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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第38話 元婚約者が「最後に一度だけ話したい」と待っていました

 王宮へ向かう朝、アレクシスは私の外出予定表を、朝食が終わるまでに四回確認した。


 一回目は食事の前。


 二回目はスープを飲んでいる途中。


 三回目は私がパンへジャムを塗っているとき。


 四回目は、もう玄関へ向かおうと椅子を立ったあとだった。


「王宮へ着くのが十時。王妃様との衣装選びが二時間。そのあと昼食をいただき、午後は宝飾品と招待客の確認。夕方四時には王宮を出ます」


「遅い」


「昨日から同じ予定です」


「昼食はいらない」


「私が決めることではありません」


「宝飾品の確認も別の日でいい」


「婚礼まで時間がありません」


「招待客は全員断れ」


「結婚式が成立しません!」


 向かいで紅茶を飲んでいたハロルドが、静かにカップを置いた。


「旦那様」


「何だ」


「リリアーヌ様は王宮へ婚礼のご準備に向かわれるのであって、戦地へ赴かれるのではございません」


「王宮のほうが面倒だ」


「その点には同意いたしますが」


「ハロルドさんまで!」


「ですが、朝から四度も予定をご確認になる必要はございません」


「三度だ」


「四度でございます」


「最初は確認ではない。聞いただけだ」


「それを世間では確認と申します」


 アレクシスは不満そうに眉を寄せた。


「俺も行く」


「駄目です」


「なぜ」


「王妃様から、衣装を選ぶ間は絶対に入れるなと言われています」


「俺は夫だ」


「まだ正式には婚礼前です」


「本当の夫になると決めた」


「それとこれとは別です」


「別ではない」


「別です」


 何度目か分からない押し問答をしていると、エマが私の外套を持ってきた。


「リリアーヌ様、お時間でございます」


「ええ」


「俺も行く」


「アレクシス」


「何だ」


「お仕事をしてください」


「している」


「朝から私の予定しか見ていませんよね?」


 アレクシスが黙った。


 ハロルドも黙った。


 エマは顔を伏せた。肩が小さく揺れている。


「笑いましたね?」


「いいえ」


「絶対に笑いました」


「リリアーヌ様」


 ハロルドが、アレクシスの前へ書類の束を置く。


「旦那様には、北方神殿に関する報告書を本日中にまとめていただきます」


「明日でいい」


「よくございません」


「リリアーヌが戻ってから」


「旦那様」


 ハロルドの声が少しだけ低くなった。


 アレクシスはしばらく彼を見たあと、ようやく書類へ手を伸ばした。


「四時だな」


「はい」


「遅れるな」


「王宮の都合があります」


「五分遅れたら迎えに行く」


「十五分は待ってください!」


「十分」


「交渉するところではありません!」


 私は外套を受け取り、玄関へ向かった。


 扉を出る直前、振り返る。


 アレクシスはもう書類へ目を落としていた。けれど、私が立ち止まった気配に気づいたのか、すぐ顔を上げる。


「行ってきます」


「ああ」


「そこは?」


 少し考えてから。


「行ってこい」


「はい」


「早く帰れ」


「努力します」


「信用できない」


「あなたに言われたくありません」


 いつものように言い返してから、私は屋敷を出た。


 それでも馬車へ乗り込んだあと、胸の中には不思議な温かさが残っていた。


 帰りを待ってくれる人がいる。


 七年間、王宮へ通い続けた頃には、知らなかった感覚だった。


     ◇


「白は嫌なの?」


 王妃様が、絹の生地を手にしたまま尋ねた。


「嫌というわけではありません。ただ、真っ白すぎるものは、少し落ち着かなくて」


「そうね。あなたは七年間、王家の色に合わせてばかりだったもの」


 衣装室には、白だけでも数えきれないほどの生地が並べられていた。青みがかった白、乳白色、銀糸を織り込んだもの。淡い金色や薄い青、北方の雪を思わせる灰白色まである。


 以前の私なら、王妃様が差し出したものを見て「素晴らしいです」と答えていただろう。


 似合うか。


 着たいか。


 そんなことを考える前に、王太子妃として正しいものを選んでいた。


「これは?」


 王妃様が、淡い青灰色の布を私の肩へ当てる。


「北方の冬空みたい」


「きれいです」


「きれいだから聞いているのではないのよ。あなたが着たい?」


 答えを急かさず、王妃様が私を見ている。


「……着てみたいです」


「では候補に入れましょう」


 それだけのことなのに、少し泣きそうになった。


「リリアーヌ?」


「大丈夫です」


「その言葉は、グランツ公爵に禁止されたのでしょう?」


「どうしてご存じなんですか」


「陛下が面白がって話していたわ」


「王宮中へ広がっていませんよね?」


「もう遅いと思う」


「そんな」


 王妃様が笑った。


 以前より、ずっと人間らしい笑い方だった。


「それにしても、あのアレクシスがねえ」


「何ですか」


「婚礼衣装の男性画家を全員断れと言ってきたのよ」


「本当に書状を出したんですか!」


「三通も」


「三通?」


「一通目は命令。二通目は理由。三通目は、女性画家なら費用はすべて自分が出すという提案」


 頭が痛い。


「帰ったら怒ります」


「ほどほどにしてあげなさい。あの子なりに不安なのでしょう」


「不安?」


「あなたが、あまりに長くアルベルトの隣にいたから」


 王妃様の声が少し沈んだ。


 私も、目の前の生地へ視線を落とす。


「七年ですものね」


「ええ。長すぎたわ」


 王妃様が、そっと布を畳んだ。


「あの子があなたを待っている」


 一瞬、誰のことか分からなかった。


「アレクシスが?」


「いいえ」


 王妃様は、苦い顔をした。


「アルベルトよ」


 胸の中が、少しだけ固くなる。


「……どこにいますか」


「西の小庭。あなたと最後に一度だけ話したいそうよ。もちろん、会いたくないなら断っていい。私から伝えるわ」


 会いたくない。


 そう思う自分がいた。


 今さら何を話すのかとも。


 七年間を返してほしいと言って、返ってくるわけではない。彼が謝ったからといって、婚約破棄された夜の痛みが消えるわけでもない。


 けれど。


「会います」


「本当に?」


「はい」


 私は自分の手を見る。


 そこにはもう、王太子から贈られた指輪はない。


「今のまま結婚式を迎えたら、いつか思い出す気がするんです。あのとき話しておけばよかった、と」


「そう」


 王妃様は少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「では、行ってきなさい。アレクシスには?」


「言わなくても、あとで分かると思います」


「どうして」


「たぶん、顔で」


 あの人は。


 私の顔色が少し違うだけでも気づく。


「そうね」


 王妃様も、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 西の小庭は、七年前とほとんど変わっていなかった。


 低い生け垣。


 冬でも枯れない常緑樹。


 中央には小さな噴水がある。


 昔、アルベルトと二人で散歩したこともあったはずだ。けれど、何を話したのか思い出せない。


 きっと、次の式典や外交使節の予定について話していたのだろう。


 彼は噴水の前に立っていた。


「リリアーヌ」


 名前を呼ばれる。


 以前なら、それだけで背筋を伸ばした。


 今は。


 ただ、懐かしい声だと思った。


「お待たせしました、殿下」


「その呼び方はやめてくれないか」


「では、何と?」


「アルベルトと」


「……今は、そう呼ぶ理由がありません」


 彼の顔が少し歪む。


「そうだな」


 否定しなかった。


 以前のアルベルトなら、「七年も一緒にいたのだから」と言ったかもしれない。


 少し。


 変わったのだろうか。


「時間を取ってくれてありがとう」


「長くはお話しできません。王妃様がお待ちです」


「ああ。分かっている」


 アルベルトは、すぐに話し始めなかった。


 手袋をつけた手を何度も組み直し、ようやくこちらを見る。


「復縁を頼むつもりはない」


「そうですか」


「信じていない顔だな」


「以前、一度頼まれましたから」


「あのときの私は、君がいなくなって困っていた」


「今は?」


「今も困っている」


 素直な答えだった。


 私は何も言わず、続きを待つ。


「だが、困っていることと、君を愛していることは、同じではなかった」


 冷たい風が吹いた。


 噴水の水面が揺れる。


「七年間、君はいつも隣にいた。私が何を忘れても覚えていた。誰と会うべきか、何を言ってはいけないか、すべて教えてくれた。私が失敗すれば、見えないところで直してくれた」


「はい」


「私はそれを、愛されているから当然なのだと思っていた」


 胸の奥に、昔の痛みが少し戻った。


「君が疲れているか。嫌がっているか。何をしたいか。考えなかった」


「考える必要がないと思っていたのでしょう」


「ああ」


 アルベルトが俯く。


「君は何でもできたから」


「できるように見せていただけです」


「今なら分かる」


「今さらです」


「ああ。今さらだ」


 言い訳をしない。


 だからといって、許せるわけではない。


「セシリアを選んだのは」


 私が尋ねると、アルベルトの顔が強張った。


「彼女が、君と違ったからだ」


「どう違いました?」


「私に頼った。分からないと言った。嫌なものは嫌だと、子供のように口にした。君の隣にいると、私はいつも王太子でいなければならない気がした。だが彼女の前では、一人の男でいられると思った」


「実際は?」


「彼女にも王太子妃としての役割を求めた」


 苦い笑い。


「君と同じように」


「セシリアは耐えられなかったでしょう」


「ああ。私も支えきれなかった」


 ざまあみろとは思わなかった。


 むしろ。


 やはりそうなったのか、と疲れたような気持ちになった。


「私は君を愛していたつもりだった」


 アルベルトが言う。


「だが、愛していたのは、私を支えてくれる君だったのかもしれない」


「便利だった?」


「……ああ」


 その一言は、やはり痛かった。


 けれど。


 聞けてよかったとも思った。


「酷いことを言っているのは分かっている」


「ええ。かなり」


「それでも、嘘をついて謝るよりいいと思った」


「少しだけ成長しましたね」


「君に言われると、情けないな」


「情けないことをしたのですから、仕方ありません」


 アルベルトが、ほんの少し笑った。


 私も笑おうとは思わなかった。


 ここで優しく笑えば、たぶん彼は救われる。


 でも。


 救う義務は、もうない。


「リリアーヌは」


 彼が、恐る恐る尋ねた。


「私を愛していたか?」


 七年間。


 何度も自分に問いかけたはずなのに、答えは出なかった。


「分かりません」


「……そうか」


「あなたに愛されたいとは思っていました」


 言葉を選ぶ。


「良い婚約者になれば。王太子妃として役に立てば。完璧に振る舞えば、いつか私自身を見てもらえると思っていた」


「私は見なかった」


「はい」


「すまない」


「今も、許してはいません」


 はっきり伝えた。


 アルベルトは顔を上げる。


「でも、憎み続けたいとも思いません」


「……」


「あなたのことばかり考えて生きるのは、もう終わりにします。愛しているのか、憎んでいるのか、後悔しているのか。そんなことを考える時間まで、あなたへ渡したくありません」


 言ってから。


 少しだけ肩が軽くなった。


「私は」


 アルベルトが、声を震わせる。


「君を不幸にしたか」


「はい」


 迷わなかった。


「ですが、あなたに壊されたままではいません」


 アレクシスの顔を思い浮かべる。


 無茶で。


 過保護で。


 言葉が足りなくて。


 それでも、私が選ぶことを守ろうとしてくれる人。


「今は幸せです」


「グランツ公爵と?」


「はい」


「迷いなく言うんだな」


「ええ」


 アルベルトはしばらく黙ったあと、静かに頭を下げた。


「結婚、おめでとう」


「ありがとうございます」


「幸せに」


「それはアレクシスと決めます」


「相変わらず厳しいな」


「以前よりは、ずっと面倒になったと言われます」


「グランツ公爵に?」


「はい」


「似たんだろう」


「それは嫌です」


 思わず言い返してから。


 少しだけ。


 二人で笑った。


 本当に少しだけ。


 昔には戻れない。


 戻りたいとも思わない。


 けれど、七年間のすべてが嘘だったわけでもない。


 それで十分だった。


「では、失礼します」


「ああ」


 背を向ける。


「リリアーヌ」


 呼び止められた。


 私は振り返る。


 アルベルトは何か言いかけ、結局、首を横へ振った。


「いや。もう呼び止めない」


「そうしてください」


 今度こそ。


 私は西の小庭を出た。


     ◇


 王宮の正門前には、予定より三十分も早く、グランツ公爵家の馬車が止まっていた。


 そして。


 その横に。


 アレクシス本人が立っている。


「……どうしているんです?」


「迎えに来た」


「まだ四時前です」


「仕事が終わった」


「本当に?」


「ハロルドが追い出した」


「終わってないんですね!」


「ほとんど終わった」


 アレクシスは私の顔を見た。


 嬉しそうでも。


 怒っているようでもない。


 ただ。


 ものすごく見ている。


「何ですか」


「アルベルトと会ったな」


「どうして分かるんです?」


「顔」


「やっぱり」


「何を話した」


「馬車の中で話します」


「今」


「寒いです」


「外套を着ろ」


「もう着ています!」


 御者と護衛の前で話す内容ではない。


 私は先に馬車へ乗り込み、アレクシスも続いた。


 扉が閉まる。


 馬車が走り出す前に、彼が聞いた。


「手を握られたか」


「最初がそれですか?」


「重要だ」


「握られていません」


「触れられた?」


「いいえ」


「近づかれたか」


「普通に会話する距離です」


「どれくらい」


「測っていません!」


「名前を呼ばれたか」


「呼ばれました」


 アレクシスの眉間に、深い皺が寄った。


「何回」


「数えてません」


「三回以上?」


「どうして三回が基準なんです?」


「俺は一日に何度も呼ぶ」


「張り合わないでください!」


「お前はあいつを名前で呼んだか」


「呼んでいません」


「本当に?」


「はい」


「一度も?」


「一度もです」


 皺が。


 少し。


 浅くなった。


「……満足しました?」


「まだだ」


「まだあるんですか!」


「復縁を求められた?」


「いいえ」


「愛していると?」


「言われていません」


「好きだったと?」


「それも」


「結婚を祝われた?」


「はい」


「素直に?」


「たぶん」


「怪しい」


「何がですか!」


 私は呆れて、座席の背へ身体を預けた。


「アレクシス」


「何だ」


「嫉妬しています?」


「ああ」


「少しは隠してください」


「なぜ」


「面倒だからです」


「お前も面倒だ」


「今はあなたの話です」


「七年だぞ」


 低い声だった。


「何が?」


「あいつは、お前の七年を知っている」


 アレクシスが窓の外を見る。


「俺は知らない」


 その言葉で。


 ようやく分かった。


 これは、アルベルトへの怒りだけではない。


「気になりますか」


「ああ」


「私が、あの人を愛していたか」


 アレクシスは答えなかった。


 答えないことが答えだった。


「分かりません」


 私は同じ言葉を口にした。


 西の小庭で、アルベルトへ告げたものと同じ。


「分からない?」


「愛されようとはしていました。完璧な婚約者になれば、いつか私自身を見てもらえると思っていた」


「……」


「でも今思うと、私はあの人を愛していたというより、選ばれたかったのかもしれません」


「今は?」


 すぐに聞かれた。


「何がです?」


「選ばれたい?」


「はい」


 私は少し笑う。


「あなたに」


 アレクシスが止まる。


「……」


「……」


「何か言ってください」


「困っている」


「どうして」


「嬉しすぎて」


「またそれ!」


 でも。


 今度は怒らなかった。


 私は自分から、彼の手へ指を絡める。


「私は今、あなたを選んでいます」


「ああ」


「過去に何があっても」


「ああ」


「アルベルト殿下と七年一緒にいても」


「ああ」


「今、隣にいたいのはあなたです」


 アレクシスの手に力が入る。


「一生?」


「確認が多いですね」


「重要だ」


「では一生です」


「そうか」


「まだ心配?」


「ああ」


「どうして!」


「七年は長い」


「では」


 少し考える。


「これから八年一緒にいれば、あなたのほうが長くなります」


「遅い」


「では十年」


「さらに遅い」


「長さの話でしょう!」


「今日から毎日、密度を上げる」


「何の密度ですか!」


「一緒にいる時間」


「過保護を正当化しないでください!」


 アレクシスは、ようやく少し笑った。


「それから」


 まだあるらしい。


「何です?」


「あいつは、お前をリリアーヌと呼んだ」


「はい」


「俺も呼ぶ」


「いつも呼んでいます」


「もっと呼ぶ」


「張り合わないでください」


「嫌だ」


「子供ですか」


「ああ」


 本当に。


 この人は。


 でも。


 今日は、少しだけ付き合ってあげようと思った。


「アレクシス」


「ああ」


「私は誰の妻ですか」


 彼が私を見る。


「俺の妻だ」


「契約上の?」


「違う」


「では?」


「これから正式に、俺の妻になる」


「はい」


 私は、彼の肩へ頭を預けた。


「それなら、もう少し余裕を持ってください」


「無理だ」


「どうして」


「お前を失うのが、まだ怖い」


 正直な声。


 胸の奥が、少し痛くなる。


「私もです」


「何が」


「あなたが、いつか私を必要としなくなるのが」


「ならない」


「即答ですね」


「ああ」


「どうして分かるんです?」


 アレクシスが、握った手を持ち上げる。


 私の指先へ、短く唇を触れさせた。


「もう呪いはないのに、触れたいからだ」


「……」


「これで足りるか」


「ずるいです」


「ああ」


「でも」


 私は指を離さなかった。


「少しだけ、安心しました」


 馬車は公爵邸へ向かって走る。


 七年間の過去は消えない。


 傷ついたことも、間違えたことも。


 でも。


 過去に戻らなくても、前へ進むことはできる。


 今の私には、帰る場所がある。


 面倒なほど帰りを待ち、面倒なほど嫉妬し、面倒なほど何度も私を選ぶ男がいる場所へ。


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