第30話 初めて「アレクシス」と名前で呼んだ翌朝、元に戻せなくなりました
朝。
私は目を覚ました。
暖かかった。
それから、近かった。
そして。
昨夜のことを思い出した。
『アレクシス』
「……」
私は無言で目を閉じた。
もう一度眠ろう。
そうしよう。
今ならまだ間に合う。
「起きているだろう」
「寝ています」
「昨日もそれを聞いた」
「では今日は聞かなかったことにしてください」
「嫌だ」
「どうして」
「聞いたからだ」
「最近そればかり!」
仕方なく目を開ける。
隣に、アレクシス公爵がいた。
近い。
思った以上に近い。
昨夜、確かに彼の背中へ自分から額をつけた。
そして彼がこちらを向き、名前を呼べと言われて。
私は。
『アレクシス』
と。
しかも二回。
「……やっぱり寝ます」
「起きろ」
「嫌です」
「朝だ」
「知っています」
「なら起きろ」
「あなたの顔を見たくありません」
言った瞬間。
アレクシス公爵の表情が変わった。
ほんの少し。
でも、私は気づいた。
「あ」
「そうか」
「違います」
「何が」
「そういう意味ではなくて」
「なら、どういう意味だ」
「恥ずかしいからです!」
言ってしまった。
アレクシス公爵が黙る。
私は布団を鼻まで引き上げた。
「昨夜のことを思い出すからです」
「ああ」
「名前で呼んだことを」
「ああ」
「二回も」
「ああ」
「もう『ああ』って言わないでください!」
「分かった」
「それも腹が立ちます!」
「どうしろと」
「知りません!」
朝から何をやっているのだろう。
でも。
これが。
少し楽しいと思ってしまう自分がいる。
昔の私なら、朝からこんなくだらないことで誰かと喧嘩なんてしなかった。
いや。
できなかった。
喧嘩をしても嫌われないと、知らなかったから。
「公爵様」
「駄目だ」
「……はい?」
「もう戻すな」
「何をです?」
「呼び方だ」
「呼び方?」
「ああ」
嫌な予感。
「まさか」
「アレクシスと呼べ」
「嫌です」
「なぜ」
「恥ずかしいから!」
「昨夜は呼んだ」
「昨夜は昨夜です!」
「今日も俺は俺だ」
「そういう問題ではありません!」
アレクシス公爵が、少しだけ眉を寄せる。
「なぜ俺だけ公爵様なんだ」
「普通でしょう?」
「お前は俺の妻だ」
胸が跳ねる。
本当に。
この人は。
何でもない顔で、とんでもないことを言う。
「契約上の」
つい言ってしまった。
アレクシス公爵の顔が少し曇る。
しまった。
最近、これを言うと。
私も痛い。
彼も。
たぶん。
「……今はまだ」
私は小さく言った。
アレクシス公爵が私を見る。
「便利ですね、この言葉」
「ああ」
「公爵様がよく使うからです」
「アレクシス」
「はい?」
「公爵様ではない」
「そこに戻ります!?」
「ああ」
「嫌です!」
「なぜ」
「だから、恥ずかしいから!」
「なら、人前でなくていい」
「え?」
彼は真顔だった。
「二人のときだけ」
胸が、また鳴った。
「……どうして」
「呼んでほしい」
「そんなに?」
「ああ」
「どうして」
長い沈黙。
また。
分からない?
そう思った。
「嬉しいからだ」
違った。
私は何も言えなくなった。
本当に。
ずるい。
「リリアーヌ」
「……はい」
「呼べ」
「命令しないでください」
「頼む」
「もっと駄目です」
「なぜ」
「断りにくくなるでしょう!」
「そうか」
「分かって言ってましたね?」
「少し」
「正直!」
私は枕へ顔を埋めた。
「……一回だけです」
「ああ」
「今日一回だけ」
「ああ」
「絶対ですよ?」
「ああ」
息を吸う。
無理。
たった名前。
なのに。
「……アレクシス」
呼んだ。
隣が静かになる。
「何ですか」
「いや」
「その顔は何です?」
「どんな顔だ」
「少し嬉しそうです」
「ああ」
「認めるんですか」
「ああ」
もう。
怒れない。
「では約束通り、今日は終わりです」
「嫌だ」
「どうして!」
「もっと聞きたい」
「子供ですか!」
「ああ」
「最近、開き直りすぎです!」
◇
旅の三日目。
昼過ぎ。
私たちは北方の中核都市、エルグレンへ入った。
街を囲む巨大な石壁。
雪に耐えるため傾斜をつけた屋根。
王都とは違う、重く頑丈な建物。
街へ入る門で、兵士がこちらの紋章を見る。
次の瞬間。
「閣下!」
顔が明るくなった。
「お帰りなさいませ!」
アレクシス公爵が、ほんの少しだけ片手を上げる。
「ああ」
それだけ。
でも兵士は笑った。
「相変わらずですね!」
「何が」
「お元気そうで何よりです!」
「ああ」
馬車が進む。
私は窓の外を見た。
人が集まっている。
最初は公爵本人を見に来たのだと思った。
でも。
「奥様!」
「奥様だ!」
「本当にいたぞ!」
「おい、閣下が結婚したって噂は本当だったんだ!」
私?
「……公爵様」
「アレクシス」
「今それどころではありません!」
外から笑い声。
「あ、怒られた!」
「本当に尻に敷かれてる!」
「誰ですか、その噂を流したの!」
知らない男性が大声で答える。
「南の村からです!」
「早い!」
昨日でしょう!?
「奥様!」
今度は女性。
「閣下をよろしくね!」
「ちゃんと食べさせて!」
「野菜を!」
また野菜。
「公爵様」
「なんだ」
「どれだけ野菜を食べないんです?」
「食べている」
「怪しい」
「昨日も食べた」
「老女に怒られたからでしょう!」
外。
大笑い。
もう。
恥ずかしい。
でも。
不思議だった。
王都で彼は「氷獄公爵」と恐れられている。
笑わない。
冷たい。
人を寄せつけない。
そんな噂ばかり。
なのに。
ここでは。
誰も彼を遠くから見ていない。
近い。
ものすごく。
「アレクシス」
呼んでから。
自分で固まった。
「……」
「……」
「あの」
「ああ」
「今のは」
「聞いた」
「忘れて」
「嫌だ」
「でしょうね!」
でも。
彼は。
本当に少し。
嬉しそうだった。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「あなた」
窓の外を見た。
人が笑っている。
「愛されてるんですね」
「知らん」
「それはもう無理があります」
「そうか」
「はい」
少し考えて。
「私も嬉しいです」
「なぜ」
「知りません」
「俺の真似か」
「違います」
「嘘だ」
「……ああ」
「またした」
「もう!」
◇
その日の夕方。
私たちは領都の公爵館に入った。
王都の屋敷より小さい。
でも。
何となく温かい。
使用人たちが並び。
一斉に頭を下げた。
ただ。
皆。
私を見たいのを我慢している。
分かる。
視線。
すごく。
「顔を上げていい」
アレクシス公爵が言う。
一斉に。
皆の目が私へ。
「……」
「……」
気まずい。
ものすごく。
すると。
一番年長らしい女性使用人が。
涙を浮かべた。
「よかった」
「え?」
「本当によかったです」
私は困った。
「何がでしょう」
「閣下に」
彼女が。
鼻をすすりながら。
「奥様が来てくださって」
アレクシス公爵が嫌そうな顔をする。
「余計なことを言うな」
「十年前から、ずっとお一人で」
「やめろ」
「夜も眠れず」
「やめろと言った」
私は。
彼を見る。
使用人を見る。
「続けてください」
「リリアーヌ」
「私にも関係があります」
「……」
彼は黙る。
女性使用人が。
少し笑った。
「閣下は昔から」
「ああ」
「一人で全部抱え込む方です」
「知っています」
「でしょう?」
「はい」
「二人で何の話をしている」
「あなたの面倒さについてです」
「ああ」
「認めるんですね」
周りから。
笑い。
アレクシス公爵が。
少しだけ。
顔をしかめる。
「アレクシス」
「何だ」
「怒らないでください」
言って。
また。
止まる。
名前。
自然に出た。
彼も。
気づいた。
「今」
「何も言わないでください!」
「だが」
「絶対に!」
「……ああ」
使用人たちの顔。
にこにこ。
嫌。
もう。
恥ずかしい。
◇
夜。
私たちは。
同じ寝室にいた。
当然のように。
もう。
どちらも何も言わなかった。
ベッドへ入る。
私は。
少し迷って。
彼に近づいた。
「今日は呪いは?」
「ない」
「そうですか」
「ああ」
「なら」
少し離れようとする。
「待て」
止まる。
「何です?」
「そのままでいい」
胸が。
少し。
温かくなる。
「呪いはないんですよね?」
「ああ」
「ではなぜ?」
「言わない」
「また?」
「ああ」
でも。
前ほど。
腹は立たない。
たぶん。
少しずつ。
答えを知り始めているから。
「おやすみなさい」
「ああ」
「おやすみ、は?」
「おやすみ」
「はい」
目を閉じる。
旅の疲れ。
すぐ。
眠りに落ちた。
◇
暗い。
石の壁。
血の匂い。
知っている。
あの夢。
以前。
私が見た。
アレクシスの過去。
『閣下!』
誰かが叫ぶ。
『戻る!』
十九歳のアレクシス。
若い。
血だらけ。
『まだ中にいる!』
『駄目です!』
『離せ!』
『嫌です!』
『命令だ!』
ガルドさん。
若い。
彼の腕を掴んでいる。
『あいつらを助ける!』
神殿。
崩れる。
天井。
石。
黒い碑。
血。
『俺が連れてきた!』
アレクシスが叫ぶ。
『俺が!』
そして。
奥から。
声。
『だから戻ってくるな、この馬鹿!』
アレクシスが止まる。
『……副隊長』
『聞こえてるか!』
瓦礫の向こう。
人影。
『生きろ!』
『嫌だ!』
『命令だ!』
『俺が指揮官だ!』
『知るか!』
怒鳴り声。
こんなときなのに。
少し。
笑っている。
『お前は昔から面倒なんだよ!』
『黙れ!』
『生きろ、アレクシス!』
名前。
初めて。
夢の中で。
誰かが。
彼を名前で呼んだ。
『生きて』
声。
遠くなる。
『俺たちのぶんまで苦しめ、じゃねえ』
『……』
『生きろと言ったんだ』
崩れる。
闇。
十九歳のアレクシスが。
膝をつく。
『俺のせいだ』
いつもの言葉。
でも。
今夜は。
声が返った。
『馬鹿』
彼が。
顔を上げる。
『何度言わせる』
『……』
『生きろ』
闇が。
消えた。
◇
「アレクシス!」
私は。
目を覚ました。
呼吸が荒い。
隣。
彼がいる。
「アレクシス」
返事がない。
「起きて」
肩に触れる。
彼が。
目を開けた。
「……リリアーヌ」
「夢を見ました?」
長い沈黙。
「ああ」
「私も」
彼の顔が変わる。
「何を」
「十年前」
言った。
「あなたが戻ろうとして」
「ああ」
「ガルドさんたちに止められて」
「ああ」
「副隊長さんが」
喉が。
苦しい。
「生きろって」
アレクシス公爵が。
動かない。
「同じですか」
聞いた。
「あなたも」
彼は。
ゆっくり。
頷いた。
「ああ」
「今までにも?」
「いや」
声。
掠れている。
「初めてだ」
私は。
彼を見る。
「何が?」
「死んだ奴らが」
一度。
息を止める。
「俺を責めなかった」
胸が。
痛い。
「今まで」
「ああ」
「ずっと責められていた?」
「夢の中では」
「ああ」
「毎晩」
十年。
毎晩。
この人は。
夢の中でまで。
自分を罰していた。
「でも今夜は」
「ああ」
「生きろって」
「ああ」
私は。
何と言えばいいか分からなかった。
慰め?
違う。
大丈夫?
それも違う。
だから。
ただ。
近づいた。
「触っていいですか」
聞いた。
アレクシスが。
少し驚いた顔をする。
「ああ」
私は。
彼を抱いた。
今まで。
抱かれたことはある。
何度も。
でも。
自分から。
彼の頭を胸元へ寄せるように抱いたのは。
初めてだった。
「リリアーヌ」
「今は」
私は。
腕に力を込める。
「何も言わなくていいです」
「……」
「分からないでも」
「ああ」
「知らないでも」
「ああ」
「今は」
少し。
息を吸う。
「ここにいてください」
長い。
沈黙。
彼の腕が。
ゆっくり。
私の背中へ回った。
「……ああ」
それだけ。
でも。
十分だった。
しばらくして。
肩に。
何か。
落ちた。
温かい。
「……アレクシス?」
「見るな」
声が。
掠れている。
私は。
何も言わなかった。
「見るな」
「見てません」
嘘。
でも。
今はいい。
「誰にも言うな」
「はい」
「ハロルドにも」
「はい」
「絶対に」
「はい」
少しして。
「でも」
私は言った。
「泣いてもいいですよ」
彼の身体が。
わずかに固くなる。
「誰が」
「あなたです」
「泣いていない」
「そうですか」
「ああ」
「では」
私は。
彼の背中を。
ゆっくり撫でた。
「これは雨ですね」
「部屋の中だ」
「では結露」
「季節が違う」
「細かい」
「事実だ」
「じゃあ」
少し笑う。
「何でしょうね」
「知らん」
「はい」
それ以上。
聞かなかった。
ただ。
抱いていた。
十年前。
十九歳だった人。
仲間を失った人。
生きろと言われたのに。
生き残った自分を許せなかった人。
私は。
その人の名前を呼んだ。
「アレクシス」
「……なんだ」
「生きていてくれて」
言葉が。
少し詰まる。
「よかったです」
彼の腕に。
力が入った。
「……そうか」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「呪いがあるから?」
私は。
少し笑った。
「それを聞くんですか」
「ああ」
「では」
彼の髪に。
額を寄せる。
「違います」
言った。
「呪いがなくても」
胸が。
鳴る。
「あなたが生きていてくれて、よかったです」
今度こそ。
アレクシスは。
何も言わなかった。
でも。
背中へ回った腕が。
少し。
震えた。
その夜。
私は。
初めて。
この人が泣くところを知った。
そして。
たぶん。
アレクシスも。
初めて。
誰かの前で。
泣くことを許した。
翌朝。
神殿まで。
あと四日。
でも。
私たちの間にあった距離は。
もう。
出会った夜とは。
比べられないほど。
近くなっていた。




