第35話 初めての口づけで呪いが解けると思ったのに、公爵様が倒れました
唇が触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
神殿が崩れ始めていることも、天井から砂や小石が落ちてきていることも、胸を刺すような冷気も、その一瞬だけはすべて遠くなった。
柔らかい、と思った。
もっと怖いものだと思っていた。何をすればいいのか分からなくなり、息を止めたまま固まってしまうような、そんなものだと。
実際、私は固まっていたのだけれど。
アレクシスの手は私の頬に触れたまま、少しも強引ではなかった。確かめるように触れ、私が逃げないと分かってから、ほんの少しだけ深くなる。
短い口づけだった。
それなのに、離れたあとも唇に熱が残っていた。
「……」
「……」
近い。
額が触れそうな距離で、アレクシスが私を見ている。
私も彼を見ていたが、三秒ほどで耐えられなくなり、視線を逸らした。
「何ですか」
「何も言っていない」
「顔が何か言っています」
「どんな顔だ」
「知りません。こういうときに見る顔の見本がありませんから」
「俺もない」
「では、見ないでください」
「嫌だ」
「どうして」
「見たい」
この人は、どうしてこういうときだけ素直なのだろう。
私は顔が熱くなるのを感じながら、彼の胸元の服を掴んだ手を離そうとした。
けれど、指がうまく動かなかった。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「もう一度」
「……何を?」
聞かなくても分かっていた。
「口づけたい」
「今したでしょう」
「ああ」
「一回では足りないんですか」
「足りない」
「そんな真顔で言わないでください!」
「嘘を言えば心臓が砕けるらしい」
「試練は終わったでしょう!」
『第三の証明を認める』
黒碑の声が響いた。
「ほら、終わりました!」
「ああ」
「なのに、なぜ近づくんです?」
「試練とは関係なく、触れたい」
「……」
私は言葉に詰まった。
アレクシスの顔が、また少し近づく。
断ろうと思えば断れた。彼は必ず止まる。私が嫌だと言えば、呪いが解けなくても触れないと、本気で言える人だから。
だからこそ。
「一回だけです」
「さっきも一回だった」
「二回目の一回です」
「三回目は?」
「今から予約しないでください!」
アレクシスが、声を出さずに笑った。
その笑顔を見たせいで、少しだけ悔しくなり、私は彼の上着を引っ張った。
「リリアーヌ?」
「早くしてください」
「ああ」
「でも、優しく」
「分かった」
「歯が当たったら怒ります」
「難しい注文だな」
「初めてなので仕方ないでしょう!」
「俺も初めてだ」
「それを今、言います?」
「安心するかと思った」
「逆です!」
それでも、今度は私から目を閉じた。
アレクシスの指が頬を撫で、再び唇が重なる。
最初より少しだけ長い。
怖くはなかった。
胸が苦しいほど鳴って、呼吸の仕方が分からなくなるのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ。
もう少しだけ、このままでいたい。
そう思ったときだった。
「――っ!」
アレクシスの身体が、大きく震えた。
唇が離れ、彼の顔から血の気が引く。
「アレクシス?」
返事がない。
「どうしたんです?」
左胸を押さえたまま、彼の膝が崩れた。
「アレクシス!」
私はとっさに腕を回したが、支えきれない。二人で床へ膝をつき、彼の身体が私にもたれかかる。
「痛いんですか? どこが? 胸? 呪印?」
「離れろ」
掠れた声だった。
「嫌です」
「リリアーヌ、離れろ!」
「こんなときだけ命令しないでください!」
「お前に移る」
「何がです?」
「呪いが……」
その瞬間。
私の右手首が焼けた。
「っ……!」
熱い。
皮膚の上へ、真っ赤に熱した細い鎖を巻きつけられたような痛みだった。
思わず手を離す。
手首の内側に、黒い線が浮かんでいた。
アレクシスの胸に刻まれていたものと同じ、複雑な呪印。その一部が、まるで蔦のように私の皮膚へ広がっていく。
「何、これ……」
「触るな!」
アレクシスが私の手を掴もうとし、寸前で止まった。
いつもの彼なら許可を待つ。
けれど今は、そんな場合ではなかった。
「触ってください!」
私が叫ぶと、彼はすぐに手首を掴んだ。黒い線が脈打ち、彼の指の下で赤く光る。
「戻れ」
アレクシスが呪印へ言う。
「俺に戻れ」
「呪いに話が通じるんですか?」
「知らん!」
「知らないのに命令してるんですか!」
「他に何をしろと言う!」
怒鳴り合っている場合ではない。
分かっている。
でも、怖いときほど、私たちはどうでもいいことに腹を立てる。
『第三の証明は成された』
黒碑の声。
「なら、なぜ呪いが消えないんです!」
『消えるものではない』
私は黒碑を睨んだ。
「聞いていた話と違います!」
『お前たちが、勝手に消えると思い込んだ』
「説明しなかったでしょう!」
『問われなかった』
「詐欺です!」
「リリアーヌ」
「止めないでください! 今度こそ正当な抗議です!」
「俺もそう思う」
「なら一緒に怒ってください!」
「今はお前の手が先だ!」
その通りだった。
悔しいけれど。
黒い線は少しずつ手首から腕へ伸びている。痛みも強くなり、指先が震え始めた。
アレクシスは私の手を両手で包み、必死に自分の胸元へ押し戻そうとする。
「やめてください」
「戻す」
「そんなことをしたら」
「元々、俺の呪いだ」
「だから何です!」
「お前が持つ理由はない!」
アレクシスの胸の呪印は、逆に薄くなっていた。
私へ移っている。
本当に。
「アレクシス」
「黙れ」
「聞いてください」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「ああ!」
即答だった。
彼の顔には、今まで見たことのないほどの恐怖が浮かんでいた。
「お前に渡すくらいなら」
声が震えている。
「俺が死んだほうがいい」
頭に血が上った。
「……今、何て言いました?」
「リリアーヌ」
「もう一度言ってください」
「言わない」
「言いましたよね。私に呪いを渡すくらいなら、自分が死んだほうがいいって」
「ああ」
「馬鹿!」
思い切り。
彼の肩を叩いた。
「痛い」
「もっと痛くしてやりたいです!」
「なぜ」
「どうして分からないんですか!」
涙が出た。
痛いからではない。
腹が立ったからだ。
「さっきまで何をしていたんです?」
「口づけを」
「そこだけ正直に答えないでください!」
「では何だ」
「互いを選ぶって試練でしょう!」
「ああ」
「勝手に消えないって約束したでしょう!」
「ああ」
「なのに、もう自分だけ死ぬ話をするんですか!」
「状況が違う」
「またそれ!」
私は彼の胸元を掴んだ。
「私を守るという言葉を、私を残して死ぬ言い訳にしないでください!」
「だが、お前が痛む」
「あなたは十年間痛んだでしょう!」
「だから、お前まで痛む必要はない!」
「あなた一人が痛む必要もありません!」
言い切った瞬間、黒碑が低く震えた。
『ようやく辿り着いたか』
「何にです?」
『呪いの本質に』
神殿の壁が揺らぎ、古い光景が浮かび上がった。
知らない男女。
何百年も前の衣装。
一人の男が倒れ、女が泣いている。
『この術は、初めから人を殺すためのものではない』
映像の中で、女が黒碑へ手を触れた。
『愛する者を失った痛みを、永遠に忘れぬために生まれた』
「忘れないため?」
『悲しみを手放せぬ者が、自らの心へ刻んだ』
映像が変わる。
女の胸に黒い呪印。
夜ごと苦しむ姿。
けれど、その苦しみを抱きしめるように、女は微笑んでいた。
『だが人の心は、痛みを抱え続けるためだけには作られていない』
「当たり前です」
『ゆえに術は歪み、記憶を継ぐ者を探し続けた』
アレクシスが、私の手首を見る。
「対となる者か」
『そうだ』
「では、リリアーヌに呪いを渡せば」
『術は完成する』
「完成させるな!」
アレクシスが怒鳴った。
『完成すれば、呪われし者は解放される』
「リリアーヌは?」
『痛みを継ぐ』
「却下だ」
即答だった。
「アレクシス」
「却下だ」
「私の意見も」
「聞かない」
「聞いてください!」
「嫌だ!」
また。
同じ。
私が勝手に消えようとしたら怒るくせに、自分ならいいと思っている。
「本当に、自分勝手ですね」
「ああ」
「認めるんですか」
「ああ」
「私は?」
「何が」
「私があなたの痛みを半分持ちたいと言ったら」
「許さない」
「では、あなたが一人で持つのも許しません」
「俺の呪いだ」
「もう私の手首にもあります!」
見せつけるように腕を上げる。
「ほら! 半分、私のです!」
「そんな理屈があるか!」
「あります!」
「ない!」
「あります!」
『騒がしい』
「黒碑は黙っていてください!」
私とアレクシスの声が重なった。
「……」
「……」
黒碑が沈黙する。
少しだけ、勝った気がした。
「アレクシス」
「なんだ」
「一人で持つのは、もうやめましょう」
「嫌だ」
「私も嫌です」
「お前が痛む」
「怖いです」
正直に言った。
手首は焼けるように痛い。
これが毎晩続くと思えば、怖い。
「すごく痛いし、逃げたいです」
アレクシスの顔が歪んだ。
「なら」
「でも」
遮る。
「あなた一人に戻すのは、もっと嫌です」
「なぜ」
「愛しているからです」
今度は。
彼へ向けて言った。
黒碑でも、幻影でもなく。
本人へ。
「あなたを愛しています」
アレクシスが、完全に動きを止めた。
「だから、あなた一人だけが苦しむのを、隣で見ているなんてできません」
「リリアーヌ」
「綺麗なことだけ言っているわけではありません」
涙を拭う。
「毎晩痛いのは嫌です。眠れないのも嫌。苦しくて泣くかもしれませんし、あなたに八つ当たりもすると思います」
「もうしている」
「今のは正当です!」
「ああ」
「でも」
私は、彼の手を握った。
「半分なら」
声が震える。
「あなたとなら、持てるかもしれません」
アレクシスが目を伏せた。
「俺は」
「はい」
「お前を痛ませたくない」
「知っています」
「守りたい」
「それも知っています」
「なら」
「私も同じです」
彼の指を強く握る。
「あなたを守りたい」
「……」
「夫だから」
「契約上の?」
その言葉を、今ここで聞くのか。
私は泣きながら笑った。
「いいえ」
はっきり答えた。
「本当の夫にしたい人だからです」
アレクシスの目が見開かれる。
「今」
「聞いたでしょう」
「ああ」
「忘れないでください」
「死んでも忘れない」
「今は死ぬという言葉を使わないで!」
「ああ」
この人は、本当に。
最後まで面倒だ。
『選べ』
黒碑が告げる。
『痛みを一人へ戻すか』
『一人へ継がせるか』
『あるいは』
黒碑の中央に、新たな文字が浮かんだ。
『二人で分かつか』
「最初から三つ目を言ってください!」
怒鳴った。
アレクシスも、さすがに黒碑を睨んでいる。
「リリアーヌ」
「はい」
「本当にいいのか」
「よくありません」
「……」
「痛いのは嫌です。怖いです。たぶん後悔もします」
「なら」
「でも、あなたを一人に戻すよりいい」
私は彼の胸へ手を当てた。
呪印。
まだ赤く光っている。
「半分ずつ」
以前、彼が私へくれた言葉。
「責任も、痛みも、夢も」
アレクシスの手が、私の手首を包む。
「面倒も?」
「それはあなたが七割です」
「なぜだ」
「自覚がないからです」
「お前も三割はあるのか」
「あります」
「認めるんだな」
「今日は嘘をつけませんから」
少しだけ。
二人で笑った。
怖い。
本当に怖いのに。
この人となら、怖いと言える。
それだけで、少し違った。
「アレクシス」
「ああ」
「一緒に持ちましょう」
長い沈黙のあと。
彼は、私の額へ自分の額を重ねた。
「……分かった」
ようやく。
言ってくれた。
『選択を認める』
黒碑から白い光が溢れた。
私の手首とアレクシスの胸を繋ぐように、一本の赤い光が伸びる。激痛が走り、思わず声を上げた。
「リリアーヌ!」
「離さないで!」
「だが」
「絶対に!」
アレクシスが私を抱きしめた。
私も彼の背中へ腕を回す。
痛い。
胸が裂けるように。
手首が燃えるように。
でも。
彼の身体も震えている。
一人ではない。
「アレクシス」
「なんだ」
「半分ですよね」
「ああ」
「私のほうが多くありません?」
「たぶん俺のほうが多い」
「本当に?」
「ああ」
「嘘だったら怒ります」
「元気だな」
「痛いから喋ってるんです!」
「ああ」
「何か話してください!」
「何を」
「何でも!」
アレクシスが、苦しい呼吸の合間に言った。
「帰ったら」
「はい」
「契約書を書き直す」
「今それですか!」
「重要だ」
「どこを?」
「期間」
「一年を?」
「ああ」
「何年に」
「無期限」
涙が出た。
痛みのせいか。
嬉しいせいか。
分からない。
「横暴です」
「ああ」
「私の同意は?」
「必要だ」
「では」
彼の背中を強く掴む。
「あとで、ちゃんと申し込んでください」
「ああ」
「神殿の外で」
「ああ」
「黒碑のいないところで」
「ああ」
『聞こえている』
「聞かなくていいです!」
光が一段と強くなる。
神殿が揺れた。
黒碑へ大きな亀裂が入る。
「アレクシス!」
「ああ」
「絶対に離さないで!」
「離さない」
「本当に?」
「ああ」
「一生?」
聞いた。
今度は。
逃げずに。
アレクシスの腕に力が入った。
「一生だ」
次の瞬間。
黒碑が。
音を立てて砕けた。
◇
気づくと。
私は床に倒れていた。
「……」
静か。
赤い光はない。
黒碑も。
ただの崩れた石になっている。
「アレクシス」
返事がない。
隣を見る。
彼が。
倒れている。
「アレクシス?」
肩へ触れる。
「起きてください」
動かない。
「冗談はやめて」
呼吸。
ある。
でも。
浅い。
「アレクシス!」
身体を抱き起こす。
胸元を見る。
呪印は。
消えていた。
完全に。
私の手首も。
黒い線はない。
「消えた……?」
分け合うはずだった。
なのに。
どこにもない。
「アレクシス、起きてください」
頬へ触れる。
冷たい。
「嫌です」
声が震える。
「一緒に帰るって言いましたよね」
返事がない。
「契約書を書き直すんでしょう?」
返事がない。
「無期限にするんでしょう!」
涙が落ちる。
「一生、離さないって言ったでしょう!」
彼の胸へ耳を当てる。
鼓動。
ある。
でも。
弱い。
「嘘つき」
震える手で。
彼の服を掴んだ。
「今、目を覚まさなかったら」
声が。
うまく出ない。
「許しませんから」
それでも。
彼は。
目を開けなかった。
神殿の入口から。
遠く。
誰かが私たちを呼ぶ声が聞こえる。
私はアレクシスを抱いたまま。
初めて。
この人を失うかもしれないという恐怖を。
呪いではなく。
自分自身の心で。
知った。




