第32話 神殿に入れるのは明日の夜までだと言われました
「もう、時間がありません」
老神官は言った。
「神殿に入れるのは、明日の夜までです」
「……明日?」
聞き返した。
聞き間違いだと思いたかった。
「はい」
「でも」
私はアレクシスを見る。
「到着予定は、あと三日ですよね?」
「ああ」
「では」
また老神官を見る。
「間に合わないでしょう」
「通常の行程では」
「通常でなければ?」
嫌な予感。
最近。
本当に。
嫌な予感だけはよく当たる。
「夜通し進めば」
老神官が答えた。
「明日の夕刻には、神殿麓の村まで到着できる可能性があります」
「可能性」
「はい」
「できる、ではなく?」
「はい」
窓の外。
吹雪。
白。
暗い。
風の音。
嫌になるくらい。
聞こえる。
「危険ですか」
「はい」
老神官は。
正直だった。
「雪崩の危険もございます」
「はい」
「道も」
「悪いでしょう」
「はい」
「馬車は?」
「途中から使えません」
「馬で?」
「それも難しいでしょう。最後の二刻ほどは徒歩になります」
私は黙った。
二刻。
雪の中。
神殿まで。
「分かりました」
言った。
アレクシスが。
「駄目だ」
即答。
来た。
「まだ何も言ってません」
「分かる」
「そればかり!」
「お前は残れ」
やっぱり。
「嫌です」
「これは命令だ」
「嫌です」
「リリアーヌ」
「嫌」
「子供か」
「あなたに言われたくありません!」
老神官が。
静かに。
視線を逸らした。
「何ですか」
「いいえ」
「また夫婦喧嘩だと思ってます?」
「申し上げておりません」
「顔が言っています!」
アレクシスが立ち上がる。
「今すぐ出る」
「ああ」
「護衛は最小限」
「ああ」
「馬車は行けるところまで」
「ああ」
「リリアーヌはここに残す」
「最後がおかしいです!」
「おかしくない」
「おかしい!」
「危険だ」
「知っています!」
「なら残れ」
「嫌です!」
また。
同じ。
何度目。
私は行く。
彼は駄目だと言う。
本当に。
腹が立つ。
「公爵様」
「アレクシスだ」
「今それどころではありません!」
「なら何だ」
「私を置いていくつもりですか!」
「ああ」
即答。
本当に。
この人。
「約束しましたよね?」
「何を」
「私を置いていかないと!」
「あれは」
「あれは?」
「状況が違う」
「便利ですね!」
声が大きくなる。
「都合が悪くなったら状況が違う?」
「リリアーヌ」
「絶対って言いましたよね!」
「ああ」
「約束しましたよね!」
「ああ」
「なら守ってください!」
「お前を危険に晒す約束なら破る」
胸が。
痛んだ。
でも。
腹も立った。
「ずるい」
「ああ」
「認めるんですか!」
「ああ」
「では私も勝手に行きます!」
「許さない」
「許可を求めてません!」
「護衛に止めさせる」
「では逃げます!」
「無理だ」
「やってみなければ分からないでしょう!」
「お前は雪道で十歩歩けば転ぶ」
「失礼!」
「事実だ」
「まだ歩いてません!」
老神官が。
とうとう。
小さく咳払いした。
「何だ」
アレクシス。
声が怖い。
「一つ、よろしいでしょうか」
「ああ」
「解呪の記録には」
老神官が。
私たちを見る。
「対なる者と共に神殿へ入る、とあります」
「だから何だ」
「リリアーヌ様がいなければ、解呪できない可能性が高いかと」
「別の方法を探せ」
「明日の夜までです」
「なら諦める」
「アレクシス!」
思わず。
名前で呼んだ。
彼が私を見る。
「今」
怒りで。
手が震えた。
「何て言いました?」
「諦める」
「呪いを?」
「ああ」
「十年間苦しんできたのに?」
「ああ」
「やっと解けるかもしれないのに?」
「ああ」
「どうして!」
アレクシスが。
黙る。
「答えてください!」
「お前を失う可能性があるからだ」
言葉が。
止まった。
「……」
「……」
ずるい。
また。
そうやって。
一番怒れなくなる言葉を。
何でもないように。
「それなら」
私は言った。
声が震える。
「私だって同じです」
「何が」
「あなたを一人で行かせて」
「……」
「帰ってこなかったら?」
「帰る」
「絶対?」
「ああ」
「嘘」
「……」
「ほら!」
涙が出そう。
でも。
今は泣きたくない。
「私を失うのが怖い?」
「ああ」
「なら」
一歩。
近づく。
「私だって」
もう一歩。
「あなたを失うのが怖いです」
アレクシスが黙る。
「だから」
私は。
まっすぐ見る。
「私を守るという言葉を」
一度。
息を吸う。
「私を置いていく言い訳にしないでください」
静かだった。
吹雪だけ。
聞こえる。
「守るというのは」
私は続けた。
「相手の意思を無視して、閉じ込めることではありません」
「……」
「あなたは前に言いましたよね」
「ああ」
「七年間、他人のために生きたのだから、次は自分で選べって」
「ああ」
「なら」
胸を張る。
「私が選びます」
「……」
「一緒に行きます」
アレクシスが。
長く。
長く。
黙った。
「……後悔するかもしれない」
「そのときはします」
「怖いぞ」
「もう怖いです」
「死ぬかもしれない」
少し。
息が詰まった。
でも。
「あなたもでしょう」
「ああ」
「なら」
私は手を差し出した。
「一人より二人です」
彼は。
その手を見る。
「リリアーヌ」
「はい」
「本当に面倒だな」
「知っています」
「頑固だ」
「あなたほどではありません」
「無茶をする」
「あなたほどではありません」
「言うことを聞かない」
「それはお互い様です!」
少し。
アレクシスの口元が動いた。
「……そうだな」
そして。
私の手を取った。
◇
出発は。
一時間後だった。
荷物を最低限に。
護衛も減らす。
暖かい外套。
厚い手袋。
雪靴。
そして。
「毛布三枚」
「持っていきません!」
「必要だ」
「重いです!」
「俺が持つ」
「そういう問題ではありません!」
結局。
二枚になった。
……負けた気がする。
馬車。
夜通し。
揺れた。
窓の外は何も見えない。
白。
黒。
時々。
風。
「眠れ」
アレクシスが言った。
「あなたは?」
「起きている」
「嫌です」
「なぜ」
「あなたが寝ていないから」
「俺は平気だ」
「禁止」
「……」
「一緒に寝てください」
「馬車で?」
「はい」
「狭い」
「知っています」
「どうやって」
「目を閉じればいいです」
「雑だな」
「あなたに言われたくありません」
私は。
少しだけ。
彼の肩へ寄った。
「リリアーヌ」
「何です」
「近い」
「嫌ですか」
前なら。
ここで。
少し怖かった。
聞くのが。
でも。
今は。
「嫌ではない」
答えを知っている。
「なら」
頭を肩に置いた。
「少しだけ」
「ああ」
「一緒に寝てください」
「分かった」
そのまま。
目を閉じる。
でも。
眠れない。
「アレクシス」
「なんだ」
「起きてます?」
「ああ」
「私もです」
「知っている」
「どうして」
「呼吸」
「怖い?」
聞く。
少し。
間。
「ああ」
「私も」
「ああ」
「なら」
私は。
彼の手を探した。
指。
触れる。
絡む。
「これで少し」
「ああ」
「ましです」
アレクシスの手が。
少し強くなる。
「俺もだ」
その一言で。
少しだけ。
眠れた。
◇
翌日。
昼を過ぎた頃。
馬車は止まった。
「ここから先は徒歩です」
護衛騎士が言う。
外。
雪。
膝まで。
「……」
「リリアーヌ」
「何です」
「残るか」
「行きます」
「即答だな」
「あなたの真似です」
「そうか」
「はい」
一歩。
雪。
深い。
二歩目。
滑った。
「きゃっ」
腕。
掴まれる。
「十歩どころか二歩だったな」
「うるさいです!」
「残るか」
「行きます!」
「頑固だな」
「知っています!」
それから。
歩いた。
何度も転びそうになった。
三回。
アレクシスに支えられた。
四回目。
「もう抱える」
「嫌です!」
「遅い」
「自分で歩けます!」
「また転ぶ」
「転びません!」
三歩後。
転んだ。
「……」
「……」
「何も言わないでください」
「分かった」
「絶対何か思ってますよね」
「ああ」
「言わないで!」
結局。
最後の坂道。
私は。
アレクシスに抱き上げられた。
「恥ずかしいです」
「ああ」
「降ろしてください」
「嫌だ」
「どうして」
「また転ぶ」
「もう転びません!」
「信用できない」
「失礼!」
でも。
彼の呼吸。
少し荒い。
「アレクシス」
「なんだ」
「苦しくない?」
「問題ない」
「禁止」
「……平気だ」
「同じです」
「細かいな」
「あなたの真似です」
「そうか」
私は。
彼の首元へ。
少しだけ顔を寄せた。
「重かったら言ってください」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
「絶対?」
「軽すぎる」
「それはそれで失礼!」
彼が。
少し笑った。
◇
夕刻。
神殿へ着いた。
最初に見えたのは。
巨大な石の門。
半分。
雪に埋もれている。
黒い石。
古い文字。
そして。
その横。
一枚の。
新しい石碑。
「これは」
私は。
近づいた。
名前。
九つ。
刻まれている。
アレクシスが。
止まった。
顔。
動かない。
「十年前の」
「ああ」
「皆さん?」
「ああ」
私は。
石碑を見る。
九人。
知らない名前。
でも。
この人にとっては。
十年間。
毎晩。
一緒にいた名前。
「読んでもらえますか」
言った。
アレクシスが。
私を見る。
「名前」
「ああ」
「聞きたいです」
「……」
「嫌なら」
「いや」
彼が。
石碑へ近づく。
最初の名前。
「ローディン・カール」
低い声。
「副隊長だ」
夢で。
生きろと叫んだ人。
「頑固だった」
「あなたが言います?」
「ああ」
「続けてください」
次。
「マルク・ヘイゼン」
次。
「トーマ・ベル」
次。
「ユリウス・ハーン」
一人ずつ。
ゆっくり。
読む。
時々。
少し説明する。
「こいつは酒が弱かった」
「ああ」
「一杯で泣いた」
「何を」
「故郷の犬を思い出して」
「……優しい人だったんですね」
「ああ」
次。
「こいつは嘘つきだった」
「悪い人?」
「いや」
少しだけ。
アレクシスが笑う。
「毎回、子供に菓子を買っていないと言って、隠していた」
「それは」
「ああ」
「下手な嘘ですね」
「ああ」
最後。
九人目。
アレクシスの声が。
少し。
掠れた。
「エドガー・ロウ」
「ああ」
「十八だった」
私より。
ずっと若い。
「家へ帰ったら」
アレクシスが言う。
「結婚する予定だった」
胸が痛む。
「婚約者が?」
「ああ」
「……」
「俺が」
その言葉。
また。
「連れてきた」
私は。
彼の手を握った。
「はい」
否定しない。
「あなたが連れてきた」
「ああ」
「責任はある」
「ああ」
「でも」
強く。
握る。
「全部ではありません」
アレクシスが。
私を見る。
「それを」
私は言った。
「何度でも言います」
「面倒だな」
「知っています」
「十年でも?」
「はい」
「毎日でも?」
「はい」
「一年後も?」
止まった。
彼も。
気づいた。
私も。
「……」
「……」
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「嫌だ」
「もう!」
でも。
少し笑えた。
こんな場所で。
九人の名前の前で。
笑っていいのか。
一瞬。
迷った。
でも。
アレクシスも。
ほんの少し。
笑っていた。
だから。
たぶん。
いい。
◇
夜。
神殿の中へ入った。
護衛は入口まで。
老神官も。
外で待つ。
中へ入れるのは。
二人だけ。
「怖い?」
私が聞いた。
「ああ」
「私も」
「ああ」
「手」
差し出す。
彼が。
握る。
「絶対に離すな」
「はい」
「何があっても」
「はい」
「俺が離せと言っても」
「離しません」
アレクシスが。
少し。
こちらを見る。
「それは命令違反だ」
「知っています」
「面倒だな」
「知っています」
暗い。
石の廊下。
夢と。
同じ。
進む。
奥。
黒い碑。
見えた。
その瞬間。
アレクシスの呪印が。
赤く光った。
「っ……」
「アレクシス!」
「大丈夫だ」
「禁止!」
「まだ言うのか」
「一生言います!」
言ってから。
止まった。
「……」
「……」
彼が。
私を見る。
「今」
「何も言わないでください!」
「一生と」
「聞かなかったことに!」
「嫌だ」
「本当にもう!」
そのとき。
神殿。
揺れた。
黒碑から。
声。
男でも。
女でもない。
低い。
古い。
声。
『呪われし者よ』
アレクシスの手が。
強くなる。
『選べ』
暗闇。
広がる。
『過去を選ぶか』
石壁に。
九人。
現れる。
十年前の仲間。
笑っている。
生きている。
アレクシスが。
息を止める。
『あるいは』
今度は。
私の足元。
光。
『対なる者を選ぶか』
アレクシスが。
私を見る。
その顔を見た瞬間。
分かった。
この人は。
また。
一人で全部背負おうとしている。
だから。
私は。
先に言った。
「言っておきます」
「何を」
「私を置いていく選択は」
手を。
さらに強く握る。
「絶対に許しませんから」
アレクシスが。
ほんの少し。
苦しそうに笑った。
「……面倒な妻だ」
「知っています」
そして。
黒碑が。
再び。
声を放った。
『ならば証明せよ』
『何を失っても』
『互いを選ぶと』
次の瞬間。
床が。
割れた。
アレクシスの手が。
私の手から。
離れた。
「リリアーヌ!」
暗闇へ。
落ちる。
最後に聞こえたのは。
私の名前を叫ぶ。
彼の声だった。




