第28話 北方への七日間、夫と同じ馬車で寝泊まりすることになりました
出発の朝。
私は。
玄関前に並んだ馬車を見て。
しばらく。
黙っていた。
「……公爵様」
「なんだ」
「戦争に行くんですか?」
「違う」
「では、なぜ馬車が四台もあるんです?」
「必要だからだ」
「必要ではありません!」
一台目。
私とアレクシス公爵が乗る馬車。
二台目。
護衛騎士たち。
三台目。
食料。
薬。
毛布。
衣類。
その他。
アレクシス公爵が「必要だ」と言い張った大量の荷物。
そして。
四台目。
「これは?」
「予備だ」
「何の?」
「馬車の」
「馬車の予備を馬車で持っていくんですか!?」
「ああ」
「おかしいでしょう!」
「途中で壊れるかもしれない」
「壊れなかったら?」
「よかったということだ」
「そういう問題ではありません!」
ハロルドが。
後ろで。
静かに目を閉じている。
「ハロルドさん」
「はい」
「何とか言ってください」
「旦那様」
「何だ」
「無茶を仰らないでください」
「耐えろ」
出た。
私は。
思わず笑った。
「何だ」
「いえ」
「笑ったな」
「笑いました」
「ああ」
「怒らないんですか?」
「もう慣れた」
「それはそれで腹が立ちます」
本当に。
面倒な人。
でも。
その人と。
これから七日間。
旅をする。
馬車で。
ずっと。
二人で。
「……」
「どうした」
「何でもありません」
「嘘だ」
「ああ」
しまった。
また。
彼の真似。
「今、真似をしたな」
「してません」
「嘘だ」
「ああ」
「またした」
「もういいでしょう!」
エマが。
少し離れたところで。
笑っていた。
◇
馬車が。
王都を出た。
窓の外。
見慣れた街並みが。
少しずつ。
遠くなる。
私は。
しばらく。
黙って見ていた。
「寂しいか」
向かいから。
アレクシス公爵。
「少し」
正直に答えた。
「戻りたい?」
「いいえ」
それも。
正直。
「不思議ですね」
「何が」
「ここで生まれて」
「ああ」
「二十三年、ほとんど王都で暮らして」
「ああ」
「なのに」
窓の外を見る。
「帰りたいと思う場所が、もう王都じゃないんです」
言ってから。
気づいた。
何を。
言ったの。
アレクシス公爵が。
こちらを見る。
「……何ですか」
「いや」
「言ってください」
「では」
彼が。
少しだけ。
目を細めた。
「どこに帰りたい」
聞かれた。
心臓が。
鳴る。
「……」
「リリアーヌ」
「ずるいです」
「なぜ」
「分かって聞いてますよね?」
「分からない」
「嘘」
「ああ」
「認める!」
私は。
窓へ顔を向けた。
「言いません」
「そうか」
「聞かないんですか」
「聞いた」
「もっと!」
「面倒だな」
「あなたが!」
少し。
笑う。
それから。
「公爵邸です」
小さな声で言った。
「何が」
「帰りたい場所」
沈黙。
長い。
少し不安になって。
見る。
アレクシス公爵が。
窓の外を見ている。
「公爵様?」
「なんだ」
「今、逃げました?」
「逃げていない」
「顔を逸らしたでしょう」
「ああ」
「どうして」
「言わない」
「また?」
「ああ」
でも。
耳。
少し赤い。
私は。
見なかったことにした。
優しさ。
たぶん。
◇
旅の初日は。
思っていたより。
穏やかだった。
……最初の二時間までは。
「公爵様」
「なんだ」
「本を読んでも?」
「ああ」
「ありがとうございます」
持ってきた本を開く。
三ページ。
読む。
四ページ目。
「リリアーヌ」
「はい」
「顔色が悪い」
「そうですか?」
「ああ」
「大丈夫です」
「その言葉は禁止だ」
「本当に平気です」
「本を置け」
「どうして」
「馬車酔いする」
「しません」
「している」
「してません」
「顔が白い」
「元からです」
「いつもより白い」
「どうして分かるんですか!」
「見ているからだ」
止まった。
「……」
「……」
「公爵様」
「なんだ」
「今の」
「忘れろ」
「嫌です」
「なぜ」
「あなたの真似です」
でも。
本当に。
少し。
気持ち悪い。
悔しい。
「……本、置きます」
「ああ」
「嬉しそうですね」
「別に」
「嘘」
「ああ」
「もう!」
仕方なく。
本を閉じる。
今度は。
外を見る。
しばらくして。
眠くなった。
でも。
眠らない。
なぜなら。
向かいに。
アレクシス公爵がいる。
寝顔。
見られたくない。
「寝ろ」
「嫌です」
「なぜ」
「寝たくないからです」
「嘘だ」
「今日は見逃してください」
「嫌だ」
「どうして!」
「眠そうだ」
「眠くありません」
「今、欠伸した」
「してません」
「した」
「小さいのです!」
「欠伸は欠伸だ」
本当に。
細かい。
「では」
私は。
目を閉じた。
「少しだけ」
「ああ」
「寝ます」
「ああ」
「絶対に」
「なんだ」
「変な顔をしていても見ないでください」
「無理だ」
「どうして!」
「向かいにいる」
「目を逸らしてください!」
「嫌だ」
「子供ですか!」
「ああ」
また。
認める。
「もういいです」
目を閉じる。
揺れ。
車輪の音。
思ったより。
心地いい。
そのまま。
眠った。
◇
目を覚ますと。
何か。
柔らかい。
いや。
硬い。
「……」
私は。
ゆっくり。
目を開けた。
目の前。
黒い布。
見覚えがある。
アレクシス公爵の。
上着。
「……」
なぜ。
私は。
隣にいる?
いや。
違う。
隣どころではない。
肩に。
頭を乗せている。
「起きたか」
「寝てます」
「起きている」
「夢です」
「無理がある」
「どうして!」
「今、目が合った」
私は。
飛び起きた。
「どうして私、こちらに!?」
「馬車が揺れた」
「それだけで?」
「ああ」
「ずっと?」
「二時間」
「二時間!?」
私は。
顔を覆った。
「起こしてください!」
「よく寝ていた」
「だからって!」
「それに」
彼が。
少し。
肩を回す。
「悪くなかった」
心臓が。
鳴った。
「……何が」
「別に」
「絶対何かあります」
「言わない」
「ずるい!」
「またか」
「またです!」
でも。
少し。
嬉しかった。
それが。
また。
腹立たしい。
◇
夕方。
最初の宿場町へ着いた。
小さな街。
石造りの家。
煙突から。
白い煙。
空気が。
王都より。
少し冷たい。
「寒いです」
「外套」
「まだ大丈夫です」
「着ろ」
「そこまででは」
「着ろ」
「命令しないでください」
「頼む」
「……ずるい」
結局。
着た。
すると。
ちょうどよかった。
「何だ」
「何でもありません」
「嘘だ」
「ああ」
「また真似をしたな」
「うるさいです」
宿へ入る。
古い。
でも。
清潔。
暖炉の火。
焼いた肉の匂い。
宿の主人が。
満面の笑みで。
こちらへ来る。
「ようこそお越しくださいました、公爵閣下!」
「ああ」
「お部屋は準備しております!」
「二つ頼んだはずだ」
アレクシス公爵が言った。
私は。
見る。
「二つ?」
「ああ」
「どうして?」
彼が。
こちらを見る。
「旅先だ」
「はい」
「狭い」
「はい」
「お前が嫌がるかもしれない」
一瞬。
胸が。
温かくなった。
ちゃんと。
考えてくれていた。
触れない約束。
私の許可。
ずっと。
守っている。
「旦那様」
宿の主人が。
ものすごく。
申し訳なさそうな顔をした。
「何だ」
「それが」
「ああ」
「本日は雪崩の影響で、北から来た旅人が多数足止めされまして」
「……」
「空いている上等客室は」
嫌な予感。
「一室のみでございます」
来た。
やっぱり。
「ですが!」
宿の主人が。
明るい顔になる。
「ご夫婦でしたら問題ございませんでしょう!」
「……」
「……」
「一番広い夫婦部屋をご用意しております!」
私は。
何も言えない。
夫婦。
確かに。
そう。
毎晩。
同じベッド。
今さら。
今さらでしょう。
でも。
「ベッドは?」
アレクシス公爵。
聞いた。
「一台でございます!」
元気。
宿の主人。
元気すぎる。
「大きさは」
「大人二人で十分!」
私は。
アレクシス公爵を見る。
彼も。
私を見る。
「……」
「……」
何で。
気まずいの。
毎日。
一緒に寝てるでしょう。
「私は大丈夫です」
言った。
「本当に?」
「ああ」
「嫌なら」
「嫌ではありません」
言った。
少し早かった。
アレクシス公爵が。
目を細める。
「何です」
「いや」
「言ってください」
「即答だったな」
「部屋を二つ取る必要がないという意味です!」
「ああ」
「変な意味ではありません!」
「ああ」
「何ですか、その返事!」
宿の主人が。
にこにこしている。
「仲がよろしいですなあ」
「違います!」
「そうか」
「公爵様も否定してください!」
「なぜ」
「もう!」
◇
問題は。
部屋に入ってからだった。
「……狭いですね」
「ああ」
部屋は。
悪くない。
暖炉。
小さな机。
椅子が二脚。
そして。
ベッド。
一台。
本当に。
二人で寝られる。
でも。
屋敷の寝室とは違う。
十個の枕を並べるほど。
広くない。
いや。
二個しかない。
「……」
「……」
「公爵様」
「なんだ」
「枕」
「ああ」
「二個ですね」
「ああ」
「境界線が作れません」
「ああ」
「何か言ってください」
「狭いからな」
「分かっています!」
なぜ。
こんなに。
意識するの。
いつも。
同じベッド。
抱きしめられたことも。
手を繋いだことも。
胸に顔を埋めたこともある。
でも。
旅先。
知らない部屋。
狭いベッド。
逃げ場がない。
「俺は床で寝る」
「駄目です」
即答した。
「なぜ」
「呪いが出たらどうするんです」
「そのとき起こせ」
「間に合わなかったら?」
「大丈夫だ」
「禁止した言葉」
彼が。
黙った。
勝った。
「ベッドで寝てください」
「ああ」
「ただし」
「ああ」
「なるべく端で」
「落ちる」
「私も端で寝ます」
「お前が落ちる」
「ではどうするんです!」
「真ん中で寝ろ」
「近いでしょう!」
「仕方ない」
「あなた、少し楽しんでません?」
「別に」
「嘘」
「ああ」
「認める!」
本当に。
この人。
◇
夜。
私たちは。
ベッドに入った。
近い。
本当に。
近い。
屋敷のベッドなら。
少し動いても。
まだ距離がある。
でも。
今は。
腕一本分。
いや。
それより近い。
「公爵様」
「なんだ」
「起きてます?」
「ああ」
「眠れます?」
「分からない」
「私もです」
「ああ」
静か。
暖炉。
ぱちぱち。
外。
風。
「リリアーヌ」
「はい」
「狭いか」
「狭いです」
「ああ」
「でも」
「なんだ」
「嫌ではありません」
言った。
暗闇だから。
言えた。
「そうか」
「はい」
「俺もだ」
胸が。
鳴る。
「……何が」
「狭いのが」
「嘘」
「ああ」
「認めるんですか!」
笑ってしまった。
彼も。
少しだけ。
笑った気がした。
それから。
少しして。
「公爵様」
「なんだ」
「北方では」
「ああ」
「皆、あなたを怖がっているんですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「ああ」
「領主なのに」
「問題ない」
「またその言葉」
「ああ」
「本当に、領民から慕われてないんですか?」
「知らん」
「明日、聞いてみます」
「やめろ」
「どうして」
「面倒だ」
「怪しい」
「寝ろ」
「逃げましたね」
「ああ」
また。
笑う。
でも。
そのあと。
不意に。
アレクシス公爵の呼吸が変わった。
「……公爵様?」
「何でもない」
「嘘」
「ああ」
声。
低い。
「痛い?」
返事がない。
私は。
すぐ身体を起こした。
「公爵様」
「寝ろ」
「嫌です」
「大したことではない」
「また?」
暗闇。
彼の手が。
胸元を押さえている。
「呪い?」
「ああ」
心臓が。
冷たくなる。
「手を」
差し出す。
彼が。
握る。
でも。
「どうです?」
「少し」
「足りない?」
「ああ」
以前。
同じ。
手だけでは。
足りなかった。
「では」
私は。
近づく。
肩。
触れる。
「これで?」
「まだ」
呼吸が。
苦しそう。
怖い。
「公爵様」
「ああ」
「もっと?」
長い。
沈黙。
「……今夜だけは」
彼が言った。
「もっと近くに来い」
心臓が。
鳴った。
私は。
迷った。
一秒。
二秒。
それから。
自分から。
彼の胸へ。
身体を寄せた。
額。
胸元。
腕。
近い。
「これで?」
聞いた。
アレクシス公爵の腕が。
私の背中へ回る。
止まる。
「触っていい」
私が言った。
腕が。
ゆっくり。
私を抱き寄せた。
「……これで?」
「ああ」
呼吸が。
少しずつ。
落ち着く。
「痛みは」
「消えた」
安心した。
本当に。
よかった。
「なら」
私は。
少しだけ。
彼の胸に顔を埋めた。
「このままでいます」
「リリアーヌ」
「何ですか」
「呪いはもう消えた」
「知っています」
「なら」
「私が」
言った。
怖かったけれど。
正直に。
「今はこのままがいいんです」
沈黙。
長い。
でも。
彼の腕は。
離れなかった。
「……そうか」
「はい」
「なら」
少し。
腕に力が入る。
「このままでいろ」
私は。
目を閉じた。
「はい」
その夜。
旅先の。
知らない宿。
狭いベッド。
呪いの痛みは。
とうに消えていた。
それでも。
私たちは。
朝まで。
離れなかった。
そして。
私は。
まだ知らなかった。
翌朝。
宿の主人が。
この部屋の前を通ったとき。
開けられなかった扉の向こうから。
私が寝ぼけて。
アレクシス公爵に。
「もう少し、ぎゅっとしてください」
と頼んでしまうことを。




