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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第36話 「契約妻をやめたい」と言ったら、眠っていた夫が目を覚ましました

 神殿の入口へたどり着いたとき、私は自分がどうやって歩いていたのか、ほとんど覚えていなかった。


 アレクシスの右腕を肩へ回し、護衛の騎士と二人がかりで彼の身体を支えていたはずなのに、重かったという記憶すら曖昧だ。ただ、耳を澄ませるたびに聞こえる弱い呼吸と、胸元へ手を当てれば確かめられる鼓動だけを頼りに、何度も足を前へ出した。


「閣下!」


 入口で待っていたガルドさんと老神官が、雪を蹴って駆け寄ってくる。


「何があったんです!」


「呪印は消えました。でも、アレクシスが目を覚まさないんです。呼吸はあります。心臓も動いています。けれど、何をしても――」


「まず横に!」


 外へ張られていた天幕へ運び込み、毛布の上へ寝かせる。老神官が胸へ耳を当て、瞼を開き、脈を調べている間、私はアレクシスの手を握ったまま動けなかった。


 冷たい。


 神殿へ入る前は、あれほど強く私の手を握っていたのに、今は握り返してくれない。


「どうなんですか」


「命に関わるほど脈が弱いわけではございません」


「では、なぜ目を覚まさないんです?」


「分かりません」


 その言葉を聞いた瞬間、腹の底から怒りが湧いた。


「また分からないんですか!」


「リリアーヌ様」


「解呪の方法も、試練の数も、呪いが移ることも、分かってから言うことばかりではありませんか! 今度は、呪いが消えたのに目を覚まさない? そんなの――」


 最後まで言えなかった。


 声が崩れ、涙が溢れたからだ。


 老神官を責めても仕方がない。分かっている。あの黒碑がまともに説明しなかったことまで、この人の責任ではない。


 それでも誰かを怒鳴りつけていなければ、怖さに押し潰されそうだった。


「申し訳ありません」


 私が絞り出すように言うと、老神官は首を横へ振った。


「いいえ。怒って当然でございます」


「でも、あなたのせいでは」


「それでもです。希望があるとお伝えし、危険のすべてを把握できなかった。お叱りは受けます」


 言い訳をしないその姿が、余計につらかった。


 ガルドさんが、眠るアレクシスの胸元を確認する。そこにあった黒い呪印は、もう影すら残っていない。


「本当に、消えたんですね」


「はい」


「十年も閣下を苦しめたくせに、消えるときは勝手に消えやがった」


 彼は吐き捨てるように言ったあと、アレクシスの頬を軽く叩いた。


「おい、閣下。起きてください。奥様が泣いてますよ」


「叩かないでください!」


「これくらいで起きるなら安いもんです」


「だからって」


「昔はもっと強く殴りました」


「それは神殿へ戻ろうとしたからでしょう!」


「今回も似たようなもんです。奥様を置いて、自分だけどこかへ行こうとしてる」


 胸に刺さる言い方だった。


 私はアレクシスの手を握り直す。


「本当にそうです。約束を守る気がないんですから」


 返事はない。


「一緒に帰ると言いましたよね。契約書を無期限に書き直すとも、一生離さないとも言ったでしょう。全部、私に言わせただけですか?」


 それでも、彼は眠ったままだった。


     ◇


 吹雪のため、その日は麓の村へ戻ることもできず、神殿前の天幕で一夜を過ごした。


 翌朝になっても、アレクシスは目を覚まさなかった。


 けれど顔色は少し戻り、呼吸も深くなっていた。老神官は何度も脈を確認したあと、長い眠りに落ちている可能性が高いと言った。


「十年間、閣下は呪いによって深い眠りを奪われ続けました。痛みがない夜であっても、身体は次の発作を恐れ、休めなかったのでしょう」


「では、今は眠っているだけなんですか」


「その可能性はあります」


「確実ではない?」


「はい」


「……正直ですね」


「もう、曖昧なことを確定したようには申し上げません」


 私は少しだけ笑った。


「ありがとうございます。今度は、そのほうがいいです」


 天候が回復すると、私たちは領都へ引き返した。


 帰りの馬車でも、アレクシスは眠り続けた。揺れで身体が傾くたびに私が支え、毛布がずれれば直し、時折水で唇を湿らせる。自分が食事を取っていないことに気づいたのは、ガルドさんに強引にパンを渡されたときだった。


「奥様まで倒れたら、目を覚ました閣下に俺が殺されます」


「目を覚ましたら、まず私が怒ります」


「何をです?」


「勝手に眠り続けていることを」


「それは少し理不尽じゃありませんかね」


「分かっています。でも怒ります」


「なら大丈夫そうだ」


「何がです?」


「ちゃんと待てる顔をしてます」


 そんな顔があるのだろうか。


 自分では分からなかった。


     ◇


 領都の公爵館へ戻ってから、三日が経った。


 アレクシスはまだ目を覚まさない。


 医師は身体に異常は見当たらないと言い、老神官も呪いの気配は完全に消えていると繰り返した。食事も仕事も最低限はこなしたが、私はほとんどの時間を彼の寝室で過ごした。


 普段なら、こんなことをすれば本人に怒られる。


『少しは休め』


『お前まで倒れたらどうする』


 きっと、そう言う。


「なら、早く起きて自分で言ってください」


 窓の外では、細かな雪が降っていた。


 私はベッド脇の椅子へ座り、眠るアレクシスの手を両手で包む。


「今日は、ちゃんと朝食を食べました。野菜も残していません。あなたが目を覚ましたときに、自分だけ食べなかったと言われたくありませんから」


 返事はない。


「書庫には一時間だけ行きました。二時間までという約束でしたけど、集中できませんでした。あなたがいないと、誰も時間を数えに来ないので不便です」


 やはり、返事はない。


「皆さん、あなたのことを心配しています。使用人たちは廊下を通るたび、扉のほうを見ています。ガルドさんは一日に三回も様子を聞きに来ます。さっきは、眠りすぎると頭が悪くなるぞ、と言っていました」


 少し待つ。


「そこで怒るところですよ」


 何も起こらない。


 私は俯き、彼の指先を見た。


「私、あなたに言っていないことがあります」


 声に出してから、逃げたくなった。


 けれど今なら、途中で遮られない。


 卑怯かもしれない。それでも、起きている彼の顔を見ながらでは、また言葉を誤魔化してしまいそうだった。


「神殿では、一年後も妻でいたいと言いました。でも、あれは黒碑に言わされたようなものです。嘘を言えば心臓が砕けるなんて脅されて、逃げられませんでした」


 アレクシスの手は動かない。


「だから今度は、誰にも命令されずに言います」


 息を吸った。


「私は、契約妻をやめたいです」


 言ってしまうと、不思議なくらい静かな気持ちになった。


「呪いはもうありません。あなたが生きるために、私は必要ない。毎晩同じベッドで眠る義務も、手を握る理由も、抱きしめてもらう理由もなくなりました」


 寂しい。


 けれど、それでいい。


 もう理由を借りたくなかった。


「だから、契約妻はやめます」


 私は彼の手を握り、少し笑った。


「目を覚ましたら、ちゃんと話しましょう」


 その瞬間。


 手首を掴まれた。


「――却下する」


「……え?」


 低い声。


 掠れている。


 でも。


 聞き間違えるはずがない。


「却下だ」


 私は顔を上げた。


 灰銀色の目が、こちらを見ている。


「アレクシス?」


「ああ」


「起きて……」


「ああ」


「いつから?」


「契約妻をやめたい、の少し前」


「ほとんど聞いてるじゃないですか!」


「ああ」


 喜びより先に、腹が立った。


 私は彼の肩を叩く。


「起きていたなら、すぐ言ってください!」


「言おうとした」


「嘘です!」


「本当だ。身体が動かなかった」


「では今、どうして動いたんです?」


「お前が出ていくと言ったからだ」


「言ってません!」


「契約妻をやめると」


「最後まで聞いてください!」


「嫌だ」


「どうして!」


「聞けば、本当に出ていくかもしれない」


「出ていきません!」


 叫んだ。


 アレクシスが止まる。


「……出ていかない?」


「はい!」


「契約妻をやめるのに?」


「そうです!」


「意味が分からない」


「最後まで聞かなかったからでしょう!」


「では話せ」


「命令しないでください!」


「頼む」


「そう言えばいいと思ってますね?」


「ああ」


 本当に。


 目を覚ましたばかりなのに。


 何も変わっていない。


 それが嬉しくて、腹が立って、涙が溢れた。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「泣くな」


「誰のせいです!」


「俺か」


「あなた以外に誰がいるんです!」


 アレクシスが身体を起こそうとする。


「駄目です、まだ寝ていてください」


「嫌だ」


「三日も寝ていたんですよ!」


「三日?」


「そうです!」


「長いな」


「それだけですか!」


「お前はずっといたのか」


「……いました」


「そうか」


 彼の表情が、少しだけ緩んだ。


「何ですか」


「嬉しい」


「今、それを言えば許されると思ってます?」


「許さないのか」


「少しだけです」


「どちらだ」


「私にも分かりません!」


 泣きながら怒っていると、自分でも何を言っているのか分からなくなる。


 アレクシスが手を伸ばし、私の頬へ触れる直前で止めた。


 もう呪いはない。


 契約上、必要な接触でもない。


「触れていいか」


 それでも、この人は聞く。


 私は頷いた。


「はい」


 指が頬へ触れ、涙を拭う。


「それで」


 アレクシスが言った。


「契約妻をやめて、どうするつもりだ」


「本当の妻になりたいです」


 今度は、逃げなかった。


「呪いを抑えるためでも、契約期間だけでもなく、あなたが必要だから妻でいたい。朝、あなたが私を迎えに来ることにも、食事を見張ることにも、書庫の時間を勝手に決めることにも腹が立ちますけど」


「最後の二つは改善する」


「本当に?」


「努力する」


「信用できません」


「ああ」


「認めないでください」


 少し笑った。


 泣いていたはずなのに。


「でも、それも含めて」


 私は彼を見る。


「あなたの隣にいたいです」


 アレクシスは、しばらく何も言わなかった。


 神殿で願いを告げたときよりも、ずっと長く感じた。


「何か言ってください」


「困っている」


「やっぱり?」


「嬉しすぎて」


「その言葉は禁止したでしょう!」


「他に言葉がない」


「考えてください」


「分かった」


 アレクシスが私の手を取る。


 指が絡む。


「リリアーヌ・エヴァレット」


「はい」


「俺は、言葉が上手くない」


「知っています」


「人を安心させる言い方も知らない」


「よく知っています」


「途中で口を挟むな」


「すみません」


「お前を束縛すると思う」


「もうされています」


「過保護にもなる」


「それも知っています」


「嫉妬もする」


「レオナルド様のときに知りました」


「まだあの男の名前を覚えているのか」


「今はそこではありません!」


 本当に。


 大事なところで。


 すぐ話が逸れる。


「だが」


 彼が、私の手を強く握った。


「お前を妻として大事にする」


 笑いも。


 言い訳もなく。


「呪いがなくても。契約がなくても。役に立たなくても、役に立ちすぎても」


 胸が痛くなった。


 優しい痛みだった。


「俺の妻になってくれ」


「もう妻です」


「契約上の」


「今はまだ」


「それはもう嫌だ」


 アレクシスが、はっきり言った。


「今から本当の妻になれ」


「頼み方が横暴です!」


「では」


 少し考える。


「なってほしい」


「もう少し」


「難しいな」


「頑張ってください」


「リリアーヌ」


「はい」


「一生、俺の隣にいてください」


 敬語。


 初めて聞いた気がする。


 似合わなくて。


 真剣すぎて。


 少しだけ笑ってしまった。


「笑ったな」


「すみません」


「断るのか」


「いいえ」


 私は、彼の手を両手で握った。


「喜んで」


 アレクシスの目が柔らかくなる。


「ただし、条件があります」


「何だ」


「契約書は破棄します」


「ああ」


「新しい契約も作りません」


「なぜ」


「今度は契約ではなく、約束にしたいからです」


「違いは?」


「破ったとき、私が怒れるかどうかです」


「契約でも怒っていただろう」


「もっと怒ります」


「それは困る」


「困ってください」


 アレクシスが、少し笑った。


「分かった」


「それから、私の許可なく触れない約束は」


 彼の表情が硬くなる。


「守る」


 即答だった。


「最後まで聞いてください」


「ああ」


「これからも守ってください。でも」


 恥ずかしくなり、少し視線を逸らした。


「私から触れることは、増えると思います」


「……」


「何ですか」


「今、もう一度倒れそうだ」


「体調が悪いんですか!」


「違う」


「では?」


「嬉しすぎる」


「三回目は禁止です!」


 私は枕を取って投げようとした。


 けれどアレクシスが先に私の手を掴む。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「口づけてもいいか」


「目を覚ましたばかりでしょう」


「ああ」


「三日も寝ていたんですよ」


「ああ」


「医師にも診てもらわないと」


「ああ」


「だから」


 私は、自分から彼の頬へ手を触れた。


「一回だけです」


「二回目は?」


「あとで相談します」


「予約は」


「できません」


「厳しいな」


「普通です」


 今度は、私から近づいた。


 唇が触れる直前。


 アレクシスが低い声で言う。


「契約妻ではないんだな」


「はい」


「本当の妻?」


「はい」


「一生?」


「何度聞くんですか」


「確認したい」


 不安なのだ。


 たぶん。


 私と同じくらい。


「一生です」


 そう答えてから。


 私は、目を閉じた。


     ◇


 翌朝。


 医師の診察を終えたアレクシスは、身体に異常なしと判断された。


 呪印は完全に消失し、夜になっても痛みは戻らなかった。


 十年ぶりの。


 本当に何もない夜。


 そのはずだったのに。


「アレクシス」


「なんだ」


「なぜ同じベッドにいるんです?」


「妻だからだ」


「もう呪いはありませんよね」


「ああ」


「なら、今日は別の部屋でも眠れます」


「却下する」


「どうして!」


 アレクシスは当然のように私の隣へ入り、毛布をかけた。


「今度は俺が眠れない」


「呪いで?」


「違う」


「では何です?」


 彼の腕が、私の腰へ回る寸前で止まる。


「触れていいか」


 私は、少しだけ考えるふりをした。


「……どうしようかしら」


「リリアーヌ」


「冗談です」


「心臓に悪い」


「もう呪いはないでしょう」


「お前のせいで別の意味で悪い」


「それは治りませんね」


「ああ」


「困りましたね」


「困っていない」


 腕が私の腰へ回り、ゆっくり抱き寄せられる。


「もう少し、ぎゅっとしてください」


 今度は。


 寝ぼけても。


 酔ってもいない。


 自分の意思で言った。


 アレクシスが、私を抱く腕へ少し力を込める。


「これで?」


「はい」


「足りるか」


「今は」


 私は彼の胸へ頬を寄せた。


「これで十分です」


「今はまだ?」


 少し意地悪そうな声。


「便利でしょう、その言葉」


「ああ」


 十年間、彼を眠らせなかった呪いは、もうない。


 それでも私たちは同じベッドで、互いの体温を確かめながら眠った。


 必要だからではなく。


 契約だからでもなく。


 ただ、そうしたいから。


 それがたぶん。


 私たちがずっと探していた答えだった。


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