第19話 「私は今、自分で選んだ場所におります」と元婚約者に送りました
『婚約破棄の撤回は、お受けいたしません』
アルベルトは、その一文を三度読んだ。
四度目は。
途中で読むのをやめた。
いや。
読めなかった。
その先にある言葉を。
もう覚えてしまったからだ。
『私は今、自分で選んだ場所におります』
「……自分で選んだ」
王太子の執務室。
誰もいない。
本当は侍従がいた。
だが。
全員下がらせた。
今は。
アルベルト一人だった。
「私を選ばなかった、ということか」
誰も答えない。
当然だった。
それでも。
口に出さずにはいられなかった。
「七年だぞ」
手紙を握る。
「七年間、私の隣にいたんだ」
そして。
自分から捨てた。
その事実だけは。
考えないようにした。
「……一日だ」
婚約破棄から。
たった一日。
たった一日で、リリアーヌは別の男の妻になった。
あり得ない。
そんなのは。
まともではない。
衝動だ。
傷ついた女が、正常な判断を失っただけ。
そう思っていた。
だから。
自分が手を伸ばせば戻ってくると思った。
七年だ。
七年も一緒にいたのだから。
「なぜだ」
アルベルトは。
手紙を机に叩きつけた。
「なぜ私ではなく、あの男なんだ」
答えは。
本当は。
もう何度も聞いていた。
それでも。
認めたくなかった。
扉が開いた。
「アルベルト様」
セシリアだった。
「入っていいとは言っていない」
口から出た瞬間。
彼女の顔が傷ついた。
以前なら。
すぐに謝った。
可愛い妹。
いや。
可愛い恋人。
自分を必要として。
笑って。
泣いて。
腕にしがみついてくる。
リリアーヌにはなかったものを、セシリアは全部持っていると思っていた。
「……ごめん」
アルベルトは言った。
「今は少し、一人になりたい」
「お姉様から?」
セシリアの視線が。
机の手紙へ落ちる。
「手紙が来たんでしょう」
「セシリア」
「何て?」
「今は」
「戻ってくる?」
期待。
その声に。
確かな期待があった。
「お姉様、戻ってくるんでしょう?」
「……」
「だって、お姉様が戻れば、王宮の仕事も元に戻るし」
「セシリア」
「アルベルト様だって、最近ずっと機嫌が悪かったし。それに皆、お姉様と比べるの。侍女も官僚も、私が何か間違えるたびに、前はこうではなかったって顔をするのよ。だから」
「戻らない」
セシリアが黙った。
「……え?」
「リリアーヌは戻らない」
「嘘」
「手紙にそうある」
「見せて」
「セシリア」
「見せてよ!」
彼女が。
机へ駆け寄った。
手紙を取る。
読む。
最初の一文。
そして。
最後。
『私は今、自分で選んだ場所におります』
セシリアの顔から。
少しずつ表情が消えていった。
「……何これ」
「書いてある通りだ」
「自分で選んだ?」
「ああ」
「じゃあ私たちは?」
アルベルトは答えられなかった。
「私は?」
「セシリア」
「私は、お姉様の妹なのに」
「……」
「アルベルト様は、七年も婚約していたのに」
「……」
「それなのに、どうして」
声が。
震え始める。
「どうして、お姉様だけ幸せそうなの?」
アルベルトが顔を上げた。
「セシリア」
「私、欲しかったものを手に入れたのに」
笑った。
泣きながら。
「おかしいね」
「……」
「お姉様からあなたを取ったの」
はっきり。
言った。
「欲しかったから」
アルベルトは何も言わない。
「ずっと羨ましかった。お姉様は何でもできて。お父様にも頼られて。王太子妃になることも決まっていて。でも、あなたは」
彼女の唇が震える。
「私を選んでくれた」
「……ああ」
「だから勝ったと思った」
その言葉は。
あまりに醜く。
あまりに正直だった。
「最低でしょう?」
「セシリア」
「でも本当だもの!」
涙が落ちる。
「勝ったと思ったの! やっとお姉様より上になれたって!」
アルベルトは。
言葉を失った。
「なのに」
セシリアが手紙を見る。
「お姉様は泣いてない」
「……」
「私より幸せそう」
「……」
「どうして?」
知らない。
アルベルトにも。
分からなかった。
「私が欲しかったものを全部取ったはずなのに」
「セシリア」
「どうして私のほうが、捨てられたみたいなの?」
アルベルトは。
答えられなかった。
そして。
それが。
何よりも残酷な答えだった。
◇
手紙を送った翌朝。
私は。
目を覚ますと。
何となく。
胸が軽かった。
完全に。
とは言えない。
七年間は消えない。
傷ついたことも。
恥ずかしかったことも。
昨日のことみたいに思い出せる。
でも。
終わらせた。
自分で。
初めて。
誰かに言われたからではなく。
自分で選んだ。
「……よし」
小さく言った。
起きよう。
そう思った。
しかし。
身体が重い。
「あと五分」
呟く。
目を閉じた。
今までの私なら。
絶対にしなかった。
寝坊。
許されなかった。
王太子妃になる女は。
誰より早く起き。
誰より先に予定を確認し。
少しでも遅れれば。
自覚が足りないと言われた。
「……五分だけ」
誰も怒らない。
そう思った。
実際。
誰も怒らなかった。
ただし。
こんこん。
扉が叩かれた。
「はい」
「リリアーヌ」
アレクシス公爵。
私は。
目を開けた。
「……はい?」
「起きているか」
「今起きました」
「遅い」
時計を見る。
朝食の時間。
三分。
過ぎている。
「三分ですよ?」
「ああ」
「たった三分です」
「ああ」
「どうしてあなたが迎えに来るんですか!」
「来なかったからだ」
「朝食に?」
「ああ」
「三分遅れただけで?」
「ああ」
「公爵様」
「なんだ」
「自分がおかしいという自覚は?」
「ない」
「でしょうね!」
私は布団を掴んだ。
「大丈夫です。すぐ行きます」
「禁止した言葉だ」
「今は本当に大丈夫です!」
「顔を見る」
「嫌です!」
「なぜ」
「寝起きだからです!」
「昨日も見た」
「そういう問題ではありません!」
扉の向こうが。
静かになる。
帰った?
そう思った。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「五分待つ」
「十分待ってください!」
「長い」
「女性の支度です!」
「十五分」
「増えましたね」
「ああ」
「どうして?」
「エマを呼ぶ」
「そこまでしなくていいです!」
「では十分」
「分かりました!」
気配が離れる。
私は。
枕に顔を埋めた。
「……何なの、あの人」
でも。
笑っていた。
◇
「三分です」
朝食の席。
私は。
アレクシス公爵に言った。
「何が」
「私が遅れた時間です」
「ああ」
「たった三分」
「ああ」
「なのに寝室まで来た」
「ああ」
「どうして?」
「来なかったからだ」
「答えになってません」
「なっている」
「なっていません!」
ハロルドが紅茶を注ぐ。
その顔。
絶対に。
何か思っている。
「ハロルドさん」
「はい」
「普通ですか?」
「何がでございましょう」
「朝食に三分遅れた妻を、公爵本人が迎えに来ることです」
ハロルドが。
アレクシス公爵を見る。
そして。
私を見る。
「旦那様にしては」
「はい」
「驚くほど我慢なさったほうかと」
「三分で!?」
「はい」
「どんな基準なんですか!」
「昨日はリリアーヌ様が庭へ出られた際、七分ほどお戻りが遅く」
「待て」
アレクシス公爵が言った。
「ハロルド」
「はい」
「余計なことを言うな」
「七分?」
私は。
聞き逃さない。
「何です、それ」
「別に」
「絶対別にじゃないでしょう!」
「予定より帰りが遅かった」
「庭ですよ?」
「ああ」
「屋敷の敷地内です!」
「ああ」
「それで?」
「探しに行こうとした」
ハロルドが答えた。
「ハロルド」
「事実でございます」
「公爵様!」
「何だ」
「七分ですよ!」
「ああ」
「どうして探すんですか!」
「戻らなかった」
「たった七分でしょう!」
「長い」
「長くありません!」
腹が立つ。
でも。
胸が。
少し。
変な感じ。
「それだけではございません」
ハロルドが続ける。
「まだあるんですか?」
「昨日、リリアーヌ様が昼食を半分残されましたので、旦那様は夕食の献立を変更なさいました」
私は。
アレクシス公爵を見る。
「本当ですか」
「……」
「公爵様」
「ああ」
「どうして?」
「食べていなかったからだ」
「だからって」
「夕食は食べた」
「食べましたけど」
「ならいい」
「よくありません!」
どうしよう。
腹が立つ。
でも。
嫌ではない。
それが。
一番困る。
「公爵様」
「なんだ」
「最近」
「ああ」
「私のことを気にしすぎでは?」
「そうか?」
「そうです」
「なら気をつける」
あっさり。
「本当に?」
「ああ」
「明日から?」
「ああ」
「三分遅れても?」
「……」
「今、黙りましたね」
「五分まで待つ」
「そこじゃありません!」
思わず。
笑ってしまった。
アレクシス公爵も。
少しだけ。
口元を緩める。
「今、笑いましたね」
「ああ」
また。
認めた。
「最近、隠さなくなりましたね」
「ああ」
「どうして?」
聞いた。
彼が。
少し黙る。
「お前が」
「はい」
「笑うからだ」
心臓が。
跳ねた。
「……それは」
「ああ」
「どういう意味ですか」
「そのままだ」
「分かりません」
「ならいい」
「ずるい!」
「またか」
「またです!」
でも。
それ以上。
聞けなかった。
◇
午後。
私は。
屋敷の書庫で本を読んでいた。
いや。
読もうとしていた。
同じ行を。
四回読んだ。
内容が入ってこない。
『お前が笑うからだ』
何なの。
あれ。
なぜ。
笑うことと。
彼が笑うことが関係あるの。
「……分からない」
「何がだ」
「きゃっ!」
顔を上げる。
アレクシス公爵。
「いつからいました?」
「今」
「本当に?」
「ああ」
「怪しい」
「何を読んでいる」
「これです」
本を見せる。
彼が題名を見る。
「北方領の農業史?」
「はい」
「なぜ」
「興味があったので」
「そうか」
「一年後」
口から出た。
言って。
しまったと思った。
でも。
もう遅い。
「もし北方で働くことになったら、役に立つかと」
アレクシス公爵の顔が。
少し。
変わった。
「北方に来るのか」
「仮定です」
「そうか」
「はい」
「……」
「……」
「何ですか、その顔」
「別に」
「嘘ですね」
「ああ」
「では何を思いました?」
「言わない」
「最近、それ多くないですか?」
「ああ」
「面倒!」
「お前もな」
「知っています」
少し笑う。
でも。
次の瞬間。
アレクシス公爵が。
私の持っていた本へ目を落とす。
「北方の冬は厳しい」
「知っています」
「雪も深い」
「それも」
「寒さが苦手なら」
「公爵様」
「何だ」
「もしかして」
「ああ」
「私が本当に北方へ行くと思って」
彼が黙る。
「少し」
「少し?」
「……嬉しかった?」
聞いた。
また。
馬鹿。
どうして。
すぐ聞くの。
長い沈黙。
「公爵様」
「嬉しかった」
今度は。
逃げなかった。
私は。
何も言えなかった。
「……そうですか」
「ああ」
「どうして」
「分からない」
「そこは分からないんですね!」
「ああ」
思わず。
笑った。
悔しいけれど。
嬉しい。
「リリアーヌ」
「はい」
「明日」
「何です?」
「街へ出るのか」
「予定では」
「何時に戻る」
「夕方には」
「何時だ」
「分かりません」
「決めろ」
「どうして!」
「待つ」
胸が。
また。
大きく鳴った。
「……私を?」
「ああ」
「どうして」
「分からない」
「また?」
「ああ」
この人。
本当に。
何も分からない。
でも。
たぶん。
私も。
同じだった。
◇
翌朝。
私は。
少し意地悪をした。
朝食に。
わざと。
三分遅れた。
昨日。
『なら気をつける』
そう言ったから。
試したかった。
本当に。
気をつけるのか。
一分。
二分。
三分。
「……」
来ない。
少し。
残念。
いや。
何で残念なの。
それでいい。
普通。
これが普通。
四分。
五分。
こんこん。
「リリアーヌ」
来た。
私は。
思わず。
笑ってしまった。
「起きているか」
「起きています」
「なぜ来ない」
「五分までは待つと言いましたよね?」
「五分経った」
「本当に来るんですね」
「ああ」
「気をつけるんじゃなかったんですか?」
「気をつけた」
「どこが!」
「昨日は三分だった」
「二分しか増えてません!」
「十分だ」
「全然足りません!」
扉の向こうで。
少し沈黙。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「体調は」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「なら」
少しだけ。
声が柔らかくなる。
「早く来い」
「どうして?」
「一人で食べても美味くない」
私は。
固まった。
「……今」
「ああ」
「何と言いました?」
「忘れろ」
「嫌です」
「なぜ」
「あなたの真似です」
「何回目だ」
「知りません!」
私は扉を開けた。
アレクシス公爵が。
そこにいる。
いつもの無表情。
でも。
ほんの少し。
耳が赤い。
「公爵様」
「なんだ」
「最近、変ですね」
「ああ」
「認めるんですか?」
「ああ」
「どうして?」
彼は。
私を見る。
長い沈黙。
「お前が」
「はい」
「戻らないと言ったからだ」
胸が。
止まりそうになる。
「どこに?」
「あの男のところへ」
アルベルト。
分かった。
「だから?」
「ああ」
「安心した?」
「ああ」
今度は。
すぐ答えた。
「その反動かもしれない」
「何がです?」
「お前がいなくなることを」
彼が。
少し言葉を止める。
「前より考えるようになった」
私は。
何も言えなかった。
「公爵様」
「なんだ」
「契約終了まで」
「ああ」
「まだ三百六十一日ありますよ」
「ああ」
「長いです」
「ああ」
「なのに?」
「長くない」
低い声だった。
それだけで。
胸が。
苦しくなる。
「どうして」
「一日減った」
今度こそ。
私は。
何も言えなかった。
昨日。
私も。
同じことを思ったから。
まだ。
三百六十一日もある。
なのに。
もう。
一日減った。
「……面倒ですね」
「ああ」
「私もです」
「ああ」
「そこは否定してください」
「無理だ」
「本当に腹が立つ!」
でも。
笑っていた。
アレクシス公爵も。
少しだけ。
笑っていた。
そのとき。
廊下の向こうから。
ハロルドが歩いてきた。
「旦那様。リリアーヌ様」
「何だ」
「王宮より使者でございます」
私の笑顔が。
少しだけ消えた。
「また?」
「はい」
「今度は何ですか」
ハロルドは。
珍しく。
少し困った顔をした。
「王太子殿下ではございません」
「では?」
「国王陛下からでございます」
アレクシス公爵の表情が。
変わった。
「内容は」
「リリアーヌ様に」
ハロルドが言う。
「王宮へお越しいただきたいと」
嫌な予感。
また。
当たる気がした。
「理由は?」
「正式な婚約破棄手続きと」
一度。
言葉を切る。
「王太子妃教育を七年間担ったリリアーヌ様に対する、王家からの謝罪についてだそうです」
私は。
息を止めた。
謝罪。
そんなもの。
今さら。
欲しかった?
分からない。
でも。
アレクシス公爵が。
隣で。
静かに言った。
「行くなら、俺も行く」
私は。
思わず彼を見る。
「まだ何も言ってませんよ」
「ああ」
「私が行くとも」
「ああ」
「本当に面倒ですね」
「ああ」
彼は。
まったく否定しなかった。
そして私は。
それが。
少しだけ嬉しかった。




