第18話 契約終了まで、あと三百六十二日
朝。
目を覚ましたとき。
私は、隣を見た。
アレクシス公爵が眠っている。
珍しい。
本当に眠っている。
眉間に皺もない。
苦しそうでもない。
規則正しい呼吸。
「……」
よかった。
そう思った。
昨夜。
痛みは出なかった。
抱きしめる必要もなかった。
手を握ることも。
身体を寄せることも。
必要なかった。
よかった。
それは。
本当に。
よかったはずなのに。
「……何で」
少しだけ。
寂しいのだろう。
馬鹿みたい。
呪いが出ないことは喜ぶべきだ。
この人が痛みに苦しまない。
それ以上に大切なことなんてない。
なのに。
私は。
昨日の夜。
『近くに来い』
そう言われたことを思い出していた。
呪いではない。
痛いからでもない。
眠れないから。
しかも。
その理由すら。
彼自身にも分からない。
「……面倒な人」
小さく呟く。
「聞こえている」
「っ!」
私は飛び起きた。
アレクシス公爵が目を開けていた。
「起きていたんですか!」
「ああ」
「いつから?」
「少し前」
「なら言ってください!」
「なぜ」
「私が独り言を言っていたでしょう!」
「ああ」
「聞きました?」
「ああ」
「忘れてください」
「嫌だ」
「どうして!」
「事実だからだ」
「何が?」
「俺は面倒だ」
認めた。
あっさり。
「……自覚があるんですね」
「最近な」
「誰のおかげです?」
「お前だ」
「感謝してください」
「嫌だ」
「どうしてですか!」
「別に嬉しくない」
思わず笑った。
「本当に面倒ですね」
「ああ」
「でも」
私は。
少し迷う。
「昨日は、よく眠れました?」
「ああ」
「痛みも?」
「なかった」
「本当に?」
「ああ」
「よかった」
今度は。
ちゃんと。
心から言えた。
すると。
アレクシス公爵が私を見る。
「何ですか」
「いや」
「言ってください」
「少し残念そうだった」
心臓が。
止まりかけた。
「何がです?」
「痛みがなかったと聞いて」
「そんなわけないでしょう!」
声が。
大きくなる。
「どうして私があなたの痛みを残念がるんです!」
「分からない」
「分からないなら言わないでください!」
「では」
アレクシス公爵が。
少しだけ目を細める。
「抱かれなかったのが残念だった?」
静かになった。
完全に。
「……」
「……」
この人。
今。
何を。
「公爵様」
「なんだ」
「朝から」
「ああ」
「何を言っているんですか!」
枕を掴んだ。
「待て」
「待ちません!」
「投げるな」
「どうして!」
「また枕が減る」
「減りません!」
「痛む」
「昨日、私の顔に投げたでしょう!」
「昔の話だ」
「数日前です!」
投げた。
アレクシス公爵は。
避けた。
「避けないでください!」
「なぜ当たる必要がある」
「腹が立つからです!」
「理不尽だ」
「あなたが言うな!」
もう一つ。
投げようとして。
手が止まった。
笑っている。
私。
また。
笑っている。
アレクシス公爵も。
本当に。
ほんの少しだけ。
笑っていた。
「……今、笑いましたね」
「ああ」
私は固まった。
「え?」
「笑った」
「認めるんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「隠す必要がない」
それだけ。
たったそれだけなのに。
胸の奥が。
妙に温かくなった。
「そうですか」
「ああ」
「では」
私は。
枕を下ろした。
「今朝は許します」
「何を」
「いろいろです」
「そうか」
◇
朝食後。
私は廊下で。
立ち止まった。
壁に。
暦が掛かっていた。
一年。
十二か月。
今日の日付。
そして。
ふと。
数えてしまった。
「三百六十二日」
「何がでございますか」
「きゃっ!」
振り返る。
ハロルドだった。
「驚かせないでください!」
「失礼いたしました」
「絶対思ってませんよね」
「いえ」
穏やかな顔。
信用できない。
「何を数えておられたのです?」
「……」
「リリアーヌ様?」
「契約終了までです」
言った。
ハロルドの表情が。
ほんの少し変わった。
「あと三百六十二日」
「左様でございますか」
「長いですね」
「はい」
「一年ですから」
「はい」
「……」
「……」
「何か言ってください」
「何を申し上げればよろしいでしょう」
「知りません」
「でしたら、私にも分かりかねます」
「この屋敷の男の人、皆そればかりですね!」
ハロルドが小さく笑った。
「リリアーヌ様」
「はい」
「長いとお思いですか」
少し。
答えに詰まった。
「……分かりません」
「さようでございますか」
「昨日までは」
私は暦を見る。
「一年もあると思っていました」
「はい」
「でも今は」
言葉が止まる。
「一日減ったと思ってしまいます」
自分で言って。
胸が痛くなった。
おかしい。
たった三日。
ほんの三日しか経っていない。
なのに。
もう。
終わりを怖がっている?
「変ですよね」
「人間とは、そのようなものでございましょう」
「曖昧ですね」
「二十九年間生きております旦那様を見てまいりましたが、人間のことなど未だによく分かりません」
「それは、公爵様だからでは?」
「否定できません」
笑ってしまった。
「ハロルドさん」
「はい」
「一年後」
「はい」
「私は、どうなっていると思いますか」
彼は。
すぐには答えなかった。
「それは」
少しだけ。
優しい声で。
「リリアーヌ様ご自身が、お決めになることでございます」
「……そうですね」
「ですが」
「はい?」
「旦那様は、相当面倒になるでしょうな」
「もう十分面倒です」
「今以上でございます」
「嫌ですね」
「はい」
「そこは否定してください」
「できません」
本当に。
この家の人は。
正直すぎる。
◇
その日の午後。
アレクシス公爵は。
執務室で。
書類を見ていた。
私は向かいのソファで本を読む。
静かな時間。
でも。
落ち着かない。
さっきから。
何度も。
アレクシス公爵が机の横の暦を見ている。
一回。
二回。
三回。
四回。
「公爵様」
「なんだ」
「何を見ているんです?」
「何も」
「嘘ですね」
「ああ」
「認めるんですか?」
「ああ」
「では何を?」
「言わない」
「子供ですか」
「黙れ」
「契約終了日?」
アレクシス公爵の手が止まった。
当たり。
「やっぱり」
「……」
「気になるんですか」
「別に」
「嘘」
「ああ」
「そこだけ素直!」
でも。
少し嬉しかった。
彼も。
気にしている。
私だけじゃない。
「一年後」
私は言った。
「呪いが解けていれば、私は自由です」
「ああ」
胸が。
少し痛い。
「その頃には」
「ああ」
「私も、どこかで働いているかもしれません」
「ああ」
また。
ああ。
「王都以外で」
彼が言った。
「どうしてです?」
「王太子がいる」
「まだ言います?」
「ああ」
「関係ありません」
「ある」
「ありません!」
「なら北方」
「あなたの領地でしょう!」
「ああ」
「それでは自由ではありません!」
「自由だ」
「どこが?」
「好きな仕事をすればいい」
「公爵様の目の届くところで?」
「ああ」
「それを自由とは言いません!」
アレクシス公爵が黙る。
「……何です」
「では」
少し。
声が低くなった。
「本当に遠くへ行きたいのか」
急に。
言われた。
私は。
答えられなかった。
「例えば」
彼が続ける。
「国の反対側へ」
「……」
「あるいは隣国へ」
「……」
「俺が会えない場所へ」
胸が。
苦しくなった。
「公爵様」
「なんだ」
「どうしてそんなことを聞くんです?」
「確認だ」
「また?」
「ああ」
「必要な?」
「ああ」
私は。
少し腹が立った。
「では公爵様は?」
「何が」
「私がいなくなっても平気ですか」
言ってしまった。
アレクシス公爵が。
黙る。
「一年後」
私は続ける。
「呪いが解けて」
「……」
「私がいなくなって」
「……」
「また一人で眠るようになって」
「……」
「平気ですか」
長い。
沈黙。
私。
馬鹿。
聞かなければよかった。
「契約だ」
彼が言った。
胸に。
刺さった。
「……はい」
「一年で終わると決めた」
「はい」
「だから」
一瞬。
彼が。
言葉に詰まった。
「その時が来たら、受け入れる」
正しい。
誠実。
約束を守っている。
だから。
余計に痛い。
「そうですか」
「ああ」
「では安心ですね」
「何が」
「私がいなくなっても」
笑った。
たぶん。
上手く。
「大丈夫そうです」
「リリアーヌ」
「仕事に戻ってください」
「お前は」
「私も本を読みます」
「リリアーヌ」
「何ですか!」
少し。
強い声になった。
彼が黙る。
「……すみません」
すぐに謝った。
習慣。
本当に。
嫌になる。
「謝るな」
「でも」
「怒っているのだろう」
「怒ってません」
「嘘だ」
「今日は見逃してください」
「嫌だ」
「どうして!」
「気になる」
「そればかり!」
立ち上がった。
「少し外を歩いてきます」
「俺も行く」
「来ないでください!」
言った瞬間。
後悔した。
アレクシス公爵の顔が。
ほんの少しだけ。
変わったから。
「……分かった」
それだけ。
私は。
執務室を出た。
扉を閉めて。
そのまま。
廊下に立ち尽くした。
「……馬鹿」
誰に言ったのか。
分からなかった。
◇
夕方。
ハロルドが。
一通の書状を持ってきた。
「旦那様。リリアーヌ様」
「何だ」
「王宮より、正式な通知でございます」
嫌な予感。
本当に。
最近。
嫌な予感ばかり当たる。
「内容は?」
アレクシス公爵が聞く。
「王太子アルベルト殿下が」
ハロルドが。
少しだけ。
言いにくそうに。
「リリアーヌ様との婚約破棄について、正式な撤回を求めておられます」
静かになった。
「……はい?」
私が聞き返した。
「どういう意味ですか?」
「先日の婚約破棄は、殿下ご自身の一時的な感情によるものであり、正式な王家の承認手続きに不備があったと」
「そんな」
確かに。
婚約破棄は突然だった。
でも。
だからといって。
「撤回して、どうするつもりです?」
「リリアーヌ様を」
ハロルドが。
私を見る。
「再び、王太子妃候補として迎えたいと」
私は。
何も言えなかった。
「断れ」
アレクシス公爵が言った。
早かった。
あまりにも。
「公爵様」
「何だ」
「私宛てですよね」
「ああ」
「では、私が」
「断れ」
「だから」
「断れ」
三回目。
私は。
彼を見る。
「どうしてです?」
「行く必要がない」
「それは私が決めます」
「……」
「前にも言ったでしょう」
「ああ」
「私はあなたの所有物ではありません」
「知っている」
「なら」
「だが嫌だ」
胸が。
鳴る。
また。
その言葉。
「何がです?」
「お前が王太子のところへ戻るのが」
「戻りません」
「本当に?」
「本当です!」
「絶対か」
「しつこい!」
私は怒鳴った。
でも。
アレクシス公爵は。
少しも怯まなかった。
「なら書け」
「何を」
「断ると」
「今すぐ?」
「ああ」
「少し考えさせてください!」
「なぜだ」
今度は。
彼の声が。
低くなる。
「考える必要があるのか」
「あります!」
「王太子に戻るつもりがないなら」
「そういう話じゃありません!」
「なら何だ!」
初めて。
アレクシス公爵が。
声を荒げた。
私は。
驚いた。
ハロルドも。
少しだけ目を見開いた。
「……」
「……」
「公爵様」
「なんだ」
「怒っています?」
「怒っていない」
「嘘です」
「ああ」
「認めるんですか」
「ああ」
「誰に?」
長い。
沈黙。
「王太子に」
「だけ?」
また。
聞いてしまった。
アレクシス公爵が。
私を見る。
「お前にもだ」
胸が。
痛んだ。
「どうして」
「なぜ考える」
「だから」
「なぜ、あの男のところへ戻る余地を残す」
「残してません!」
「なら即答しろ!」
「怖いんです!」
言ってしまった。
部屋が。
静まる。
「怖い?」
「そうです!」
声が震える。
「七年間です」
「ああ」
「七年間、私はあそこにいました」
「ああ」
「戻りたいんじゃない」
「……」
「でも」
喉が苦しい。
「正式に断ったら」
「ああ」
「本当に全部終わるでしょう?」
「……」
「七年間が」
涙が出た。
最悪。
「全部、終わるんです」
私は。
自分でも。
何を言っているのか分からなかった。
戻りたくない。
でも。
終わるのが怖い。
捨てられたくせに。
傷つけられたくせに。
それでも。
七年間の自分まで。
全部いらなかったことにしたくない。
「……ごめんなさい」
また謝った。
すると。
「謝るな」
低い声。
「でも」
「戻りたいわけではないのだろう」
「はい」
「なら」
アレクシス公爵が。
少しだけ。
近づいた。
「終わらせるのは、お前の七年間ではない」
私は。
顔を上げた。
「終わらせるのは」
彼が言う。
「お前を大事にしなかった男との関係だけだ」
胸が。
痛い。
でも。
少し。
息がしやすくなる。
「七年間は」
アレクシス公爵が。
続けた。
「お前が頑張った時間だ」
「……」
「誰にも奪えない」
涙が。
落ちた。
「そういうことを」
「ああ」
「急に言わないでください」
「なぜだ」
「泣くからです」
「もう泣いている」
「あなたのせいです!」
「そうか」
「少しくらい謝ってください」
「嫌だ」
「どうして!」
「今は泣けばいい」
また。
ずるい。
本当に。
ずるい。
「公爵様」
「なんだ」
「私」
「ああ」
「王宮には戻りません」
「ああ」
「絶対に」
彼が。
少しだけ。
息を吐いた。
安心した?
もしかして。
「でも」
「何だ」
「断る返事は、自分で書きます」
「ああ」
「あなたは口を出さない」
「……」
「返事してください」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「勝手に書き換えたり」
「しない」
「送る前に燃やしたり」
「しない」
「王宮の使者を追い返したり」
「それは場合による」
「公爵様!」
少し。
笑ってしまった。
泣きながら。
本当に。
格好悪い。
でも。
たぶん。
これでいい。
人間なんて。
泣きながら笑って。
怒りながら安心して。
戻りたくない場所に。
さよならを言うだけでも。
こんなに時間がかかる。
面倒で。
格好悪くて。
でも。
それでいいのだと思った。
その夜。
私は。
王太子アルベルト宛てに。
一通の手紙を書いた。
『婚約破棄の撤回は、お受けいたしません』
そして最後に。
迷って。
迷って。
一文だけ。
付け加えた。
『私は今、自分で選んだ場所におります』
書き終える。
隣を見る。
アレクシス公爵がいる。
「公爵様」
「なんだ」
「読みます?」
「読まない」
「珍しい」
「お前が書いた返事だ」
「そうですね」
「ああ」
私は。
手紙を封じた。
そして。
ふと思う。
契約終了まで。
あと三百六十二日。
まだ。
こんなにもある。
なのに。
今日一日が。
一つ減ったことが。
少しだけ。
寂しかった。
私はまだ。
その理由を。
ちゃんと言葉にできなかった。




