたのは偶然だった。笑わないと約束したのに、少し笑ってしまい、三日間も見せてくれなかった。
「その話は書いてありません」
「本当に?」
「はい。今回は父上についてです」
アレクシスの顔から、わずかに柔らかさが消える。
「何と」
「領地へ移るそうです」
「王都から?」
「ええ。叔父上の管理する南部の別邸へ。しばらく王都の社交から離れると」
「逃げるのか」
「そうかもしれません」
父とは、結婚式以来会っていない。
婚礼には招待状を送らなかった。
王宮側から形式上の出席を打診されたらしいが、父自身が辞退したと聞いた。
怒っているのか。
恥じているのか。
それとも、娘に拒絶された現実から目を逸らしているのか。
私には分からない。
「会いたいか」
アレクシスが尋ねる。
私は、すぐには答えなかった。
「今は、会いたくありません」
「ああ」
「でも、この先も絶対に会わないとは決めていません」
「ああ」
「怒りませんか」
「なぜ」
「あなたは父上を嫌っているでしょう」
「嫌いだ」
「はっきり言いますね」
「お前を追い出した」
「はい」
「許すつもりもない」
「それでも?」
「会うかどうかは、お前が決める」
変わらない答え。
私がこの人を信じる理由だった。
「ありがとうございます」
「ああ」
「それから、セシリアが春に北方へ来たいそうです」
「却下する」
「どうして!」
「屋敷に泊まるつもりだろう」
「妹ですから」
「寝室の場所を知られる」
「どうしてそこが問題なんです?」
「近い」
「何が!」
「お前とセシリアの部屋が近いと、夜に呼ばれるかもしれない」
「妹にまで嫉妬しないでください!」
「嫉妬ではない」
「では?」
「警戒だ」
「もっと悪いです!」
結局、セシリアは春に一週間だけ滞在することになった。
客室は私たちの寝室から最も遠い東棟。
そこまで離す必要はないと主張したが、アレクシスは譲らなかった。
妹との関係は、少しずつ変わっている。
許したわけではない。
以前のように無条件で可愛がれるわけでもない。
それでも。
次に会う日を決められるくらいにはなった。
◇
夕方。
視察から戻ると、公爵邸の厨房から甘い匂いが漂っていた。
台所を覗くと、村の老女が料理長へ大きな声で指示を出している。
「もっと芋を入れな! 閣下は放っておくと肉しか食べないんだから!」
「食べている」
背後からアレクシスが答えた。
「あんたには聞いてないよ!」
一年前と同じ言葉。
私は思わず笑った。
「奥様!」
老女が私へ大きな籠を渡す。
「これは?」
「干した果物だよ。仕事ばかりで食事を抜くって聞いたからね」
「誰から聞いたんです?」
「閣下さ」
私は隣を見る。
「言ったんですか?」
「ああ」
「私の評判が悪くなります!」
「事実だ」
「あなたも野菜を残していますよね?」
「残していない」
老女が即座に言う。
「昨日、豆を皿の端に寄せたって料理長が言ってたよ!」
「料理長」
「申し訳ございません、閣下。奥様の健康をお話しになるなら、公平を期すべきかと」
「皆、私の味方ですね」
「違う」
「どうして」
「俺の敵だ」
厨房中が笑いに包まれる。
氷獄公爵と呼ばれた男は今も王都では恐れられている。
けれど北方の領民は、彼が野菜を残すことも、寒い朝には起きるのが少し遅いことも、妻が帰るまで眠れないことも知っている。
そして。
私も知っている。
怖い顔の下にある、不器用で面倒な人を。
◇
夜。
寝室へ戻ると、ベッドの中央に枕が並べられていた。
「……」
数える。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
十個。
「アレクシス!」
衣装室にいた夫が、何事もなかったように顔を出す。
「何だ」
「これは?」
「枕だ」
「見れば分かります!」
結婚してから一度も使っていなかった十個の枕。
契約結婚最初の夜、ベッドの中央へ境界線として並べたものだ。
「なぜ並べたんです?」
「一年だからだ」
「婚礼から?」
「ああ」
「記念に?」
「ああ」
「趣味が悪いです!」
アレクシスがベッドの片側へ座る。
「最初の夜、お前はそこに十個並べた」
「必要だったんです。知らない男性と同じベッドに眠ることになったんですよ?」
「俺は知っていた」
「私が知らなかったんです!」
「ああ」
「しかも、触れないと約束しながら、朝には私を抱きしめていました」
「お前も抱きついていた」
「寝ていたからです!」
「俺も寝ていた」
「あなたは絶対に起きていました!」
一年経っても、この件についてだけは意見が一致しない。
「それで」
私は十個の枕を見た。
「今夜は、また境界線を作るんですか」
「嫌か」
アレクシスの声が少し真面目になる。
私は枕を一つ持ち上げた。
「嫌です」
彼の表情がわずかに曇る。
「そうか」
「ええ」
持ち上げた枕を。
部屋の隅へ投げた。
「これは、いりません」
二つ目。
三つ目。
順番に、ベッドの外へ落としていく。
「リリアーヌ」
「何です」
「片づけるのが大変だ」
「並べた人が片づけてください」
「お前も投げている」
「半分ずつですね」
「ああ」
二人で残りの枕を床へ下ろす。
最後の一つを手にしたとき、アレクシスがそれを奪った。
「これは残す」
「どうして」
「お前が最初に抱えて眠った枕だ」
「見分けがつくんですか?」
「ああ」
「怖いです」
「なぜ」
「一年も前の枕を覚えているからです!」
結局、一つだけはベッドの端へ置かれた。
私は寝間着へ着替え、毛布の中へ入る。
アレクシスも隣へ横になった。
「仮眠室は作るが」
「まだ言います?」
「寝室は分けない」
「最初から分けるつもりはありません」
アレクシスが止まった。
「……本当か」
「仮眠室だと何度説明したと思っているんです?」
「なら、なぜ最初にそう言わない」
「言いました!」
「聞いていない」
「最後まで聞かなかったからでしょう!」
呆れて背中を向ける。
すぐに、背後から声がした。
「リリアーヌ」
「何です」
「触れていいか」
一年。
毎晩、同じように聞いてくる。
以前、一度だけ「もう夫婦なのだから毎回聞かなくてもいい」と言った。
けれどアレクシスは、「昨日よかったことが、今日もいいとは限らない」と答えた。
だから私は、毎日答える。
「はい」
腕が腰へ回る。
背中へ、彼の体温。
「もう少し近くに来てください」
言うと、さらに強く抱き寄せられた。
「これで?」
「はい」
「足りるか」
「今は」
「またそれか」
「便利でしょう」
「ああ」
静かな夜だった。
胸の痛みも。
悪夢もない。
契約も。
境界線も。
期限もない。
「アレクシス」
「何だ」
「一年、経ちましたね」
「ああ」
「契約どおりなら」
少しだけ、彼の腕が強くなる。
「今日で終わりでした」
「その話はするな」
「どうして」
「嫌だからだ」
「でも」
私は彼の腕の中で向きを変えた。
「今日までだったから、言いたいんです」
「何を」
「契約が終わっても」
彼の胸へ手を置く。
今はもう、そこに呪印はない。
「私はここにいます」
アレクシスの目が、少しだけ揺れた。
「一生?」
「一年経っても確認するんですね」
「ああ」
「では、一生です」
「そうか」
「あなたは?」
「いる」
「一生?」
「ああ」
「私が仕事をしすぎても?」
「止める」
「怒っても?」
「聞く」
「野菜を食べろと言っても?」
「努力する」
「そこだけ弱いですね」
笑う。
アレクシスの指が私の頬へ触れる。
「口づけていいか」
「はい」
今度は。
私からも近づいた。
婚約を破棄された雨の夜。
私は、自分には何も残っていないと思った。
けれど。
あの夜に失ったものより。
そのあと、自分で選び取ったもののほうが。
今はずっと多い。
家。
仕事。
少しずつ話し直している妹。
許せないまま距離を置いている父。
そして。
呪いがなくても、隣にいたい人。
「リリアーヌ」
「何です?」
「眠い」
「寝てください」
「お前も寝ろ」
「はい」
「明日は仕事を減らせ」
「それは話し合いましょう」
「却下する」
「またですか!」
私たちの言い争いは。
たぶん。
これからもずっと続く。
でも。
どちらかが一人で黙ることは、もうない。
同じベッドで。
同じ未来で。
何度でも話し合い。
怒り。
笑い。
選び直す。
それが。
契約から始まった私たち夫婦の。
本当の暮らしだった。




