第24話 私が倒れた瞬間、公爵様の呪印が変わったそうです
熱があると。
夢と現実の境目が。
よく分からなくなる。
「……」
目を開けた。
暗い。
夜?
分からない。
天井。
見慣れた寝室。
そう。
私は。
倒れた。
書庫で。
「公爵様……?」
「ああ」
すぐに。
返事があった。
隣を見る。
アレクシス公爵がいた。
ベッドの横。
椅子に座っている。
「まだ、いたんですか」
「ああ」
「ずっと?」
「ああ」
「仕事は」
「ハロルドに任せた」
「珍しいですね」
「ああ」
「怒られません?」
「俺が公爵だ」
「そういうことを言う人ほど、ハロルドさんに怒られてるじゃないですか」
「……」
「何です?」
「熱があっても、口は変わらないな」
「失礼ですね」
「ああ」
額が。
少しだけ。
冷たい。
布。
誰かが替えてくれたのだろう。
「公爵様」
「なんだ」
「何時ですか」
「夜中だ」
「そうですか」
「ああ」
「寝てください」
「嫌だ」
「どうして」
「お前がまた倒れるかもしれない」
「寝てたら倒れませんよ」
「知らん」
「無茶苦茶です」
「ああ」
「認めるんですね」
「ああ」
少し笑った。
でも。
身体が重い。
すぐに。
瞼が落ちる。
「寝ろ」
「はい」
「今度は素直だな」
「熱がありますから」
「ああ」
「公爵様」
「なんだ」
「手」
言った。
言ってから。
何を頼もうとしたのか。
自分でもよく分からなくなった。
「手?」
「……何でもありません」
「嘘だな」
「今日は見逃してください」
「嫌だ」
「どうして」
「気になる」
「本当に、最近そればかりですね」
「ああ」
少し。
布団の上で。
右手を動かした。
すると。
大きな手が。
重なる。
「これか」
「……はい」
指が。
絡む。
安心する。
どうしてだろう。
「公爵様」
「なんだ」
「まだ怖いですか」
彼の手が。
少し止まった。
「何が」
「私が」
眠い。
言葉が。
うまく出ない。
「目を覚まさなかったこと」
しばらく。
返事がなかった。
「……ああ」
低い声。
「まだ?」
「ああ」
「もう起きてますよ」
「知っている」
「では大丈夫です」
「その言葉は禁止だ」
「本当に面倒ですね」
「お前もな」
「知っています」
目を閉じる。
手。
温かい。
これなら。
眠れる。
そう思った。
「リリアーヌ」
「……はい」
「寝たか」
「まだです」
「ああ」
「でも、もうすぐ」
「ああ」
「公爵様」
「なんだ」
「行かないでくださいね」
沈黙。
長い。
「……どこに」
「分かりません」
「分からないのか」
「はい」
「なら」
彼の手が。
少し強くなる。
「行かない」
「本当に?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「……よかった」
それから。
私は。
眠った。
だから。
知らなかった。
眠った後も。
私の指が。
アレクシス公爵の袖を。
ずっと。
掴んでいたことを。
◇
次に目を覚ましたのは。
朝だった。
「……」
頭。
昨日より軽い。
身体。
まだ重い。
でも。
かなり楽。
「おはようございます」
「ああ」
返事。
近い。
見る。
アレクシス公爵が。
椅子に座ったまま。
こちらを見ていた。
「……公爵様」
「なんだ」
「寝ました?」
「ああ」
「嘘ですね」
「ああ」
「認めるんですか!」
思わず身体を起こしかける。
「寝てろ」
「でも」
「熱がある」
「もう下がった気がします」
手が。
額に近づく。
でも。
触れる直前で止まる。
私は。
彼を見る。
「触らないんですか?」
「契約がある」
「……」
また。
それ。
触れない約束。
私が作った。
私を守るための。
「今は」
私は言った。
「いいですよ」
アレクシス公爵が。
止まる。
「何が」
「額」
「ああ」
「熱を確認するだけでしょう?」
「ああ」
「なら」
少しだけ。
顔を上げた。
「触っていいです」
手が。
額に触れた。
大きい。
少し冷たい。
気持ちいい。
「どうです?」
「まだ少し熱い」
「そうですか」
「ああ」
「では、あと少し寝ます」
「ああ」
手が。
離れる。
少し。
残念。
……何を考えているの。
「公爵様」
「なんだ」
「昨日」
「ああ」
「私、何か変なことを言いました?」
アレクシス公爵の顔が。
止まった。
あ。
ある。
「言ったんですね?」
「別に」
「嘘」
「ああ」
「認める!」
「大したことではない」
「本当に?」
「ああ」
「なら教えてください」
「嫌だ」
「どうして!」
「俺が覚えていればいい」
胸が。
鳴った。
「……何ですか、それ」
「そのままだ」
「ずるい」
「ああ」
「最近、全部認めますね」
「面倒だからな」
「誰が?」
「お前が」
「ひどい!」
でも。
少し笑った。
「本当に大したことじゃないんですか?」
「ああ」
「恥ずかしいことは?」
「……」
「今、黙りましたね!」
「寝ろ」
「絶対何か言った!」
「寝ろ」
「嫌です!」
「熱が上がる」
「公爵様!」
そのとき。
扉が叩かれた。
「旦那様」
ハロルドの声。
「何だ」
「北方神殿より、老神官殿がお見えでございます」
空気が。
変わった。
「もう来たのか」
「ああ」
アレクシス公爵が立ち上がる。
そのとき。
「待って」
私は。
反射的に。
彼の袖を掴んだ。
「……」
「……」
昨日と。
同じ?
なぜか。
そんな気がした。
「リリアーヌ」
「私も聞きます」
「寝てろ」
「嫌です」
「熱がある」
「私のことでしょう?」
「ああ」
「なら聞きます」
「駄目だ」
「どうして!」
「休め」
「公爵様!」
睨む。
向こうも睨む。
「……」
「……」
負けない。
絶対。
「旦那様」
扉の向こうから。
ハロルド。
「何だ」
「リリアーヌ様を説得なさるおつもりでしたら」
「ああ」
「諦められたほうが早いかと」
「ハロルド!」
「二十九年間の経験による助言でございます」
「私と会ったのは最近でしょう!」
「ですが、よく分かります」
「どちらの味方なんです!」
「リリアーヌ様でございます」
「即答するな!」
思わず。
笑った。
アレクシス公爵は。
ものすごく嫌そうな顔をした。
「五分だ」
「え?」
「神官の話を聞くのは五分」
「短いです!」
「十分」
「せめて三十分」
「十五分」
「二十分」
「……」
「公爵様」
「二十分だ」
「交渉成立ですね」
「腹が立つ」
「知っています」
◇
老神官は。
寝室に入った瞬間。
まず私を見た。
それから。
アレクシス公爵を。
そして。
「胸元を」
言った。
「何だ」
「呪印を見せてください」
アレクシス公爵が。
少し眉を寄せる。
「ここで?」
「はい」
「リリアーヌがいる」
「私も見ます」
「なぜ」
「私に関係あるからです」
「見る必要はない」
「あります」
「ない」
「あります!」
「夫婦喧嘩は後ほど」
老神官が言った。
「喧嘩ではありません!」
私。
「喧嘩ではない」
アレクシス公爵。
同時。
老神官が。
少し笑った。
「何ですか」
「いいえ」
また。
周りに笑われる。
アレクシス公爵が。
諦めたように。
寝間着の襟元を開いた。
胸。
左側。
心臓の上。
黒い紋様。
「……」
初めて。
ちゃんと見た。
複雑な。
ひび割れたような。
黒い線。
「これが」
「ああ」
「呪印?」
「ああ」
老神官が。
近づく。
「やはり」
「何だ」
「形が変わっています」
私は。
息を止めた。
「悪化ですか」
「分かりません」
「また?」
思わず言った。
「最近、皆そればかりですね」
「申し訳ございません」
「いえ」
老神官が。
写本を開く。
「昨日、リリアーヌ様が倒れた瞬間」
「ああ」
「呪印は?」
「光った」
アレクシス公爵が答える。
「黒く?」
「赤く」
老神官の顔が。
変わった。
「赤く?」
「ああ」
「どの程度」
「胸全体が焼けるかと思うほどだ」
「痛かったんですか!」
私は。
彼を見る。
「聞いてません!」
「言っていない」
「どうして!」
「お前が倒れていた」
「それとこれとは別でしょう!」
「別ではない」
「あります!」
「ない」
「あります!」
「だから夫婦喧嘩は後ほど」
老神官。
二回目。
私は。
口を閉じた。
アレクシス公爵も。
少しだけ。
顔を逸らした。
「赤く変化した呪印」
老神官が。
低い声で言う。
「記録にございます」
「何と?」
「呪いを受けた者が」
一度。
私を見る。
「対となる者を失うことを、本心から恐れたとき」
胸が。
鳴った。
「呪印は」
老神官が続ける。
「黒から赤へ転じる」
静かだった。
私は。
アレクシス公爵を見る。
彼は。
老神官を見ている。
私を見ない。
「つまり」
声が。
少し震えた。
「公爵様は」
「違う」
早い。
「まだ何も言ってません」
「分かる」
「そればかり!」
「違う」
「何が」
「呪いの反応だ」
胸が。
少し痛む。
「そうですね」
言った。
笑った。
「呪いですものね」
アレクシス公爵が。
こちらを見る。
「リリアーヌ」
「何です?」
「そういう言い方をするな」
「どういう?」
「分からない」
「また?」
「ああ」
「本当に面倒!」
「お前もな」
「知っています!」
老神官が。
咳払い。
「まだ続きがございます」
「……どうぞ」
「はい」
「この変化は」
老神官が。
呪印を見る。
「呪いが悪化したとは限りません」
「では?」
「むしろ」
古い写本。
指が。
一つの文章をなぞる。
「解呪に必要な条件が、揃い始めた可能性がございます」
私は。
息を止めた。
「偽りのない愛」
「ああ」
「失う恐怖」
「ああ」
「そして」
老神官が。
静かに。
続ける。
「もう一つ」
「まだあるんですか」
「ございます」
「何です?」
「相手を守るため」
目が。
私と。
アレクシス公爵を行き来する。
「自分自身を差し出しても構わないと願うこと」
胸が。
ざわついた。
「それは」
嫌な予感。
「どういう意味です?」
「まだ解読中です」
「……また分からない?」
「申し訳ございません」
「いえ」
でも。
怖い。
妙に。
怖かった。
◇
老神官が帰った後。
私は。
ベッドに横になった。
アレクシス公爵は。
また椅子。
「公爵様」
「なんだ」
「寝てください」
「ああ」
「今夜は」
「ああ」
「ちゃんと」
「ああ」
「同じベッドで」
言ってから。
顔が熱くなる。
「……」
「……」
「何ですか」
「別に」
「何かありますよね」
「お前が」
「ああ」
「自分から言うとは思わなかった」
「呪い対策です!」
反射的に。
言った。
そして。
後悔した。
「……」
「……」
アレクシス公爵が。
少しだけ。
目を伏せた。
「そうか」
「あの」
「分かった」
「違います」
「何が」
「今のは」
どう言えばいい。
分からない。
でも。
このままは嫌。
「呪い対策でもあります」
「ああ」
「でも」
息を吸う。
「それだけでは」
声が。
小さくなる。
「ありません」
アレクシス公爵が。
私を見る。
「一人で眠るより」
怖い。
でも。
言う。
「あなたがいるほうが」
心臓が。
うるさい。
「安心します」
言った。
とうとう。
「だから」
私は。
布団を掴む。
「今夜は」
「ああ」
「ここにいてください」
長い。
沈黙。
「公爵様?」
「……ああ」
それだけ。
でも。
声が。
少し。
掠れていた。
夜。
アレクシス公爵は。
本当に。
私の隣に入った。
ただし。
遠い。
「公爵様」
「なんだ」
「遠いです」
言って。
しまった。
「……」
「……」
「今のは」
「聞いた」
「忘れてください」
「無理だ」
「どうして!」
「聞いたからだ」
「本当にずるい!」
彼が。
少しだけ。
近づいた。
「これで」
「……はい」
「まだ遠いか」
「少し」
「贅沢だな」
「知っています」
また。
少しだけ。
近づく。
肩が。
触れそうな距離。
「これで?」
「はい」
私は。
目を閉じた。
安心する。
不思議。
本当に。
「リリアーヌ」
「はい」
「昨日」
嫌な予感。
「何です?」
「お前は」
「ああ」
「行かないでください、と言った」
目を開けた。
「……私が?」
「ああ」
「覚えてません」
「知っている」
「忘れてください」
「嫌だ」
「どうして!」
「覚えていたい」
胸が。
止まりそうになる。
「……ずるい」
「ああ」
「また認める」
「ああ」
「公爵様」
「なんだ」
「行かないでください」
今度は。
起きたまま。
言った。
彼が。
黙る。
「一年後も?」
聞いてしまった。
怖い。
でも。
聞いた。
長い。
長い沈黙。
「今は」
アレクシス公爵が。
低い声で言う。
「その答えを出せない」
胸が。
少し痛い。
「そうですか」
「ああ」
「でも」
「ああ」
「今夜は?」
彼の手が。
布団の上。
少しだけ。
こちらへ動く。
「行かない」
私は。
その手に。
自分の指を重ねた。
「約束です」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「なら」
目を閉じた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
その夜。
私は。
彼の手を握ったまま。
眠った。
そして。
眠りに落ちる直前。
胸の奥で。
一つだけ。
思った。
一年後も。
今夜みたいに。
ここにいてほしい。
でも。
まだ。
その願いを。
声にする勇気はなかった。




