第37話 契約書を破いたら、公爵様が私の署名だけ持ち帰りました
王都のグランツ公爵邸が見えてきたとき、私は馬車の窓から身を乗り出しかけ、すぐ隣に座っていたアレクシスに外套の背を引かれた。
「危ない」
「まだ窓から顔を出しただけです」
「次は身体を出す」
「出しません」
「雪道で二歩目に転んだ女の言葉は信用できない」
「それは関係ないでしょう!」
北方神殿を出てから十日。帰り道は、行きよりもずっとゆっくりした旅になった。
アレクシスが三日間も眠り続けた反動を心配し、医師が馬車の速度を厳しく制限したからだ。本人は初日から「問題ない」と言い張ったが、その言葉は禁止だと私に叱られ、二日目からは「かなり元気だ」と言い換えるようになった。
言い換えればよいというものではない。
「リリアーヌ」
「何です?」
「見えるか」
アレクシスが窓の外へ目を向けた。
公爵邸の門前に、使用人たちが並んでいる。中央にはハロルド。その隣にはエマもいた。まだ馬車が遠いというのに、エマが大きく手を振っている。
「見えます」
「泣いているな」
「エマが?」
「ああ」
「まだ顔までは見えないでしょう」
「たぶん泣いている」
「どうして分かるんですか」
「お前が帰るからだ」
さらりと言われ、私は返事に困った。
「……あなたが無事だからかもしれません」
「俺は何度も帰っている」
「呪いが解けて帰るのは初めてです」
「それでも、お前だと思う」
「そういうことを、急に言わないでください」
「なぜ」
「嬉しいのに、素直に嬉しいと言えなくなるからです」
「では、嬉しいのか」
「今、言わせましたね?」
「ああ」
本当にずるい。
けれど、以前のように腹は立たなかった。正確には、少し腹は立つ。でも、その腹立たしさごと心地よい。
馬車が門をくぐると、エマは本当に泣いていた。
「リリアーヌ様!」
馬車の扉が開くのを待ちきれず、駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ! 本当に、本当にご無事で……!」
「ただいま、エマ」
差し出された手を取って降りた次の瞬間、強く抱きしめられた。
「エマ?」
「申し訳ございません。一度だけです。今回だけはお許しください」
「いいのよ」
私も彼女の背中へ腕を回した。
「心配をかけたわね」
「はい。ものすごく」
「正直ね」
「リリアーヌ様がいらっしゃらない間、旦那様のお部屋に残された枕を見ただけで泣きそうになりました」
「枕?」
「十個の」
「……まだ置いてあったの?」
呪いを抑えるため、最初の夜にベッドの中央へ並べた十個の枕。途中からほとんど役目を果たさなくなったが、片づけずに置いたままだった。
「当然です」
アレクシスが馬車から降りながら言った。
「どうして当然なんです?」
「必要だ」
「もう呪いはありません」
「ああ」
「境界線も必要ありません」
「記念だ」
「何の記念ですか!」
「お前が最初の夜、枕を一個ずつ数えていた記念だ」
「見ていたんですか?」
「ああ」
「寝ていたでしょう!」
「起きていた」
「また寝たふりをしていたんですか!」
使用人たちの間から笑いが漏れる。
私は恥ずかしくなり、アレクシスを睨んだ。しかし彼は少しも悪びれず、当然のように私の隣へ立った。
「旦那様」
ハロルドが深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「呪いは」
「消えた」
「痛みはございませんか」
「ない」
「本当に?」
ハロルドの口調が、ほんの少しだけ強くなった。
「ああ。本当だ」
「さようでございますか」
彼はそれだけ言うと、長く息を吐いた。
いつも落ち着いているハロルドの目が、少し赤い。
「ハロルドさん」
「はい」
「泣いています?」
「いいえ」
「目が赤いです」
「長旅でお疲れのリリアーヌ様には、そのように見えるのでございましょう」
「私は三日間眠っていない」
アレクシスが口を挟む。
「旦那様」
「何だ」
「余計なことを仰らないでください」
「事実だ」
「では、旦那様こそ北方で泣かれたそうで」
「誰に聞いた」
アレクシスの声が一段低くなった。
私は反射的に首を横へ振る。
「私ではありません!」
「まだ何も言っていない」
「でも疑いましたよね!」
「ああ」
「ひどい!」
ハロルドが口元を緩める。
「ガルド殿からの書状にございました」
「あいつ」
「泣いたとは書かれておりません。ただ、『閣下もようやく人間らしい顔をなさいました』と」
「同じことだ」
「どんな顔だったんです?」
エマが興味津々で聞く。
「見るな」
「私は見ていません」
「誰にも話すな」
「話していません」
「今、皆の前で認めましたね」
私が指摘すると、アレクシスは完全に黙った。
周囲の使用人たちから、耐えきれないような笑い声が上がる。
「笑うな」
「旦那様」
ハロルドが穏やかに言った。
「本日はお許しください。皆、旦那様が生きてお帰りになったことが、嬉しくて仕方がないのでございます」
アレクシスは何も答えなかった。
ただ、少しだけ顔を逸らす。
その耳が赤いことを、私は見なかったことにした。
◇
入浴と診察を終え、遅い昼食を取ったあと、私たちは執務室へ向かった。
机の上には、北方へ出発する前と変わらない書類の山。その中に、見覚えのある厚い封筒が置かれていた。
「これ」
「ああ」
契約書。
一年前――実際にはまだ一か月も経っていないが――私がグランツ公爵の契約妻になるために署名したもの。
同じ寝室で眠ること。
公の場では夫婦として振る舞うこと。
恋愛感情を求めないこと。
許可なく触れないこと。
期間は一年。
契約終了後、互いに相手の自由を妨げないこと。
あのときは、必要な取り決めだった。
何も知らない男の屋敷へ入り、同じベッドで眠れと言われたのだから、むしろ十個の枕だけで了承した自分を褒めたい。
「破棄しましょう」
私は封筒を手に取った。
「ああ」
「異議はありませんね?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「少し寂しくありません?」
アレクシスが私を見る。
「お前は?」
「少しだけ」
正直に答えた。
「この契約がなければ、私はここにいませんでしたから」
「ああ」
「嫌な条件もありましたし、一年後のことを考えて何度も不安になりました。でも」
封筒の端を指で撫でる。
「私を追い出された夜から救ってくれたのも、これでした」
「救ったのは俺だ」
「契約書を作ったのもあなたでしょう?」
「ああ」
「では両方です」
「俺が多い」
「張り合わないでください」
「重要だ」
「何がです?」
「お前を救った割合だ」
「では、ハロルドさんが四割です」
「なぜだ」
「契約条件を人間の読める文章に直したからです」
「……」
「図星ですね?」
「ああ」
最初にアレクシスが口頭で提示した条件は、本当に酷かった。
『毎晩、同じベッドで寝ろ』
『妻として振る舞え』
『一年後には自由にする』
あれだけ聞けば、ほとんど人さらいだ。
「ハロルドさんを呼びます?」
「なぜ」
「立会人です」
「必要ない」
「正式な契約書を破棄するんですよ」
「俺とお前が合意している」
「そういうところが雑なんです」
「では呼べ」
素直になった。
少しだけ。
ハロルドを呼び、暖炉の前へ小さな金属盆を用意してもらう。契約書の内容を最後に確認し、私たちはそれぞれの署名へ目を落とした。
アレクシス・ヴァン・グランツ。
リリアーヌ・エヴァレット。
「今なら、姓を変えてもいいんですよね」
私が呟くと、アレクシスの顔が上がった。
「何に」
「グランツに」
「いつ」
「正式に結婚したら」
「今日でいい」
「よくありません」
「なぜ」
「婚姻の手続きがあります!」
「王へ書状を出す」
「今から?」
「ああ」
「まず契約書を破棄しましょう!」
話がすぐ横道へ逸れる。
「では、破りますね」
「ああ」
私は契約書の上端を持った。
アレクシスも反対側を持つ。
「せーので」
「必要か?」
「気分です」
「分かった」
「せーの」
二人で左右へ引いた。
紙が中央から裂ける。
思ったより大きな音がした。
胸の奥に、少しだけ痛みが走った。
終わった。
契約妻としての私は。
もういない。
「リリアーヌ」
「大丈夫です」
「禁止」
「では、少し寂しいです」
「ああ」
「あなたは?」
「俺もだ」
素直な答えだった。
アレクシスが、裂けた契約書の片側をさらに細かく破る。私も自分の分を破り、盆の中へ落とした。
「火を」
アレクシスが言う。
ハロルドが燭台を差し出す。
紙の端へ火を近づけようとしたとき、アレクシスの手が不自然に動いた。
「今、何をしました?」
「何も」
「嘘です」
「何もしていない」
「右手を見せてください」
「嫌だ」
「どうして!」
「必要ない」
「ハロルドさん」
「はい」
「旦那様が何か隠しました」
「旦那様」
「何だ」
「お見せください」
「なぜお前までそちらにつく」
「事実確認でございます」
「見せてください」
「嫌だ」
「アレクシス」
「……」
名前を呼ぶと、少しだけ弱くなる。
分かりやすい。
「手を開いてください」
「これは俺のものだ」
「契約書は二人のものです!」
「では半分は俺のものだ」
「何を取ったんです?」
私は彼の手首を掴んだ。
「触れていいと言っていない」
「嫌ですか?」
「嫌ではない」
「なら開いて」
「横暴だな」
「あなたに言われたくありません!」
指を一本ずつ開かせる。
最後に、折り畳まれた小さな紙片が現れた。
「これは……」
開く。
私の署名部分。
『リリアーヌ・エヴァレット』
きれいに切り取られている。
「何をしてるんですか!」
「保管する」
「契約は破棄するんでしょう!」
「ああ」
「では燃やしてください!」
「嫌だ」
「どうして!」
「初めて、お前が俺の妻になると署名したものだ」
言葉に詰まった。
「契約上の」
「それでもだ」
アレクシスが紙片を私の手から取り戻す。
「これは残す」
「駄目です」
「なぜ」
「恥ずかしいからです!」
「署名だけだ」
「どこに置くつもりです?」
「寝室」
「絶対駄目です!」
「では執務室」
「人に見られるでしょう!」
「金庫」
「そこまでして残すんですか!」
「ああ」
真顔。
本気。
私はハロルドを見る。
「止めてください」
「リリアーヌ様」
「はい」
「旦那様は、幼少の頃から気に入ったものを手放せない方でございます」
「そうなんですか?」
「私が買い与えた木製の騎士人形も、いまだ金庫に」
「ハロルド!」
「はい」
「余計なことを言うな」
「事実でございます」
想像してしまった。
幼いアレクシスが、小さな木の騎士を握っている姿。
「……少し見たいです」
「駄目だ」
「どうして」
「お前は笑う」
「笑いません」
「嘘だ」
「少ししか」
「やはり駄目だ」
結局。
署名部分は、アレクシスが保管することになった。
代わりに私は、彼の署名部分をもらった。
欲しかったわけではない。
彼だけ持っているのが悔しかっただけ。
本当に。
それだけ。
「リリアーヌ様」
ハロルドが静かに尋ねる。
「そちらは、どちらへ保管なさいますか」
「……私の机です」
「金庫ではなく?」
「後で決めます!」
アレクシスが、少しだけ嬉しそうにしている。
「何ですか」
「いや」
「言ってください」
「お互い様だと思って」
「違います!」
「そうか」
「私は、あなたが持つから仕方なく!」
「ああ」
「信じてませんね?」
「ああ」
契約書の残りへ火をつける。
紙が黒く縮み、文字が炎の中へ消えていく。
恋愛感情を求めない。
契約期間は一年。
終了後、互いの自由を妨げない。
そのすべてが燃え、灰になった。
「これで」
私は言った。
「本当に契約妻ではなくなりました」
「ああ」
「後悔してます?」
「していない」
「本当に?」
「ああ」
「私は少ししています」
アレクシスの顔が固くなる。
「なぜ」
「契約妻なら、一年後に出ていく権利がありました」
「今もある」
「え?」
「お前が本当に出たいなら、止める権利はない」
意外だった。
神殿では、自由にしたくないと言っていたのに。
「止めないんですか」
「止める」
「どちらです?」
「頼む。説得する。必要なら毎日迎えに行く」
「それは止めているのでは?」
「だが最後に選ぶのはお前だ」
アレクシスが、真っ直ぐ私を見る。
「お前が自分で選ぶことを、俺が奪ってはいけない」
胸が温かくなった。
この人は。
本当に少しずつ変わっている。
「では」
私は彼の手を取った。
「今、選びます」
「ああ」
「ここにいます」
アレクシスの指が絡む。
「一生?」
「確認が多いですね」
「重要だ」
「今のところは一生です」
「今のところ?」
「あなたが野菜を食べなかったら考え直します」
「それは困る」
「食べてください」
「努力する」
「また努力!」
そのとき、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた使用人が、銀の盆へ載せた書状を差し出す。
「王宮より、至急の書状でございます」
「王宮?」
アレクシスが封蝋を確認する。
国王の印。
「早いな」
「何がです?」
「北方から報告を送った」
「いつ?」
「帰路で」
「私に相談しました?」
「していない」
「どうして!」
「呪いが解けたことと、契約婚を終えることを伝えただけだ」
「それだけなら……」
アレクシスが封を切る。
手紙を読み始める。
最初は無表情だった。
やがて。
少しだけ。
眉間の皺が深くなる。
「何が書いてあります?」
「面倒なことになった」
「それだけでは分かりません」
「国王が」
アレクシスが手紙を私へ渡す。
「正式な婚姻を承認するそうだ」
「……それは、ありがたいことでは?」
「ああ」
「何が面倒なんです?」
「続きだ」
読む。
『両名の正式な婚姻を王家として承認し、七年間王家に尽くしたリリアーヌ嬢への謝意と名誉回復のため、王都大聖堂にて婚礼を執り行いたい』
そこまでは。
まだ。
理解できる。
『式典には王族、全上級貴族、各国大使を招き、王家主催の祝宴を三日間――』
「三日間!?」
「ああ」
『なお国民へ広く祝意を示すため、王都中央広場にて夫妻による挨拶を――』
「国民の前で?」
「ああ」
『婚礼衣装については王妃自ら選定を――』
「待ってください!」
「俺もそう思う」
「これは結婚式というより国家行事では?」
「ああ」
「断れます?」
「断る」
即答だった。
「そんな簡単に?」
「ああ」
「国王ですよ?」
「関係ない」
「あります!」
アレクシスが私の手から書状を取り、机へ置いた。
「婚礼は身内だけでいい」
「そうですね」
「王族もいらない」
「国王陛下くらいは」
「いらない」
「王弟でしょう!」
「兄だ。毎日見る必要はない」
「毎日ではありません!」
「祝宴も一日でいい」
「それは賛成です」
「いや」
アレクシスが少し考える。
「半日だ」
「短すぎます!」
「疲れる」
「私も疲れるでしょうけど!」
「なら二時間」
「交渉の仕方がおかしい!」
ハロルドが、静かに書状を覗き込む。
「旦那様」
「何だ」
「すでに国王陛下のご署名がございます」
「ああ」
「王妃殿下の追伸も」
「読むな」
「『リリアーヌの花嫁衣装は私に任せなさい。今度こそ本人の望むものを着せます』と」
胸の奥が少し揺れた。
王妃様。
七年間。
私に王太子妃としての衣装を選び続けた人。
あの謝罪の日。
『あなたが望まないものを、正しいと信じて着せ続けた』
そう言っていた。
「リリアーヌ」
「はい」
「嫌なら断る」
アレクシスが言った。
「王家への義理も、名誉回復も考えなくていい」
「……」
「お前がしたい式を選べ」
また。
選ばせてくれる。
「少しだけ」
私は書状を見た。
「考えてもいいですか」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「王妃様と衣装を選ぶのは、してみたいです」
「そうか」
「嫌です?」
「男は入れるな」
「衣装係に男性はいません!」
「画家は」
「記録画の?」
「ああ」
「必要でしょう」
「女性にしろ」
「もう嫉妬ですか?」
「ああ」
堂々と認める。
「これから正式に結婚するんですよ?」
「だからだ」
「どうして」
「俺の妻を見に来る男が増える」
「見に来るのは結婚式をでしょう!」
「同じだ」
「違います!」
ハロルドが、小さく笑った。
「何ですか」
「いいえ。婚礼の準備は、たいへん賑やかになりそうだと」
まったく。
その通りだと思う。
契約を破棄した日。
私たちは、ようやく自由になった。
その直後。
王国を挙げた結婚式という、今までで一番大きな予定を押しつけられた。
けれど。
アレクシスとなら。
喧嘩をしながら。
怒りながら。
たぶん笑いながら。
一つずつ選んでいける。
「アレクシス」
「何だ」
「正式な婚礼」
「ああ」
「一緒に考えてくださいね」
「分かった」
「勝手に断らないで」
「努力する」
「そこは約束してください!」
「ああ」
どうにも不安な返事だった。




