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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第14話 冷徹公爵様に、ドレスの背中の紐を結ばれることになりました

「無理」


 朝。


 私は鏡の前で呟いた。


「絶対に無理」


 もう一度言った。


 当然。


 誰も答えない。


 なぜなら。


 今、部屋には私一人しかいないからだ。


「どうして、こんな日に限って……」


 鏡の中。


 私は薄い下着の上から、淡い青色の昼用ドレスを身につけていた。


 正確には。


 身につけようとしていた。


 背中が。


 大きく開いたままだ。


 左右に伸びた細い紐。


 それを後ろで交差させ、きちんと締めなければならない。


 普段ならエマがやってくれる。


 でも今朝。


 エマの妹が急病で倒れたらしく、私は自分から休むように言った。


『でも、リリアーヌ様のお支度が』


『自分でできるわ』


 言った。


 確かに言った。


 自信満々に。


「できないじゃない……」


 私は鏡の中の自分を睨んだ。


 右手を後ろへ回す。


 紐を掴む。


 左手も。


「あと少し……」


 届かない。


「もうちょっと」


 身体を捻る。


「いたっ!」


 肩が痛い。


 駄目。


 これは。


 どう考えても一人では無理。


「……ハロルドさん?」


 いや。


 駄目だ。


 男性だ。


「別の侍女を」


 呼べばいい。


 そう思った。


 でも。


 この屋敷に来たばかりの私が。


 朝早くから。


 知らない侍女を呼びつけて。


『背中の紐を結んで』


 と言うのも。


 何となく嫌だった。


 変なところで気を遣う。


 自分でも分かっている。


 でも。


 昔からそうだ。


 王太子妃になる女が、使用人に余計な負担をかけてはいけない。


 そう教えられてきた。


「自分で何とか」


 もう一度。


 手を後ろに回す。


「……っ」


 駄目。


「人間の腕って、どうして後ろにもっと曲がらないのかしら」


「曲がったら気持ち悪いだろう」


「そうですね」


 答えて。


 三秒。


 固まった。


「……」


「……」


 ゆっくり。


 振り返る。


 寝室と衣裳部屋を繋ぐ扉のところに。


 アレクシス公爵が立っていた。


「……」


「……」


「出ていってください!」


 叫んだ。


「なぜだ」


「なぜじゃありません!」


 私は慌てて胸元を押さえた。


 いや。


 前は開いていない。


 問題は背中。


 でも。


 何となく。


 全部隠したくなる。


「ノックは!?」


「した」


「嘘です!」


「三回」


「聞こえませんでした!」


「お前は時々そうだな」


「そういう問題ではありません!」


 アレクシス公爵が私を見る。


 正確には。


 私の背中を。


「閉まっていない」


「だから出ていってと言っているんです!」


「だが」


「だが?」


「そのままでは朝食に行けない」


「分かっています!」


「ではどうする」


「考えます!」


「どれくらい」


「知りません!」


「もう十分考えていたように見えたが」


「見てたんですか!」


「今来た」


「なら見ないでください!」


「無理だ」


「どうして!」


「目の前にいる」


「それ、何度目ですか!」


「知らん」


 本当に。


 この人。


 腹が立つ。


「とにかく出てください」


「ああ」


 素直に。


 彼が扉へ向き直る。


 私は少し安心した。


 でも。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「誰を呼ぶ」


「え?」


「紐を結ぶ者だ」


「それは」


 答えられなかった。


「エマは?」


「今日は休みです」


「なぜ」


「妹さんが病気だそうです」


「別の侍女を呼べ」


「……」


「何だ」


「今から呼ぶのも」


「なぜ嫌がる」


「嫌がってはいません」


「なら呼ぶ」


「待ってください!」


 アレクシス公爵が振り返る。


 また。


 見られた。


「だから見ないでください!」


「難しいな」


「何がですか!」


「呼べと言えば止める。見るなと言いながら呼び止める」


「……」


 その通りだった。


 腹が立つ。


 でも。


 その通り。


「では、どうしたい」


 聞かれた。


 困った。


 本当に。


 どうしたいのだろう。


「……公爵様」


「なんだ」


「紐」


「ああ」


「結べます?」


 言った。


 言ってしまった。


 アレクシス公爵が。


 黙った。


「……」


「……」


「できる」


「本当に?」


「ああ」


「どうして?」


「鎧の紐を結ぶ」


「それとドレスは違うでしょう!」


「紐は紐だ」


「乱暴!」


「なら別の者を呼ぶ」


「待って!」


 また。


 呼び止めた。


 最悪。


 アレクシス公爵が私を見る。


 何も言わない。


 でも。


 目が。


 何か言っている。


「何ですか」


「別に」


「絶対何か思っています」


「面倒な女だと思った」


「言った!」


「聞いたからだ」


「普通は少し隠してください!」


「嘘は嫌いだ」


「知っています!」


 私は鏡を見る。


 背中。


 紐。


 それから。


 アレクシス公爵。


 夫。


 契約上の。


 毎晩。


 同じベッドで眠っている。


 手も握った。


 抱きついたこともある。


 抱きしめられたことも。


 それなのに。


 ドレスの紐を結んでもらうのは。


 なぜこんなに恥ずかしいのだろう。


「……触らないでくださいね」


 言った。


「ああ」


「肌に」


「ああ」


「絶対」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「返事が軽いです」


「ではどう答えればいい」


「もっと真剣に」


 アレクシス公爵が。


 少し黙る。


 そして。


「お前が嫌がることはしない」


 低い声で。


 言った。


 また。


 そういう言い方。


「……ずるいです」


「またか」


「またです」


     ◇


 私は鏡の前に立った。


 アレクシス公爵が。


 背後に立つ。


 近い。


 近すぎる。


「公爵様」


「なんだ」


「近いです」


「紐に届かない」


「もう少し離れても」


「無理だ」


「そうですか」


「ああ」


 心臓が。


 うるさい。


 鏡の中に。


 私と。


 アレクシス公爵が映っている。


 夫婦。


 そう見える。


 ……何を考えているの。


「始めるぞ」


「はい」


 紐が。


 少し動いた。


 背中に。


 彼の指が近づく。


 触れていない。


 本当に。


 触れていない。


 でも。


 分かる。


 すぐそこに。


 彼の指がある。


「……っ」


「どうした」


「何でもありません」


「動くな」


「はい」


 また。


 紐が引かれる。


 ドレスが身体に沿う。


 少しずつ。


 締まっていく。


「苦しくないか」


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


「さっき禁止した言葉を使ったな」


「え?」


「大丈夫」


 覚えていた。


「今は本当に大丈夫です」


「そうか」


 また。


 指が動く。


 右。


 左。


 紐を交差させる。


 意外と。


 丁寧。


「公爵様」


「なんだ」


「上手ですね」


「鎧より簡単だ」


「やっぱり同じ扱いなんですね」


「違うのか」


「全然違います!」


 少し。


 笑った。


 その瞬間。


 背中に。


 ほんのわずか。


 何かが触れた。


「っ!」


 身体が跳ねた。


 アレクシス公爵の手が止まる。


「触ったか」


「少し」


「すまない」


 すぐに。


 言った。


 ものすごく。


 真剣な声で。


「いえ」


「嫌だったか」


「……」


 即答できなかった。


 嫌。


 ではなかった。


 だから。


 困る。


「リリアーヌ」


「嫌では」


 声が小さくなる。


「ありませんでした」


 鏡の中で。


 アレクシス公爵と目が合った。


 灰銀色の瞳。


 すぐ。


 逸らした。


 無理。


 見ていられない。


「でも」


「ああ」


「今のは事故です」


「ああ」


「契約違反ではありません」


「ああ」


「何か言ってください」


「全部聞いた」


「そうじゃありません!」


 背後で。


 少しだけ。


 彼の胸が動いた。


「今、笑いましたね」


「笑っていない」


「絶対に笑いました!」


「動くな」


「誤魔化した!」


「結べない」


「……はい」


 私は黙る。


 また。


 紐が引かれる。


 でも。


 さっきより。


 意識してしまう。


 背中。


 指。


 距離。


 彼の呼吸。


 近い。


「公爵様」


「なんだ」


「呼吸」


「している」


「分かります!」


「ならなぜ聞く」


「近いんです」


「仕方ない」


「そうですけど」


 また。


 沈黙。


 長い。


 妙に。


 長い。


「……まだですか」


「もう少し」


「さっき鎧より簡単だと」


「黙れ」


「どうして怒るんです?」


「怒っていない」


「じゃあ」


「集中している」


「何に?」


「お前に触れないことに」


 心臓が。


 一度。


 大きく鳴った。


「……そんなに難しいですか」


 聞いてしまった。


 アレクシス公爵の手が。


 止まった。


 まずい。


 何を聞いているの。


「忘れてください」


「嫌だ」


「今のは本当に!」


「難しい」


 低い声。


「え?」


「触れないようにするのは」


 喉が。


 少し乾いた。


「どうして」


 また。


 聞いてしまった。


 馬鹿。


 私は。


 本当に。


 馬鹿。


 長い沈黙。


「お前が」


 アレクシス公爵が。


 ゆっくり言った。


「近すぎるからだ」


 意味が。


 分からない。


 いや。


 分かりたくない。


「それは」


「終わった」


 急に。


 紐が結ばれた。


 彼が一歩。


 離れる。


 冷たい空気が。


 背中に戻る。


「……終わったんですか」


「ああ」


「そうですか」


「ああ」


「ありがとうございます」


「ああ」


 鏡を見る。


 綺麗に。


 結ばれている。


 本当に。


 上手。


「公爵様」


「なんだ」


「やっぱり上手ですね」


「ああ」


「他の女性にもやったことが?」


 聞いて。


 すぐ。


 後悔した。


 どうしてそんなことを聞くの。


 アレクシス公爵が。


 私を見る。


「ない」


「……そうですか」


「ああ」


「聞いただけです」


「ああ」


「別に気にしてません」


「ああ」


「本当に」


「ああ」


「その返事、腹が立ちます!」


「なら何と言えばいい」


「知りません!」


 また。


 こうなる。


 本当に。


 面倒。


     ◇


 朝食の席。


 ハロルドが。


 私を見る。


 アレクシス公爵を見る。


 また私を見る。


「何ですか」


「いいえ」


「絶対何か思っています」


「旦那様」


「何だ」


「本日は随分お早くリリアーヌ様のお部屋へ」


「ハロルドさん!」


「はい」


「それ以上言わないでください!」


「かしこまりました」


 絶対。


 楽しんでいる。


「ただ」


「まだあるんですか」


「リリアーヌ様のお召し物の背中の紐が、通常とは少し違う結び方でございましたので」


 私は止まった。


 アレクシス公爵も。


 少し止まった。


「どう違うんです?」


「騎士が鎧の革紐を結ぶ際の結び方でございます」


「……」


「……」


 私は。


 ゆっくり。


 アレクシス公爵を見る。


「公爵様」


「なんだ」


「鎧と同じじゃないですか!」


「紐は紐だ」


「違うって言ったでしょう!」


「俺は違うとは言っていない」


「最低!」


 ハロルドが。


 咳払いをした。


「ですが」


「何です?」


「非常に丈夫でございます」


「褒めなくていいです!」


 アレクシス公爵が。


 ほんの少し。


 笑った。


「今!」


「笑っていない」


「笑いました!」


「証拠は?」


「私です!」


「証拠になっていない」


「またそれ!」


 腹が立つ。


 でも。


 笑ってしまった。


 昨日。


 舞踏会で。


 大勢の前に立った。


 その翌朝。


 夫に。


 ドレスの紐を結んでもらって。


 鎧と同じ結び方をされて。


 怒っている。


 こんな人生。


 想像したこともなかった。


 それなのに。


 前より。


 ずっと。


 息がしやすい。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「午後」


「はい」


「客が来る」


「誰です?」


「北方神殿の調査団だ」


 空気が。


 少し変わった。


 私は姿勢を正す。


「呪いの?」


「ああ」


「新しいことが分かったんですか」


「おそらく」


 アレクシス公爵の表情が。


 わずかに硬くなる。


「何が」


 聞いた。


「まだ知らん」


「でも」


「ただ」


 彼は。


 少し黙った。


「対となる者について、新しい記録が見つかったらしい」


「私のこと?」


「ああ」


 胸が。


 妙にざわつく。


「どんな記録ですか」


「午後になれば分かる」


「そうですね」


「ああ」


 でも。


 なぜだろう。


 嫌な予感がした。


 そして。


 その予感は。


 当たることになる。


 午後。


 北方神殿から来た老神官は。


 私とアレクシス公爵を見て。


 最初にこう言った。


「対となる者が見つかったのなら、もう時間はありません」


 私は息を止めた。


「どういう意味です?」


 老神官は。


 静かに答えた。


「呪いは、今夜から次の段階へ進みます」


 そして。


「今までのように、同じベッドで眠るだけでは、もう抑えられません」


 その言葉に。


 私は。


 隣のアレクシス公爵を見た。


 彼も。


 私を見ていた。


 触れない約束。


 その約束が。


 初めて。


 本当に試される夜が。


 来ようとしていた。


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