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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第41話 正式な結婚式なのに、夫が私より緊張しています

 結婚式の朝、私は夜明け前に目を覚ました。


 緊張して眠れないと思っていたのに、実際には驚くほどよく眠っていた。目を開けたときには、カーテンの隙間から薄い朝日が差し込み、隣ではアレクシスがこちらへ背中を向けている。


 眠っているらしい。


 昨夜、婚礼前夜くらいは別々の寝室で過ごすべきだと、王妃様やハロルドから何度も言われた。それなのにアレクシスは、「別室で眠って寝不足になれば、式に支障が出る」と訳の分からない理屈を並べ、結局いつもどおり同じベッドへ入った。


 ただし、昨夜の彼は不自然なほど大人しかった。


 私へ抱きつくことも、手を握ることもなく、枕を一つ分空けたまま眠った。呪いがあった頃なら考えられなかった距離だ。


「アレクシス」


 小声で呼ぶ。


 返事はない。


「起きていますよね?」


 やはり返事はない。


 私は少し迷い、彼の背中へ指先で触れた。


「今日は結婚式ですよ」


「知っている」


 すぐに返ってきた。


「やっぱり起きていたんですね」


「ああ」


「いつから?」


「お前が起きる前から」


「では、どうして寝たふりを?」


 アレクシスがゆっくり振り返った。いつもと変わらない無表情――に見えたが、近くで見ると目元が少し険しい。


「考えていた」


「何をです?」


「逃げられない方法を」


「誰が逃げるんですか」


「お前が」


「どうして私が!」


「婚礼直前に気が変わる可能性がある」


「ありません」


「本当に?」


「何度目の確認ですか!」


 この十日間、毎日聞かれた。


 本当に結婚するのか。


 後悔していないか。


 北方へ行くことを嫌だと思わないか。


 自分のような面倒な男でよいのか。


 そして私が「はい」と答えるたび、その日の夜にはもう一度同じことを聞いた。


「アレクシス」


「何だ」


「もしかして、緊張しています?」


「していない」


「嘘」


「……少しだけだ」


「認めるのが早くなりましたね」


「今日は黒碑がなくても嘘は言わない」


 アレクシスが上体を起こした。寝間着の胸元に、もう呪印はない。滑らかな皮膚を目にするたび、今でも少しだけ安心する。


「何が怖いんです?」


 尋ねると、彼はしばらく黙った。


「式の途中で」


「ああ」


「お前が俺を見て、やはり嫌だと思うかもしれない」


「そんなことを考えていたんですか?」


「ああ」


「神殿で一生を約束したでしょう」


「神殿では命がかかっていた」


「契約書を破棄したあとも約束しました」


「あのときは、呪いが解けた直後だった」


「妹と話したあとも?」


「疲れていた」


「王宮から帰った馬車では?」


「アルベルトに腹を立てていた」


「全部無効にするつもりですか!」


 呆れて声を上げると、彼は少しだけ目を伏せた。


「何度聞いても、不安になる」


 小さな声だった。


 戦場で敵を前にしても、呪いで胸を引き裂かれても、弱音を吐かなかった人が。


 今日という日を、こんなにも怖がっている。


 私はベッドの上で彼の前へ膝をつき、両手で頬を挟んだ。


「触れられるのは嫌ですか?」


「嫌ではない」


「では、そのまま聞いてください」


「ああ」


「私は今日、あなたと結婚します。誰に命じられたからでも、家のためでも、王家のためでもありません」


 彼の灰銀色の目を、まっすぐ見る。


「私があなたを選んだからです」


「……ああ」


「式の途中で気が変わることもありません。仮にあなたが誓いの言葉を忘れても、祭壇で転んでも、緊張して私の名前を間違えても」


「それはない」


「例えです」


「名前を間違えるくらいなら死んだほうがいい」


「今日は死ぬという言葉を使わないでください!」


「分かった」


「それに、祭壇で転ぶ可能性が高いのは私のほうです」


「ああ」


「そこは否定してください!」


 アレクシスの口元が、ようやく緩んだ。


「もし転んだら、俺が支える」


「はい」


「支えきれず、二人で転んだら?」


「一緒に笑いましょう」


「人前で?」


「今日くらいは」


 彼は少し考え、それから私の手首を取った。


「口づけていいか」


「朝からですか?」


「ああ」


「式まで待てません?」


「待てない」


「子供みたいですね」


「ああ」


 開き直られると、叱る気がなくなる。


「一回だけです」


「昨日も聞いた」


「今日の一回です」


 私は目を閉じた。


 触れた唇は短く、優しかった。離れたあとも、アレクシスはしばらく私の頬へ手を添えたまま、何かを確かめるように見つめていた。


「何ですか」


「逃げないな」


「逃げません」


「本当に?」


「次に聞いたら、婚礼まで口をききません」


「それは困る」


「では、もう聞かないでください」


「努力する」


「約束!」


     ◇


 それからは、息をつく暇もなかった。


 王宮から派遣された衣装係と侍女たちが寝室へ押し寄せ、アレクシスはハロルドによって強制的に別室へ連れていかれた。


「なぜ追い出す」


「花嫁の支度を花婿が見てはなりません」


「昨日、衣装を見た」


「完成したお姿をご覧になってはならないという意味でございます」


「理由は」


「そういう決まりでございます」


「納得できない」


「旦那様」


「何だ」


「邪魔です」


 ハロルドの一言で、扉が閉まった。


 その後、髪を整え、化粧を施し、王妃様と選んだ青灰色の婚礼衣装を身につけた。真っ白ではない。北方の冬空と、雪が降る直前の薄明かりを思わせる色。その上へ銀糸の刺繍が入り、裾には小さな雪花と春の芽が描かれている。


「お美しいです」


 エマが、今にも泣きそうな顔で言った。


「まだ泣かないで」


「無理です」


「式が始まる前ですよ」


「婚約破棄された夜のことを思い出したら、もう……」


 エマが本当に泣き始め、化粧係から「花嫁まで泣かせないでください」と叱られる。


 その騒ぎの中、王妃様が静かに部屋へ入ってきた。


「よく似合っているわ」


「ありがとうございます」


「選んでよかった?」


「はい。私が着たいと思った衣装です」


「そう」


 王妃様は、少し目を潤ませた。


「それを聞けただけでも、今日は来た意味があったわ」


 彼女の手には、小さな箱があった。開くと、中には古い銀細工の髪飾りが入っている。


「これは?」


「私が婚礼の日につけたものよ」


「そんな大切なものを」


「あなたに受け取ってほしい。王太子妃になる娘へ渡すつもりで取っておいたけれど」


 王妃様は、自嘲するように笑った。


「今思えば、それも私の勝手な予定だったわね」


「王妃様」


「嫌なら、つけなくていい」


 以前なら、そんな選択肢は与えられなかった。


 私は髪飾りを見る。華美ではなく、細い枝に小さな花が咲いたような意匠だった。今日の衣装にもよく合う。


「つけたいです」


「本当に?」


「はい。王太子妃のためではなく、私の婚礼を祝ってくださるなら」


 王妃様が微笑んだ。


「もちろんよ」


 彼女自身の手で、髪飾りをつけてもらった。


 鏡の中の私は、もう王太子妃候補ではない。


 父に褒められるための娘でも。


 妹より優秀でなければならない姉でも。


 呪いを抑えるための契約妻でもない。


 ただ。


 アレクシスと結婚することを、自分で選んだ女だった。


     ◇


 式の始まる少し前、私は大聖堂の控え室で一人になった。


 正確には、王妃様が隣にいる。


「緊張している?」


「少し」


「アレクシスは、もっと酷い顔をしていたわ」


「見たんですか?」


「ええ。陛下が『戦に行く顔だな』と笑ったら、本気で睨んでいた」


 想像できる。


 私は思わず笑った。


「それで」


 王妃様が、扉の向こうへ視線を向ける。


「本当に一人で歩くの?」


「はい」


 祭壇へ続く長い道。


 本来なら、父親や家長が花嫁の手を取り、花婿のもとへ送る。


 私は一人で歩くと決めた。


「父上には頼めません」


「それを責めるつもりはないわ」


「では?」


「一人で歩くことと、一人で生きることは違うと伝えたかっただけ」


 王妃様の言葉に、私は黙った。


「あなたはずっと、一人で何でもできるように見せてきた。だから今日も、誰にも頼らず歩かなければならないと思っていないかしら」


「……少しは」


「そう」


「でも、一人で歩きたい気持ちも本当です」


 私は扉を見つめる。


「あの夜、家を追い出されてから、私は初めて自分で道を選びました。今日も、自分の足でアレクシスのところへ行きたいんです」


「なら、それでいい」


 王妃様は私の手を握った。


「ただし、途中で怖くなったら、周りを見なさい」


「周り?」


「あなたを見守っている人がいるわ」


 扉の向こうから、鐘の音が響いた。


 婚礼の始まりを告げる音。


「行ってらっしゃい、リリアーヌ」


 王妃様が、母親のような声で言った。


 私は深く頭を下げた。


「行ってまいります」


     ◇


 大聖堂の扉が開く。


 光が差し込んだ。


 長い通路の両側に、招待客が並んでいる。当初、王家は全上級貴族と外国使節を招くつもりだったが、私たちは規模をかなり縮小した。


 国王夫妻。


 王族。


 親しい貴族たち。


 公爵邸の使用人。


 北方から来てくれた領民や兵士。


 ガルドさん。


 エマ。


 ハロルド。


 そして。


 セシリア。


 彼女は席から立ち上がらず、ただ私を見ていた。泣いてはいない。笑ってもいない。


 視線が合う。


 セシリアが、小さく頭を下げた。


 私も同じように返す。


 それだけ。


 今は、それでよかった。


 一歩。


 前へ出る。


 衣装の裾が床を滑る。転ばないように気をつけながら、ゆっくり歩いた。


 途中、北方の村で会った老女が、鼻をすすっているのが見えた。その隣の少年は、木の剣を抱えて私へ大きく手を振ろうとし、母親に止められている。


 思わず笑った。


 怖くなったら周りを見なさい。


 王妃様の言葉どおりだった。


 私は一人で歩いている。


 でも。


 一人ではない。


 祭壇の前。


 アレクシスが立っている。


 黒を基調にした礼装。胸元にはグランツ公爵家の銀章。いつもと変わらない無表情に見える。


 けれど。


 近づくほど、分かる。


 明らかに緊張している。


 指先が少し硬い。


 肩にも力が入っている。


 そして、私を見たまま、瞬きが少ない。


 祭壇へ到着すると、彼が手を差し出した。


 私はその手を取る。


「遅い」


 第一声がそれだった。


「予定どおりです」


「長かった」


「入口からここまでですよ?」


「ああ」


「十日も待ったでしょう」


「それより長かった」


「どういう意味です?」


「十年」


 声が小さくなる。


「お前を探していた」


 胸が熱くなった。


「式の途中ですよ」


「知っている」


「神官様が見ています」


「構わない」


「私は構います」


 神官が咳払いした。


「誓いを始めてもよろしいでしょうか」


「はい」


「待て」


 アレクシスが止めた。


「何です?」


「本当に俺と結婚するか」


「またですか!」


 大聖堂のあちこちから、笑い声が漏れる。


 国王陛下に至っては、隠す気もなく笑っている。


「アレクシス」


「ああ」


「私は今、婚礼衣装を着て、一人で大聖堂を歩いて、あなたの前に立っています」


「ああ」


「これ以上、何を証明すればいいんです?」


「言葉で」


「結婚します!」


 少し大きな声になった。


 さらに笑いが広がる。


 アレクシスの肩から、ようやく力が抜けた。


「そうか」


「今さら安心しないでください!」


「無理だ」


 神官が、今度こそ誓いの言葉を読み上げ始める。


 病めるときも。


 健やかなときも。


 豊かなときも。


 貧しいときも。


 喜びも。


 悲しみも。


 二人で分かち合うか。


 神殿で聞いた言葉と似ている。


 痛みを一人で抱えず、二人で分けると決めた。


 私たちはもう。


 この誓いを、一度しているのかもしれない。


「アレクシス・ヴァン・グランツ」


 神官が呼ぶ。


「はい」


「リリアーヌを妻として愛し、守り、その意思を尊び、生涯を共にすることを誓いますか」


 アレクシスは、私を見た。


「誓う」


 短い。


 でも、迷いのない声。


「リリアーヌ・エヴァレット」


「はい」


「アレクシスを夫として愛し、支え、その弱さも面倒さも受け入れ、生涯を共にすることを誓いますか」


「今、面倒さと言いました?」


「王妃陛下からの追加でございます」


 客席を見る。


 王妃様が、何でもない顔をしている。


「王妃様!」


「誓うのか?」


 アレクシスが聞いた。


「そこだけ確認するんですか?」


「ああ」


 本当に。


 面倒な夫。


「誓います」


 私は答えた。


「ただし、我慢できないときは怒ります」


「分かった」


「過保護が酷いときも怒ります」


「ああ」


「野菜を残したときも」


「それは今関係ない」


「あります」


 神官が困ったように咳払いする。


「誓いは成立したものといたします」


 指輪を交換する。


 私の指へ、アレクシスが銀の指輪を通した。手が少し震えている。


「アレクシス」


「何だ」


「震えていますよ」


「お前もだ」


「私は寒いんです」


「嘘だ」


「あなたは?」


「怖い」


「何が」


「終わるまで」


 指輪をはめ終えた彼が、私の手を包む。


「まだ、夢のようだからだ」


 私は彼の指へ、同じ意匠の指輪をはめた。


「では、あと少しだけ夢に付き合ってください」


「ああ」


 神官が微笑む。


「それでは、誓いの口づけを」


 大聖堂が静かになる。


 アレクシスが私へ向き直った。


 そして。


 周囲に誰がいるかなど関係ないように、いつもの低い声で尋ねた。


「リリアーヌ」


「はい」


「触れていいか」


 一瞬。


 胸がいっぱいになった。


 呪いを抑えるために触れた最初の夜。


 同じベッドへ十個の枕を並べた日。


 抱きしめる前にも。


 手を握る前にも。


 口づける前にも。


 この人は必ず、私の答えを待った。


 だから。


 私は自分から一歩、彼へ近づいた。


「はい」


 彼の胸元へ手を添える。


「でも、今日は私からも触れます」


 背伸びをする。


 アレクシスが少し驚いた顔をした。


 その顔が珍しくて。


 私は笑いながら、先に彼の唇へ触れた。


 大聖堂に拍手と歓声が響く。


 離れようとすると、アレクシスの腕が腰へ回った。


「一回だけです」


「今日は婚礼だ」


「関係あります?」


「ああ」


「何回まで?」


「決めていない」


「勝手!」


 言い終わる前に、今度は彼から口づけられた。


 最初より長く。


 それでも優しく。


 周囲の拍手がさらに大きくなり、どこかで国王陛下が「長いぞ」と笑っている。


 ようやく離れたとき、私は顔が熱くて誰も見られなかった。


「アレクシス」


「何だ」


「皆が見ています」


「ああ」


「恥ずかしくないんですか」


「お前が俺の妻になった」


「はい」


「それ以外は、どうでもいい」


 ずるい。


 こんな日にまで。


 でも。


「私もです」


 小さく答えた。


「今は、それで十分です」


     ◇


 式を終え、大聖堂の外へ出ると、冬の空から細かな雪が舞い始めていた。


 北方の領民たちは「公爵様の婚礼に雪とは縁起がいい」と喜び、王都の貴族たちは寒そうに肩をすくめている。


 階段の上で、アレクシスが私の手を握った。


「リリアーヌ・ヴァン・グランツ」


 新しい名前。


 呼ばれた瞬間。


 胸の奥へ、ゆっくり染み込む。


「はい」


「もう逃げられない」


「最初から逃げません」


「一生?」


「また聞くんですか」


「ああ」


「一生です」


 答えると、彼はようやく心から安心したように笑った。


 その笑顔を見て。


 私は思った。


 婚約を破棄されたあの夜。


 すべてを失ったと思っていた。


 家も。


 未来も。


 誰かに選ばれる可能性も。


 でも。


 終わったのではなかった。


 あの夜から。


 私が自分で選ぶ人生が、始まったのだ。


「アレクシス」


「何だ」


「帰りましょう」


「ああ」


「私たちの家へ」


 彼の手が、少し強くなる。


「お帰り、リリアーヌ」


「まだ帰っていません」


「先に言った」


「早いです」


「待てない」


「本当に子供みたいですね」


「ああ」


 雪の中。


 私たちは手を繋ぎ、同じ場所へ帰った。


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