第34話 最も隠したい願いを言わなければ、彼の心臓が砕けるそうです
『偽りを述べれば、呪われし者の心臓は砕ける』
「……そういう大事なことは、先に説明してください!」
私の声が、神殿の広間いっぱいに響いた。
黒碑は返事をしない。つい先ほどまでは偉そうに『選べ』『証明せよ』と命じていたくせに、こちらが抗議すると沈黙する。本当に腹が立つ。
「聞いているんですか!」
『聞いている』
「なら答えてください!」
『何を』
「順番がおかしいでしょう。まず試練の内容を説明して、それから失敗した場合の危険を――」
「リリアーヌ」
隣から、低い声が飛んできた。
「何ですか」
「黒碑と喧嘩をするな」
「喧嘩ではありません。正当な抗議です」
「相手は古代の呪物だぞ」
「古くても説明不足は説明不足です」
「そうか」
「止めないんですか?」
「止めても聞かないだろう」
「よく分かっていますね」
「ああ」
アレクシスが、ほんの少しだけ笑った。
こんな場所なのに。
今から、彼の心臓が砕けるかもしれない試練が始まるのに。
それでも彼の笑った顔を見たら、胸の奥に固まっていた恐怖が、少しだけ緩んだ。
『最も隠したい願いを述べよ』
黒碑が再び告げた。
『偽り、誤魔化し、沈黙は許されぬ』
「沈黙も駄目なんですか?」
『駄目だ』
「考える時間は?」
『ある』
「どれくらい?」
『呪われし者の心臓が耐えるまで』
「時間を答えてください!」
「リリアーヌ」
「だって曖昧すぎます!」
「もういい」
「よくありません!」
「胸が痛い」
ぴたりと。
私は黙った。
「……もう?」
「ああ」
アレクシスが、左胸を押さえている。
その指の隙間から、赤い光が漏れ始めていた。先ほどまで弱まっていた呪印が、また脈打っている。鼓動と同じ速さで、赤い筋が明滅していた。
「どうして早く言わないんです!」
「お前が黒碑と喧嘩をしていた」
「私のせいにしないでください!」
「半分ずつだ」
その言葉を聞いた瞬間、泣きそうになった。
前に教えてもらった。
何でも一人で背負わなくていい。
失敗も。
責任も。
怖さも。
半分ずつでいい。
「……分かりました」
私は、彼の手を取った。
「半分ずつです」
「ああ」
「でも、心臓は半分にできませんからね」
「できたら困る」
「そういう話ではありません」
指を絡める。アレクシスの手は冷たかった。痛みに耐えているのだろう。それでも彼は、私の手を強く握り返した。
『願いを述べよ』
「どちらからですか」
『どちらでもよい』
「では、アレクシスから」
「なぜ俺だ」
「夫でしょう?」
「そういうときだけ夫扱いするな」
「いつも夫として扱っています」
「契約上の、とつける」
痛いところを突かれた。
「最近は、あまり言っていません」
「思ってはいるのか」
「それは……」
『偽りは許されぬ』
「まだ答えていません!」
黒碑にまで急かされた。
私はアレクシスを見る。彼も私を見ている。互いに相手から先に言わせようとしているのが、よく分かった。
「公爵様」
「アレクシスだ」
「今、その話をします?」
「二人のときは名前で呼ぶ約束だ」
「約束まではしていません」
「呼ぶと言った」
「今日一回だけと」
「もう日付が変わっている」
「細かい!」
アレクシスの口元が動いた。笑った。
けれど次の瞬間、彼の身体が大きく揺れた。
「アレクシス!」
「問題ない」
「禁止した言葉!」
「なら、かなり痛い」
「正直すぎます!」
私は彼の腕を支えた。黒碑の赤い光が強くなる。床を走る古代文字まで、血管のように明滅し始めた。
もう、逃げている場合ではない。
「私から言います」
「リリアーヌ」
「黙って聞いてください」
「だが」
「途中で口を挟んだら怒ります」
「もう怒っているだろう」
「もっと怒ります」
「それは困る」
「なら黙ってください」
息を吸った。
何を言えばいいかは、分かっている。
分かっているから怖かった。
「私の願いは……」
声が震えた。
これを言えば、もう契約だからとは言えない。
呪いを抑えるためだったとも、仕方なくとも言えない。
「一年後も」
アレクシスの指が、私の手の中で動いた。
「契約が終わったあとも、あなたの妻でいたいです」
言った。
ついに。
言ってしまった。
神殿が静まり返った。
黒碑も、アレクシスも、何も言わない。
恥ずかしさに耐えられなくなり、私は早口で続けた。
「ただし、これは今すぐ契約を書き換えろという意味ではありません。あなたには考える時間が必要でしょうし、私にも本当にそれでいいのか確認する時間が必要で、そもそも神殿の中で決めるようなことでは――」
「リリアーヌ」
「途中で口を挟まないでと言いました!」
「もう終わっただろう」
「終わっていません。まだ説明が」
「説明するな」
「どうして」
「俺が困る」
「またですか?」
「ああ」
彼の目が、苦しそうに細められた。
呪いの痛みではない。
たぶん。
いや、そう思いたい。
「お前は」
アレクシスが、ゆっくりと言った。
「呪いが解けても、俺の隣にいたいのか」
「……はい」
「俺が夜に苦しまなくなっても」
「はい」
「同じベッドで眠る必要がなくなっても」
「それは……」
少し迷った。
『偽りは許されぬ』
「黒碑は黙っていてください!」
「答えろ」
アレクシスまで言う。
「二人とも嫌いです」
「それは嘘だな」
「どうして分かるんですか」
「さっき愛していると言った」
「それを今言わないでください!」
顔が熱い。
でも、もう逃げられない。
「同じベッドで眠る必要がなくなっても」
私は、言葉を選んだ。
「できれば……同じ部屋がいいです」
「部屋だけ?」
「欲張らないでください!」
「願いを言う試練だ」
「急に協力的にならないで!」
「本当は?」
ずるい。
ものすごくずるい。
私は目を逸らした。
「……同じベッドがいいです」
アレクシスが黙った。
「ただし!」
私は慌てて続ける。
「毎日ではなくてもいいですし、眠れない日だけでも、怖い夢を見た日だけでも、寒い日だけでも――」
「一年の大半になるな」
「北方は寒いですから!」
「ああ」
「何です、その顔は」
「嬉しい」
あまりにも素直に言われて、何も返せなくなった。
黒碑の光が、わずかに白く変わった。
『真実と認める』
「……本当に判定されるんですね」
『試練だからな』
「少しは遠慮してください」
『次は、呪われし者』
アレクシスの表情が固まった。
私は、彼の手を握り直す。
「アレクシス」
「ああ」
「言ってください」
「……」
「私だけ言わせて逃げるつもりですか」
「違う」
「では」
「言い方を考えている」
「長い言葉ですか?」
「いや」
「なら言えるでしょう」
「言いたくない」
初めて。
彼が、子供のように言った。
「なぜです?」
「醜い願いだからだ」
「私の願いも、十分に自分勝手です」
「違う」
「同じです」
「違う」
「では聞いてから決めます」
アレクシスは黙ったまま、私の顔を見た。
怖がっている。
神殿よりも。
呪いよりも。
自分の願いを口にして、私に嫌われることを。
「大丈夫です」
「その言葉は禁止だ」
「今日は許してください」
「嫌だ」
「では、嫌だったらちゃんと嫌だと言います」
「……」
「困ったら困ったと言います」
「ああ」
「怒ったら怒ります」
「それは知っている」
「だから、勝手に私の答えを決めないでください」
彼が、目を閉じた。
胸元の赤い光が、また強くなる。痛みが増したのか、彼の呼吸が乱れた。
「アレクシス」
「分かっている」
「早く」
「急かすな」
「心臓が砕けるんですよ!」
「言えば、お前に嫌われるかもしれない」
「砕けるよりいいでしょう!」
「俺には同じくらい困る」
「そんなことを言っている場合ですか!」
本当に。
この人は。
死ぬかもしれないときまで面倒だ。
「……俺の願いは」
ようやく、彼が口を開いた。
「呪いが解けたあとも、お前を自由にしたくない」
心臓が鳴った。
「一年後に契約が終わっても」
アレクシスの声は、低く、少し掠れていた。
「好きな場所へ行けなどと言いたくない。北方にいろとも、王都へ行くなとも言いたい。他の男と踊るな。手を取らせるな。笑いかけるなとは……そこまでは言わないが」
「今、少し考えましたね?」
「ああ」
「言おうとしたんですね?」
「ああ」
「横暴です!」
「知っている」
でも彼は、目を逸らさなかった。
「俺の隣にいてほしい」
今まで聞いた、どの言葉よりも真っ直ぐだった。
「朝、お前が三分遅れたら迎えに行きたい。食事を残したら理由を聞きたい。書庫にこもれば時間を数えたい。夜は同じベッドで眠りたい」
「過保護は減らす約束でしょう」
「努力する」
「信用できません」
「ああ」
「認めないでください」
「それでも」
彼が、私の手を引いた。
距離が近づく。
「ずっと俺の妻でいてほしい」
涙が出た。
泣くつもりなんてなかった。
もっと上手に笑って、冷静に答えるつもりだった。
けれど七年間、誰かに選んでほしかった私がいる。
役に立つからではなく。
正しいからでも。
王太子妃に向いているからでもなく。
ただ、私だから。
「……それ」
声が、情けなく震えた。
「最初から言ってください」
「言えるか」
「どうして」
「お前の自由を奪う」
「だから、私に選ばせてください!」
「断られたら」
「怖かった?」
「ああ」
「私もです!」
泣きながら怒った。
「私だって、一年後も妻でいたいなんて言って、あなたに困った顔をされたらどうしようって、ずっと怖かったんです!」
「困っている」
「やっぱり!」
「嬉しすぎてだ」
「その言葉、二回目ですよ!」
「ああ」
「何度言われても困ります!」
「俺も困っている」
「知りません!」
顔を逸らそうとした。
けれどアレクシスの手が、私の手を離さない。
「リリアーヌ」
「何です」
「答えは」
「何の?」
「俺の願いを聞いて、嫌か」
「……」
すぐに答えるのは悔しい。
でも黒碑がある。
嘘は許されない。
「嫌ではありません」
「それだけ?」
「欲張り!」
「最も隠したい願いを言う試練だ」
「本当に都合よく使いますね!」
「答えろ」
私は、涙を手の甲で拭った。
「嬉しいです」
言った。
「私も、あなたの妻でいたい。呪いが解けたあとも、一年後も、その先も」
「その先?」
「そこは今決めなくても――」
『偽りは許されぬ』
「黒碑!」
「答えろ」
「アレクシスまで!」
二人とも、まったく逃がしてくれない。
「……ずっとです」
消え入りそうな声で言った。
「できれば、ずっと」
アレクシスの顔が、初めて見るほど柔らかくなった。
「そうか」
「それだけですか」
「では」
彼が、ほんの少し笑う。
「嬉しすぎて、何をしていいか分からない」
「もう、その言葉は禁止です!」
『第二の証明を認める』
黒碑から白い光が広がった。
アレクシスの胸元に浮かんでいた赤い呪印が、少しずつ薄くなる。痛みが引いたのか、彼が長く息を吐いた。
「終わった?」
「たぶん」
「本当に?」
「分からない」
「またですか」
『まだ終わっていない』
「でしょうね!」
もう驚かない。
たぶん。
『第三の証明』
黒碑の声が、今までより静かに響いた。
『触れよ』
「……触れる?」
私は、アレクシスと繋いだ手を見る。
「もう触れていますけど」
『それは、恐れのため』
「恐れ?」
『離れれば失うと恐れ、握った手だ』
黒碑の光が揺れた。
『呪いを鎮めるためでもなく』
『契約を果たすためでもなく』
『命を守るためでもなく』
胸が、急にうるさくなった。
『己の願いだけで、相手に触れよ』
「……」
「……」
アレクシスと目が合う。
近い。
さっき、彼に手を引かれたままだった。
「手では駄目なんですか」
『それを望むなら、構わぬ』
私は少し安心した。
けれど。
アレクシスが、何も言わない。
「アレクシス?」
「ああ」
「どうしました?」
「……」
「手を繋ぎ直せば」
「違う」
「何が」
「俺が触れたい場所は」
彼が言葉を切った。
灰銀色の目が、私の顔から逸れない。
「手ではない」
喉が乾いた。
「では……どこですか」
聞かなければよかった。
でも、聞いてしまった。
アレクシスの手が上がる。
頬に触れる寸前で止まった。
触れない約束。
私が嫌がることはしない。
どれだけ苦しくても、どれだけ近くても、彼はずっと守ってきた。
「リリアーヌ」
「はい」
「許可を」
声が、少し震えていた。
「何のですか」
「お前に」
彼の指が、私の頬のすぐそばで止まっている。
「口づけてもいいか」
息が止まった。
黒碑も。
神殿も。
呪いも。
一瞬、全部遠くなった。
「……今」
声が、うまく出ない。
「ここで?」
「ああ」
「黒碑の前で?」
「ああ」
「死んだ皆さんも、どこかで見ているかもしれませんよ?」
「九人には、もう告白を聞かれた」
「思い出させないでください!」
「なら問題ない」
「あります!」
顔が熱い。
逃げたい。
でも。
逃げたくない。
「アレクシス」
「ああ」
「これは」
確認する。
「呪いを解くためですか」
「違う」
「試練だから?」
「違う」
「契約上の夫婦だから?」
「違う」
「では」
彼が、私を見た。
「俺が、触れたい」
もう。
ずるい。
本当に。
ずるい人。
「リリアーヌ」
「……はい」
「嫌なら、断れ」
「断ったら?」
「触れない」
「呪いが解けなくても?」
「ああ」
「心臓が砕けても?」
「それは困るが」
少しだけ、彼が笑った。
「お前が嫌なら、しない」
それが。
この人だった。
だから私は、この人を好きになったのだと思う。
私は、彼の胸元の服を掴んだ。
酔っていない。
熱もない。
夢でもない。
全部覚えていられる。
「……許します」
アレクシスの目が、わずかに見開かれた。
「本当に?」
「何度も聞かないでください」
「だが」
「怖くなります」
「俺もだ」
「あなたも?」
「ああ」
「意外です」
「初めてだからな」
「……私もです」
今度は彼が驚いた。
「アルベルトとは?」
「ありません」
「七年間?」
「ありません!」
「そうか」
「今、少し嬉しそうですね」
「ああ」
「こういうときだけ素直!」
言い終わる前に。
アレクシスの手が、ようやく私の頬へ触れた。
優しく。
壊れ物に触れるように。
彼の顔が、ゆっくり近づく。
私は目を閉じた。
そして。
あと少しで唇が触れる、その瞬間。
神殿全体が大きく揺れた。
『急げ』
「今ですか!?」
思わず目を開けた。
アレクシスが、額を私の額へ押しつけたまま、低く呟く。
「本当に面倒な黒碑だ」
『面倒なのは、お前たちだ』
「黒碑に言われましたよ!」
「ああ」
「否定してください!」
「無理だ」
崩れ始めた天井から、小さな石が落ちてくる。
それでもアレクシスは、私の頬から手を離さなかった。
「リリアーヌ」
「はい」
「もう一度聞く」
「何です」
「口づけていいか」
今度は。
迷わなかった。
「はい」
答えた。
「私も、あなたに触れたいです」
そして。
今度こそ。
私たちの間にあった、最後のわずかな距離が。
ゆっくりと。
なくなった。




