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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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16/21

第15話 今夜から、同じベッドで眠るだけでは足りないそうです

「今までのように、同じベッドで眠るだけでは、もう抑えられません」


 老神官が言った。


 私は。


 しばらく何も言えなかった。


「……では」


 隣を見る。


 アレクシス公爵も黙っている。


「どうすればいいんですか?」


「より強い接触が必要になります」


「より強い」


「はい」


「接触」


「はい」


 老神官は穏やかに頷いた。


 私は黙った。


 もう少し。


 他の言い方はなかったのだろうか。


「具体的にお願いします」


 言ったのはアレクシス公爵だった。


 声が低い。


「手を握る。腕を触れ合わせる。あるいは、身体を密着させる」


 密着。


 私は聞こえなかったふりをした。


「どこまで必要だ」


「それは分かりません」


「分からない?」


「呪いの進行には個人差がございますので」


 老神官が続ける。


「最初は手を握るだけで十分かもしれません。しかし、それで痛みが消えなければ、さらに距離を縮める必要があります」


「……」


「……」


 気まずい。


 非常に。


 気まずい。


「つまり」


 私は確認した。


「今夜、公爵様に痛みが出たら」


「はい」


「まず手を握る」


「はい」


「それで駄目なら?」


「より近くに」


「それでも駄目なら?」


「さらに」


「……」


 聞かなければよかった。


「限界は?」


 アレクシス公爵が聞いた。


「何の」


 思わず私が聞き返す。


 彼は老神官を見たままだ。


「どこまで接触しても効果がなければ、諦めるべきかという意味だ」


「諦める?」


 嫌な言葉だった。


「何をです?」


「呪いを抑えることを」


「それは」


「リリアーヌ」


「嫌です」


「まだ何も」


「嫌です」


 私はアレクシス公爵を見る。


「諦めるなんて言わないでください」


「だが」


「だが?」


「お前には契約がある」


「あります」


「同意なく触れない」


「はい」


「限度は必要だ」


 真面目だった。


 本当に。


 この人は。


 こんなときまで。


 私との約束を守ろうとする。


「必要になったら」


 私は言った。


「そのとき考えます」


「何を」


「どこまでなら大丈夫か」


「お前は」


「今決めろと言われても無理です!」


「怒るな」


「怒っていません!」


「怒っている」


「あなたがすぐ諦めるとか言うからでしょう!」


「すぐではない。十年だ」


「そういうところです!」


 老神官が。


 少しだけ笑った気がした。


「何か?」


「いいえ」


 絶対に何か思っている。


 でも。


 聞くのはやめた。


     ◇


 その日の夕食。


 私は。


 ほとんど味が分からなかった。


「食べないのか」


「食べています」


「さっきから同じ人参を三回刺している」


「見ないでください」


「目の前にいる」


「それ、もう禁止にしません?」


「なぜだ」


「腹が立つからです」


 また。


 人参を刺す。


 食べる。


 味がしない。


「緊張しているのか」


「してません」


「嘘だな」


「……しています」


「そうか」


「公爵様は?」


「何が」


「緊張」


「していない」


「本当に?」


「ああ」


 腹が立つ。


「そうですか」


「ああ」


「余裕なんですね」


「そうでもない」


「今、していないって言いましたよね?」


「緊張はしていない」


「じゃあ何です?」


 アレクシス公爵が黙る。


「何ですか?」


「面倒だと思っている」


「私が?」


「俺が」


「……」


 少し意外だった。


「どういう意味ですか」


「今夜、痛みが出ない可能性もある」


「はい」


「出たとしても、手を握るだけで済むかもしれない」


「そうですね」


「だが」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


「もし、それ以上必要になった場合」


 心臓が。


 少し速くなる。


「俺がお前に触れれば、お前が嫌がるかもしれない」


「……」


「それが面倒だ」


「そこ?」


「ああ」


「呪いが悪化することより?」


「ああ」


「自分が苦しむことより?」


「ああ」


「私に嫌われることのほうが?」


 言った。


 言ってから。


 しまったと思った。


 アレクシス公爵も黙った。


「……」


「……」


「今のは忘れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「お前の真似だ」


「何回目ですか、それ!」


「知らん」


「絶対数えてますよね?」


「ああ」


「認めるんですか!」


 少し笑った。


 でも。


 胸の奥は。


 まだざわざわしていた。


「嫌いません」


 私は言った。


「何が」


「必要があって触れられたくらいで」


 アレクシス公爵が私を見る。


「嫌がるかもしれませんけど」


「どちらだ」


「そこは別です!」


「難しいな」


「女心です」


「知らん」


「でしょうね!」


 でも。


 少しだけ。


 空気が軽くなった。


     ◇


 夜。


 ベッドに入る。


 いつもの広いベッド。


 でも。


 今夜は。


 妙に狭く感じた。


 私と。


 アレクシス公爵。


 間には。


 枕が一つ。


「……」


「……」


「公爵様」


「なんだ」


「まだ痛くないですか」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「少しでも変だったら言ってください」


「ああ」


「我慢しないで」


「ああ」


「約束ですよ」


「ああ」


「返事が軽いです」


「では何と言えばいい」


「もっと真剣に」


 いつものやり取り。


 少し安心した。


「分かった」


 今度は。


 真面目な声だった。


「我慢しない」


「はい」


 私は目を閉じた。


 眠ろう。


 何も起きないかもしれない。


 そう思った。


 十分。


 二十分。


 どれくらい経っただろう。


「……っ」


 小さな息。


 私は目を開けた。


「公爵様?」


「寝ろ」


「痛いんですか」


「問題ない」


「その言葉は禁止です!」


「忘れていた」


「嘘!」


 身体を起こす。


 暗闇の中。


 アレクシス公爵が胸元を押さえていた。


「いつから?」


「少し前」


「どうして言わないんです!」


「眠っていると思った」


「起きてました!」


「そうか」


「手」


 私は差し出した。


「握ってください」


 彼が。


 一瞬。


 迷った。


「公爵様」


「ああ」


 手が重なる。


 指が絡む。


 温かい。


「どうです?」


「……」


「公爵様?」


「少しましだ」


「消えない?」


「ああ」


 胸が。


 嫌な音を立てる。


「では」


 私は彼の手を。


 両手で包んだ。


「これなら?」


「変わらない」


「じゃあ」


 考える。


 老神官の言葉。


『腕を触れ合わせる』


「腕」


「何だ」


「腕を」


 私は彼の腕に。


 自分の腕を絡めた。


 近い。


 肩が触れる。


 寝間着越しに。


 熱が分かる。


「どうです?」


「……少し」


「少し?」


「ましだ」


「でも消えない」


「ああ」


 その顔。


 苦しそう。


 嫌だ。


「もっと近く」


「リリアーヌ」


「何です」


「無理するな」


「してません」


「嘘だ」


「あなたに言われたくありません!」


 思わず怒鳴った。


「私は今」


 声が震える。


「あなたが苦しんでるほうが嫌なんです」


「……」


「だから」


 言った。


「もう少し近づいてください」


 アレクシス公爵が黙る。


「公爵様」


「後悔するぞ」


「何を」


「言ったことを」


「今さらです」


「本当に?」


「しつこいです!」


 彼が。


 少しだけ。


 近づいた。


 身体が触れる。


 肩。


 腕。


 腰。


 それでも。


 彼の呼吸は苦しそうだった。


「駄目?」


「ああ」


「もっと?」


 返事がない。


「公爵様」


「もういい」


「よくありません」


「十分だ」


「十分じゃない!」


 思わず。


 彼の寝間着を掴んだ。


「だって痛いんでしょう!」


「ああ」


「なら!」


「これ以上は」


「何です?」


「抱くしかない」


 静かになった。


 完全に。


 私は。


 何も言えなかった。


「……」


「……」


 抱く。


 いや。


 抱きしめるという意味。


 分かっている。


 でも。


 心臓が。


 うるさい。


「やめるか」


 アレクシス公爵が言った。


「痛いままで?」


「ああ」


「嫌です」


「だが」


「嫌です」


「リリアーヌ」


「もう」


 私は目を閉じた。


「どうすればいいんですか」


「俺が」


 彼の声が低くなる。


「後ろから抱く」


「……」


「そのほうが、お前の顔を見なくて済む」


「どうして顔を見たくないんです?」


「今は聞くな」


「気になります」


「頼むから」


 声が。


 本当に困っている。


「今だけは黙れ」


「……分かりました」


 私は。


 背中を向けた。


 心臓が。


 壊れそう。


 後ろに。


 アレクシス公爵がいる。


 衣擦れの音。


 少しずつ。


 近づく。


「触れるぞ」


「……はい」


「嫌なら言え」


「はい」


 腕が。


 私の腰に回った。


「っ」


「嫌か」


「違います」


「本当に?」


「驚いただけです!」


「そうか」


「はい」


 背中に。


 彼の胸が触れる。


 ぴったり。


 本当に。


 ぴったり。


 逃げ場がない。


 いや。


 逃げたいわけではない。


 それが一番困る。


「公爵様」


「喋るな」


「まだ何も言ってません」


「分かる」


「何が」


「お前はこういうとき、余計なことを言う」


「失礼ですね!」


「静かにしろ」


「……はい」


 彼の腕。


 私の腰。


 背中に。


 彼の体温。


 近い。


 近すぎる。


 今まで何度も。


 眠っている間に抱きついた。


 抱きしめられたこともある。


 でも。


 起きたまま。


 互いに分かっていて。


 こんなふうに。


 身体を重ねるのは。


 初めてだった。


「……公爵様」


「喋るなと言った」


「でも」


「何だ」


「痛みは?」


 沈黙。


「消えた」


「本当に?」


「ああ」


 よかった。


 心から。


 そう思った。


「じゃあ」


「動くな」


「まだ何もしてません!」


「動こうとした」


「少し楽な姿勢に」


「駄目だ」


「どうして」


「このままでいい」


 腕に。


 少しだけ力が入る。


 私は。


 ますます動けなくなった。


「……公爵様」


「なんだ」


「心臓」


 後ろから。


 どくどく。


 ものすごく速い音がする。


「すごく速いです」


「知っている」


「また痛くなった?」


「違う」


「呪いですか?」


「違う」


「では何ですか?」


 長い。


 沈黙。


 私は待った。


 どうして。


 答えないのだろう。


「公爵様?」


「君だ」


 息が。


 止まった。


「……え?」


「君がいるからだ」


「それは」


「もう喋るな」


「でも」


「頼む」


 また。


 その声。


 心底。


 困った声。


「今夜は」


 アレクシス公爵が。


 私の腰を抱く腕に。


 少しだけ力を込める。


「これ以上、俺を困らせるな」


 何を。


 どう。


 困らせているのか。


 聞きたかった。


 でも。


 聞けなかった。


 私の心臓まで。


 彼と同じくらい。


 速くなっていたから。


「……分かりました」


 小さく答える。


 それから。


 少しだけ。


 本当に。


 少しだけ。


 背中を預けた。


 アレクシス公爵の身体が。


 一瞬。


 固くなる。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「今、動いた」


「これくらいはいいでしょう」


「駄目だ」


「どうしてです?」


「……」


「公爵様」


「寝ろ」


「逃げましたね?」


「寝ろ」


「図星?」


「リリアーヌ」


「はい」


「本当に」


 低い声。


「寝てくれ」


 私は。


 それ以上。


 何も言わなかった。


 でも。


 眠れるわけがない。


 背中には。


 彼の胸。


 腰には。


 彼の腕。


 耳には。


 速い心臓の音。


 そして。


『君だ』


 その一言が。


 何度も。


 何度も。


 頭の中で繰り返される。


 呪いではない。


 痛みでもない。


 私だから。


 彼の心臓が速くなる。


 そんなこと。


 どう受け止めればいいのか。


 私はまだ。


 知らなかった。


 ただ。


 その夜。


 私たちは二人とも。


 ほとんど眠れなかった。


 それでも。


 どちらも。


 朝まで。


 離れようとはしなかった。


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