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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第39話 父から「家へ戻れ」と言われましたが、帰る家はもうあります

 エヴァレット公爵が訪ねてきたのは、私が王宮から戻った翌日の午後だった。


 先触れには、ただ「娘と婚礼について話し合いたい」とだけ書かれていた。


 娘。


 その言葉を見た瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


 婚約を破棄された夜、家から出ていけと言った人が、今になって私を娘と呼ぶ。


 腹が立つ。


 けれど同時に、あの人がどんな顔で来るのか気になっている自分もいた。


「会わなくていい」


 書状を読み終えたアレクシスが、即座に言った。


「まだ何も決めていません」


「なら、会わないと決めろ」


「それでは私が決めたことにならないでしょう」


「俺が決めた」


「もっと悪いです!」


 執務室の机を挟み、私はアレクシスを睨んだ。


「父に会うかどうかは、私が選びます」


「ああ」


「今、納得していませんね?」


「ああ」


「認めるんですか」


「会わせたくない」


「どうして」


「お前を傷つける」


 真っ直ぐな答えだった。


「傷つくかもしれません」


「ああ」


「でも、傷つくから避けると、ずっと父の言葉を怖がることになります」


「怖がっている?」


「少し」


 私は正直に答えた。


「会ったら、昔のように何も言えなくなるかもしれないと思っています」


「なら俺も同席する」


「父は私と二人で話したがるでしょう」


「関係ない」


「あります」


「俺は夫だ」


「まだ正式には」


「その言い方は嫌だ」


 アレクシスの眉間に皺が寄る。


 契約を破棄してから、この人は「まだ正式には」という言葉に、とても敏感になった。


「分かりました。夫です」


「ああ」


「嬉しそうですね」


「ああ」


「そういうときだけ素直」


「お前の父親と二人きりにはしない」


「父ですよ?」


「だからだ」


 アレクシスは腕を組む。


「血が繋がっていれば、傷つけてもいい理由になるのか」


「なりません」


「なら俺がいる」


 強い口調だった。


 けれど、命令ではない。


 私が嫌だと言えば、たぶん部屋の外で待つつもりなのだろう。


「同席してください」


 私が言うと、彼は少しだけ肩の力を抜いた。


「ただし」


「何だ」


「私が話している間は、黙っていてください」


「無理かもしれない」


「努力ではなく約束してください」


「……分かった」


「本当に?」


「ああ」


「父を睨まないでください」


「それは無理だ」


「アレクシス!」


     ◇


 約束の時間より十分早く、エヴァレット公爵はグランツ公爵邸へ到着した。


 応接室へ入ってきた父は、以前より老けて見えた。


 ほんの数週間しか経っていない。それなのに、髪に白いものが増え、目の下には濃い影がある。


 その後ろに、セシリアがいた。


「……お姉様」


 小さな声。


 私は何と返せばいいか分からず、軽く頭を下げた。


「どうぞ、お座りください」


 父へ告げる。


 自分の声が思ったより落ち着いていたことに、少し驚いた。


 父はアレクシスを見た。


「グランツ公爵。これは家族の話だ。席を外していただきたい」


「断る」


 即答だった。


「アレクシス」


「黙る約束はした。出ていく約束はしていない」


「まだ話も始まっていません!」


「言われたから答えた」


 父の眉がわずかに動く。


「リリアーヌ。お前からも言いなさい」


 その言い方。


 昔と同じ。


 私が父の命令を受け、周囲へ取り次ぐのが当然だと思っている。


「アレクシスには、私から同席をお願いしました」


「なぜだ」


「私の夫だからです」


 口にしてから、隣を見る。


 アレクシスが明らかに嬉しそうな顔をしている。


「今、喜ばないでください」


「無理だ」


「話が進みません」


 父が不快そうに息を吐いた。


「正式な婚礼前だろう」


「契約は破棄しましたが、互いに夫婦であると決めています」


「貴族の婚姻は、当人たちだけで決めるものではない」


「だから王家へ手続きを進めています」


「それでも、父親である私へ相談するのが筋だ」


 胸の中に、小さな棘が刺さった。


「父親」


 私は、その言葉を繰り返した。


「何だ」


「いえ。久しぶりに聞いた気がしましたので」


 父の顔が固くなる。


 セシリアが膝の上で両手を握った。


「今日は、お前を責めに来たのではない」


「そうですか」


「家族として、やり直すために来た」


 父は少し身を乗り出した。


「王家から正式な謝罪があった。アルベルト殿下との婚約破棄についても、エヴァレット家に非はないと明言された。お前がグランツ公爵夫人になることも決まった」


「まだ婚礼前です」


「だからこそだ」


 父の声に、少し熱がこもる。


「婚礼までに家へ戻れ」


 分かっていた。


 おそらく、そう言うだろうと。


 それでも、実際に聞くと不思議な気持ちになった。


「どの家へですか」


「エヴァレット公爵邸に決まっている」


「なぜ戻る必要があるのです」


「花嫁は実家から送り出されるものだ。それに、お前とセシリアの不仲を世間へ晒すわけにはいかない」


 世間。


 やはり最初に出てくるのは、それだった。


「家族としてやり直すためでは?」


「それもある」


「それも」


「言葉尻を取るな」


 父の声が、昔のように少し強くなった。


 身体が勝手に固くなる。


 黙れ。


 そう言われる前の感覚。


 反論すれば、さらに冷たい目を向けられる。だから先に謝り、父が望む答えを探していた。


 隣で、アレクシスの指が動いた。


 私の手へ触れる寸前で止まる。


 許可を待っている。


 私は机の下で、自分から彼の手を握った。


 それだけで、呼吸が少し楽になった。


「言葉尻ではありません」


 父を見る。


「何を一番大切にしているか、言葉には出るものです」


「お前は昔から、理屈ばかりだな」


「そうですね」


 否定しなかった。


「役に立つ理屈なら褒められました。父上に都合が悪いと、可愛げがないと言われました」


「そんな昔のことを」


「私には昔ではありません」


 声は震えていなかった。


 怒鳴る必要もない。


「婚約を破棄された夜、父上は私に何と仰ったか覚えていますか」


 父が目を逸らした。


「感情的になっていた」


「覚えているのですね」


「リリアーヌ」


「『王太子妃になれない娘を家に置く意味はない』」


 自分の口で言うと、思ったより痛かった。


 アレクシスの手が強くなる。


「『セシリアの邪魔になる前に出ていけ』」


「もういい」


「私はよくありません」


「謝ると言っている!」


 父が声を荒らげた。


 私は少し驚いた。


 謝罪より先に、「謝ると言っている」と怒る。


 父らしいと思った。


「まだ、謝罪の言葉は聞いていません」


「……」


「家へ戻れ。姉妹で仲直りしろ。世間に不仲を晒すな。父上は、今も私へ命じているだけです」


「では、どうすればいい!」


 父が机へ拳を置いた。


「私は間違えた。それは認める。だが、いつまで責め続けるつもりだ!」


「責め続けてはいません」


「なら帰れ!」


「帰らないことが、責めることになるのですか」


 父が言葉に詰まった。


「私は父上を罰するために戻らないのではありません」


「では、なぜだ」


「帰る家が、もうあるからです」


 隣を見る。


 アレクシスも私を見ていた。


 灰銀色の目。


 最初は怖いと思った目。


 今は、この人の隣なら自分の言葉を失わずにいられる。


「私はグランツ公爵邸へ帰ります」


「そこはお前が突然入り込んだ他人の家だ!」


 アレクシスの表情が変わった。


 口を開こうとする。


 私は手を強く握り、止めた。


 約束。


 今は私が言う。


「婚約を破棄された夜、雨の中にいた私を迎え入れてくれた家です」


「呪いを解くために必要だっただけだろう」


 父の言葉が、胸を突き刺した。


 昔の私なら。


 きっと、そうだと思った。


 でも。


「最初は、そうでした」


 私は答える。


「私も契約が必要だった。アレクシスも、呪いを抑えるために私を必要としていた」


「なら」


「今は呪いがありません」


 父が黙った。


「契約書も破棄しました。それでも私たちは一緒にいます」


「一時の感情だ」


「そうかもしれません」


 正直に言った。


「一生続くと、今ここで証明することはできません。父上と母上も、結婚したときは一生を誓ったのでしょう。それでも母上が亡くなったあと、家族は少しずつ変わりました」


「母親を持ち出すな」


「父上が家族の話をされたのです」


 父の顔に、傷ついたような表情が浮かぶ。


 それを見て、少しだけ罪悪感が湧いた。


 私はまだ父を完全に嫌いになれていない。


 幼い頃、肩車をしてもらった記憶もある。母が生きていた頃は、食卓で笑っていた。熱を出した夜、手を握ってくれたこともあった。


 だから。


 簡単ではない。


「父上」


 私は声を少し落とした。


「私を愛していなかったとは思いません」


 父が、ゆっくり顔を上げる。


「幼い頃は、可愛がってくださった。王太子妃になることを誇りにも思ってくださった」


「なら」


「でも、父上の愛情は、私が期待通りでいる間だけでした」


「違う!」


「違いますか?」


「お前のためを思って」


「私が婚約を破棄された夜も?」


「……」


「一人で雨の中へ出ていくことが、私のためだったのですか」


 父は答えなかった。


「私を家から追い出したあの夜に」


 ゆっくり。


 一つずつ。


 言葉を置く。


「父上は、私の帰る場所ではなくなりました」


 部屋が静まり返った。


 父の顔から、怒りが抜ける。


 残ったのは、疲れと、少しの後悔だった。


「……私は」


 父が、掠れた声を出す。


「お前の婚礼で、父親として祭壇まで連れていきたい」


 その願いは。


 予想していたより、胸へ響いた。


 幼い頃。


 いつか父に手を引かれ、花嫁として歩く日を思い描いたことがある。


 母が笑い。


 セシリアが泣き。


 父が少し寂しそうに私の手を新郎へ渡す。


 そんな未来を。


 確かに、望んでいた。


「……できません」


 声が少し震えた。


「なぜだ」


「その役目だけを、今から父上にお願いすることはできません」


「私はお前の父親だ」


「血の上では」


「リリアーヌ!」


「父親であることは、婚礼の日だけ選べる役目ではありません!」


 初めて。


 声が大きくなった。


 父が目を見開く。


「追い出した夜には娘ではないと言い、私が公爵夫人になると決まったら父親に戻る。それを受け入れれば、私はまた父上の都合に合わせる娘へ戻ってしまいます」


「では誰に頼むつもりだ」


「一人で歩きます」


「そんな花嫁がどこにいる!」


「ここにいます」


「家の恥だ!」


 父の声が響いた。


 セシリアが、びくりと身体を揺らす。


 次の瞬間。


「恥なのは、お父様です!」


 叫んだ。


 私も父も、セシリアを見る。


 彼女は顔を真っ赤にし、膝の上で握っていた手を震わせていた。


「セシリア」


「お父様は、ずっとそうです」


「黙りなさい」


「嫌です!」


 父が固まる。


 セシリアが父へ「嫌」と言うところを、私は初めて見た。


「お姉様が王太子妃になるときは、自慢の娘だと言った。婚約を破棄されたら、役に立たないから出ていけと言った。グランツ公爵夫人になると分かったら、家へ戻れって」


「家族を立て直そうとしているんだ!」


「違います!」


 セシリアの目から涙が溢れる。


「評判を立て直したいだけでしょう!」


「お前まで何を」


「私にも言いましたよね。お姉様と仲直りしろ。婚礼では仲の良い姉妹に見えるようにしろって」


 私はセシリアを見る。


 初めて聞いた。


「それで、今日は一緒に来たの?」


 尋ねると、セシリアは泣きながら頷いた。


「最初は」


 声が途切れる。


「お父様に言われたから。でも……お姉様に会いたかったのも、本当です」


「セシリア」


「私、お姉様に謝れば、すぐ許してもらえるとは思ってません。仲直りしたいなんて、そんな勝手なことを言うつもりも……」


 父が立ち上がる。


「もう帰るぞ」


「私は帰りません」


 セシリアが言った。


「何?」


「お姉様と話します」


「私の許可なく?」


「どうして、お父様の許可が必要なんですか!」


 父の顔が、怒りで赤くなる。


 でも。


 何も言えなかった。


 今まで従ってきた娘が、初めて正面から反抗したからだ。


「エヴァレット公爵」


 それまで黙っていたアレクシスが、ようやく口を開いた。


 低い。


 冷たい声。


「話は終わりだ」


「これは私の家族の問題だ」


「ここは俺の家だ」


 父がアレクシスを睨む。


「娘を奪ったつもりか」


「違う」


 アレクシスは、私の手を握ったまま答えた。


「リリアーヌが自分でここを選んだ」


 胸が熱くなる。


「そして」


 アレクシスの目が、父を真っ直ぐ射抜く。


「お前が追い出した夜から、俺は何度でも彼女を迎えに行くと決めている」


「そんなことを」


「今度、リリアーヌの意思を無視して連れ戻そうとしたら」


 私の手に、少しだけ力が入る。


「俺が止める」


 父は何か言おうとした。


 けれどアレクシスの表情を見て、飲み込んだ。


「……後悔するぞ」


 その言葉が誰へ向けられたのか分からなかった。


 私へか。


 セシリアへか。


 それとも、自分自身へか。


 父は踵を返し、応接室を出ていった。


 扉が閉まる。


 静かになる。


 残されたセシリアは、顔を伏せたまま肩を震わせていた。


 私はすぐに声をかけられなかった。


 慰めればいいのか。


 怒ればいいのか。


 抱きしめるべきか。


 何も分からない。


 姉妹なのに。


 姉妹だったからこそ。


「……お姉様」


 セシリアが、恐る恐る顔を上げる。


「少しだけ、お話ししてもいいですか」


 断ることもできた。


 今は無理だと言うことも。


 アレクシスが私を見る。


 答えを急かさない。


 選ぶのは私。


「はい」


 私は答えた。


「でも、昔のようには話せないと思う」


「分かっています」


「優しいことも言えないかもしれない」


「はい」


「許せないことも、たくさんあるの」


 セシリアの目から、また涙が落ちる。


「それでもいいです」


 声を震わせながら。


 彼女は、今度こそ自分の意思で言った。


「嫌われたままでもいいから、私の話を聞いてください」


 私はアレクシスの手を離した。


 離れる直前、彼の指が私の指先を軽く撫でる。


 怖ければ呼べ。


 言葉にしなくても、そう伝わった。


「隣の部屋にいる」


 アレクシスが言う。


「聞き耳は立てないでください」


「努力する」


「約束してください!」


「ああ」


 彼が部屋を出る。


 応接室には。


 私と。


 妹だけが残った。


 昔は、何でも知っていると思っていた妹。


 それなのに。


 私たちは長い間、互いの一番醜い感情を見ないふりをしていた。


「セシリア」


「はい」


「どこから話す?」


 彼女はしばらく迷ったあと、涙を拭わずに答えた。


「私が、お姉様を嫌いになった日から」


 その言葉を聞いて。


 私は初めて。


 妹の中にも。


 私の知らない七年間があったのだと気づいた。


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