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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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13/23

第12話 悪夢を見た夜、冷徹公爵の胸から離れられませんでした

 目を覚ます前から。


 分かっていた。


 温かい。


 硬い。


 それから。


 すぐ近くで、誰かの心臓の音がする。


 とくん。


 とくん。


 ゆっくり。


 規則正しく。


 不思議と落ち着く音だった。


 だから。


 あと少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 このままでいたかった。


「……」


 いや。


 駄目でしょう。


 私はゆっくり目を開けた。


 黒い寝間着。


 見慣れてきた。


 認めたくないけれど。


 もう三度目だ。


 問題は。


 今回だけは。


 私が、どうしてここにいるのかを。


 はっきり覚えていることだった。


『もう少し、近くにいてもらえますか』


 言った。


 私が。


 自分から。


 そして。


 自分からアレクシス公爵の胸元へ近づいた。


「……」


 恥ずかしい。


 今さら猛烈に恥ずかしい。


 どうしよう。


 起きる?


 でも。


 起きたら顔を合わせなければならない。


 寝たふりをする?


 それは卑怯では?


 いや。


 もう少しくらい卑怯でもいいのではないだろうか。


 私は昨日までずっと真面目に生きてきたのだ。


 一日くらい。


 いや。


 一時間。


 違う。


 あと五分だけ。


「起きているだろう」


 頭上から声がした。


 終わった。


「……寝ています」


「起きている」


「どうして分かるんですか」


「今、返事をした」


「夢です」


「その言い訳は前に俺が使った」


「そうでしたね」


 駄目だった。


 私は観念して顔を上げた。


「……おはようございます」


「ああ」


「おはようございます、は?」


「おはよう」


「できるじゃないですか」


「何がだ」


「普通の朝の挨拶です」


「俺を何だと思っている」


「朝から人に『ああ』としか言わない人です」


「そうか」


「ほら」


 少しだけ笑った。


 でも。


 笑った途端。


 思い出した。


 夢。


 暗い神殿。


 血。


 死んだ人たち。


 十九歳のアレクシス公爵。


『俺のせいだ』


 胸が苦しくなった。


 身体に。


 無意識に力が入ったらしい。


「どうした」


 すぐに気づかれた。


「何でも」


「嘘だな」


「……夢を思い出しました」


 正直に言った。


 もう隠しても仕方ない。


「そうか」


「はい」


「まだ怖いか」


「少し」


「そうか」


 それだけ。


 でも。


 アレクシス公爵の手が。


 ほんの少しだけ。


 私の手を強く握った。


「……公爵様」


「なんだ」


「いつから握っているんですか」


「昨夜から」


「昨夜から?」


「ああ」


 私は自分の手を見る。


 彼の大きな手に包まれている。


「ずっと?」


「ああ」


「一晩中?」


「ああ」


「離さなかったんですか?」


「お前が離すなと言った」


「言ってません」


「手、と言った」


「それは握ってくださいという意味で、一晩中寝ずに握っていろという意味ではありません!」


「そうなのか」


「そうです!」


 私は慌てて身を起こした。


「まさか」


 アレクシス公爵の顔を見る。


「一睡もしていないんですか?」


「問題ない」


 その答えで。


 分かった。


「寝ていないんですね」


「問題ない」


「質問に答えてください」


「十年間、慣れている」


「寝ていないんですね!」


「……ああ」


 腹が立った。


「どうして」


「何が」


「どうして起こしてくれなかったんですか!」


「寝ていたからだ」


「それは分かります!」


「ならなぜ聞く」


「私の手を離して眠ればよかったでしょう!」


「離したら」


 アレクシス公爵が言った。


「お前が魘された」


 私は黙った。


「何度か離そうとした」


「あ……」


「そのたびに、また震えた」


「それで?」


「握っていた」


「ずっと?」


「ああ」


「朝まで?」


「ああ」


 馬鹿。


 本当に。


「馬鹿なんですか、あなたは」


「ああ」


「認めるんですか?」


「今回はな」


「だったら寝てください!」


「今から?」


「今からです!」


「朝食がある」


「一食抜いたくらいで死にません!」


「お前が言うのか」


「何です?」


「一昨日、スープとパンに夢中で俺のノックにも気づかなかった女が」


「今、その話は関係ありません!」


「食事は大事だろう」


「あなたは寝てください!」


「嫌だ」


「どうして!」


「仕事がある」


「知りません!」


 言ってから。


 自分で驚いた。


 知りません。


 そんなこと。


 昔なら絶対に言わなかった。


「……何だ」


 アレクシス公爵が私を見る。


「何でもありません」


「またか」


「いえ。ただ」


 私は少し笑った。


「私、ずいぶん我儘になったなと思って」


「今さらだな」


「公爵様」


「なんだ」


「今、喧嘩を売りました?」


「事実だ」


「誰のせいでこうなったと思ってるんですか」


「知らん」


「あなたです!」


「そうか」


 少しだけ。


 彼の口元が緩んだ。


「今、笑いましたね」


「笑っていない」


「最近、その嘘が下手になりましたよ」


「そうか?」


「はい」


「なら気をつける」


「笑わないように?」


「ああ」


「そこはもっと笑うようにしてください!」


「難しい女だな」


「あなたが言わないでください」


 私はベッドから出ようとした。


 でも。


 手が離れない。


「公爵様?」


「なんだ」


「手」


「ああ」


「離してください」


「……」


「どうしました?」


 アレクシス公爵が。


 私たちの繋がった手を見る。


「いや」


「何ですか」


「何でもない」


「私の真似?」


「違う」


「では離してください」


「ああ」


 ゆっくり。


 手が離れた。


 その瞬間。


 少しだけ。


 寂しいと思った。


 馬鹿。


 本当に。


 私は何を考えているの。


「どうした」


「何でもありません」


「顔が変だ」


「だから朝から女性の顔に!」


「赤い」


「あなたのせいです!」


「俺は何も」


「してます!」


「何を」


「……知りません!」


 逃げた。


 我ながらひどい。


     ◇


 朝食の席で。


 私はアレクシス公爵を監視していた。


「食べないのか」


「食べています」


「さっきからパンを一口も食べていない」


「あなたを見張っています」


「なぜ」


「寝不足だからです」


「問題ない」


「その言葉、禁止にします」


「なぜだ」


「あなたは何でも『問題ない』で済ませるからです!」


「実際、問題ない」


「隈があります」


「ない」


「あります」


「鏡を見ていない」


「だったら私のほうが分かります!」


 アレクシス公爵が黙る。


「何ですか」


「いや」


「言ってください」


「よく見ているのだな」


「……」


 今。


 そこを拾う?


「寝不足かどうか確認しているだけです!」


「そうか」


「そうです!」


 ハロルドが紅茶を注いでいる。


 顔が。


 妙に穏やかだ。


「ハロルドさん」


「はい」


「何ですか、その顔」


「何も」


「絶対何か思っています」


「旦那様の体調をこれほど熱心にお気遣いいただける方が現れ、感無量でございます」


「それだけ?」


「はい」


「本当に?」


「はい」


「嘘ですね」


「長年執事を務めておりますので」


「答えになっていません」


 アレクシス公爵が紅茶を飲む。


「気にするな」


「あなたは少し気にしてください」


「何を」


「いろいろです」


「分からん」


「でしょうね」


 私はため息をついた。


 それから。


「公爵様」


「なんだ」


「一つ、聞いてもいいですか」


「ああ」


「あなたは」


 少し迷った。


「誰かに頼ることが、本当に苦手なんですね」


 アレクシス公爵の手が止まった。


「そうか?」


「そうです」


「自覚はない」


「でしょうね」


「ならなぜ分かる」


「見ていれば」


 今度は。


 私が言った。


「分かります」


 彼が黙る。


「十年間、ずっと一人で痛みに耐えて」


「ああ」


「昨夜だって」


「ああ」


「私を起こせばよかった」


「寝ていた」


「だから起こせばよかったんです」


「嫌だ」


「なぜ」


「お前は疲れていた」


「あなたもでしょう」


「俺は慣れている」


「それを言い訳にしないでください」


 少し。


 声が強くなった。


「慣れているから何ですか」


「何が」


「つらくないわけではないでしょう」


「……」


「痛くないわけでもない」


「……」


「眠くないわけでもない」


「……」


「なのに、どうして」


「お前も同じだろう」


 言葉を遮られた。


「はい?」


「人のことばかり言うな」


「私は」


「七年間」


 アレクシス公爵が言った。


「王太子のために働いた」


「それは」


「妹が困れば助けた」


「妹ですから」


「父に追い出されても、最後まで承知しましたと言った」


「……」


「お前も同じだ」


 何も言えなかった。


「自分が我慢すればいいと思っている」


「それは」


「違うか?」


 違う。


 と言いたかった。


 でも。


 言えなかった。


「……ずるいです」


「またか」


「今は本当にずるいです」


「ああ」


「自分が責められていたのに、私まで巻き込んで」


「半分だ」


「何がです?」


「責任」


 思わず。


 笑ってしまった。


「枕の話じゃなかったんですか」


「今は違う」


「勝手ですね」


「ああ」


「認めるんですね」


「ああ」


 私も。


 彼も。


 本当に面倒だ。


 人には休めと言う。


 自分は休まない。


 人には頼れと言う。


 自分は頼らない。


 似ている。


 だから腹が立つのかもしれない。


「では」


 私は言った。


「約束しましょう」


「何を」


「どちらかが無理をしていたら、もう片方が止める」


「嫌だ」


「どうして!」


「お前は自分が無理をしていても認めない」


「あなたに言われたくありません!」


「だから成立しない」


「成立させます!」


「どうやって」


「それは」


 考える。


「……ハロルドさんに判断してもらう?」


「旦那様」


 突然話を振られたハロルドが、静かに頭を下げた。


「私は全面的にリリアーヌ様を支持いたします」


「聞く前からか」


「はい」


「給金を払っているのは俺だ」


「ですが、旦那様は働きすぎでございます」


「裏切ったな」


「二十九年間、申し上げ続けております」


「俺は聞いていない」


「そこが問題でございます」


 私は笑った。


「二対一ですね」


「卑怯だ」


「負け惜しみですか?」


「ああ」


「今日はよく認めますね」


「眠いからな」


 私は止まった。


「ほら!」


「何だ」


「眠いんじゃないですか!」


「少しだ」


「寝てください!」


「嫌だ」


「ハロルドさん!」


「寝室を整えさせましょう」


「待て」


「旦那様」


「何だ」


「二対一でございます」


「……」


 初めて。


 少しだけ。


 この家で勝った気がした。


     ◇


 その日の夕方。


 アレクシス公爵は。


 本当に三時間眠った。


 私とハロルドが、半ば強引に寝室へ追いやったからだ。


 起きてきた彼は。


 ものすごく機嫌が悪かった。


「怒っています?」


「怒っていない」


「怒っています」


「怒っていない」


「では、なぜ私を見ないんです?」


「……」


「公爵様?」


「うるさい」


「やっぱり怒ってますね」


「お前は」


「はい?」


「寝顔を見たか」


「……」


 見た。


 少し。


 本当に。


 少しだけ。


 ちゃんと眠っているか確認するために。


「見てません」


「嘘だな」


「……ちょっとだけです」


「どれくらい」


「五分」


「長い」


「三分?」


「増減するな」


「じゃあ二分です!」


「適当だな」


 耳が熱い。


「眠っているあなたが珍しかっただけです」


「そうか」


「それに」


「まだあるのか」


「寝ていると、少しだけ普通の人に見えますね」


「喧嘩を売っている?」


「褒めています」


「お前の褒め方も大概だな」


「誰に似たんでしょうね」


 今度は。


 確かに。


 彼が少し笑った。


     ◇


 その夜。


 雨が降り始めた。


 最初は。


 静かな雨だった。


 窓を叩く。


 小さな音。


 それが。


 次第に強くなった。


 ざああああ、と。


 そして。


 遠くで。


 ごろごろ、と。


 雷。


 私はベッドの上で目を閉じた。


 大丈夫。


 雷なんて。


 子供ではない。


 怖くない。


 ぴかっ。


 一瞬。


 部屋が白く光る。


 直後。


 ドンッ!


「っ!」


 身体が跳ねた。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「怖いのか」


「いいえ」


 即答した。


「嘘だな」


「違います」


「今、跳ねた」


「驚いただけです」


「同じでは?」


「違います!」


 また。


 ぴかっ。


 ドォン!


「っ!」


 今度は。


 少しだけ。


 布団を握った。


「……」


「……」


「公爵様」


「なんだ」


「笑ってます?」


「笑っていない」


「絶対?」


「ああ」


「本当に?」


「ああ」


「ならいいです」


 少しして。


 また雷。


 今度は近い。


 私は目を閉じた。


 嫌い。


 昔から。


 雷だけは。


 子供の頃。


 雷の夜。


 セシリアが私の部屋に来た。


 怖いと泣いて。


 私は大丈夫だと言った。


 本当は。


 私も怖かった。


 でも。


 姉だから。


「リリアーヌ」


「はい」


「手」


「え?」


 アレクシス公爵が。


 こちらへ手を出していた。


「何ですか」


「握るか」


「……」


「嫌ならいい」


 手が。


 戻ろうとする。


「待って」


 反射的に言った。


 彼の手が止まる。


「その」


 恥ずかしい。


 でも。


 また雷が鳴った。


「手だけ」


「ああ」


「手だけ、握ってもらえますか」


「ああ」


 指が触れる。


 大きな手。


 温かい。


 昨日も。


 握ってもらった。


 でも。


 今夜は。


 少し違う。


 悪夢ではない。


 呪いでもない。


 ただ。


 私が。


 怖いから。


 それだけ。


「公爵様」


「なんだ」


「笑わないでくださいね」


「笑っていない」


「私は二十三歳です」


「ああ」


「雷を怖がる歳ではありません」


「そうなのか」


「普通は」


「俺は知らん」


「でしょうね」


 少し笑った。


 また雷が鳴る。


 でも。


 さっきより怖くなかった。


「公爵様」


「なんだ」


「もう少し強く」


「こうか」


 手に。


 少し力が入る。


「はい」


 私は目を閉じた。


「離さないでください」


「ああ」


「眠るまで」


「ああ」


「絶対ですよ」


「ああ」


 その夜。


 私は。


 いつ眠ったのか覚えていない。


 ただ。


 朝。


 目を覚ましたとき。


 私たちの手は。


 まだ繋がっていた。


 指まで。


 しっかり絡んで。


 そして。


 私が目を開けると。


 アレクシス公爵も。


 同じ瞬間に目を開けた。


「……おはようございます」


「ああ」


「手」


「ああ」


「まだ繋いでますね」


「ああ」


「どうしてですか」


「お前が離すなと言った」


「眠るまで、と言いました」


「そうだったか?」


「絶対覚えてますよね?」


「知らん」


「嘘が下手になりましたね」


「そうか」


 でも。


 どちらも。


 すぐには手を離さなかった。


 なぜか。


 離す理由が。


 見つからなかったから。


 そして私は。


 まだ知らなかった。


 その日の午後。


 王都の社交界から届いた一通の招待状によって。


 私たちが初めて。


 本物の夫婦として。


 大勢の貴族の前に立つことになるなんて。


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