第13話 冷徹公爵様と、初めて夫婦として舞踏会に出ることになりました
「嫌です」
「まだ何も言っていない」
「分かります」
「何がだ」
「その招待状でしょう?」
昼食後。
アレクシス公爵の執務室。
私はソファに座り、彼が手にしている豪華な封筒を睨んでいた。
金色の縁取り。
深紅の封蝋。
王都でも有数の名門貴族、ロズウェル侯爵家の紋章。
嫌な予感しかしない。
「今夜、舞踏会がある」
「行きません」
「そうか」
あっさり。
アレクシス公爵は招待状を机に置いた。
「……それだけですか?」
「ああ」
「無理に連れていかないんですか?」
「行きたくないのだろう」
「そうですけど」
「なら行く必要はない」
「……」
困った。
なぜだろう。
もっと強引に言われると思っていた。
妻だから来い。
契約だ。
必要だ。
そう言われたら、仕方なく行くこともできたのに。
「何だ」
「何でもありません」
「またか」
「はい。またです」
アレクシス公爵は書類に目を戻した。
本当に。
もう話を終わらせたらしい。
私は招待状を見る。
ロズウェル侯爵家。
当然、知っている。
昨日までなら。
私は王太子アルベルトの婚約者として、必ず出席していた。
主催者に挨拶をする。
外国の賓客に声をかける。
アルベルトが誰と何曲踊ったか気を配る。
若い令嬢同士の小さな争いを、さりげなく収める。
たぶん。
私は舞踏会が好きではなかった。
でも。
そんなことを考えたことすらなかった。
「公爵様は?」
「何だ」
「行くんですか?」
「いや」
「どうして?」
「俺も嫌だからだ」
「……それでいいんですか?」
「ああ」
「公爵ですよね?」
「ああ」
「社交は?」
「必要最低限でいい」
「そんなものですか」
「そんなものだ」
羨ましい。
今までの私は。
行きたくないから行かない、なんて。
考えたこともなかった。
「ただ」
アレクシス公爵が言った。
「お前と結婚したことは、いずれ公表する必要がある」
胸が少し鳴った。
「契約結婚だということも?」
「それは必要ない」
「でも」
「俺たちの契約は他人には関係ない」
その言葉に。
昨日の王宮で、アルベルト殿下が契約結婚だと知っていたことを思い出した。
「……どうして殿下は知っていたんでしょう」
「ああ」
「私たちが契約だということ」
「調べている」
「分かっていないんですか?」
「まだな」
まだ。
という言葉に。
少しだけ心臓が反応した。
馬鹿。
別の意味でしょう。
「ただ、契約書の内容そのものは知られていない」
「そうですか」
「ああ」
「なら」
私は招待状を見る。
「今夜、行きます」
アレクシス公爵が顔を上げた。
「嫌なのだろう」
「嫌です」
「なら」
「でも、逃げたと思われるのはもっと嫌です」
「誰に」
「皆に」
「皆とは?」
「……皆です」
「曖昧だな」
「女性には、そういうものがあるんです」
「分からん」
「でしょうね」
私は招待状を手に取った。
「たぶん今夜、皆、私を見ます」
「ああ」
「王太子に捨てられて、翌日に冷徹公爵と結婚した女」
「俺は冷徹なのか」
「そこですか?」
「気になった」
「社交界では氷獄公爵と呼ばれています」
「知っている」
「なら聞かないでください」
「俺は別に氷ではない」
「そうですね」
「分かるのか?」
「はい」
「なぜ」
「氷は枕を投げ返しません」
沈黙。
「……忘れろ」
「あら」
私は少し笑った。
「公爵様にも忘れてほしいことがあるんですね」
「ある」
「私は絶対に忘れません」
「性格が悪いな」
「誰に似たんでしょうね」
今度こそ。
彼の口元が。
本当に少しだけ緩んだ。
◇
「無理です」
数時間後。
私は鏡の前で言った。
「何がでございますか?」
背後に立つ侍女が尋ねる。
この屋敷へ来てから私の身の回りを担当してくれている若い侍女で、名前をエマという。
「目立ちすぎます」
「今夜は目立つ必要がございます」
「どうして?」
「旦那様の奥様ですから」
「契約上のです」
「はい?」
「……何でもないわ」
危ない。
契約のことは秘密なのだ。
鏡の中。
そこにいる自分を見た。
銀白色のドレス。
派手すぎない。
でも。
身体の線が思っていたより綺麗に見える。
肩は薄いレースで覆われている。
首元には、小さな銀色の宝石。
「これ、高そうね」
「旦那様からでございます」
「え?」
私は宝石を見た。
「聞いていないわ」
「お伝えしなくてよいと」
「どうして?」
「旦那様に直接お尋ねくださいませ」
エマが笑っている。
絶対に何か知っている。
でも。
それ以上は教えてくれなかった。
「では参りましょう」
「待って」
「はい?」
「やっぱり」
怖い。
その一言が。
喉まで出かかった。
昨日。
王宮にはアレクシス公爵と行った。
でも。
今夜はもっと大勢いる。
昨日、婚約破棄の場にいた人間もいるだろう。
あのとき。
誰も助けなかった。
皆。
見ていた。
私がどう泣くのか。
どう惨めになるのか。
「リリアーヌ様」
エマが呼ぶ。
「ご気分が悪いのでしたら」
「大丈夫」
言ってから。
自分で嫌になった。
まただ。
大丈夫。
本当に便利な言葉。
「……違うわね」
「はい?」
「少し怖い」
初めて。
口に出した。
「でも、行くわ」
エマは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ優しく笑った。
「では、旦那様をあまりお待たせしないほうがよろしいかと」
「どうして?」
「先ほどから三度ほど、こちらを見に来ておりますので」
「三度?」
「はい」
「何をしに?」
「さあ」
「エマ」
「旦那様に直接お尋ねくださいませ」
この屋敷の人間。
みんな同じ。
◇
階段を下りる。
一段。
また一段。
玄関広間に。
アレクシス公爵がいた。
黒い正装。
いつも黒いけれど。
今夜は少し違う。
銀色の刺繍。
灰銀色の瞳。
長身。
ああ。
この人は。
本当に。
顔がいい。
いや。
何を考えているの、私。
階段の途中で。
彼がこちらを向いた。
止まった。
「……」
「……」
何?
どうして何も言わないの?
変?
ドレスがおかしい?
「公爵様」
「なんだ」
「何か言ってください」
「何を」
「知りません!」
この人。
本当に。
「似合っている」
「……」
「これでいいか」
「義務みたいに言わないでください!」
「本当に似合っている」
「……そういうの」
「なんだ」
「二回言われるほうが困ります」
「なぜだ」
「知りません!」
顔が熱い。
私は首元の宝石に触れた。
「これ」
「ああ」
「あなたから?」
「ああ」
「どうして言わなかったんです」
「必要ないと思った」
「普通は言います」
「そうなのか」
「そうです」
「覚えておく」
次もあるみたいな言い方。
また。
心臓が。
馬鹿。
「行くぞ」
彼が腕を差し出した。
私は少し迷って。
腕を絡めた。
「震えている」
「言わないでください」
「怖いか」
「少し」
「ああ」
「それだけ?」
「ああ」
「やっぱり励ましてくれないんですね」
「必要か?」
「少しくらい」
アレクシス公爵は考えた。
そして。
「嫌なら途中で帰る」
言った。
「え?」
「俺も帰る」
「でも」
「何だ」
「社交界へのお披露目でしょう?」
「また別の日にすればいい」
「……」
「お前が耐える必要はない」
胸の奥が。
痛いような。
温かいような。
「そういうことを」
「ああ」
「急に言わないでください」
「なぜだ」
「困ります」
「またか」
「またです」
◇
ロズウェル侯爵家の大広間。
馬車を降りた瞬間から。
視線を感じた。
痛いくらい。
扉が開く。
従僕が名前を告げる。
「グランツ公爵アレクシス・ヴァン・グランツ閣下、ならびにグランツ公爵夫人リリアーヌ様!」
ざわ。
本当に。
空気が揺れた。
皆。
私を見る。
昨日まで。
王太子の婚約者だった女。
捨てられた女。
その翌日。
別の男の妻になった女。
「顔を上げろ」
隣から。
低い声。
「……はい」
「下を見るな」
「でも」
「転ぶ」
「そういう理由ですか」
「他に必要か?」
少し笑った。
それだけで。
前を向けた。
「グランツ公爵閣下」
主催者のロズウェル侯爵夫妻が近づく。
「ご結婚、おめでとうございます」
「ああ」
短い。
短すぎる。
私は慌てて微笑んだ。
「ありがとうございます。突然のことで、皆様を驚かせてしまいました」
「いえいえ」
侯爵夫人が私を見る。
「それにしても、まさかお二人が」
その目。
悪意はない。
でも。
知りたい。
どうして?
いつから?
婚約破棄の前から?
もしかして不貞?
そんな疑問が。
目だけで分かる。
「十年間探した」
突然。
アレクシス公爵が言った。
「……はい?」
侯爵夫人が瞬きをする。
私もする。
「ようやく見つけた。それだけだ」
それだけ。
たった、それだけ。
でも。
周囲が。
またざわついた。
「公爵様」
私は小声で言う。
「なんだ」
「その言い方、誤解されます」
「何を」
「まるで十年間、私を探していたみたいに」
「探していた」
「呪いを解く人をでしょう!」
「結果としてお前だった」
「そういう問題では」
「事実だ」
もう。
何を言っても駄目。
そして。
今の会話すら。
近くの人には聞かれている。
明日には。
王都中に変な噂が広がりそう。
「リリアーヌ様」
知らない声だった。
振り向く。
若い男性。
栗色の髪。
柔らかな笑顔。
「突然失礼いたします。レオナルド・ファーレンと申します」
知っている。
伯爵家の次男。
王宮で何度か見た。
「もちろん存じております」
「光栄です」
彼は笑った。
そして。
「一曲、お相手いただけませんか?」
「え?」
思わず。
隣を見る。
アレクシス公爵は。
無表情だった。
「公爵閣下」
レオナルドが軽く頭を下げる。
「奥様を一曲、お借りしても?」
「……」
返事がない。
「公爵様?」
「何だ」
「聞かれていますよ」
「ああ」
「返事を」
「俺に聞くな」
「はい?」
「決めるのはリリアーヌだ」
意外だった。
「いいんですか?」
「なぜ俺に聞く」
「だって」
「お前が踊りたいなら踊れ」
無表情。
でも。
何だろう。
すごく。
機嫌が悪そう。
「では」
私はレオナルドを見る。
「一曲だけ」
「喜んで」
手を取られる。
その瞬間。
背中に。
ものすごく冷たい視線を感じた。
気のせい。
たぶん。
◇
「公爵夫人になられたとは、本当に驚きました」
曲が始まる。
レオナルドは踊りが上手だった。
「私も驚いています」
「ご本人が?」
「はい」
「それは面白い」
「笑わないでください」
「失礼しました」
彼は普通だった。
話しやすい。
明るい。
アレクシス公爵とは。
全然違う。
「でも」
レオナルドが少し声を落とす。
「以前より、ずっと楽しそうですね」
足が。
一瞬。
止まりかけた。
「私が?」
「はい」
「以前も笑っていましたよ」
「ええ。でも」
彼は少し困ったように笑う。
「怒られるかもしれませんが」
「何ですか」
「以前のあなたは、笑顔まで完璧すぎた」
胸が。
少し痛んだ。
「今は?」
「今は」
レオナルドが笑う。
「さっきから三回ほど、公爵閣下に本気で腹を立てています」
「見ていたんですか!」
「目立っています」
「そんな」
「でも」
少し優しい声だった。
「そのほうが、ずっと素敵です」
何も言えなかった。
そのとき。
曲が終わった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
レオナルドが私の手を軽く持ち上げる。
口づける。
貴族として。
普通の挨拶。
なのに。
ぱきん。
何かが割れる音がした。
全員。
振り向く。
アレクシス公爵が。
砕けたワイングラスを持っていた。
「……」
「……」
「公爵様?」
「何だ」
「手!」
ガラス。
血。
私は慌てて駆け寄った。
「何をしているんですか!」
「割れた」
「見れば分かります!」
「力を入れすぎた」
「どうして!」
「知らん」
「知らないわけないでしょう!」
私は彼の手を取った。
「血が出ています!」
「大したことはない」
「その言葉は禁止したはずです!」
「そうだったか」
「覚えていてください!」
周囲。
ものすごく見られている。
でも。
もうどうでもよかった。
「帰ります」
「そうか」
「治療します」
「必要ない」
「あります!」
「命令か?」
「はい!」
言った。
この国でもっとも恐れられている男に。
堂々と。
アレクシス公爵は。
少しだけ。
本当に少しだけ。
口元を緩めた。
「分かった」
周囲が。
またざわついた。
私は。
まだ知らなかった。
翌朝。
王都中で。
『氷獄公爵は妻にだけは逆らえない』
という噂が。
ものすごい勢いで広がることを。
◇
帰りの馬車。
私はアレクシス公爵の手に包帯を巻いていた。
「動かないでください」
「動いていない」
「さっき動きました」
「馬車が揺れた」
「言い訳ですね」
「ああ」
「認めるんですか」
「眠い」
「また?」
「ああ」
「帰ったら寝てください」
「分かった」
妙に素直。
でも。
機嫌が悪い。
絶対に。
「公爵様」
「なんだ」
「怒っています?」
「怒っていない」
「嘘です」
「なぜ分かる」
「見ていれば」
私は言った。
彼が黙る。
「何に怒っているんですか」
「別に」
「私が他の人と踊ったこと?」
「違う」
「では、レオナルド様が私の手に口づけたから?」
沈黙。
「公爵様?」
「……」
「図星ですね?」
「違う」
「遅いです」
「違う」
「二回言いましたね」
「違うからだ」
「じゃあ、どうしてグラスを割ったんですか」
「力加減を間違えた」
「王国最強の騎士が?」
「そういうこともある」
「ありません」
「ある」
「ないです」
「ある」
「子供ですか!」
アレクシス公爵は窓の外を向いた。
拗ねた?
まさか。
いや。
でも。
「公爵様」
「なんだ」
「もしかして」
少し。
面白くなってきた。
「嫉妬しました?」
「していない」
「即答」
「していない」
「私が別の男性と踊っても?」
「ああ」
「手に口づけされても?」
「……ああ」
間。
ありました。
絶対。
「では、今度またレオナルド様と」
「駄目だ」
「ほら!」
思わず笑った。
アレクシス公爵がこちらを見る。
「何がだ」
「嫉妬じゃないですか」
「違う」
「では何です?」
「……」
「公爵様」
「他の男と踊るな」
心臓が。
大きく鳴った。
「え?」
「聞こえただろう」
「聞こえましたけど」
「ならいい」
「よくありません」
「なぜだ」
「それ、契約にありませんよね?」
「今から入れる」
「勝手!」
「駄目か」
「駄目です」
「なぜ」
「私はあなたの所有物ではありません」
「知っている」
「だったら」
「だが嫌だ」
真正面から。
言われた。
「お前が他の男と踊るのは嫌だ」
言葉が。
出ない。
この人は。
時々。
本当に。
ずるい。
「……どうしてですか」
ようやく聞いた。
「分からない」
「また?」
「ああ」
「本当に役に立たない」
「悪かったな」
「でも」
私は。
少しだけ。
本当に少しだけ。
笑った。
「今度は逃げませんでしたね」
「何から」
「自分の気持ちから」
アレクシス公爵が黙る。
「嫉妬とは認めない」
「そこはまだ意地を張るんですね」
「ああ」
「面倒です」
「お前もな」
「知っています」
初めて。
認めた。
たぶん。
私たちは。
どちらも。
ものすごく面倒な人間だ。
でも。
その夜。
寝室へ戻ったとき。
いつもなら少し離れて眠るアレクシス公爵が。
なぜか。
最初から。
枕一つ分しか離れた場所に来なかった。
「近いです」
「遠いと言ったこともあった」
「それは前です!」
「難しい女だな」
「あなたが極端なんです!」
なのに。
私は。
それ以上。
離れてほしいとは言わなかった。
そして彼も。
離れなかった。
ただ。
眠る直前。
アレクシス公爵が。
とても低い声で言った。
「リリアーヌ」
「はい」
「もう一つ」
「何ですか」
「あの男に」
「レオナルド様?」
「ああ」
「何です?」
「素敵だと言われていたな」
「聞いていたんですか!」
「近くにいた」
「それで?」
長い沈黙。
「……俺もそう思う」
言って。
アレクシス公爵は。
背中を向けた。
「公爵様?」
「寝ろ」
「今の」
「寝ろ」
「逃げましたね?」
「寝ろ」
「耳が赤いですよ」
「うるさい」
私は。
しばらく。
眠れなかった。
嬉しかったから。
なんて。
絶対に。
言えないけれど。




