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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第20話 国王陛下から、七年間の謝罪を受けることになりました

「行きたくありません」


 馬車の中で。


 私は言った。


「そうか」


 向かいに座るアレクシス公爵が答える。


「帰ってもいいですか」


「ああ」


「今から?」


「ああ」


「国王陛下からの呼び出しですよ?」


「ああ」


「断っても?」


「ああ」


「あなた、本当に怖いものがないんですか?」


「ある」


 思わず。


 顔を上げた。


「あるんですか?」


「ああ」


「何です?」


 アレクシス公爵が黙る。


「……公爵様?」


「言わない」


「どうして!」


「言いたくない」


「子供ですか!」


「そうかもしれない」


 今日は。


 妙に素直だ。


 私は少しだけ笑った。


「でも」


 窓の外を見る。


 王宮が近づいている。


 見慣れた尖塔。


 白い壁。


 七年間。


 何度通っただろう。


「帰りません」


「ああ」


「行きます」


「ああ」


「怖いですけど」


「ああ」


「少しくらい励ましてください」


「俺がいる」


 即答だった。


 ずるい。


 本当に。


 この人は。


 必要なときだけ。


 一番欲しい言葉を。


 何でもない顔で言う。


「……そういうの」


「何だ」


「反則です」


「何の」


「知りません」


「そうか」


「そこは聞いてください」


「面倒だな」


「誰のせいですか!」


 少しだけ。


 呼吸が楽になった。


     ◇


 王宮へ着く。


 以前。


 私はこの場所へ来るたび。


 自分が何をすべきかを考えていた。


 誰に挨拶する。


 どの書類を見る。


 アルベルト殿下の予定は。


 王妃陛下から頼まれた案件は。


 外国使節団の到着時間は。


 頭の中に。


 いつも。


 何十もの用事があった。


 今日は。


 何もない。


 ただ。


 呼ばれたから来ただけ。


「変な感じです」


 呟いた。


「何が」


「何もすることがない」


「いいことだ」


「そうでしょうか」


「ああ」


「でも、落ち着きません」


「なら何かするか」


「何を?」


「分からん」


「役に立たない!」


 思わず笑う。


 近くにいた侍従が。


 驚いた顔をした。


 たぶん。


 昔の私しか知らないから。


 以前の私なら。


 王宮の廊下で。


 こんな声を出さなかった。


「リリアーヌ」


「はい」


「手」


「え?」


 アレクシス公爵が。


 手を差し出した。


「……どうして?」


「震えている」


 見られた。


 私は。


 自分の右手を見る。


 確かに。


 少し震えている。


「大丈夫です」


「禁止した言葉だ」


「今は」


「本当に?」


 聞かれた。


 答えられない。


「……大丈夫ではないです」


「ああ」


「かなり緊張しています」


「ああ」


「だから」


 私は。


 差し出された手を見る。


「握っても?」


「ああ」


 手を重ねた。


 温かい。


 指が閉じる。


 それだけで。


 少し。


 王宮が怖くなくなった。


     ◇


「国王陛下、王妃陛下がお待ちでございます」


 案内されたのは。


 大広間ではなかった。


 小さな謁見室。


 正式な儀礼用ではなく。


 王族が限られた相手と話すための部屋。


 扉が開く。


 そこに。


 国王陛下がいた。


 王妃陛下も。


 そして。


 アルベルト。


 セシリア。


 私は。


 一瞬。


 足を止めた。


 隣で。


 アレクシス公爵の手に。


 少しだけ力が入る。


「大丈夫か」


 小さな声。


「はい」


「本当に?」


「……たぶん」


「ならいい」


「よくはないです」


「そうか」


 少し。


 笑いそうになった。


 こんな場所なのに。


 助かった。


「リリアーヌ」


 国王陛下が。


 私を呼んだ。


「はい」


 礼をする。


 習慣。


 完璧な角度。


 完璧な姿勢。


「顔を上げてくれ」


「はい」


 顔を上げる。


 国王陛下は。


 疲れて見えた。


 少し前まで病に伏せていた。


 まだ完全には回復していないのだろう。


「まず」


 国王陛下が言った。


「王として、謝罪する」


 私は。


 何も言えなかった。


 国王陛下が。


 頭を下げた。


「陛下!」


 アルベルトが声を上げる。


「黙れ」


 国王陛下の声。


 低い。


「父上、しかし」


「黙れと言った」


 アルベルトが。


 口を閉じた。


 国王陛下は。


 私を見る。


「七年間」


 静かな声だった。


「そなたに、王太子妃になる者として教育を受けさせた」


「はい」


「語学。法律。外交。礼儀。財政。領地経営。宮廷儀礼」


「はい」


「それ自体は必要だった」


「はい」


「だが」


 国王陛下が。


 手元の書類を見る。


「教育の名目で、実務まで担わせた」


 私は。


 黙った。


「王太子の日程調整」


「……はい」


「外交使節団の受け入れ準備」


「はい」


「王妃執務院の書類確認」


「はい」


「各国への返礼手配」


「はい」


「宮廷行事の日程調整」


「はい」


「王太子が処理すべき報告書の下準備」


「……はい」


 次々。


 読み上げられる。


 聞くたびに。


 胸の中。


 何かが。


 ざわざわする。


 それは。


 怒りなのか。


 悲しみなのか。


 分からない。


「これらの多くは」


 国王陛下が言った。


「本来、婚約者の義務ではなかった」


 私は。


 手を握った。


 違う。


 隣の。


 アレクシス公爵の手が。


 私の手を。


 握ってくれた。


「当時」


 国王陛下が続ける。


「そなたが有能であったため、任せた」


 胸が。


 痛む。


「皆、そなたならできると思った」


 ああ。


 知っている。


「そして」


 国王陛下の声が。


 少し苦くなる。


「できてしまった」


 その言葉に。


 私は。


 初めて。


 何かが切れた気がした。


「はい」


 答えた。


 声が。


 少し震えた。


「できました」


 皆が私を見る。


「できたから」


 私は言った。


「次も頼まれました」


 国王陛下は。


 黙る。


「それもできたから、また次が来ました」


「……」


「体調が悪くても」


「……」


「熱があっても」


「……」


「眠っていなくても」


 声が。


 震える。


「できるから」


 涙が。


 出そうになる。


 でも。


 今度は。


 止めなかった。


「私は、できる人間だったから」


 一滴。


 頬を伝った。


「誰も、やらなくていいとは言ってくれませんでした」


 静かだった。


 誰も。


 何も言わない。


「すみません」


 反射的に。


 言ってしまう。


「泣くつもりは」


「謝るな」


 隣から。


 アレクシス公爵の声。


 私は。


 彼を見る。


「でも」


「泣いているだけだ」


「……」


「悪いことではない」


 胸が。


 また。


 痛くなった。


「公爵様」


「なんだ」


「今、国王陛下の前ですよ」


「ああ」


「少しは」


「黙る気はない」


「でしょうね」


 泣きながら。


 少し笑った。


 国王陛下が。


 静かに息を吐く。


「リリアーヌ」


「はい」


「謝罪して済むことではないと分かっている」


 私は黙る。


「王家は、そなたの善意と能力に甘えた」


「……」


「私は王として、それを止めなかった」


「……」


「申し訳なかった」


 もう一度。


 国王陛下が。


 頭を下げた。


 王妃陛下も。


「私からも」


 王妃陛下が言う。


「謝らせてください」


 私は。


 困った。


 本当に。


 困った。


 謝ってほしかった?


 七年間。


 ずっと。


 誰かに。


『ありがとう』


『助かった』


『もう休んでいい』


 そう言ってほしかった。


 でも。


 今。


 謝られて。


 どうすればいい?


「……謝られたら」


 口から。


 出た。


「はい?」


 王妃陛下が聞く。


「謝られたら」


 私は。


 自分でも。


 情けない声で言った。


「許さなければならないのでしょうか」


 静かだった。


「陛下が」


 私は続ける。


「頭を下げたら」


「……」


「私は」


 喉が痛い。


「もう怒ってはいけないんですか」


 誰も答えない。


「七年間のことを」


 涙が。


 また落ちる。


「もう終わったことにしなければならないんですか」


「違う」


 アレクシス公爵が言った。


 私は彼を見る。


「許したくなければ許すな」


 国王陛下の前。


 王妃陛下の前。


 王太子の前。


 関係ない。


 彼は。


 いつもと同じ声だった。


「公爵様」


「何だ」


「それは」


「謝罪は」


 アレクシス公爵が。


 私を見る。


「許しを強要する権利ではない」


 胸が。


 大きく鳴った。


「謝るのは、謝る側がすることだ」


「ああ」


「許すかどうかは、お前が決めろ」


「……」


「今すぐ決める必要もない」


 私は。


 何も言えなかった。


 国王陛下が。


 小さく頷く。


「グランツ公爵の言う通りだ」


「陛下」


「許しを求めるつもりはない」


 苦い声だった。


「そなたが許さなくても、我々がしたことは変わらない」


「……」


「だから」


 国王陛下が言う。


「今日、答えを出さなくていい」


 その言葉が。


 思っていたより。


 救いだった。


「……はい」


 私は。


 ようやく。


 それだけ答えた。


     ◇


「次に」


 国王陛下の声が変わった。


「アルベルト」


「はい」


 王太子が。


 顔を上げる。


「そなたの婚約破棄についてだ」


「……はい」


「王家の正式な承認を経ず、公衆の面前で一方的に宣言した」


「はい」


「しかもその場で、次の婚約者としてセシリア嬢を立てた」


「……」


「そなたは、王太子だ」


「分かっています」


「分かっていない!」


 国王陛下の声が。


 部屋に響いた。


 アルベルトが。


 肩を震わせる。


「一人の女を好きになった」


「ああ」


「婚約者を愛せなくなった」


「ああ」


「それ自体を罪だとは言わん」


 セシリアが。


 顔を上げる。


「だが」


 国王陛下は。


 二人を見る。


「だからといって、七年間支えてきた者を、公衆の面前で侮辱していい理由にはならない」


 アルベルトが。


 唇を噛む。


「そなたは言ったそうだな」


 国王陛下が。


 低い声で続ける。


「女として魅力がない、と」


 私は。


 身体が少し固くなる。


 すぐ。


 アレクシス公爵の手が。


 強くなった。


「はい」


 アルベルトが答える。


「なぜ言った」


「それは」


「なぜだ」


「……怒っていました」


「誰に」


 アルベルトが。


 黙る。


「リリアーヌにか」


「……」


「自分にか」


「……」


「答えろ」


「分かりません」


 小さな声。


「分からない?」


「当時は」


 アルベルトが。


 苦しそうに言う。


「彼女が何を考えているのか、分からなかった」


「……」


「いつも正しくて」


「……」


「何を言っても、承知しましたと」


 私は。


 黙って聞いた。


「腹が立ったんです」


 アルベルトが言う。


「自分だけが」


 声が掠れる。


「彼女に必要とされていない気がして」


 胸が。


 少し痛んだ。


 人間は。


 本当に。


 面倒だ。


 私は。


 必要とされるために。


 完璧になろうとした。


 アルベルトは。


 完璧になった私を見て。


 必要とされていないと思った。


 間違った。


 二人とも。


 たぶん。


 でも。


「だから傷つけた?」


 国王陛下が聞く。


「……はい」


「馬鹿者」


「はい」


 アルベルトは。


 何も言い返さなかった。


 そして。


 セシリア。


「セシリア嬢」


「……はい」


「そなたにも責任がある」


 セシリアの顔が。


 強張った。


「私は」


「好きになっただけ、と言うか」


「……」


「感情は止められない、と」


 セシリアの目から。


 涙が落ちる。


「はい」


「それも分かる」


 国王陛下は。


 静かだった。


「だが、行動は選べた」


 以前。


 私が言った言葉。


 胸が。


 少しざわつく。


「姉の婚約者と、半年間秘密で会う」


「……」


「それを選んだのは、そなただ」


「……はい」


「姉に許してほしいと求め」


「……」


「許されないと、ひどいと言った」


 セシリアが。


 泣く。


「ごめんなさい」


 誰に。


 言ったのか。


 分からなかった。


 国王陛下?


 私?


 自分?


「お姉様」


 セシリアが。


 私を見る。


「ごめんなさい」


 私は。


 答えられなかった。


「本当に」


 彼女が続ける。


「ごめんなさい」


 昔。


 雷の夜。


 私のベッドに入ってきた小さな妹。


 泣いて。


 お姉様、と。


 私の腕にしがみついた。


 その顔が。


 重なる。


 でも。


 今。


 目の前にいるのは。


 私を傷つけた人でもある。


 両方。


 本当。


「……今は」


 私は言った。


「許せない」


 セシリアの顔が。


 歪んだ。


「でも」


 私は続ける。


「いつか許せるかもしれない」


 嘘ではない。


「分からない」


 正直に。


「だから」


 息を吸う。


「今は、それでいいことにさせて」


 セシリアが。


 泣きながら。


 頷いた。


「うん」


 その返事だけ。


 昔の妹みたいだった。


 少し。


 苦しかった。


     ◇


 王宮を出た。


 馬車へ戻る。


 私は。


 座った途端。


 大きく息を吐いた。


「疲れました」


「ああ」


「ものすごく」


「ああ」


「もう今日は何もしたくありません」


「するな」


「寝ても?」


「ああ」


「夕食も?」


「食べろ」


「そこは駄目なんですね」


「ああ」


「横暴」


「ああ」


 私は。


 笑った。


 少しだけ。


「公爵様」


「なんだ」


「今日は」


「ああ」


「ありがとうございました」


「何が」


「ずっと隣にいてくれて」


 アレクシス公爵が。


 私を見る。


「夫だからだ」


 胸が。


 また鳴る。


「契約上の」


「ああ」


 少し。


 痛い。


 でも。


「今はまだ、ですね」


 私が言うと。


 アレクシス公爵が。


 ほんの少し。


 目を見開いた。


「……何です?」


「いや」


「気になる」


「言わない」


「ずるい!」


「お前の真似だ」


「最近そればかり!」


 笑った。


 本当に。


 笑った。


 王宮で。


 泣いた。


 怒った。


 許せないと言った。


 それでも。


 今。


 笑っている。


 人間は。


 本当に面倒だ。


 感情は。


 一つずつではない。


 怒りながら。


 悲しみながら。


 それでも。


 少し幸せになれる。


 その夜。


 寝室で。


 私はベッドに入った。


 アレクシス公爵も隣に来る。


「公爵様」


「なんだ」


「今日」


「ああ」


「手をずっと握ってくれましたよね」


「ああ」


「ありがとうございました」


「ああ」


「それで」


「ああ」


「今夜も」


 言葉が。


 止まった。


 何を。


 言おうとしているの。


「何だ」


「……別に」


「嘘だな」


「今日は見逃してください」


「嫌だ」


「どうして!」


「気になる」


 また。


 それ。


「手を」


 私は。


 小さな声で言った。


「握ってもらってもいいですか」


 アレクシス公爵が。


 黙った。


「嫌でしたら」


「嫌ではない」


 すぐ。


 答えた。


 差し出された手。


 私は。


 自分から。


 指を重ねた。


 今夜は。


 雷もない。


 悪夢もない。


 呪いの痛みもない。


 ただ。


 私が。


 そうしてほしかったから。


「公爵様」


「なんだ」


「これは」


「ああ」


「呪い対策ではありません」


 言った。


 怖かった。


 でも。


 言った。


 アレクシス公爵の指が。


 少しだけ。


 強くなる。


「ああ」


「それでも?」


「ああ」


「いいんですか?」


 暗闇。


 しばらく。


 返事がない。


「公爵様?」


「リリアーヌ」


「はい」


「それ以上聞くな」


「どうして?」


「今夜は」


 彼の声が。


 低くなる。


「俺が困る」


 心臓が。


 大きく鳴った。


「何に?」


 聞いてしまった。


 長い沈黙。


「頼むから」


 アレクシス公爵が。


 私の手を。


 もう少し強く握った。


「それ以上聞くな」


 私は。


 それ以上。


 聞けなかった。


 だって。


 私の心臓も。


 同じくらい。


 速くなっていたから。


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