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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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第10話 「今はまだ」って、どういう意味ですか?

「俺の妻に触るな」


 その言葉が。


 頭から離れなかった。


 王宮を出て。


 馬車に乗って。


 公爵邸へ向かっている今も。


 離れない。


 正確には、その前の言葉も。


『お前たちは本当の夫婦ではない!』


 そう叫んだアルベルト殿下に。


 アレクシス公爵は言った。


『今はまだな』


 今は。


 まだ。


 ということは。


 いつかは?


 いや。


 何を考えているの、私。


 契約だ。


 一年間限定の契約結婚。


 恋愛感情を求めない。


 必要以上に触れない。


 契約書にちゃんと書いてある。


 しかも、その条件を言い出したのは私だ。


「……」


「……」


 馬車の中は静かだった。


 私は窓の外を見る。


 アレクシス公爵は向かいに座っている。


 何も言わない。


 いつもなら、こちらが黙っていても何かしら聞いてくるくせに。


 今日は黙っている。


 妙に黙っている。


 それが気になる。


「……公爵様」


「なんだ」


 返事は早かった。


 起きていたらしい。


「いえ」


「何だ」


「何でもありません」


「なら呼ぶな」


「すみません」


 また静かになった。


 馬車が揺れる。


 私は窓を見る。


 でも外の景色なんて何も頭に入ってこない。


「……公爵様」


「なんだ」


「いえ」


「何でもないのか」


「はい」


「なら二度目だな」


「数えなくていいです」


「ああ」


 また沈黙。


 何なの。


 どうして今日はこんなに喋りづらいの。


 王宮へ向かうときは、もっと普通だった。


 普通?


 枕を投げたとか。


 私が怒鳴ったとか。


 そういう話をしていた。


 あれが普通になっているのも、どうかと思うけれど。


「リリアーヌ」


 今度は向こうから呼ばれた。


「はい」


「何を聞きたい」


「……別に」


「嘘だな」


「どうして分かるんです?」


「さっきから二度も俺を呼んだ」


「二度くらいあります」


「お前は無駄なことをあまりしない」


「失礼ですね」


「褒めている」


「それで褒めているつもりなら、あなたは一度、人の褒め方を勉強したほうがいいです」


「必要ない」


「そうでしょうね」


 少しだけ。


 いつもの感じに戻った。


 でも。


 聞けない。


『今はまだ』って、どういう意味ですか。


 それだけなのに。


 なぜか聞けない。


 聞いて。


『ただの言葉の綾だ』


 と言われたら?


『特に意味はない』


 と言われたら?


 それは。


 少し。


 嫌だ。


 ……どうして嫌なの。


「まだ王太子のことを考えているのか」


 突然だった。


「え?」


「さっきから黙っている」


「だからって、どうして殿下が出てくるんです?」


「違うのか」


「違います」


「本当に?」


「……何ですか、その聞き方」


「確認だ」


「また確認ですか」


「ああ」


 私はアレクシス公爵をじっと見る。


 彼はいつもの無表情。


 でも。


 何となく。


 少しだけ。


「公爵様」


「なんだ」


「もしかして、まだ怒っています?」


「誰に」


「アルベルト殿下に」


「ああ」


 即答。


「どうしてです?」


「お前に触ろうとした」


「触っていませんよ」


「触ろうとした」


「でも」


「駄目だ」


「……」


「何だ」


「いえ」


 駄目。


 心臓が。


 また変な音を立てる。


「契約上の妻でも?」


 聞いてしまった。


 アレクシス公爵の表情は変わらない。


「ああ」


「どうして?」


「妻だからだ」


「だから、契約上の」


「何度も言わせるな」


 少し声が低くなる。


「契約でも何でも、今のお前は俺の妻だ」


「……そうですか」


「ああ」


「それだけ?」


 口から出てしまった。


 アレクシス公爵が目を細める。


「それだけ、とは?」


「いえ」


 まずい。


「何でもありません」


「またか」


「忘れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「気になる」


 それは私も同じだ。


 あなたの『今はまだ』が気になって仕方ない。


 でも言えない。


「では、公爵様にも一つ聞きます」


「ああ」


「今日」


 喉が。


 少し詰まった。


「アルベルト殿下に言いましたよね」


「何を」


「その」


「俺の妻に触るな?」


「それもですけど!」


 どうしてこの人は。


 恥ずかしげもなく、平気で言えるの。


「その前です」


「何だ」


「本当の夫婦ではないと言われたとき」


「ああ」


「言いましたよね」


「何を」


「……今はまだ、って」


 言った。


 ついに言った。


 もう戻れない。


 アレクシス公爵が黙る。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 長い。


「どういう意味ですか」


 もう一度聞いた。


「言葉通りだ」


「分からないから聞いているんです」


「今はまだ、本当の夫婦ではない」


「それは分かります」


「ならいいだろう」


「よくありません!」


「なぜだ」


「だって!」


 そこから先が出なかった。


 だって。


 何?


 いつか本当の夫婦になるつもりなの?


 そう聞きたいの?


 私は?


 昨日婚約破棄されたばかりの私が?


 この男と?


「だって?」


 アレクシス公爵が聞く。


「……忘れてください」


「またそれか」


「もういいです」


「よくない」


「どうして?」


「お前が怒っている」


「怒っていません」


「怒っている」


「怒ってません」


「なら、なぜ窓ばかり見ている」


「景色が綺麗だからです」


「さっきから同じ壁しか見えていないぞ」


「……」


 見られていた。


 恥ずかしい。


「リリアーヌ」


「何ですか」


「俺も分からない」


 思わず。


 彼を見る。


「何がです?」


「今はまだ、の先だ」


 アレクシス公爵は窓の外を見た。


 珍しい。


 私から目を逸らした。


「俺は十年間、呪いを解くことしか考えていなかった」


「……はい」


「妻が欲しいと思ったこともない」


「知っています」


「恋人も必要なかった」


「それも」


「だが、お前を見つけた」


 胸が鳴る。


「最初は」


 彼は続けた。


「本当に、呪いを抑えるためだけだった」


「……」


「だから妻になれと言った」


「知っています」


 それくらい。


 知っている。


 分かっていた。


 なのに。


 少し痛い。


「でも今は?」


 聞いてしまった。


 アレクシス公爵が私を見る。


 灰銀色の目。


 逃げ場がない。


「分からない」


 正直な答えだった。


 腹が立った。


「そうですか」


「なぜ怒る」


「怒っていません」


「怒っている」


「怒ってません!」


「声が大きい」


「あなたのせいです!」


 馬車の御者に聞こえていないだろうか。


 もうどうでもいい。


「私だって分かりません!」


 私は言った。


「昨日まで別の人の婚約者だったんです!」


「ああ」


「その人に捨てられて!」


「ああ」


「妹に裏切られて!」


「ああ」


「家も追い出されて!」


「ああ」


「それなのに、いきなりあなたに妻になれと言われて!」


「ああ」


「同じベッドで眠って!」


「ああ」


「朝起きたら抱きついていて!」


「脚も絡んでいた」


「そこは言わなくていいです!」


「事実だ」


「今はいりません!」


 息が切れた。


 アレクシス公爵は黙っている。


「私だって」


 少しだけ声が震えた。


「何が何だか分からないんです」


「ああ」


「でも」


 言葉が止まる。


 言いたくない。


 恥ずかしい。


 でも。


「今日」


「ああ」


「アルベルト殿下が私に触れようとしたとき」


 アレクシス公爵の眉がわずかに動く。


 そこ?


 そこだけ反応するの?


「あなたが止めてくれて」


「ああ」


「少し」


 少し?


 本当に少し?


「……嬉しかったです」


 言ってしまった。


 最悪。


 今すぐ馬車から降りたい。


「そうか」


 返事は、それだけ。


 私はますます腹が立った。


「それだけですか?」


「何が」


「今の私、かなり恥ずかしいことを言ったと思うんですけど」


「ああ」


「ああ、じゃありません!」


「では何と言えばいい」


「知りません!」


「なら困る」


「私も困っています!」


 本当に面倒。


 この人も。


 私も。


 全部。


 でも。


 少しして。


「俺も」


 アレクシス公爵が言った。


「何ですか」


「お前が戻らないと言ったとき」


 そこで。


 彼はほんの少しだけ黙った。


「嬉しかった」


 今度は。


 私が黙る番だった。


「……そうですか」


「ああ」


「どうしてです?」


「分からない」


「また?」


「ああ」


「本当に役に立ちませんね」


「悪かったな」


「怒りました?」


「少し」


「怒るんですね」


「人間だからな」


 それ。


 前に私が言った言葉だ。


 覚えていたんだ。


 それが少し嬉しくて。


 また困った。


     ◇


 その夜。


 私は寝室に入って。


 立ち止まった。


「……枕は?」


 ベッドの上に。


 枕が一つしかない。


 いや。


 正確には。


 それぞれが頭に使う枕はある。


 でも。


 中央の国境線がない。


「公爵様」


「なんだ」


「十個は?」


「いらない」


「必要です」


「昨日、全部落とした」


「事故です」


「なら一つでいい」


「どうして一つなんです?」


「十個でも一つでも、お前は越える」


「越えません!」


「昨日は越えた」


「事故!」


「二回目だな」


「何がです?」


「事故という言葉で逃げるのが」


「数えないでください!」


 私はベッドを見る。


 中央に。


 一つだけ枕。


 まるで。


 申し訳程度の境界線。


「せめて三つ」


「一つ」


「五つ」


「一つ」


「交渉する気あります?」


「ない」


「横暴!」


「眠るぞ」


「話を聞いてください!」


 結局。


 一つだった。


 私は右側。


 アレクシス公爵は左側。


 間に枕一つ。


 近い。


 いや。


 ベッドが広いから。


 本当は離れようと思えば離れられる。


 でも。


 アレクシス公爵は、端にいる。


 昨日より。


 ずっと遠い。


「……」


「……」


 眠れない。


 何となく。


 落ち着かない。


 枕一つしかないくせに。


 距離は昨日より遠い。


 どうして?


「公爵様」


「なんだ」


 起きていた。


「遠くないですか」


 言った。


 言ってから。


 死にたくなった。


「……」


「……」


 お願い。


 今のを忘れて。


 聞かなかったことにして。


「何が」


 聞き返された。


 最悪。


「何でもありません」


「またか」


「今のは本当に忘れてください」


「嫌だ」


「どうして!」


「気になる」


「気にしないでください!」


「遠いのか」


 もうやめて。


「知りません!」


「では近づくか」


「え?」


 衣擦れの音。


 アレクシス公爵が。


 少しだけ。


 こちらへ近づいた。


 枕一つ。


 その向こうに。


 彼の顔。


 思っていたより。


 近い。


「これで?」


「……近いです」


「遠いと言った」


「限度があります!」


「難しい女だな」


「あなたが極端なんです!」


「ではどうしろ」


「知りません!」


 私は布団を頭まで被った。


「寝ます!」


「ああ」


「絶対に話しかけないでください!」


「分かった」


 三秒。


 五秒。


「リリアーヌ」


「三秒しか経ってません!」


「一つ聞きたい」


「何ですか!」


「今日は枕を越えるな」


「越えません!」


「本当に?」


「本当にです!」


「そうか」


 なぜ。


 少し残念そうなの。


 気のせい。


 絶対に気のせい。


「公爵様」


「なんだ」


「あなたも越えないでくださいね」


「ああ」


「絶対ですよ」


「ああ」


「触るのも」


「分かっている」


「本当に?」


「ああ」


 少し。


 安心した。


 そして。


 少しだけ。


 残念だと思った。


 ……私は何を考えているの。


 目を閉じた。


 でも。


 眠れない。


 隣に彼がいる。


 近い。


 静か。


 時々、息遣いが聞こえる。


「公爵様」


「なんだ」


「まだ起きています?」


「ああ」


「眠れないんですか?」


「お前もだろう」


「私は、その」


「何だ」


「いろいろ考えてしまって」


「ああ」


「今日のこととか」


「ああ」


「セシリアのこととか」


「ああ」


「殿下のこととか」


 そこで。


 アレクシス公爵の声が止まった。


「……公爵様?」


「なんだ」


「今、機嫌悪くなりました?」


「なっていない」


「なりましたよね?」


「なっていない」


「アルベルト殿下の名前を出したから?」


 沈黙。


 私は。


 少しだけ。


 笑ってしまった。


「もしかして」


「違う」


「まだ何も言ってません」


「分かる」


「何が?」


「言うな」


「でも」


「寝ろ」


 これは。


 もしかして。


 本当に。


「嫉妬してます?」


 長い沈黙。


「していない」


「遅かったですね」


「していない」


「本当に?」


「ああ」


「じゃあ、私が明日アルベルト殿下に」


「駄目だ」


「まだ何も言ってません!」


「会うな」


「どうして!」


「必要ない」


「それを嫉妬って言うんじゃ」


「違う」


「では何です?」


「……」


「公爵様?」


「寝ろ」


「逃げましたね?」


「寝ろ」


「図星?」


「リリアーヌ」


「はい」


 声が低い。


 怒った?


「それ以上言うなら」


 アレクシス公爵が。


 枕一つ分。


 近づいた。


「眠れなくなるのは、お前のほうだぞ」


 心臓が。


 止まりかけた。


「……どういう意味ですか」


「自分で考えろ」


「ずるい」


「またか」


「またです」


 私は。


 それ以上。


 何も言えなかった。


 でも。


 眠れなかった。


 本当に。


 眠れなかった。


 そして。


 朝になって気づく。


 一つしかなかったはずの枕は。


 やっぱり床に落ちていて。


 私はまた。


 アレクシス公爵の胸に。


 しっかり抱きついて眠っていた。


 ただし。


 前回と。


 一つだけ違った。


 今度は。


 アレクシス公爵の腕も。


 私の腰に。


 しっかり回っていたのだ。


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