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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第25話 一年後もここにいてほしいと、言えませんでした

 私が熱を出して倒れてから。


 三日が経った。


 熱は。


 とっくに下がった。


 頭痛もない。


 食欲も戻った。


 だから。


 もう完全に元気。


 ……のはずだった。


「駄目だ」


「まだ何も言ってません!」


「分かる」


「何がですか!」


「書庫へ行きたいと言うつもりだろう」


「……」


 私は。


 アレクシス公爵を見る。


 朝食の席。


 向かいに座る。


 いつもの無表情。


 でも。


 最近。


 私には分かる。


 これは。


 本気で駄目と言っている顔。


「どうして分かったんです?」


「さっきから三回、廊下のほうを見た」


「怖い!」


「なぜだ」


「人の視線を数えないでください!」


「癖だ」


「どんな癖ですか!」


 ハロルドが。


 静かに紅茶を注いでいる。


「ハロルドさん」


「はい」


「この人を何とかしてください」


「旦那様」


「何だ」


「少々、過剰かと」


「どこがだ」


「全部でございます」


「お前までか」


「はい」


 即答。


 アレクシス公爵が。


 少し嫌そうな顔をする。


「私は元気です」


「一昨日倒れた」


「三日前です!」


「大差ない」


「あります!」


「昨日も昼寝をした」


「眠かったからです!」


「二時間」


「普通です!」


「普通ではない」


「病み上がりなら普通でしょう!」


「病み上がりなら休め」


「だからもう治ったんです!」


 駄目だ。


 話が。


 一周して戻ってくる。


「公爵様」


「なんだ」


「では確認します」


「ああ」


「書庫へ行く」


「駄目だ」


「庭を散歩」


「十分まで」


「短い!」


「十五分」


「交渉してる場合じゃありません!」


「では十分」


「減った!」


 腹が立つ。


「街へ」


「駄目だ」


「客間でお茶」


「一時間」


「階段を一人で」


「駄目だ」


「なぜ!」


「倒れる」


「倒れません!」


「前もそう言った」


「それは」


「倒れた」


「……」


 言い返せない。


 悔しい。


「じゃあ」


 私は。


 意地になった。


「一人でお風呂に入るのも?」


「それは」


 アレクシス公爵が止まった。


「……」


「……」


「何ですか」


「知らん」


「何が!」


「俺に聞くな」


「今まで全部勝手に決めたでしょう!」


「それはエマに聞け」


「逃げましたね?」


「ああ」


「認めるんですか!」


 ハロルドが。


 咳払い。


「何です?」


「いいえ」


「絶対何か思ってますよね?」


「旦那様が初めて、即答を避けられたことに感動しておりました」


「ハロルド!」


 少し。


 笑ってしまった。


 アレクシス公爵は。


 本当に面倒だ。


 でも。


 正直。


 最初は。


 少し嬉しかった。


 朝食を残せば気づく。


 帰りが遅れれば待つ。


 三分遅れれば迎えに来る。


 倒れれば。


 一晩中。


 手を握ってくれる。


 こんなふうに。


 誰かに心配されたこと。


 今まで。


 ほとんどなかった。


 だから。


 嬉しい。


 嬉しいけれど。


「公爵様」


「なんだ」


「本当に」


「ああ」


「今日は書庫へ行きます」


「駄目だ」


「行きます」


「駄目だ」


「行きます」


「駄目だ」


「子供ですか!」


「ああ」


「また認める!」


 私は立ち上がった。


「ごちそうさまでした」


「待て」


「待ちません」


「どこへ行く」


「書庫です」


「駄目だ」


「行きます!」


 歩き出す。


「リリアーヌ」


 後ろから。


 足音。


 ついてくる。


「何ですか!」


「待て」


「嫌です」


「階段がある」


「知っています!」


「一人で降りるな」


「私は二十三歳です!」


「知っている」


「子供じゃありません!」


「知っている」


「では放っておいてください!」


 言った。


 その瞬間。


 足音が止まった。


 私も。


 止まる。


 振り返る。


 アレクシス公爵が。


 廊下に立っている。


「……放っておけと?」


 声が。


 低い。


 少し。


 傷ついたように聞こえた。


「そういう意味では」


「では何だ」


「過剰なんです!」


「何が」


「全部!」


 私も。


 声が大きくなる。


「食事を残せば心配して」


「ああ」


「少し遅れれば迎えに来て」


「ああ」


「書庫も駄目」


「ああ」


「庭も十五分」


「十分だ」


「そこじゃありません!」


 腹が立つ。


 本当に。


「私は囚人じゃありません!」


「そんなつもりはない」


「でも同じです!」


「違う」


「何が違うんですか!」


「お前がまた倒れたら」


 彼の声が。


 強くなる。


「困る」


「困る?」


「ああ」


「契約妻がいなくなるから?」


 言った。


 言ってしまった。


 アレクシス公爵が。


 黙る。


 胸が。


 痛い。


 でも。


 止まれない。


「呪いが抑えられなくなるからですか」


「違う」


「では何です?」


「……」


「また言えない?」


 嫌な言い方。


 自分でも分かる。


 でも。


 止められない。


「私は」


 声が震える。


「あなたが心配してくれることが、嬉しかったんです」


 彼が。


 私を見る。


「今まで」


 喉が苦しい。


「誰も、そんなに心配してくれなかったから」


「……」


「だから、嬉しかった」


 正直。


 本当に。


 正直に言った。


「でも」


 私は。


 拳を握る。


「怖いんです」


「何が」


「これに慣れるのが」


 アレクシス公爵の顔が。


 少し変わる。


「あなたがいることに」


「……」


「あなたが私を待っていることに」


「……」


「朝、隣にいることに」


 涙が。


 出そうになる。


 でも。


 止めない。


「心配されることに」


「リリアーヌ」


「だって!」


 声が。


 裏返った。


「一年後はどうするんですか!」


 言った。


 とうとう。


 言ってしまった。


 廊下が。


 静かになる。


「契約が終わったら」


「……」


「私はどうすればいいんですか!」


「……」


「今はこんなに心配して」


「……」


「一人で階段も降りるなって言うくせに」


「……」


「一年後には自由にする?」


 自分で。


 言いながら。


 苦しい。


「好きなところへ行けって?」


「リリアーヌ」


「そんなの」


 涙が。


 落ちた。


「勝手すぎます!」


「……」


「優しくするなら」


 言った。


 本当に。


 酷いことを。


「最後まで優しくしてください!」


 アレクシス公爵が。


 何も言わない。


 分かっている。


 困らせている。


 私は。


 何を求めている?


 一年後も。


 そばにいてほしい?


 なら。


 そう言えばいい。


 でも。


 言えない。


 怖いから。


「……すみません」


 また。


 謝った。


「謝るな」


 すぐ。


 返ってくる。


「でも」


「謝るな」


「公爵様」


「お前は」


 彼が。


 少し。


 苦しそうに言う。


「一年後」


「はい」


「ここにいたいのか」


 胸が。


 止まりそうになる。


 聞かれた。


 とうとう。


「……」


「リリアーヌ」


「分かりません」


 逃げた。


 卑怯。


 分かっている。


 でも。


 言えない。


「そうか」


 その返事。


 少しだけ。


 冷たかった。


 いや。


 たぶん。


 私がそう聞いただけ。


「では」


 今度は。


 私が聞く。


「公爵様は?」


「何が」


「一年後も」


 怖い。


「私に、ここにいてほしいですか」


 アレクシス公爵が。


 黙る。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 長い。


 胸が。


 どんどん。


 沈んでいく。


「お前には」


 ようやく。


 彼が言った。


「自由でいてほしい」


 痛かった。


 本当に。


 笑えるくらい。


「……そうですか」


「リリアーヌ」


「分かりました」


「違う」


「何がです?」


「俺は」


「自由にしてくださるんでしょう?」


「ああ」


「なら」


 笑った。


 絶対。


 上手く笑えていない。


「それでいいです」


「よくない」


「どうして?」


「その顔は」


「どんな顔ですか」


「傷ついている」


 腹が立った。


「誰のせいですか!」


 思わず。


 叫んだ。


「あなたでしょう!」


「ああ」


「認めるんですか!」


「ああ」


「なら!」


「だが」


 アレクシス公爵が。


 一歩。


 近づいた。


「俺がここにいろと言えば」


「ああ」


「お前は残るのか」


 答えられない。


「呪いがあるからではなく」


「……」


「契約だからでもなく」


「……」


「俺が望むから」


 心臓が。


 ものすごく。


 速い。


「残るのか」


 答え。


 本当は。


 ある。


 でも。


 言えない。


「……今は」


 声が。


 小さくなる。


「分かりません」


 アレクシス公爵が。


 目を閉じた。


「そうか」


 また。


 同じ。


 互いに。


 聞いて。


 互いに。


 逃げる。


 本当に。


 面倒。


「だから」


 彼が言った。


「俺は言えない」


「何を」


「残れと」


 胸が。


 痛む。


「なぜ」


「お前の自由を奪うかもしれない」


「でも」


「お前は七年間」


 彼が。


 私を見る。


「他人のために生きた」


「……」


「王太子のため」


「……」


「家のため」


「……」


「妹のため」


 何も言えない。


「だから」


 低い声。


「次は、お前が選べ」


 優しい。


 優しいから。


 腹が立つ。


「それ」


 私は言った。


「ずるいです」


「ああ」


「私に全部決めさせるんですか」


「そうだ」


「あなたは?」


「何が」


「あなたの気持ちは!」


 アレクシス公爵が。


 黙る。


「それを言わずに」


 涙が。


 また落ちる。


「好きにしろって」


「ああ」


「そんなの」


 笑った。


 泣きながら。


「優しさじゃありません」


 彼の表情が。


 変わる。


「逃げてるだけです」


 言った。


 言ってしまった。


 でも。


 本当だ。


「……そうかもしれない」


 アレクシス公爵が。


 認めた。


 私は。


 少し驚いた。


「怖い」


 彼が言う。


「何が」


「もし俺が」


 一度。


 言葉が止まる。


「ここにいろと言って」


「……」


「お前が困った顔をしたら」


「……」


「それが嫌だ」


 胸が。


 痛い。


「だから」


 私は言った。


「私も怖いんです」


「ああ」


「一年後もいてほしいって聞いて」


「……」


「あなたに困った顔をされたら」


 初めて。


 言えた。


 全部ではない。


 でも。


 本当のこと。


「怖いんです」


 二人。


 黙る。


 本当に。


 似ている。


 面倒なくらい。


「……馬鹿ですね」


「ああ」


「どちらが?」


「両方」


「珍しく意見が合いました」


「ああ」


 少し。


 笑った。


 彼も。


 ほんの少しだけ。


 笑った。


「公爵様」


「なんだ」


「過保護は」


「ああ」


「減らしてください」


「どこまで」


「書庫は行きます」


「一時間まで」


「三時間」


「一時間半」


「二時間半」


「二時間」


「……分かりました」


「庭は」


「三十分」


「一時間」


「四十分」


「五十分」


「……」


「公爵様」


「四十五分」


「交渉成立です」


「腹が立つ」


「知っています」


 それから。


「階段は?」


 私が聞く。


「一人で降りるな」


「そこは譲らないんですね!」


「ああ」


「どうして!」


「怖い」


 即答。


 私は。


 何も言えなくなった。


「……そう言われると」


「ああ」


「怒れません」


「ならいい」


「ずるい!」


「ああ」


「また認める!」


 でも。


 その日。


 私は。


 結局。


 アレクシス公爵と一緒に。


 階段を降りた。


     ◇


 夜。


 ベッド。


 いつもの。


 二人。


 でも。


 昼の会話が。


 まだ。


 頭に残っている。


「公爵様」


「なんだ」


「一年後のこと」


「ああ」


「まだ」


 少し。


 迷う。


「決めなくていいですか」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「今はまだ?」


「ああ」


 少し。


 笑った。


「便利ですね、その言葉」


「ああ」


「ずるい」


「ああ」


 私は。


 少しだけ。


 彼のほうへ近づいた。


「リリアーヌ」


「何です?」


「近い」


「昼間は一人で階段を降りるなと言ったくせに」


「関係ない」


「あります」


「ない」


「では離れます」


 少し。


 身体を動かす。


「待て」


 止まる。


「何ですか」


「……」


「公爵様?」


「そのままでいい」


 胸が。


 鳴る。


「近いのでは?」


「ああ」


「どちらですか」


「面倒だな」


「あなたが!」


 笑う。


 少しして。


 私は。


 暗闇の中で。


 聞いた。


「公爵様」


「なんだ」


「もし」


「ああ」


「一年後」


 また。


 喉が苦しい。


「私がここにいたいと言ったら」


 長い。


 沈黙。


「困りますか」


 アレクシス公爵が。


 ゆっくり。


 こちらを向いた。


「困る」


 胸が。


 落ちた。


 でも。


「どうして」


 聞いた。


 逃げなかった。


「嬉しすぎて」


 息が。


 止まった。


「何をしていいか分からなくなる」


 私は。


 何も言えなかった。


 本当に。


 ずるい。


 この人は。


 ずるすぎる。


「……公爵様」


「なんだ」


「今の」


「ああ」


「忘れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「お前の真似だ」


「もう!」


 私は。


 背中を向けた。


 顔が。


 熱い。


 絶対に。


 見られたくない。


 すると。


 後ろから。


 声。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「俺も」


 低い。


 声。


「今のは忘れろ」


 私は。


 少し笑った。


「嫌です」


「なぜ」


「あなたの真似です」


 長い。


 沈黙。


「……面倒だな」


「知っています」


 その夜。


 私たちは。


 触れなかった。


 でも。


 いつもより。


 ずっと近くで眠った。


 一年後も。


 ここにいたい。


 まだ。


 言えない。


 でも。


 言えないだけで。


 もう。


 心の中では。


 たぶん。


 答えが決まり始めていた。


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