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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第23話 「触れない約束を守れなくなりそうだ」と言われました

 眠れなかった。


 本当に。


 一睡も。


 ……いや。


 嘘。


 たぶん三十分くらいは眠った。


 でも。


 ほとんど眠れなかった。


『触れない約束を守れなくなりそうだからだ』


 何度。


 思い出しただろう。


 百回?


 二百回?


 分からない。


 数えるのを途中でやめた。


 だって。


 数えたところで。


 恥ずかしさが減るわけではないから。


「……」


 私は。


 布団の中から。


 そっと隣を見た。


 アレクシス公爵がいる。


 ただし。


 遠い。


 ものすごく。


 遠い。


 昨夜。


 ベッドの端まで逃げた彼は。


 本当に。


 そのまま朝を迎えていた。


 少し身体を動かしたら。


 落ちそう。


「……公爵様」


「起きている」


 早い。


「まだ何も聞いてません」


「分かる」


「何がです?」


「俺が起きているか聞こうとした」


「どうして分かるんですか」


「何度も同じことを聞かれた」


「……そうでしたね」


「ああ」


「おはようございます」


「おはよう」


「……」


「何だ」


「今日は最初から言えましたね」


「ああ」


 会話。


 終わり。


 いつもなら。


 もう少し何かある。


 枕を投げたり。


 私が怒ったり。


 彼が余計なことを言ったり。


 でも。


 今日はない。


「……」


「……」


 気まずい。


 何で?


 分かっている。


 昨夜のせい。


「公爵様」


「なんだ」


「昨夜」


「忘れろ」


「まだ何も言ってません!」


「分かる」


「そればかり!」


 少し。


 声が大きくなった。


 でも。


 彼は私を見ない。


「どうして、そちらばかり見てるんです?」


「窓がある」


「知っています!」


「なら聞くな」


「私を見ないようにしてます?」


「していない」


「嘘」


「ああ」


 認めた。


「……どうして」


「別に」


「今、認めたでしょう!」


「認めたからといって、理由まで言うとは言っていない」


「屁理屈!」


「ああ」


「それも認めるんですか!」


 腹が立つ。


 でも。


 少し安心した。


 いつもの。


 アレクシス公爵だ。


 ただ。


 やっぱり。


 こちらを見ない。


「……私が」


 言った。


「何かしました?」


 アレクシス公爵が。


 少しだけ。


 動きを止めた。


「何も」


「本当に?」


「ああ」


「でも」


 聞くのが怖い。


 でも。


 このままも嫌。


「昨日」


「ああ」


「私が、嬉しいって言ったから?」


 沈黙。


「魅力があるって言ってもらえて」


「ああ」


「それで」


 喉が。


 少し乾く。


「あなたを困らせました?」


 長い。


 沈黙。


「……困った」


 胸が。


 痛んだ。


「そうですか」


「ああ」


「じゃあ」


 私は。


 少し笑った。


「もう言いません」


 今度は。


 アレクシス公爵が。


 こちらを見た。


「何を」


「嬉しいとか」


「なぜ」


「だって困るんでしょう?」


「ああ」


「なら」


「違う」


 遮られた。


「何がです?」


「そういう意味ではない」


「では、どういう意味ですか」


 また。


 沈黙。


「公爵様」


「言えない」


「また?」


「ああ」


「ずるい」


「ああ」


「認めるんですね」


「ああ」


 私は。


 布団から出た。


「分かりました」


「何が」


「もう聞きません」


「……」


「あなたが言いたくなるまで」


「そうか」


「はい」


 それだけ言って。


 ベッドから降りる。


 少し。


 寂しかった。


 でも。


 仕方ない。


 この人には。


 言いたくないことがある。


 私にだってある。


「リリアーヌ」


「何です?」


「怒っている?」


「いいえ」


「嘘だ」


「怒っていません」


「なら」


「少し傷ついただけです」


 言ってしまった。


 アレクシス公爵の顔が。


 変わった。


 しまった。


「忘れてください」


「無理だ」


「どうして」


「今、聞いた」


「聞いたことは忘れられるでしょう!」


「お前の言葉は無理だ」


 心臓が。


 鳴った。


 ずるい。


 本当に。


「そういうことを言うから」


「何だ」


「また私が変なことを考えるんです!」


「何を」


「知りません!」


 逃げた。


 今度は。


 私が。


     ◇


 朝食の席。


 私と。


 アレクシス公爵。


 向かい合っている。


 でも。


 会話がない。


 いつもより。


 静か。


 ハロルドが。


 私を見る。


 アレクシス公爵を見る。


 また私。


「何ですか」


「いいえ」


「その顔、もう見慣れました」


「さようでございますか」


「何か言いたいことがあるんでしょう」


「ございます」


「あるんですね!」


「はい」


 ハロルドは。


 静かに紅茶を注ぐ。


「喧嘩でございますか」


「違う」


 アレクシス公爵が即答。


 私は。


 少し遅れて。


「違います」


 ハロルドが。


 目を細める。


「では、何でございましょう」


「何でもない」


 アレクシス公爵。


「何でもありません」


 私。


 また。


 ハロルドが黙る。


「……何ですか」


「いいえ」


「絶対何か思ってます」


「息が合っておられるな、と」


「合ってません!」


「合っていない」


 同時。


「……」


「……」


 ハロルドが。


 小さく。


 笑った。


「笑いましたね!」


「失礼いたしました」


「絶対反省してません!」


「はい」


「正直!」


 少し。


 笑ってしまった。


 でも。


 アレクシス公爵は。


 すぐに顔を逸らした。


 また。


 胸が。


 ちくりとする。


 やっぱり。


 避けられてる。


「……ごちそうさまでした」


 私は。


 まだ半分ほど残った皿を置いた。


「食べろ」


 すぐ。


 アレクシス公爵が言う。


「食欲がありません」


「なぜ」


「知りません」


「嘘だ」


「今日は見逃してください」


「嫌だ」


「どうして!」


「食べろ」


「子供じゃありません!」


「知っている」


「なら」


「昨日も昼食を残した」


 覚えていた。


「一昨日も」


「……」


「その前は食べた」


「いちいち覚えてるんですか?」


「ああ」


「どうして」


「知らん」


「また?」


「ああ」


 腹が立つ。


 でも。


 嬉しい。


 そして。


 そのことが。


 一番腹立たしい。


「分かりました」


 私は。


 もう一度フォークを持った。


「食べます」


「ああ」


「満足です?」


「ああ」


「本当に面倒」


「お前もな」


「知っています」


 少し。


 いつもに戻った。


 その瞬間。


「旦那様」


 ハロルドが言った。


「何だ」


「北方神殿より、使者が到着しております」


 空気が。


 変わった。


     ◇


 老神官は。


 以前と同じ男だった。


 灰色の長い髭。


 細い身体。


 でも。


 目だけは鋭い。


「新しい記録が見つかったそうですね」


 私が聞いた。


「はい」


 老神官が頷く。


「解呪条件についてでございます」


 アレクシス公爵の顔が。


 少しだけ硬くなる。


「偽りのない愛」


 私は言った。


「あれ以上に、まだ何か?」


「ございます」


 老神官は。


 古びた写本を開く。


「問題は」


 一度。


 言葉を切る。


「何をもって、偽りのない愛とするか」


 私は。


 隣を見る。


 アレクシス公爵も。


 こちらを見た。


 すぐ。


 逸らした。


 また。


「古い記録では」


 老神官が続ける。


「言葉は重要ではないとされています」


「言葉ではない?」


「はい。『愛している』と口にするだけでは、呪いは解けない」


「では」


「行動?」


 私が聞く。


「それも、完全ではありません」


「難しいですね」


「人の心でございますから」


「本当に面倒です」


「ああ」


 隣から。


 アレクシス公爵。


 思わず。


 少し笑った。


「今、同意しました?」


「ああ」


「そこだけ?」


「ああ」


「感じ悪い!」


 老神官が。


 少し笑った。


「何ですか」


「いいえ」


 最近。


 周りによく笑われる。


「続けてください」


「はい」


 老神官が。


 写本を指でなぞる。


「記録によれば」


 静かな声。


「対となる者が、本心から相手を失うことを恐れたとき」


 私は。


 息を止めた。


「呪いは」


 老神官が続ける。


「最も大きく反応する」


「失うことを」


 私は繰り返す。


「恐れたとき?」


「はい」


「それは」


 少し迷う。


「死ぬという意味ですか」


「死別に限りません」


「では?」


「離別」


 胸が。


 少しだけ。


 痛んだ。


「別れ」


「ああ」


「拒絶」


 契約終了日。


 一年後。


 三百六十日。


 いや。


 今日は。


 あと何日?


 考えたくない。


「相手がいなくなることを」


 老神官が言う。


「耐えられないと、心が認めた瞬間です」


 静かだった。


 誰も。


 何も言わない。


「では」


 私は。


 少し笑った。


「やっぱり難しいですね」


 アレクシス公爵が。


 こちらを見る。


「なぜだ」


 前にも。


 同じことを聞かれた。


「だって」


「また勝手に決めるのか」


 少し。


 腹が立った。


「公爵様」


「何だ」


「そういう言い方をしないでください」


「事実だ」


「では」


 私は。


 彼を見る。


「あなたは、私を失うのが怖いんですか?」


 言った。


 言ってから。


 後悔した。


 老神官。


 いる。


 ハロルドも。


 いる。


 最悪。


「……」


「……」


「今のは」


 私は顔が熱くなる。


「忘れてください」


「無理だ」


「どうして!」


「聞いた」


「だから忘れて!」


 アレクシス公爵は。


 答えない。


 長い。


 長すぎる。


「公爵様」


「分からない」


 胸が。


 少し落ちた。


「……そうですか」


「ああ」


「分かりました」


 笑った。


 たぶん。


 下手な笑い方。


「では」


 私は老神官を見る。


「まだ解呪は遠そうですね」


「リリアーヌ」


「何ですか」


「違う」


 アレクシス公爵が言った。


「何が?」


「分からないのは」


 一度。


 彼が言葉を止める。


「怖いかどうかではない」


「では」


「どれほど怖いのかが」


 息が。


 止まった。


「分からない」


 部屋が。


 完全に。


 静かになった。


 私は。


 何も言えない。


「……それ」


 ようやく。


 声が出た。


「どういう意味ですか」


「言った通りだ」


「全然分かりません!」


「俺も分からない」


「あなた、最近本当にそればかり!」


「ああ」


「少しは自分の気持ちを考えてください!」


「考えている」


「なら!」


「考えるほど分からなくなる」


 あまりに。


 真面目な顔で言うから。


 怒る気がなくなった。


「……面倒ですね」


「ああ」


「私も?」


「ああ」


「そこは否定してください!」


 老神官が。


 また。


 少し笑った。


     ◇


 その日の午後。


 私は。


 書庫にいた。


 本を開いている。


 でも。


 読めない。


『どれほど怖いのかが分からない』


 何なの。


 それ。


 怖いってことでしょう?


 違う?


 でも。


 どうして。


 ちゃんと言わないの。


「……私も言ってないけど」


 小さく呟く。


 私は。


 アレクシス公爵を失うのが怖い?


 契約が終わって。


 別々になる。


 それを。


 想像する。


 嫌。


 胸が。


 苦しい。


 でも。


 それは。


 愛?


 依存?


 安心できる場所を失うのが怖いだけ?


 分からない。


 本当に。


 人の心は。


 面倒すぎる。


「リリアーヌ様」


 エマが入ってきた。


「はい?」


「お茶を」


「ありがとう」


 カップを受け取る。


「少しお顔色が」


「大丈夫です」


「禁止された言葉では?」


「最近、皆それを言いますね」


「旦那様が言いすぎるので」


「そうなの」


 紅茶を飲む。


 少し。


 苦い。


「リリアーヌ様」


「何?」


「今日はお休みになっては?」


「平気よ」


「ですが」


「本当に」


 少し。


 頭が重い。


 でも。


 寝不足だから。


 たぶん。


「あと少しだけ読むわ」


「……分かりました」


 エマは。


 心配そうに。


 部屋を出ていった。


 私は。


 本へ目を戻す。


 一行。


 二行。


 やっぱり。


 入ってこない。


「……今日は駄目ね」


 立ち上がる。


 その瞬間。


 視界が。


 揺れた。


「え」


 床が。


 近づく。


 身体に。


 力が入らない。


 最後に。


 聞こえた。


 誰かの。


 ものすごく。


 大きな声。


「リリアーヌ!」


 アレクシス公爵。


 なぜ。


 ここに。


 そう思った。


 でも。


 次の瞬間。


 何も。


 分からなくなった。


     ◇


 目を覚ますと。


 寝室だった。


「……」


 天井。


 見慣れた。


 隣。


 アレクシス公爵。


「起きたか」


 声が。


 低い。


 怖い。


「……はい」


「気分は」


「大丈夫」


「その言葉を言うな」


 本気で。


 怒っている。


「すみません」


「謝るな」


「でも」


「謝るな」


 二回。


 私は。


 黙った。


「熱がある」


「そうなんですか」


「ああ」


「寝不足かも」


「ああ」


「少し休めば」


「少し?」


 声。


 さらに低くなった。


「公爵様」


「昨日も寝ていない」


「それはあなたも」


「食事も残した」


「でも」


「今日も顔色が悪かった」


「……」


「なぜ言わない」


 怒っている。


 でも。


 少し。


 違う。


 手が。


 震えている。


 アレクシス公爵の。


 手が。


「公爵様」


「なんだ」


「怖かった?」


 聞いた。


 彼が。


 私を見る。


 逃げない。


 目を逸らさない。


「……ああ」


 心臓が。


 鳴った。


「私が倒れたから?」


「ああ」


「それだけで?」


「それだけ?」


 声が。


 少し荒くなる。


「目の前で倒れた」


「……」


「呼んでも返事をしなかった」


「……」


「息をしているか分からなかった」


「公爵様」


「俺は」


 言葉が。


 止まる。


 初めて見る。


 こんな顔。


 冷徹公爵。


 氷獄公爵。


 そんな人には。


 見えない。


「呪いより」


 彼が言った。


「お前が目を覚まさないほうが」


 一度。


 唇を噛む。


「ずっと怖かった」


 私は。


 何も言えなかった。


 胸が。


 痛い。


 でも。


 温かい。


「公爵様」


「なんだ」


「手」


「何が」


「握ってもらってもいいですか」


 彼が。


 すぐに。


 私の手を握った。


 強い。


 少し。


 痛い。


「痛いです」


「すまない」


 すぐ緩む。


 私は。


 少し笑った。


「離してとは言ってません」


「……」


「もう少しだけ」


 指を。


 自分から絡めた。


「このままで」


「ああ」


「公爵様」


「なんだ」


「さっき」


「ああ」


「呪いより、私が目を覚まさないほうが怖いって」


「忘れろ」


「嫌です」


「なぜ」


「あなたの真似です」


 アレクシス公爵が。


 目を閉じた。


「本当に面倒だな」


「誰のせいでしょうね」


「ああ」


「そこは何か言ってください」


「お前のせいだ」


「ひどい」


「俺もだ」


 少し。


 笑った。


 彼も。


 ほんの少し。


 笑った。


 でも。


 その夜。


 私の熱が下がるまで。


 アレクシス公爵は。


 一度も。


 手を離さなかった。


 そして。


 私はまだ知らなかった。


 私が倒れた瞬間。


 彼の胸に刻まれた呪印が。


 十年ぶりに。


 大きく形を変えていたことを。


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