第27話 呪いが解けたら、私はもう必要ありませんか?
北方神殿への出発まで。
あと三日。
「厚手の外套が二着。雪靴が二足。防寒用の手袋が三組。夜着が四着。それから――」
「エマ」
「はい」
「私は北方に移住するんじゃないのよね?」
「はい」
「七日かけて行って、神殿を調べて、帰ってくるのよね?」
「その予定でございます」
「では、なぜこの荷物なの?」
私は。
目の前に積み上がった荷物を見た。
箱。
鞄。
また箱。
その隣に。
さらに鞄。
「旦那様のご指示です」
「……やっぱり」
嫌な予感はしていた。
「それだけではございません」
「まだあるの?」
「お薬が二箱」
「二箱!?」
「非常食が五日分」
「宿に泊まるのよね?」
「はい」
「なのに?」
「旦那様が、何があるか分からないと」
「……」
本当に。
あの人は。
「それから」
「まだあるの!?」
「予備の毛布が三枚」
「馬車が荷物で潰れるわ!」
エマが。
笑った。
「笑い事じゃないのよ!」
「申し訳ございません」
「絶対に思ってないでしょう」
「少しだけ」
「正直!」
私は。
頭を抱えた。
少し前まで。
心配されることが嬉しかった。
今も。
嬉しくないわけではない。
でも。
これは。
もう。
過保護を通り越している。
「減らすわ」
「旦那様がお許しにならないかと」
「私の荷物でしょう!」
「はい」
「では私が決めます」
「旦那様も同じことを仰るでしょうね」
「何を?」
「俺が運ぶ馬車だ、と」
「言いそう!」
腹が立つ。
本当に。
でも。
想像できるのが。
さらに腹立たしい。
◇
昼食。
「荷物を減らします」
「駄目だ」
予想通りだった。
「まだ理由も言ってません!」
「必要だからだ」
「毛布三枚が?」
「ああ」
「私一人に?」
「ああ」
「身体は一つですよ!」
「一枚が濡れるかもしれない」
「二枚目があるでしょう!」
「二枚目も濡れるかもしれない」
「三枚目も濡れたら?」
「増やす」
「やめてください!」
ハロルドが。
静かにスープを給仕する。
「ハロルドさん」
「はい」
「止めてください」
「旦那様」
「何だ」
「少々、多すぎるかと」
「どれが」
「全部でございます」
「お前までか」
「はい」
最近。
ハロルドさんは。
ほぼ私の味方。
「薬も二箱あります」
「必要だ」
「何の薬です?」
「解熱剤」
「一箱で十分です!」
「前に熱を出した」
「一回です!」
「倒れた」
「それは言わないで!」
「事実だ」
「だからって!」
アレクシス公爵は。
パンを切りながら。
まるで。
当たり前のことのように言う。
「頭痛薬。胃薬。傷薬。解毒薬」
「解毒?」
「ああ」
「誰が毒を盛るんですか!」
「分からん」
「分からないなら持っていかなくていいでしょう!」
「分からないから持っていく」
「あなた、本当に無茶苦茶です!」
「そうか」
「そうです!」
「なら耐えろ」
「嫌です!」
ハロルドが。
小さく咳払いした。
「何ですか」
「懐かしいやり取りでございます」
そういえば。
出会った頃。
アレクシス公爵が無茶を言い。
ハロルドさんが。
『無茶を仰らないでください』
と言っていた。
「今は私が言ってますね」
「はい」
「苦労が分かりました」
「ご理解いただけて何よりでございます」
「二人で何の話をしている」
「あなたの面倒さについてです」
「ああ」
「認めるんですか!」
本当に。
もう。
◇
その日の午後。
私は。
執務室で。
北方領の地図を見ていた。
王都から。
七日。
途中。
二つの街。
三つの宿。
そして。
雪深い山。
その奥。
十年前の神殿。
「……」
怖い。
正直に言えば。
怖い。
でも。
アレクシス公爵を。
一人では行かせたくなかった。
「リリアーヌ様」
「はい?」
ハロルドだった。
「旦那様はいらっしゃいますか」
「いいえ。騎士団のところへ」
「さようでございますか」
ハロルドは。
書類を持っていた。
「それは?」
「いえ」
妙な間。
「何です?」
「旦那様からお預かりしたものです」
「私に?」
「……」
「ハロルドさん?」
彼が。
珍しく。
困った顔をした。
「まだお渡しするなと申しつけられております」
「では、どうして持ってきたんです?」
「旦那様の机に置こうと」
「そうですか」
「はい」
「なら」
私は。
また地図へ目を戻す。
そのとき。
書類の一番上。
名前が見えた。
『リリアーヌ・エヴァレット』
「……」
止まった。
「ハロルドさん」
「はい」
「今」
「はい」
「私の名前が」
「……」
「書いてありましたよね?」
沈黙。
嫌な予感。
本当に。
最近。
嫌な予感だけは。
よく当たる。
「何の書類です?」
「リリアーヌ様」
「教えてください」
「旦那様から」
「私に関することでしょう?」
「……はい」
「なら」
私は。
手を差し出した。
「見せてください」
ハロルドは。
少し迷った。
でも。
やがて。
書類を渡した。
読む。
最初。
意味が。
分からなかった。
『グランツ北方領、ルーデン湖畔別邸の所有権譲渡』
「……」
次。
『王都中央銀行、リリアーヌ・エヴァレット名義の信託口座』
次。
『年間生活費として――』
金額を見た。
目を疑った。
「……何ですか、これ」
「旦那様が」
「いつから?」
「数日前より」
「どうして?」
ハロルドが。
答えない。
「どうしてですか!」
「神殿で呪いが解けた場合」
胸が。
冷たくなる。
「はい」
「契約の目的が」
一度。
ハロルドが言葉を止める。
「失われる可能性がございます」
契約の。
目的。
そう。
私は。
アレクシス公爵の呪いを抑えるため。
妻になった。
呪いが解けたら。
必要ない。
「だから」
私は。
書類を見る。
「出ていくための家を?」
「リリアーヌ様」
「生活費まで」
「旦那様は」
「私が困らないように?」
「……はい」
優しい。
本当に。
優しい。
だから。
こんなに。
痛い。
「そうですか」
私は。
書類を返した。
「リリアーヌ様」
「ありがとうございます」
「……」
「教えてくれて」
「違います」
「何がです?」
「その顔は」
「どんな顔ですか」
「旦那様が最も嫌う顔でございます」
少し。
笑った。
「困りますね」
「はい」
「私、昔から上手なんです」
「何がでございましょう」
「何でもないふり」
ハロルドが。
悲しそうな顔をした。
「やめてください」
「何を?」
「その顔を」
「……」
「大丈夫です」
言った。
「禁止されております」
「今日は見逃してください」
私も。
少しずつ。
この屋敷の言葉を。
使うようになった。
◇
夕方。
アレクシス公爵が戻った。
「リリアーヌ」
「お帰りなさい」
「ああ」
「夕食まで少しあります」
「ああ」
「着替えます?」
「ああ」
普通。
いつも通り。
私は。
上手にできている?
たぶん。
昔なら。
できた。
七年間。
ずっと。
そうしてきたから。
「リリアーヌ」
「はい?」
「何かあった?」
「何も」
「嘘だな」
駄目だった。
この人には。
最近。
すぐ見抜かれる。
「何でもありません」
「嘘だ」
「本当に」
「なら俺を見ろ」
見られない。
「……」
「リリアーヌ」
「少し」
言った。
「疲れました」
「寝ろ」
「まだ夕方です」
「いい」
「子供みたいですね」
「ああ」
駄目。
これ以上。
話したら。
聞いてしまう。
だから。
「少し部屋へ戻ります」
「ああ」
通り過ぎようとした。
そのとき。
腕を。
掴まれた。
すぐ。
力が緩む。
「すまない」
触れない約束。
この人は。
まだ。
守っている。
「何ですか」
「泣くのか」
「泣きません」
「嘘だ」
「泣いてません」
「今はな」
腹が立った。
「どうして」
声が。
震える。
「そんなに分かるんですか」
「お前だからだ」
また。
ずるいことを言う。
なのに。
別れた後の家まで用意している。
「……公爵様」
「なんだ」
「聞きたいことがあります」
「ああ」
「怒らないでください」
「内容による」
「そこは、分かったと言ってください」
「分かった」
私は。
息を吸った。
「呪いが解けたら」
彼の顔が。
少しだけ変わる。
「はい」
「私はもう」
喉が。
痛い。
「必要ありませんか?」
とうとう。
聞いた。
アレクシス公爵が。
完全に。
黙った。
一秒。
二秒。
三秒。
また。
長い。
「誰に聞いた」
「何を」
「別邸と口座のこと」
やっぱり。
「関係ありません」
「ある」
「ありません!」
「ハロルドか」
「違います!」
「嘘だ」
「今はそこじゃないでしょう!」
声が。
大きくなる。
「答えてください」
「……」
「呪いが解けたら」
もう一度。
「私は、いらない?」
「違う」
すぐ。
返ってきた。
でも。
「では、どうして」
「何が」
「家を用意したんですか!」
アレクシス公爵が。
黙る。
「お金まで」
「それは」
「契約が終わったら困らないように?」
「ああ」
「やっぱり!」
「違う」
「何が違うんです!」
涙が。
出そう。
嫌。
泣きたくない。
「私は」
声が震える。
「呪いが解けてほしいです」
「ああ」
「本当に」
「ああ」
「十年間、あなたが苦しんできたことも知っています」
「ああ」
「だから」
言葉が。
詰まる。
「解けてほしい」
「ああ」
「でも」
酷い。
今から。
酷いことを言う。
「少しだけ」
涙が。
落ちた。
「怖いんです」
「何が」
「呪いがなくなったら」
もう。
止まらない。
「私を必要としてくれる理由も、なくなるから」
言った。
一番。
醜いと思っていたこと。
「最低でしょう?」
「何が」
「あなたの呪いが解けることを喜べない自分がいる」
「リリアーヌ」
「少しですよ!」
必死に。
言い訳する。
「本当に少しだけ!」
「……」
「ほとんどは嬉しいんです!」
「……」
「でも」
泣きながら。
笑った。
「少しだけ、怖い」
アレクシス公爵が。
何も言わない。
「呪いがあるから」
「ああ」
「あなたは私を探した」
「ああ」
「呪いがあるから」
「ああ」
「私は妻になった」
「ああ」
「なら」
喉が。
苦しい。
「それがなくなったら」
聞く。
「私たちに、何が残るんですか」
長い。
本当に。
長い沈黙。
アレクシス公爵が。
私を見る。
「俺にも」
低い声。
「分からない」
胸が。
落ちた。
「……そうですか」
「違う」
「何が」
「最後まで聞け」
珍しく。
強い声。
「分からないんだ」
「ああ」
「呪いがなくなった後」
彼が。
少しだけ。
近づく。
「俺がお前をどう必要とするのか」
「……」
「まだ」
息が。
止まりそう。
「名前をつけられない」
「名前?」
「ああ」
「でも」
彼が。
言葉を選ぶ。
「呪いがなくなったから、お前がいらなくなるとは思えない」
涙が。
また落ちた。
「どうして」
「分からない」
「また?」
「ああ」
「本当に役に立ちませんね」
「ああ」
少し。
笑ってしまった。
泣いているのに。
「でも」
アレクシス公爵が。
続ける。
「一つは分かる」
「何です?」
「神殿から帰って」
「ああ」
「この屋敷にお前がいなかったら」
一度。
彼が言葉を止める。
「俺は嫌だ」
胸が。
痛い。
でも。
今度は。
温かい。
「嫌?」
「ああ」
「どれくらい」
「分からない」
「そこは考えて!」
「考えるほど嫌になる」
「……」
ずるい。
本当に。
「じゃあ」
私は。
少しだけ。
意地悪をした。
「どうして別邸まで用意したんですか」
アレクシス公爵が。
黙る。
「公爵様」
「お前が」
「ああ」
「俺から離れたくなったとき」
「……」
「何も持たずに出ていく必要がないように」
胸が。
また。
痛んだ。
「それは」
「ああ」
「優しさのつもり?」
「ああ」
「馬鹿です」
「そうか」
「大馬鹿です!」
「ああ」
「そこは否定してください!」
「無理だ」
私は。
泣きながら。
笑った。
「公爵様」
「なんだ」
「私が出ていきたいって」
「ああ」
「言いました?」
彼が。
黙る。
「言ってませんよね?」
「……ああ」
「なら勝手に準備しないでください!」
「だが」
「だがじゃない!」
思わず。
彼の上着を掴んだ。
前にも。
酔った夜に。
同じことをした。
でも。
今日は。
素面。
全部。
覚えている。
「私だって」
言った。
「怖いんです」
「ああ」
「あなたに残れと言われて」
「ああ」
「それが呪いのためだったら」
声が。
震える。
「嫌なんです」
アレクシス公爵が。
少し。
息を止めた。
「だから」
私は言う。
「呪いが解けたあと」
「ああ」
「それでも」
怖い。
でも。
聞く。
「私にいてほしいと思ったら」
彼を見る。
「そのときは」
喉が。
苦しい。
「ちゃんと言ってください」
長い。
沈黙。
「……ああ」
「約束ですよ」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
私は。
上着から。
手を離そうとした。
その瞬間。
アレクシス公爵の手が。
私の手首へ。
触れる寸前で。
止まった。
「触っていいです」
自分から。
言った。
彼が。
ゆっくり。
私の手を取る。
「リリアーヌ」
「はい」
「お前も」
「何です?」
「呪いが解けたあと」
低い声。
「それでも、ここにいたいと思ったら」
指が。
絡む。
「言え」
胸が。
鳴った。
「……はい」
「約束しろ」
「約束します」
それから。
私たちは。
しばらく。
手を繋いだままだった。
夕食前。
廊下。
誰か来るかもしれない。
でも。
どちらも。
すぐには離さなかった。
◇
出発前夜。
ベッドの中。
私は。
眠れなかった。
「公爵様」
「なんだ」
「起きてます?」
「ああ」
「眠れません」
「俺もだ」
「神殿が怖い?」
「ああ」
「私もです」
「ああ」
「それから」
一度。
言葉を止める。
「呪いが解けるのも」
彼が。
こちらを向く。
「少しだけ怖いです」
「ああ」
「怒りません?」
「怒らない」
「本当に?」
「ああ」
「最低だと思いません?」
「思わない」
「どうして」
「俺もだからだ」
息が。
止まった。
「……何が?」
「呪いが解けた後」
アレクシス公爵が。
低い声で言う。
「お前が自由になるのが」
一度。
沈黙。
「怖い」
私は。
何も言えなかった。
「公爵様」
「なんだ」
「それは」
「ああ」
「私がいなくなるのが?」
長い沈黙。
「ああ」
たった。
一言。
でも。
十分だった。
私は。
暗闇の中。
手を伸ばした。
「手」
「ああ」
「握ってください」
彼の手が。
重なる。
指が。
絡む。
「公爵様」
「なんだ」
「明日」
「ああ」
「一緒に行きましょう」
「ああ」
「一緒に帰ってきましょう」
「ああ」
「それから」
怖い。
でも。
少し笑った。
「呪いが解けた後のことは」
「ああ」
「そのとき二人で喧嘩しましょう」
アレクシス公爵が。
少し。
笑った。
「そうだな」
「珍しく素直ですね」
「ああ」
「怖い」
「寝ろ」
「はい」
その夜。
私は。
彼の手を握ったまま。
眠った。
そして翌朝。
私たちは。
呪いの始まった場所へ向けて。
出発した。
七日間の旅の先。
十年前。
十九歳のアレクシス公爵が。
仲間を失い。
自分を許せなくなった。
あの神殿へ。
私たち二人の関係を。
もう。
呪いだけでは説明できなくなったまま。




