第33話 黒碑に「何を失っても互いを選べ」と言われ、私たちは引き離されました
「アレクシス!」
手が。
離れた。
暗闇へ。
落ちる。
私は必死に手を伸ばした。
でも。
届かない。
「リリアーヌ!」
アレクシスの声。
遠くなる。
「アレクシス!」
「リリアーヌ!」
「手を!」
「伸ばしている!」
「もっと!」
「無茶を言うな!」
「今さらでしょう!」
一瞬。
こんなときなのに。
彼が笑ったような気がした。
でも。
次の瞬間。
完全な闇。
「アレクシス!」
返事は。
なかった。
◇
目を開けた。
「……」
明るい。
私は。
雪の中にいなかった。
神殿でもない。
暖かい。
春。
花。
鳥の声。
目の前に。
大きな屋敷。
「ここは……」
知っている。
グランツ公爵邸。
でも。
違う。
庭の木。
もっと大きい。
建物の壁。
少し古くなっている。
「何年後?」
誰も答えない。
私は。
ゆっくり。
庭を歩いた。
人がいる。
使用人。
皆。
笑っている。
平和。
穏やか。
そのとき。
「閣下!」
声。
振り返る。
息が。
止まった。
「……アレクシス」
いた。
彼。
でも。
少し違う。
今より。
年上。
三十代?
表情。
穏やか。
そして。
笑っていた。
「今年は北の麦も豊作になりそうです」
執事らしい男が言う。
「そうか」
「はい」
「なら、冬の備蓄を二割増やせ」
「またですか?」
「余れば来年へ回せ」
「閣下は心配性でございますね」
「悪いか」
「いいえ」
執事が笑う。
アレクシスも。
少し笑う。
胸が。
痛い。
こんなふうに。
笑えるんだ。
呪いがなければ。
十年間。
苦しまなければ。
夜ごと。
胸を押さえなくてよければ。
「アレクシス」
呼んだ。
彼が。
こちらを見る。
「……」
目が合う。
私は。
少し笑った。
「よかった」
思わず。
言った。
「元気で」
でも。
アレクシスは。
私を見たまま。
眉を寄せた。
「誰だ?」
世界が。
止まった。
「……」
ああ。
そうか。
この世界では。
会っていない。
呪いがなければ。
あの雨の夜。
苦しむ彼を。
私は見つけない。
手を触れない。
『見つけた』
そう言われない。
『俺の妻になれ』
言われない。
十個の枕も。
朝の抱擁も。
雷の夜も。
手を繋いだ夜も。
ない。
「どうした?」
アレクシスが聞く。
優しい。
でも。
知らない人に向ける優しさ。
「……何でもありません」
喉が。
痛い。
「道に迷ったのか?」
「少し」
「どこへ行きたい」
私は。
答えられなかった。
帰りたい場所。
それは。
あなたのいる場所。
でも。
今。
あなたは目の前にいる。
なのに。
私のことを知らない。
「ここに」
声。
黒碑の声。
『彼は苦しんでいない』
世界が。
少し揺れた。
アレクシスは。
聞こえていない。
『夜ごと痛みに襲われることもない』
「……」
『仲間を失った罪に囚われることもない』
「違う」
思わず言った。
『何が違う』
「罪じゃない」
『本人が罪と思えば、それは罪だ』
腹が立つ。
言い返したい。
でも。
少し分かるから。
余計に腹が立つ。
『彼は幸福だ』
見る。
アレクシス。
穏やかな顔。
健康。
笑っている。
『お前が彼を愛するなら』
胸が。
痛む。
『なぜ、この幸福を壊す』
「……」
言えない。
『お前が消えれば』
世界が。
揺れる。
『彼は苦しまない』
言葉が。
胸に刺さる。
『呪いもない』
『悪夢もない』
『お前を失う恐怖もない』
私は。
アレクシスを見た。
彼が。
知らない私を。
心配そうに見ている。
「顔色が悪い」
「……よく言われます」
「座るか?」
「大丈夫です」
言って。
笑った。
「あ」
「何だ」
「それ」
「何が」
「大丈夫は」
一瞬。
言いそうになった。
禁止です。
でも。
言えない。
この人は。
知らないから。
「……何でもありません」
胸が。
苦しい。
『選べ』
声。
『彼の幸福か』
『お前との未来か』
私は。
黙った。
答えなんて。
簡単。
彼が幸せなら。
私なんて。
いなくていい。
そう。
思った。
思ってしまった。
だって。
好きなら。
そうでしょう?
好きな人には。
幸せでいてほしい。
自分がそこにいなくても。
「……」
でも。
胸の奥で。
何かが。
引っかかった。
アレクシスが。
前に言った。
『次は、お前が選べ』
私に。
選べと。
言った。
なら。
「……嫌です」
『何が』
「その聞き方が」
『選択を拒むか』
「いいえ」
私は。
黒碑の声へ。
言った。
「私が消えれば、彼が幸せになる」
『そうだ』
「誰が決めたんです?」
沈黙。
「あなた?」
『……』
「それとも私?」
少し。
腹が立ってきた。
「アレクシス本人は?」
『彼はこの世界で幸福だ』
「だから!」
声が大きくなる。
「本人に聞いてないでしょう!」
アレクシスが。
こちらを見る。
「誰と話している?」
「面倒な相手です」
「そうか」
「はい」
「なら耐えろ」
私は。
止まった。
「……」
「どうした?」
「今」
胸。
痛い。
でも。
笑ってしまう。
「何て言いました?」
「耐えろ」
同じ。
知らないはずなのに。
この人は。
やっぱり。
アレクシスだ。
「無茶を言わないでください」
言った。
笑いながら。
泣きながら。
彼は。
少し。
不思議そうな顔をした。
『選べ』
声。
また。
『この男を苦しみへ戻すか』
『お前が消えるか』
「ずるい」
『何が』
「二つしかないように言うところです」
『二つしかない』
「嘘」
『……』
「私は」
息を吸う。
「アレクシスに選ばせます」
『何を』
「私と出会った人生を」
声が震える。
「後悔しているか」
『……』
「呪いがない人生と」
胸が。
苦しい。
「私と出会った人生」
それでも。
言う。
「どちらを選ぶかは、彼が決めます」
『お前は自らを差し出す覚悟がないのか』
「あります」
即答した。
怖い。
でも。
本当。
「彼が本当に私のいない人生を望むなら」
涙が。
落ちる。
「私は消えます」
『ならば』
「でも!」
遮った。
「私が勝手に決めません」
前に。
私たちがした。
喧嘩。
守るため。
置いていく。
優しさのつもりで。
相手を傷つける。
「愛しているから消えるなんて」
私は。
少し笑った。
「綺麗に聞こえるでしょうね」
『……』
「でも」
拳を握る。
「残される人の気持ちを聞かないなら」
声が。
少し震える。
「ただの独りよがりです」
言った。
たぶん。
自分にも。
◇
――その頃。
アレクシスは。
九人の仲間に囲まれていた。
「久しぶりだな、隊長」
ローディンが笑う。
「……」
「何だ、その顔」
「黙れ」
「十年ぶりだぞ?」
「黙れ」
「相変わらずだな」
笑い声。
マルク。
トーマ。
ユリウス。
エドガー。
全員。
いる。
生きている。
「隊長!」
十八歳のエドガーが。
笑う。
「帰ったら結婚するんで、休暇ください!」
「却下だ」
「ひどい!」
「冗談だ」
全員。
止まる。
「……隊長が」
「冗談を?」
「気持ち悪い」
「殺すぞ」
笑い。
ある。
懐かしい。
十年間。
何度も。
戻りたかった。
あの日。
別の命令を出していれば。
神殿に入らなければ。
自分がもっと強ければ。
九人は。
生きていた。
『選べ』
声。
『過去を選べば』
黒い空。
『彼らは生きる』
アレクシスは。
黙った。
『ただし』
景色。
変わる。
雨。
夜。
女。
リリアーヌ。
消える。
『対なる者との出会いは失われる』
アレクシスの手が。
震えた。
「……そうか」
『選べ』
「隊長」
ローディンが。
少し真面目な声を出す。
「何を迷ってる?」
「黙れ」
「その女か?」
「黙れ」
「好きなのか?」
「……」
「おい」
周り。
ざわつく。
「隊長が?」
「女を?」
「嘘だろ?」
「どんな女だ?」
「黙れ!」
怒鳴った。
全員。
静かになる。
そして。
一秒後。
大笑い。
「これは当たりだ!」
「顔が怖い!」
「元からだ!」
「十年後も怖いのか?」
「うるさい!」
アレクシスは。
拳を握った。
「お前たちを」
声。
掠れる。
「生かせる」
笑いが止まる。
「俺が」
一度。
息を止める。
「彼女を捨てれば」
エドガーが。
眉を寄せた。
「その人は?」
「……」
「隊長を好きなのか?」
「知らん」
「そこは知らないのかよ!」
「面倒なんだ」
「女が?」
「俺たち、今こんな状況で痴話喧嘩を聞かされるんですか?」
「殺すぞ」
ローディンが。
笑った。
「なあ、隊長」
「何だ」
「俺たち」
少し。
顔が。
真面目になる。
「生きたいぞ」
アレクシスの顔が。
歪む。
「当たり前だ」
「ああ」
「なら」
「でも」
ローディンが。
遮る。
「俺たちが生きたいことと」
「ああ」
「お前が今、大事にしている人間を捨てることは」
静かな声。
「別だ」
「……」
「一緒にするな」
「だが」
「まただ」
ローディンが。
呆れたように笑う。
「お前は昔から」
指を差す。
「自分が全部決める」
「俺は指揮官だ」
「そういうところだ!」
「……」
「勝手に背負って」
少し。
声が震える。
「勝手に残ろうとして」
「ああ」
「勝手に自分を罰して」
「ああ」
「今度は」
一歩。
近づく。
「勝手に好きな女を捨てるのか?」
「好きとは言っていない」
「そこか!?」
全員。
怒鳴った。
アレクシスが。
黙る。
「面倒くせえ!」
「十年後のお前、さらに面倒になってるな!」
「その奥さん大丈夫か?」
「妻とは言っていない」
「顔に書いてある!」
「黙れ!」
でも。
少し。
笑った。
泣きそうな顔で。
「隊長」
エドガーが言う。
「俺」
「ああ」
「結婚したかったです」
声。
若い。
「子供も」
「ああ」
「欲しかった」
「ああ」
「だから」
笑う。
「俺たちを選びたいって思ってくれるのは、嬉しいです」
アレクシスの目が。
揺れる。
「でも」
十八歳の青年が。
真っ直ぐ見る。
「俺が死んだからって」
「ああ」
「隊長の幸せまで死ななきゃいけないんですか?」
「……」
「それ」
少し。
寂しそうに。
笑う。
「俺、嫌ですよ」
アレクシスは。
何も言えなかった。
「生きろって」
ローディンが言う。
「言ったよな」
「ああ」
「今度こそ」
一歩。
後ろへ下がる。
「言うこと聞け、馬鹿」
アレクシスの目から。
涙が落ちた。
「……二度目だ」
「何が?」
「最近」
声。
掠れる。
「泣いたのは」
一瞬。
全員。
静か。
次の瞬間。
「隊長が!?」
「嘘だろ!」
「誰の前で!」
「……リリアーヌ」
言った。
全員。
黙る。
そして。
ローディンが。
笑った。
「行けよ」
「……」
「その女のところへ」
◇
「アレクシス!」
私は。
叫んだ。
世界が。
崩れ始めている。
『選べ』
声。
『今なら消えられる』
「嫌です!」
『彼を苦しみのない世界へ戻せる』
「勝手に決めません!」
『お前は彼を愛していないのか』
「愛して――」
止まった。
言葉。
初めて。
そこまで出た。
胸が。
苦しい。
でも。
今。
隠す?
こんなときに?
「……愛しています」
言った。
誰にも。
彼にも。
まだ。
言っていない。
最初が。
黒碑。
最悪。
本当に。
「だからこそ」
涙を拭う。
「彼の人生を、私が勝手に決めません!」
世界。
ひび割れる。
「アレクシス!」
叫ぶ。
「聞こえますか!」
返事。
ない。
「聞こえてなくても言います!」
もう。
止まらない。
「私はあなたを愛しています!」
言った。
胸が。
痛い。
恥ずかしい。
怖い。
でも。
「だから!」
声。
震える。
「勝手に私を捨てないでください!」
◇
遠く。
アレクシスが。
顔を上げた。
「……リリアーヌ?」
聞こえた。
声。
『私はあなたを愛しています!』
九人。
全員。
黙る。
アレクシスも。
黙る。
「……」
ローディンが。
肩を叩いた。
「行け」
アレクシスが。
まだ黙る。
「隊長?」
「今」
「ああ」
「何と言った?」
「愛してるって」
「俺に?」
「他に誰がいる」
「……」
「隊長」
「何だ」
「顔」
「何だ」
「すごいぞ」
「何が」
「嬉しそうだ」
「黙れ」
「耳も赤い」
「殺すぞ」
「さっさと行け!」
九人。
笑う。
アレクシスも。
泣きながら。
少し笑った。
「……お前たち」
「ああ」
「すまなかった」
ローディンが。
首を振る。
「違うだろ」
「……」
「何て言うんだ」
アレクシスは。
目を閉じた。
十年間。
一度も。
言えなかった。
「ありがとう」
九人が。
笑った。
「遅い」
「ああ」
「十年遅い」
「ああ」
「でも」
ローディンが。
最後に。
言った。
「聞けてよかった」
世界が。
白くなる。
◇
「アレクシス!」
「リリアーヌ!」
声。
今度は。
近い。
闇。
私は。
手を伸ばした。
向こうから。
手。
指。
触れる。
「離さないで!」
「分かっている!」
「絶対!」
「ああ!」
手。
握る。
強く。
世界が。
砕けた。
私は。
黒碑の前へ。
戻った。
目の前。
アレクシス。
「……」
「……」
手。
繋がっている。
私は。
泣いている。
彼も。
少し。
目が赤い。
「アレクシス」
「なんだ」
「無事?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「嘘?」
「今は本当だ」
安心した。
本当に。
安心。
次の瞬間。
思い出した。
『私はあなたを愛しています!』
「……」
「……」
アレクシスが。
私を見る。
私は。
目を逸らした。
「リリアーヌ」
「何です?」
「さっき」
「何も言ってません」
「言った」
「幻聴です」
「九人も聞いた」
「九人!?」
「全員」
「最悪!」
私は。
顔を覆った。
「忘れてください!」
「嫌だ」
「どうして!」
「死んでも忘れない」
胸が。
止まりそう。
「そういう言い方!」
「ああ」
「ずるい!」
「ああ」
「それで」
怖い。
でも。
聞く。
「アレクシスは」
彼が。
私を見る。
「何を選んだんですか」
「お前だ」
即答。
息が。
止まった。
「でも」
「ああ」
「仲間の皆さんが」
「ああ」
「生きていたでしょう?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「それでも」
「お前だ」
涙が。
また。
落ちた。
「どうして」
「知らん」
「嘘」
「ああ」
「では答えて」
長い。
沈黙。
アレクシスが。
少し。
困った顔をする。
「お前が」
「ああ」
「いなくなるほうが」
胸が。
苦しい。
「今は、怖い」
私は。
何も言えない。
「それに」
彼が。
私の手を。
強く握る。
「俺が勝手にお前を捨てたら」
「ああ」
「怒るだろう」
「ものすごく」
「ああ」
「絶対に許しません」
「知っている」
少し。
笑った。
「なら」
私は。
聞く。
「私も勝手に消えたら?」
「許さない」
「即答」
「ああ」
「怖いくらいですね」
「ああ」
「では」
もう一度。
握り直す。
「お互い様です」
「ああ」
その瞬間。
黒碑が。
光った。
『第一の証明を認める』
「第一?」
私は。
嫌な予感。
「まだあるんですか?」
『ある』
「何個?」
『三つ』
「先に言ってください!」
思わず。
怒鳴った。
アレクシスが。
少し笑った。
「何です?」
「いや」
「笑いました?」
「ああ」
「こんなときに!」
「お前らしい」
腹が立つ。
でも。
少し。
嬉しい。
『第二の証明』
黒碑の声。
『互いの真実を示せ』
私は。
少し。
嫌な予感。
「真実?」
『偽りなく』
黒碑。
赤く光る。
『最も隠したい願いを』
アレクシスと。
目が合った。
「……」
「……」
最も。
隠したい願い。
私は。
一つしか。
思い浮かばなかった。
一年後。
契約が終わっても。
この人の隣にいたい。
でも。
それを。
言う?
今?
「リリアーヌ」
「何です」
「顔が赤い」
「あなたもです!」
「ああ」
「認めるんですね!」
「面倒だからな」
「私もです!」
黒碑の声。
もう一度。
響く。
『偽りを述べれば』
一度。
神殿全体が。
揺れた。
『呪われし者の心臓は砕ける』
私は。
固まった。
「……先に言ってください!」
今度こそ。
本気で。
黒碑に怒鳴った。




