第40話 妹を許せないままでも、姉妹でいることはできますか
「私が、お姉様を嫌いになった日から話します」
セシリアはそう言ったあと、しばらく口を開かなかった。
応接室には、冷めかけた紅茶と、父がほとんど手をつけなかった焼き菓子が残っている。先ほどまでの怒鳴り声が嘘だったように静かで、壁際の時計が針を進める音まで聞こえた。
私は急かさなかった。
何かを告白しようとしている人へ「早く話して」と言う残酷さを、私は知っている。王宮で何度も、言葉を選ぶ時間すら与えられず、正しい答えだけを求められてきたからだ。
ただ、セシリアを優しく励ます気にもなれなかった。
今すぐ抱きしめて、「もういいのよ」と言えるほど、私は立派な姉ではない。
「いつだったの?」
結局、私から尋ねた。
セシリアが膝の上で指を組み直す。
「私が九歳のときです。お姉様は十二歳でした」
「母上が亡くなる前?」
「少し前です」
その頃のことなら覚えている。
母はすでに病気がちで、屋敷の奥の部屋から出られない日が増えていた。私は王太子の婚約者候補として礼儀作法や歴史、外国語の授業を受け始め、セシリアはまだ庭を走り回っていた。
「家庭教師に文字の書き取りを見てもらった日でした」
セシリアが言った。
「私、三つも間違えたんです。それで先生が、お姉様は一度で全部覚えたのに、と言いました」
「……」
「お父様も、リリアーヌを見習いなさいって。セシリアは落ち着きがなくて困るって」
父が言いそうな言葉だった。
「その日の夜、お姉様が私の部屋に来ました」
「覚えていないわ」
「でしょうね」
セシリアが少しだけ笑った。
責めるような笑みではなかった。
「お姉様は、先生が出した書き取りを全部もう一度紙に書いて、私へ持ってきてくれました。それから、覚えやすいように歌にして教えてくれたんです」
「そんなことをしたの?」
「はい。すごく変な歌でした」
「それは覚えていなくてよかったわ」
ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。
けれど、セシリアはすぐ顔を伏せた。
「私、嬉しかったんです。お姉様は優しいと思いました。でも同じくらい、嫌でした」
「なぜ?」
「お姉様は何でもできるのに、できない私を助けてあげることまでできるから」
胸の奥へ、細い針が刺さった。
「私は、そんなつもりでは」
「分かっています」
セシリアが私の言葉を遮った。
以前なら、私の話を最後まで聞かずに遮る妹を叱ったかもしれない。けれど今は、そのまま続きを待った。
「分かっていたから、もっと嫌だったんです。お姉様が悪い人だったら、ちゃんと嫌えた。意地悪で、私を見下して、失敗を笑う人だったら、私も堂々と憎めました」
セシリアの声が震える。
「でも、お姉様はいつも優しかった。できない私を助けて、泣けば慰めて、失敗すれば代わりに謝ってくれた。だから私は、お姉様を嫌いになる自分のほうが悪いんだと思いました」
「セシリア……」
「それで、もっと嫌いになりました」
正直な言葉だった。
聞いている私にも痛い。
けれど、たぶん彼女自身のほうが、ずっと痛い。
「お姉様が王太子殿下の婚約者になったとき、皆がお姉様を褒めました。さすがリリアーヌだ。エヴァレット家の誇りだ。セシリアも姉を見習えって」
「父上は、あなたにもそんなことを?」
「何度も」
知らなかった。
私は自分の課題をこなすことで精いっぱいだった。婚約者教育が厳しいこと、王宮で失敗できないこと、自分が家の期待を背負っていることばかり考えていた。
私が頑張れば、家族も喜ぶ。
セシリアも姉を誇りに思う。
勝手にそう信じていた。
「でも、お姉様は弱音を吐かなかった」
セシリアが続ける。
「つらい顔も見せなかった。私は、お姉様は何も苦しくないんだと思っていました。何でもできて、王太子殿下にも選ばれて、皆に愛されている人なんだって」
「違うわ」
「今は分かります。でも当時は分からなかった」
「そうね」
私は少し迷い、認めた。
「私も、分かってもらおうとしなかったから」
セシリアが顔を上げる。
「お姉様も?」
「私は姉だったもの。王太子殿下の婚約者でもあった。家の期待に応える立場の人間が、妹に泣き言を言ってはいけないと思っていた」
「言ってほしかったです」
「そう言われても、当時の私は言えなかったと思う」
きれいな答えではない。
けれど本当だった。
「たぶん私は、あなたを守らなければならない子供だと思っていたの」
「子供でした」
「私だって、三歳しか違わなかったわ」
「……そうですね」
「それなのに私は、あなたの前で何でも知っている姉の顔をしていた。何か困れば、あなたの代わりに解決してしまった」
文字の書き取りも。
父に叱られたときも。
社交界で失敗したときも。
「助けているつもりだったけれど、あなたが自分で何とかする機会まで奪っていたのかもしれない」
「でも、私も甘えていました」
セシリアは首を横に振った。
「お姉様に任せれば叱られなくて済んだ。お姉様の後ろにいれば、安全だった。なのに、陰ではお姉様ばかり褒められると怒っていたんです」
「人は、そんなに整った気持ちではいられないわ」
「お姉様も?」
問われて、すぐに答えられなかった。
私は妹を憎んでいる。
少なくとも、婚約者を奪われた夜には、そう思った。
けれど同時に、守ってやりたいと思う気持ちも、まだ残っている。
今、泣いている妹を見れば、昔のように髪を撫でたくなる。だが手を伸ばせば、また「優しい姉」の役割へ逃げてしまう気もした。
「私は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あなたに婚約者を奪われたとき、死んでしまえばいいと思ったわ」
セシリアの顔が青ざめた。
「お姉様」
「本当に、一瞬だけよ。でも思った」
隠さなかった。
「それから、すぐにそんな自分が怖くなった。妹へそんなことを考える私は、とても醜い人間だと思ったわ」
「……当然です」
「何が?」
「思って当然です。私がしたことですから」
「当然ではないわ。あなたが酷いことをしたからといって、私が何を考えても正しくなるわけではない」
セシリアは黙り込んだ。
「でも、今も許せない」
はっきり言った。
「あなたがアルベルト殿下に近づいたことも。私へ何も言わず、二人で話を進めていたことも。婚約破棄の場で、私を見ながら黙っていたことも」
「はい」
「特に、最後のことが許せない」
声が少し震えた。
「あの場で、あなたは泣いていた。でも私を助けるためには、何も言わなかった」
「怖かったんです」
「知っているわ」
「お父様にも、殿下にも嫌われるのが怖くて」
「それも分かっている」
「それでも」
セシリアが唇を噛む。
「私が悪いです」
「そうね」
簡単に否定しなかった。
ここで「あなたも被害者だった」と言えば、彼女は楽になるだろう。
だが、それだけでは私の痛みが置き去りになる。
「あなたにも事情はあった。でも、事情があれば傷つけていいわけではない。私にも父上へ逆らえなかった事情があったけれど、それであなたを対等に見なかったことがなくなるわけではないでしょう」
「はい」
「私たちは、どちらも相手をちゃんと見ていなかったのね」
私は完璧な姉。
セシリアは守られる妹。
そういう役を、互いに押しつけていた。
「アルベルト殿下に選ばれたとき」
セシリアが、小さな声で言った。
「嬉しかったです」
私は黙って彼女を見る。
「殿下が好きだったからだけではありません」
「私に勝ったと思った?」
セシリアの肩が震えた。
「……はい」
その返事は、分かっていても痛かった。
「やっと、お姉様に勝てたと思いました」
「そう」
「お姉様が持っている一番大切なものを、私が選ばれたことで奪えた。そんなふうに考えました」
「酷いわね」
「はい」
「最低ね」
「はい」
セシリアの目から涙が落ちる。
「でも」
私は続けた。
「正直に言ってくれてよかった」
「怒らないんですか」
「怒っているわ」
「顔が」
「今さら驚かないからよ」
私は自分でも嫌になるほど、静かだった。
「あなたが私を羨んでいたことは、前から分かっていた。でも、その程度を軽く考えていたの。妹なのだから、最後には姉を好きでいてくれると思っていた」
「好きでした」
「え?」
「大好きでした」
セシリアは泣きながら言った。
「大好きで、嫌いでした。尊敬して、消えてほしいと思いました。お姉様のようになりたかったし、お姉様ではない自分を見てほしかった」
矛盾している。
でも。
人の気持ちは、たぶんそういうものだ。
愛している人へ腹を立てる。
幸せでいてほしい人の失敗を望む。
近づきたいのに、傷つけて遠ざける。
「今は?」
聞いてみた。
「私のことが好き?」
セシリアは、すぐには答えなかった。
「分かりません」
「正直ね」
「好きだと言えば、許してもらえるかもしれない。でも、それは嘘になると思います」
「そうね」
「今は、怖いです」
「私が?」
「はい。嫌われているのが怖い。でも、お姉様に優しくされたら、それも怖いです。また私だけが悪い子供で、お姉様が許してくれる人になるから」
その言葉を聞いて。
私は初めて、少し笑った。
「そこは、同じね」
「同じ?」
「私も、あなたに泣かれると優しい姉に戻りそうで怖いの」
「……戻ってはいけないんですか」
「昔のままでは、きっとまた同じことになるわ」
私はティーポットへ手を伸ばした。
紅茶は完全に冷めている。それでも新しいものを呼ぶ気にはなれず、二人分のカップへ少しずつ注いだ。
「飲む?」
「冷めていますよね」
「ええ」
「お姉様、冷たい紅茶は嫌いでしょう」
「あなたもでしょう」
「はい」
「でも今、使用人を呼ぶと気まずいから」
「……そうですね」
セシリアが、泣きながら少し笑った。
二人で冷たい紅茶を飲む。
美味しくない。
昔なら、私がすぐに新しいものを用意させただろう。妹が不快に思う前に、何もかも整えた。
今日は整えなかった。
「それで」
セシリアが、カップを置く。
「私たちは、どうなるんでしょう」
「分からないわ」
「姉妹には戻れませんか」
問いかけられ、私は少し考えた。
「姉妹ではあるでしょう。血の上では」
「お父様に言ったのと同じですね」
「そうね」
「嫌です」
「何が?」
「血の上だけの姉妹になるのは」
セシリアが、初めて少しわがままな顔をした。
「でも、すぐ昔のように戻るのも嫌でしょう?」
「はい」
「私も嫌よ」
「そこは、はっきり言うんですね」
「今日の私たちは、嘘を言わないことにしたのでしょう」
神殿の黒碑ではないが。
嘘をつかずに話すことは、痛い。
それでも必要なのだと思う。
「昔の姉妹には戻れない」
私は言った。
「でも、知らない者同士としてなら、もう一度話せるかもしれない」
「知らない者同士?」
「私は、今のあなたをほとんど知らないもの。好きなものも、嫌いなものも。王太子妃教育を受けて何を感じたかも、アルベルト殿下と今どうなっているかも」
「私も、お姉様のことを知りません。グランツ公爵様と毎晩、何を話しているのかも」
「そこは知らなくていいわ!」
思わず声が大きくなった。
セシリアが目を丸くする。
「何かあるんですか?」
「ありません!」
「顔が赤いです」
「暖炉が熱いのよ」
「火は小さいですけど」
「セシリア」
「はい」
「今の話は終わり」
妹が、ほんの少しだけ笑った。
昔の無邪気な笑顔ではない。
私の知らない時間を過ごした人の笑顔。
「では」
セシリアが恐る恐る尋ねる。
「今度、お茶に来てもいいですか」
「すぐには決められないわ」
「……はい」
「でも、手紙なら」
私は続けた。
「手紙なら、読めると思う」
セシリアの顔が上がる。
「返事は?」
「すぐには書かないかもしれない」
「それでもいいです」
「優しいことを書けないかもしれない」
「はい」
「途中で腹が立って破るかも」
「二通書きます」
「そういう問題?」
「一通は破る用です」
私は、とうとう笑ってしまった。
「相変わらず、変なところで図太いのね」
「お姉様に似たのかもしれません」
「それは嫌だわ」
「私も少し嫌です」
「少し?」
「今日は嘘を言わないことにしたので」
ずるい返し方まで覚えたらしい。
◇
一時間ほど話したあと、セシリアは帰ることになった。
父の馬車へは乗らず、王宮から迎えを頼むという。アルベルト殿下との今後について、王妃様へ相談するつもりらしい。
「お姉様」
玄関で、セシリアが立ち止まった。
「婚礼には、出席してもいいですか」
私はすぐに答えられなかった。
「父上に言われたからではなく?」
「違います」
「仲の良い姉妹を演じるつもりでも?」
「ありません」
「では、なぜ」
「お姉様が幸せになるところを、見たいです」
その言葉を、完全には信じられなかった。
今はまだ。
けれど、嘘だとも思わなかった。
「招待状を送るわ」
私が言うと、セシリアは目を潤ませた。
「ありがとうございます」
「でも、妹として特別な役目を頼むかは分からない」
「はい」
「席も私が決める」
「どこでも構いません」
「アルベルト殿下の隣になるかもしれないわよ」
少し意地悪だった。
セシリアは困ったように笑う。
「それは王妃様と相談します」
「そうしたほうがいいわ」
抱き合わなかった。
頬へ口づけることもしなかった。
ただ、互いに頭を下げた。
「また」
セシリアが言う。
「手紙を書きます」
「ええ」
扉が閉じる。
私は玄関広間に一人残り、長く息を吐いた。
「終わったか」
背後から声がした。
「アレクシス?」
振り返る。
階段の陰から、アレクシスが現れた。
「隣の部屋にいると言いましたよね?」
「ああ」
「ここは玄関です」
「途中で移動した」
「聞き耳は?」
「立てていない」
「本当に?」
「ああ」
「では、なぜ終わったと分かったんです?」
「セシリアが出てきた」
「そうですね」
疑わしい。
ものすごく疑わしい。
「どこまで聞きました?」
「何も」
「本当に?」
「ああ」
「毎晩何を話しているか、妹に聞かれたことも?」
「……」
「聞いたんですね!」
「扉の近くを通っただけだ」
「それを聞き耳と言うんです!」
アレクシスが私の前まで来る。
「それで」
「何です?」
「何と答えた」
「妹へ?」
「ああ」
「何もないと」
「嘘だな」
「何があるんですか!」
「同じベッドで眠っている」
「それだけでしょう!」
「口づけもした」
「玄関で言わないでください!」
顔が熱くなる。
アレクシスは少しだけ満足そうだった。
「何です、その顔」
「妹にも言えないことを、俺とはしている」
「張り合わないでください!」
「重要だ」
「セシリアは妹です!」
「ああ」
「嫉妬の相手にしないで!」
「嫉妬ではない」
「では何です?」
アレクシスは少し考えた。
「確認だ」
「何の?」
「お前が、俺にしか見せない顔があることの」
また。
そういうことを。
何でもない顔で言う。
「ありますよ」
私は少しだけ意地になり、答えた。
「あなたにしか見せない顔」
「どんな?」
「怒っている顔です」
「毎日見る」
「困っている顔も」
「それも見る」
「泣いた顔も」
「ああ」
「寝ぼけて抱きつく顔も」
「ああ」
「そこは忘れてください!」
「嫌だ」
アレクシスの手が、私の頬へ触れる手前で止まる。
「触れていいか」
「……はい」
頷く。
指が、頬を優しく撫でた。
「疲れたか」
「かなり」
「後悔している?」
セシリアと話したことを。
たぶん、そう聞いている。
「少し」
私は正直に答えた。
「知らなくてもよかったことまで、知りましたから」
「ああ」
「私自身の嫌な部分も、見つかりました」
「ああ」
「でも、話してよかったと思います」
「そうか」
「許せたわけではありません」
「許さなくていい」
「姉妹なのに?」
「姉妹でもだ」
アレクシスが迷いなく言った。
「許すかどうかを、相手の立場で決める必要はない」
「あなたは、仲間の皆さんを許していますか」
少し意地悪な質問だった。
十年前、彼を殴り、神殿から連れ出した人たち。
「許していない」
「え?」
「三人がかりで殴られた。かなり痛かった」
「そこですか!」
「だが感謝している」
アレクシスは淡々と続ける。
「許さないことと、大事に思うことは、同時にできる」
私は、しばらく何も言えなかった。
「……そうですね」
「ああ」
「私も、いつかそうなれるでしょうか」
「知らん」
「そこは励ましてください」
「ならなくてもいい」
「どうして」
「お前が決めることだからだ」
本当に。
この人は。
優しい言葉は下手なのに。
必要な言葉だけは、時々驚くほど真っ直ぐにくれる。
「アレクシス」
「なんだ」
「少し、抱きしめてください」
彼の目がわずかに見開かれた。
「ここで?」
「誰もいません」
「ハロルドがいるかもしれない」
「あなたが気にするんですか?」
「気にしない」
「では」
言い終わる前に、腕が背中へ回った。
強いけれど、苦しくはない。
私は彼の胸へ額を預け、目を閉じた。
「もう少し」
「ああ」
腕に力が加わる。
「これで?」
「はい」
「足りるか」
「今は」
「便利な言葉だな」
「あなたに教わりました」
父を許してはいない。
セシリアも、まだ許せない。
アルベルトとの七年間が消えたわけでもない。
それでも。
昔へ戻るのではなく、新しい関係を一つずつ選び直すことはできる。
たぶん家族も。
夫婦も。
最初から完成しているものではない。
面倒な話をして。
傷ついて。
時には許せないまま。
それでも次に会う約束をする。
そうやって作っていくものなのだろう。
「リリアーヌ」
「何です?」
「婚礼まで、あと十日だ」
「そうですね」
「長い」
「準備期間としては短いです!」
「夫になるまでが長い」
「もう夫だと言っていたでしょう!」
「正式な、だ」
今度は、この人がその言葉を使う。
「では十日、待ってください」
「無理だ」
「どうするつもりです?」
「毎日確認する」
「何を」
「本当に俺と結婚するか」
「面倒!」
「ああ」
姉妹の話を終えた直後。
私は早くも。
別の面倒な家族への対応に、追われることになった。




