第17話 「では、無理ですね」と言ったら、公爵様が怒りました
『対となる二人の間に、偽りのない愛があること』
私は、その一文を見た。
そして。
笑った。
「では、無理ですね」
ほんの軽い冗談のつもりだった。
いや。
嘘。
冗談ですらない。
ただ。
そう言ってしまえば。
これ以上、考えなくて済むと思った。
私たちは契約夫婦。
一年間だけ。
互いに恋愛感情を求めない。
愛さない。
愛してほしいと願わない。
そう決めた。
だから。
「無理ですね」
もう一度言った。
笑って。
ちゃんと。
何でもないことのように。
すると。
「なぜだ」
隣から。
低い声がした。
「え?」
私はアレクシス公爵を見た。
彼が。
私を見ている。
何だろう。
妙に怖い。
「なぜ無理だと決める」
「なぜって」
私は手紙を指差した。
「ここに書いてあるでしょう? 偽りのない愛が必要だと」
「ああ」
「私たちは契約結婚です」
「ああ」
「だから無理です」
「答えになっていない」
「なっています!」
「契約なら人を好きにならないのか」
息が。
止まった。
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「聞こえました」
「なら答えろ」
「どうして私が!」
「お前が無理だと言ったからだ」
「だって!」
声が大きくなる。
「契約書の第四条に書いてあります!」
「恋愛感情を求めない、だ」
「同じでしょう!」
「違う」
「何が違うんですか!」
「求めないことと、持たないことは違う」
何も。
言えなかった。
アレクシス公爵が。
まっすぐ私を見ている。
「お前が決めた条件は、互いに恋愛感情を強要しないという意味だったはずだ」
「それは」
「違うのか」
「……違いません」
「なら、なぜ無理だと決める」
また。
聞かれた。
分からない。
いや。
分かっている。
怖いからだ。
「だって」
私は自分の手を見る。
「そんな簡単なものじゃないでしょう」
「何が」
「人を好きになることです」
「ああ」
「まして」
喉が苦しい。
「私みたいな女を」
アレクシス公爵の表情が変わった。
ほんの少し。
でも。
分かった。
「今、何と言った」
「え?」
「もう一度言え」
「嫌です」
「なぜだ」
「何となく嫌な予感がするからです」
「言え」
「命令しないでください」
「なら頼む」
「それも嫌です」
「リリアーヌ」
声が。
低い。
本当に。
怒っている?
「私みたいな女を好きになる人なんて、そう簡単には」
「黙れ」
止まった。
「……公爵様?」
「二度とそれを言うな」
「何をです?」
「私みたいな女、などと」
怒っている。
本当に。
はっきり分かった。
「でも」
「でもではない」
「事実でしょう」
「何が事実だ」
「アルベルト殿下にも言われました」
「知っている」
「女として魅力がないって」
「その男が馬鹿だっただけだ」
「公爵様!」
「事実だ」
「王太子殿下ですよ!」
「だから何だ」
この人。
本当に。
怖いものがないのだろうか。
「それに」
私は少しだけ意地になった。
「父にも捨てられました」
「ああ」
「妹にも」
「奪われたな」
「なら」
「だから何だ」
「だから!」
私は立ち上がった。
「私は誰かに愛されるような女じゃないんです!」
言った。
言ってしまった。
部屋が。
静かになった。
ハロルドもいる。
老神官もいる。
でも。
誰も喋らない。
アレクシス公爵だけが。
私を見ていた。
「それを」
彼が言った。
「誰が決めた」
「……」
「王太子か」
「……」
「父親か」
「……」
「妹か」
「……」
「それとも」
彼が。
ゆっくり立ち上がる。
「お前自身か」
答えられない。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「お前は面倒だ」
「知っています」
「頑固だ」
「あなたほどではありません」
「すぐ我慢する」
「あなたもです」
「人の心配ばかりする」
「それもあなたに言われたくありません」
「では」
アレクシス公爵が。
一歩近づいた。
「なぜ、そんな女を誰も好きにならないと思う」
胸が。
大きく鳴った。
「それは」
「答えろ」
「分かりません」
「なら勝手に決めるな」
「でも!」
「お前は昨日も勝手に決めた」
「何をです?」
「俺たちの間には何もないと」
心臓が。
また。
大きな音を立てた。
「それは公爵様も」
「ああ」
「ないと言いました!」
「ああ」
「なのにどうして今さら!」
「腹が立ったからだ」
「誰に!」
「自分に」
私は。
黙った。
アレクシス公爵が。
少し顔を逸らす。
「昨日」
彼が言う。
「お前に聞かれた」
『私たちには、そんなもの。そうですよね?』
覚えている。
忘れられるわけがない。
「俺は、ないと答えた」
「はい」
「あれは嘘だ」
息が。
止まった。
「……嘘?」
「ああ」
「あなたが?」
「ああ」
「嘘をついた?」
「ああ」
信じられなかった。
「どうして」
「分からない」
「また?」
「ああ」
「そこは考えてください!」
「考えた」
「なら!」
「怖かった」
止まった。
アレクシス公爵が。
怖かった?
「何がです?」
「答えた後のことが」
「……」
「もし俺が」
彼が。
少しだけ。
言葉に詰まる。
珍しい。
本当に。
「もし、何かあると言って」
「ああ」
「お前が困った顔をしたら」
胸が痛くなった。
「嫌だった」
低い声。
不器用で。
だから。
余計に。
苦しい。
「公爵様」
「なんだ」
「それは」
聞きたい。
でも。
聞けない。
何かあるって。
何?
私を好き?
愛してる?
そんなこと。
聞けるわけがない。
「だから」
アレクシス公爵が言う。
「無理だと決めるな」
「でも」
「今すぐ愛があると言っているわけではない」
少し。
胸が痛んだ。
馬鹿。
何を期待していたの。
「そうですよね」
「ああ」
「分かっています」
「だが」
「まだあるんですか」
「ああ」
彼は。
私を見る。
「ないとも言わない」
今度こそ。
何も言えなかった。
ずるい。
本当に。
ずるい。
「……それ」
「何だ」
「ずるいです」
「またか」
「今までで一番ずるいです」
「そうか」
「褒めてません!」
「知っている」
少し。
笑ってしまった。
悔しい。
泣きそうなのに。
笑ってしまう。
「公爵様」
「なんだ」
「あなた、本当に面倒ですね」
「ああ」
「認めるんですか」
「お前もだ」
「知っています」
そこで。
ずっと黙っていたハロルドが。
静かに口を開いた。
「旦那様」
「何だ」
「私は、そろそろ退室してもよろしいでしょうか」
「なぜだ」
「これ以上は、老執事が聞いてよい内容ではないように思われます」
「ハロルドさん!」
「はい」
「最初から全部聞いていたでしょう!」
「職務でございますので」
「絶対楽しんでましたよね?」
「まさか」
「嘘!」
老神官が。
小さく笑った。
そちらも?
もう嫌。
◇
その日の午後。
私は。
契約書を見ていた。
一年間。
契約期間。
まだ。
ほとんど始まったばかり。
なのに。
なぜだろう。
終わりの日付が。
妙に。
気になる。
「何を見ている」
後ろから声。
アレクシス公爵。
私は慌てて契約書を閉じた。
「何でもありません」
「嘘だな」
「今日は見逃してください」
「嫌だ」
「どうして!」
「気になる」
「あなた、最近そればかりですね」
「ああ」
「開き直りました?」
「ああ」
本当に。
面倒。
「契約終了日を見ていました」
正直に言った。
アレクシス公爵の顔が。
わずかに硬くなった。
「なぜ」
「何となく」
「嘘だ」
「では公爵様は?」
「何が」
「気になりませんか」
「何がだ」
「一年後」
言った。
「私たち、どうなるんでしょうね」
沈黙。
長い。
「契約が終わる」
「それだけ?」
また。
聞いてしまった。
馬鹿。
どうして。
すぐ聞くの。
「契約上は」
アレクシス公爵が言う。
「お前は自由になる」
「はい」
「俺も」
「はい」
「呪いが解けていれば」
「……」
「もうお前を縛る理由はない」
正しい。
全部。
正しい。
なのに。
胸が。
痛い。
「そうですね」
「ああ」
「では」
私は笑った。
「一年後は別々ですね」
アレクシス公爵が。
私を見る。
「……そうなる」
返事が。
少し遅かった。
それだけで。
私は。
また期待した。
本当に。
馬鹿。
「分かりました」
契約書を閉じる。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「お前は」
彼が。
少し迷う。
「一年後」
「はい」
「どこへ行く」
思っていなかった質問。
「分かりません」
「実家には」
「戻りません」
即答。
「では」
「どこかで仕事を探します」
「何の」
「何でもできます」
「知っている」
その言葉に。
少しだけ。
胸が温かくなる。
「王都でも」
「駄目だ」
「はい?」
「王都は駄目だ」
「どうして!」
「王太子がいる」
「関係ありません!」
「ある」
「ありません!」
「では北方へ」
「あなたの領地でしょう!」
「ああ」
「それ、契約が終わっても近くに置く気じゃないですか!」
アレクシス公爵が。
黙った。
「……公爵様?」
「別に」
「今、何か考えましたよね」
「何でもない」
「私の真似ですか?」
「ああ」
「もう!」
でも。
少しだけ。
嬉しかった。
本当に。
少しだけ。
◇
その夜。
ベッドに入る。
昨日と同じ。
でも。
少し違う。
「公爵様」
「なんだ」
「今日は痛み」
「まだない」
「そうですか」
「ああ」
「では」
少し迷った。
「抱かなくても大丈夫ですね」
言った。
言ってから。
やっぱり。
言い方が恥ずかしい。
アレクシス公爵が黙る。
「どうしました?」
「何でもない」
「本当に?」
「ああ」
「なら」
私は背中を向けた。
「おやすみなさい」
「ああ」
静か。
遠い。
昨日は。
背中に彼がいた。
腕があった。
心臓の音が聞こえた。
今夜は。
何もない。
それが。
寂しい。
「……」
「……」
「公爵様」
「なんだ」
「眠れます?」
「分からない」
「私もです」
「ああ」
それから。
長い沈黙。
「リリアーヌ」
「はい」
「近くに来い」
心臓が。
大きく鳴った。
「呪いですか?」
聞いた。
彼は。
少し黙った。
「違う」
息が止まる。
「では」
聞く。
怖い。
でも。
聞きたい。
「何ですか?」
長い。
本当に。
長い沈黙。
「……寒い」
私は。
思わず。
笑った。
「嘘ですね」
「ああ」
「認めるんですか?」
「ああ」
「下手です」
「知っている」
「では、本当は?」
「言わない」
「どうして」
「まだ」
「また、その言葉」
「ああ」
今はまだ。
何度も聞いた。
でも。
前ほど。
怖くなかった。
「では」
私は。
少しだけ。
彼のほうへ近づいた。
「これで?」
「ああ」
「まだ遠い?」
「少し」
「贅沢ですね」
「ああ」
もう少し。
近づく。
手を伸ばせば。
触れられる距離。
「公爵様」
「なんだ」
「一年後」
「ああ」
「まだ考えなくていいですか」
彼が。
少しだけ。
私のほうを向いた。
「今はまだな」
私は。
笑った。
「ずるいです」
「ああ」
「今度は認めるんですね」
「ああ」
その夜。
私たちは。
触れなかった。
でも。
昨日より。
ずっと近くで眠った。
そして。
眠りに落ちる直前。
私は。
気づかなかった。
アレクシス公爵が。
枕元の小さな暦に目を向け。
一年後の日付を。
長い間。
見つめていたことに。




