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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第29話 寝ぼけて「もう少し、ぎゅっとしてください」と頼んでしまいました

 暖かい。


 最初に。


 そう思った。


 次に。


 狭い。


 そう思った。


 そして。


 最後に。


 気づいた。


「……」


 私は。


 何かに抱かれている。


 いや。


 何かではない。


 誰か。


 それも。


 ものすごく。


 よく知っている誰か。


「……公爵様?」


「ああ」


 返事が。


 頭のすぐ上から聞こえた。


 近い。


 ものすごく。


 近い。


 私は。


 ゆっくり。


 目を開けた。


 黒い寝間着。


 胸。


 そこへ。


 私の顔が。


 完全に埋まっている。


「……」


「……」


 腕。


 腰に回っている。


 脚。


 少し絡んでいる。


 私の手。


 彼の寝間着の胸元を掴んでいる。


「……」


「……」


「公爵様」


「なんだ」


「これは」


「ああ」


「どういう状況です?」


「見たままだ」


「説明してください」


「お前が俺に抱きついている」


「違います!」


「何が」


「あなたも私を抱いているでしょう!」


「ああ」


「認めるんですか!」


「事実だからな」


 朝から。


 この人は。


 なぜ。


 こんなに落ち着いているの。


「離してください」


「本当に?」


「……はい」


 少し。


 間が空いた。


 しまった。


「今、迷ったな」


「迷ってません!」


「嘘だ」


「ああ」


「認めてしまった!」


 違う。


 違うの。


 まだ眠いから。


 頭が働いていないだけ。


「離してください!」


「ああ」


 アレクシス公爵の腕が。


 緩む。


 その瞬間。


 胸の奥。


 妙に。


 寂しい。


 いや。


 何を考えているの。


 私は。


 身体を離そうとした。


「……」


 離れない。


「公爵様」


「なんだ」


「服を掴まないでください」


「俺ではない」


「え?」


「お前だ」


 見る。


 私の右手。


 しっかり。


 彼の胸元を掴んでいる。


「……」


「……」


「これは」


「ああ」


「寝ている間のことです」


「ああ」


「私の意思ではありません」


「そうか」


「その返事、何です?」


「別に」


「何か思ってますよね?」


「思っている」


「正直!」


「聞きたい?」


「……嫌です」


「そうか」


「でも気になります」


「面倒だな」


「誰のせいです!」


 私は。


 ようやく。


 指を開いた。


 彼の寝間着。


 少し。


 皺になっている。


「すみません」


「ああ」


「怒ってます?」


「怒っていない」


「本当に?」


「ああ」


「なら」


 私は。


 少しだけ。


 安心した。


 そのとき。


「昨夜」


 アレクシス公爵が言った。


 嫌な予感。


「何です?」


「お前は」


「ああ」


「俺に」


 やめて。


 その間。


 絶対。


 何かある。


「もう少し、ぎゅっとしてください、と言った」


 世界が。


 止まった。


「……」


「……」


「誰が?」


「お前が」


「誰に?」


「俺に」


「何を?」


「もう少し、ぎゅっとしてください」


「繰り返さないでください!」


 私は。


 両手で顔を覆った。


 最悪。


 本当に。


 最悪。


「言ってません」


「言った」


「夢です」


「俺は起きていた」


「あなたの夢です」


「無理がある」


「では聞き間違いです!」


「二回言った」


「二回!?」


 もう。


 消えたい。


「一回目は」


「説明しなくていいです!」


「聞け」


「嫌です!」


「一回目は小さくて聞こえなかった」


「だから!」


「俺が何だと聞いたら」


 やめて。


「お前がもう一度」


「言わないで!」


「もう少し、ぎゅっとしてください」


「公爵様!」


 枕を掴んだ。


 一個しかない。


 いや。


 私の分もある。


 二個。


 一つを投げる。


 アレクシス公爵が。


 避けなかった。


 顔に。


 当たった。


「……」


「……」


「あ」


「当てたな」


「避けてくださいよ!」


「なぜ」


「いつも避けるでしょう!」


「今日は別にいい」


「どうして!」


「機嫌がいい」


 止まった。


「……何で?」


「言わない」


「今の流れで?」


「ああ」


「絶対、私のせいですよね?」


「言わない」


「公爵様!」


 でも。


 彼は。


 本当に。


 少しだけ。


 笑っていた。


 冷徹公爵。


 氷獄公爵。


 十年間笑わなかった男。


 そんな人が。


 私の。


 寝言のせいで。


 機嫌がいい。


「……ずるい」


「ああ」


「また認めるんですね」


「ああ」


 私は。


 枕に顔を埋めた。


 もう。


 本当に。


 この旅。


 まだ二日目なのに。


 無事に終わる気がしない。


     ◇


「奥様!」


 昼前。


 馬車を降りた瞬間。


 私は。


 知らない老女に両手を握られた。


「まあまあまあ! 本当にいらっしゃったんだねえ!」


「え?」


「閣下の奥様だろう?」


「は、はい」


「細いねえ!」


「え?」


「ちゃんと食べさせてもらってるかい?」


「それは」


 ちらり。


 隣を見る。


 アレクシス公爵。


 無表情。


「食べさせている」


「旦那に聞いてないよ!」


 老女が。


 ぴしゃりと言った。


 私は。


 固まった。


 アレクシス公爵も。


 黙った。


「……公爵様」


「なんだ」


「今、怒られました?」


「ああ」


「領民に?」


「ああ」


 信じられない。


 ここは。


 王都から二日。


 もう。


 グランツ公爵領の南端。


 昼食のため立ち寄った小さな村。


 馬車が止まった途端。


 人が。


 集まってきた。


「閣下!」


「久しぶりだなあ!」


「また痩せたんじゃないか?」


「ちゃんと食ってるのか!」


 私は。


 アレクシス公爵を見る。


「慕われてないんですよね?」


「知らん」


「嘘」


「ああ」


「認める!」


 しかも。


 怖がられていない。


 全然。


 むしろ。


「閣下!」


 小さな男の子が。


 走ってきた。


 五歳くらい?


 手には。


 泥だらけの木の剣。


「見て!」


「ああ」


「新しい剣!」


「ああ」


「強そう?」


「弱そうだ」


「ひどい!」


 子供が。


 本気で怒った。


 私は。


 思わず。


 アレクシス公爵の腕を叩いた。


「何を言うんですか!」


「事実だ」


「子供相手に!」


「弱いものを強いとは言えない」


「言い方があります!」


 男の子は。


 頬を膨らませる。


「閣下より強くなるもん!」


「無理だ」


「なれる!」


「百年早い」


「じゃあ百年頑張る!」


「死ぬぞ」


「公爵様!」


 私が怒る。


 周りの村人たちが。


 笑った。


 大笑い。


「閣下が叱られてる!」


「こりゃ珍しい!」


「いい奥様をもらったねえ!」


「違っ」


 違わない。


 夫婦。


 契約だけど。


 否定できない。


「奥様」


 さっきの老女が。


 私の腕に。


 大きな籠を押しつけた。


「これは?」


「芋だよ」


「こんなに?」


「持ってきな」


「でも」


「閣下は昔から野菜を食べないからねえ」


「食べている」


 アレクシス公爵。


「肉の横に置いてあるのを食べたとは言わないよ!」


 また。


 怒られた。


 私は。


 笑ってしまった。


「公爵様」


「なんだ」


「帰ったら確認します」


「何を」


「食事です」


「なぜ」


「野菜をちゃんと食べているか」


「必要ない」


「あります」


「ない」


「あります!」


「夫婦喧嘩か?」


 誰かが言った。


「違います!」


「違う」


 同時。


 また。


 村中。


 大笑い。


 もう。


 恥ずかしい。


 でも。


 嫌ではなかった。


     ◇


 昼食。


 村の小さな食堂。


 公爵夫妻だからと。


 特別室を用意されそうになった。


 でも。


 アレクシス公爵が。


「ここでいい」


 そう言った。


 普通の。


 長い木のテーブル。


 村人たちと。


 一緒。


「珍しいですね」


「何が」


「こういう場所で食べるんですね」


「ああ」


「嫌じゃない?」


「なぜ」


「公爵様ですから」


「腹が減れば食う」


「確かに」


 目の前。


 煮込み料理。


 黒パン。


 野菜。


 私は。


 じっと。


 アレクシス公爵を見る。


「何だ」


「野菜」


「……」


「食べてください」


「嫌だ」


「子供ですか!」


「ああ」


「また認める!」


 向かいに座っていた老女が。


 机を叩いた。


「食べな!」


「……」


「閣下!」


「……分かった」


 食べた。


 私は。


 驚く。


「私より言うことを聞くじゃないですか!」


「昔から知っている」


「私は最近だから?」


「ああ」


「では一年後には?」


 口から。


 出た。


 しまった。


 周りの声が。


 少し遠くなる。


 アレクシス公爵が。


 私を見る。


「もっと聞くかもしれない」


 心臓が。


 鳴った。


「……そうですか」


「ああ」


「では」


 私は。


 野菜の皿を。


 彼の前へ押す。


「もう一つ」


「調子に乗るな」


「一年後なら聞くんでしょう?」


「今はまだだ」


「便利!」


 周りの村人たちが。


 また。


 楽しそうに笑っていた。


     ◇


 午後。


 馬車へ戻る。


 膝の上。


 焼き菓子。


 野菜。


 干し肉。


 蜂蜜。


 羊毛の靴下。


 増えた。


 大量に。


「どうするんです、これ」


「持って帰る」


「帰りは神殿の後ですよ?」


「ああ」


「腐ります」


「食べる」


「誰が」


「お前が」


「太ります!」


「少し太れ」


「失礼!」


「細い」


「今日、皆それを言いますね!」


「事実だ」


「公爵様!」


 でも。


 少しして。


 静かになった。


 馬車。


 揺れる。


「公爵様」


「なんだ」


「意外でした」


「何が」


「皆さん」


「ああ」


「あなたのことを」


 少し。


 笑う。


「全然怖がってませんね」


「そうか」


「むしろ」


 考える。


「家族みたいです」


 アレクシス公爵が。


 黙った。


「嫌でした?」


「いや」


「では」


「分からない」


「また?」


「ああ」


 でも。


 私は。


 もう少しだけ。


 聞きたかった。


「公爵様は」


「ああ」


「領民のこと、好きですか」


「知らん」


「嘘」


「ああ」


「では答えて」


「面倒だ」


「逃げましたね」


「守るのが仕事だ」


「好きかどうかを聞いてます」


「……」


「公爵様」


「大事だ」


 小さな声。


 私は。


 笑った。


「何だ」


「いいえ」


「言え」


「やっぱり」


 窓の外。


 流れる。


 雪の残る畑。


「あなた、優しいですね」


「違う」


「即答」


「ああ」


「でも」


 私は。


 彼を見る。


「今日のこと」


「ああ」


「私、好きです」


 言った。


 アレクシス公爵が。


 止まった。


「何が」


「村も」


「ああ」


「皆さんも」


「ああ」


「それから」


 少し。


 迷う。


「皆さんといるときの、あなたも」


 沈黙。


 長い。


「公爵様?」


「寝ろ」


「どうして!」


「眠そうだ」


「逃げましたね?」


「ああ」


 認めた。


 耳。


 少しだけ。


 赤い。


 私は。


 それ以上。


 言わなかった。


     ◇


 二日目の夜。


 宿は。


 前日より少し大きかった。


 部屋も。


 二つ取れた。


 はずだった。


「一室でいい」


 アレクシス公爵が言った。


 私は。


 彼を見る。


「え?」


「何だ」


「二部屋あるんですよね?」


「ああ」


「では」


「一室でいい」


「どうして?」


「呪いが出るかもしれない」


「昨日は」


「ああ」


「あなた、二部屋を取ろうとしましたよね」


「ああ」


「今日は?」


「……」


「公爵様」


「面倒だ」


「何が!」


 宿の主人が。


 視線を逸らしている。


 絶対。


 聞いてる。


「本当は?」


 聞いた。


 小さな声で。


 アレクシス公爵も。


 少し。


 声を落とした。


「一人で眠りたくない」


 止まった。


 私。


 完全に。


「……それは」


「ああ」


「呪いで?」


 彼が。


 黙った。


「公爵様」


「分からない」


 また。


 でも。


 今日は。


 その答えが。


 嫌ではなかった。


「では」


 私は言った。


「一室で」


「ああ」


 宿の主人が。


 すごく。


 嬉しそうな顔をした。


「仲睦まじいことで!」


「違います!」


「そうか?」


「公爵様!」


     ◇


 夕食後。


 部屋へ戻ろうとしたとき。


「閣下」


 後ろから。


 声をかけられた。


 アレクシス公爵が。


 止まる。


 私も。


 振り返る。


 そこにいたのは。


 五十歳くらいの男。


 左脚を。


 少し引きずっている。


 大きな身体。


 古い傷。


 右頬から。


 顎まで。


「久しぶりです」


 男が言う。


 アレクシス公爵の顔が。


 変わった。


 本当に。


 はっきり。


「……ガルド」


「ああ」


 男が笑う。


「覚えていてくれましたか」


「忘れるわけがない」


 声。


 低い。


「公爵様」


「十年前」


 アレクシス公爵が言う。


「神殿へ行った者の一人だ」


 私は。


 息を止めた。


 男。


 ガルドさんは。


 私を見る。


「奥様ですね」


「はい」


「話は聞いてます」


「どんな?」


「閣下を怒鳴りつける、肝の据わった方だと」


「誰からですか!」


「領民全員」


「もう広まってる!?」


 ガルドさんが。


 笑った。


 でも。


 アレクシス公爵は。


 笑わない。


「なぜここにいる」


「会いに来ました」


「俺に?」


「いえ」


 ガルドさんが。


 私を見る。


「奥様に」


 アレクシス公爵の目が。


 鋭くなる。


「何を話す」


「十年前のことを」


「必要ない」


「あります」


 ガルドさん。


 即答。


「閣下」


「帰れ」


「嫌です」


 強い。


 この人も。


「公爵様」


 私は。


 アレクシス公爵を見る。


「聞きたいです」


「駄目だ」


「どうして」


「必要ない」


「私が決めます」


「リリアーヌ」


「公爵様」


 見る。


 逃げない。


「あなたは前に言いました」


「ああ」


「私にも関係があると」


「……」


「なら」


 私は。


 ガルドさんを見る。


「聞かせてください」


 アレクシス公爵が。


 顔を逸らした。


 嫌そう。


 でも。


 止めなかった。


     ◇


 宿の小さな談話室。


 暖炉。


 三人。


 ガルドさんが。


 火を見ている。


「十年前」


 静かに。


 話し始めた。


「閣下は十九歳でした」


「ああ」


「若かった」


 アレクシス公爵の顔。


 硬い。


「無茶もした」


「ああ」


「自分なら、全部救えると思っていた」


「……ああ」


「そこは否定しないんですね」


 私が言うと。


「事実だ」


 アレクシス公爵。


 ガルドさんが。


 少し笑った。


「変わってませんね」


「何が」


「頑固なところです」


「お前に言われたくない」


「俺はもう五十ですよ」


「だから何だ」


「ね?」


 ガルドさんが。


 私を見る。


「面倒でしょう」


「ものすごく」


「リリアーヌ」


「事実です」


 ガルドさんが。


 また笑う。


 でも。


 すぐ。


 顔が変わった。


「神殿には」


 声が。


 低くなる。


「十二人で入りました」


 私は。


 黙る。


「生きて出たのは」


 一度。


 言葉を止める。


「三人」


 胸が。


 重くなる。


「俺と」


「ああ」


「閣下と」


「ああ」


「もう一人」


「……」


「その者も、三年後に死にました」


 暖炉。


 薪が弾ける。


「公爵様は」


 私は。


 聞いた。


「ずっと、自分が皆を殺したと」


「ああ」


「言っています」


「でしょうな」


 ガルドさんが。


 苦く笑う。


「でも」


 彼は。


 アレクシス公爵を見る。


「それは違う」


「ガルド」


「黙ってください」


 強い。


 本当に。


「十年間」


 ガルドさんが言う。


「俺も黙っていました」


「……」


「閣下が聞こうとしなかったから」


「聞く必要はない」


「あります!」


 声が。


 大きくなる。


「あなたは」


 ガルドさんが。


 拳を握る。


「皆を見捨てて生き残ったんじゃない!」


 アレクシス公爵が。


 黙る。


「最後まで」


 声が震える。


「あそこへ戻ろうとした」


「……」


「崩れる神殿へ」


「ああ」


「死んだ奴らを助けるって」


「ああ」


「何度も!」


 ガルドさんの目に。


 涙。


「俺たちが止めても!」


 アレクシス公爵は。


 何も言わない。


「それで」


 私が。


 小さく聞く。


「どうなったんです?」


 ガルドさんが。


 笑った。


 泣きながら。


「殴りました」


「……はい?」


「閣下を」


 私は。


 アレクシス公爵を見る。


「殴られたんですか?」


「ああ」


「誰に?」


「ガルドに」


「俺だけじゃありません」


 ガルドさんが言う。


「三人で殴りました」


「三人!?」


「あの馬鹿」


 ガルドさんが。


 泣き笑い。


「戻るって聞かなかったから」


「それで?」


「気絶させて」


「ああ」


「担いで外へ出した」


 私は。


 何も言えなかった。


「公爵様」


「なんだ」


「それ」


 喉が。


 苦しい。


「聞いてません」


「言っていない」


「どうして!」


「関係ない」


「あります!」


 声が。


 大きくなる。


「全然違うでしょう!」


「何が」


「皆を置いて逃げたのと!」


「ああ」


「助けに戻ろうとして、殴られて外に出されたのでは!」


「ああ」


「全然違います!」


 アレクシス公爵が。


 私を見る。


「結果は同じだ」


 低い声。


「九人死んだ」


「ああ」


「俺は生きた」


「でも」


「俺が連れていった」


「そうです!」


 私は。


 言った。


「責任はある!」


 ガルドさんが。


 少し驚く。


 アレクシス公爵も。


 私を見る。


「前にも言いました」


「ああ」


「あなたが指揮官だったなら」


「ああ」


「責任はあると思います」


「ああ」


「でも!」


 胸が。


 痛い。


「責任があることと」


 私は。


 アレクシス公爵を見る。


「あなた一人だけが悪いことは、同じじゃない!」


 静か。


「死んだ人たちは」


 声が震える。


「あなたに全部背負ってほしいって言ったんですか」


「……」


「自分たちの分まで」


「……」


「十年間」


 涙が。


 出そう。


「夜ごと苦しんでほしいって」


「リリアーヌ」


「言ったんですか!」


 答えない。


 ガルドさんが。


 顔を伏せる。


「言うわけない」


 掠れた声。


「あいつらは」


 拳。


 震える。


「閣下を生かしたかったから」


 アレクシス公爵が。


 目を閉じた。


「最後に」


 ガルドさんが言う。


「崩れる直前」


 声。


 震える。


「中に残った副隊長が叫んだんです」


 私は。


 息を止める。


「何て?」


 ガルドさんが。


 アレクシス公爵を見る。


「『この馬鹿を連れていけ』って」


 沈黙。


「『こいつは絶対戻ってくる。だから殴ってでも外へ出せ』」


 アレクシス公爵の手。


 震えている。


「そして」


 ガルドさん。


 涙を拭う。


「最後に」


 声が。


 崩れた。


「『生きろ』って」


 私は。


 何も言えなかった。


 アレクシス公爵も。


 何も。


 言わない。


「……公爵様」


 呼ぶ。


 返事がない。


「アレクシス」


 初めて。


 名前だけで。


 呼んだ。


 彼が。


 私を見る。


 灰銀色の目。


 そこに。


 十九歳の青年が。


 少しだけ。


 いるように見えた。


「あなたは」


 私は言う。


「生きろと言われたんですね」


「……ああ」


「なのに」


「ああ」


「十年間」


 胸が。


 痛い。


「自分を罰してきたんですね」


 長い。


 沈黙。


「……ああ」


 初めて。


 認めた。


 その夜。


 部屋へ戻ってから。


 アレクシス公爵は。


 一言も喋らなかった。


 ベッドへ入る。


 私も。


 隣へ。


 でも。


 彼は。


 背中を向けている。


「公爵様」


「寝ろ」


「嫌です」


「なぜ」


「放っておけないから」


「必要ない」


「あります」


「寝ろ」


「嫌です」


「リリアーヌ」


「嫌です」


 しつこい。


 自分でも分かる。


 でも。


 今夜は。


 引かない。


「公爵様」


「なんだ」


「こちらを向いてください」


「嫌だ」


「どうして」


「今は」


 声が。


 掠れる。


「無理だ」


 私は。


 黙った。


 それから。


 自分から。


 少し近づく。


 背中に。


 額をつけた。


 アレクシス公爵の身体が。


 固まる。


「何をしている」


「勝手にしています」


「離れろ」


「嫌です」


「リリアーヌ」


「今夜だけは」


 私は。


 彼の寝間着の背中を。


 少し掴んだ。


「放っておきません」


 長い。


 沈黙。


「……面倒だな」


「知っています」


「本当に」


「あなたほどではありません」


 そのとき。


 アレクシス公爵が。


 ゆっくり。


 こちらを向いた。


 近い。


 暗闇。


 顔。


「リリアーヌ」


「はい」


「さっき」


 嫌な予感。


「何です?」


「俺を」


 ああ。


「名前で呼んだな」


 顔が。


 熱くなる。


「……忘れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「覚えていたい」


 前にも。


 聞いた言葉。


 私は。


 何も言えない。


「もう一度」


「嫌です」


「なぜ」


「恥ずかしいから!」


「ではいい」


「諦めるんですか?」


「ああ」


 少し。


 寂しい。


 何で。


「……アレクシス」


 呼んだ。


 自分から。


 彼の目が。


 わずかに。


 見開かれる。


「これでいいですか」


「……ああ」


「では寝ましょう」


「ああ」


 目を閉じる。


 でも。


 その瞬間。


 腕。


 腰へ。


 回る。


「……アレクシス?」


「もう一度」


「今呼びました!」


「足りない」


「贅沢!」


「お前も前に言った」


「何を」


「もう少し、ぎゅっとしてください」


「忘れてください!」


 暗闇の中。


 初めて。


 アレクシスが。


 声を出して笑った。


 本当に。


 少しだけ。


 でも。


 確かに。


 私は。


 その笑い声を聞きながら。


 思った。


 この人を。


 もっと。


 知りたい。


 十年前も。


 今も。


 弱いところも。


 面倒なところも。


 全部。


 そして。


 その願いが。


 もう。


 ただの契約妻のものではないことを。


 私は。


 少しずつ。


 認め始めていた。


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