第9話 昨日私を捨てた王太子が、夫の前で私を取り戻そうとしました
「夫婦だからだ」
アレクシス公爵の声が、静かな部屋に落ちた。
誰も喋らなかった。
アルベルトは私を見ている。
正確には。
私とアレクシス公爵が繋いだ手を見ていた。
セシリアも同じだった。
私は急に恥ずかしくなった。
王宮へ入るとき。
怖くて。
アレクシス公爵が差し出してくれた手を、そのまま握っていた。
ただ、それだけだ。
でも。
別に悪いことはしていない。
私はもう、アルベルトの婚約者ではない。
昨日。
彼自身がそう決めた。
「……離せ」
アルベルトが言った。
「はい?」
「その手を離せ」
誰に言ったのだろう。
私?
アレクシス公爵?
分からなかった。
でも。
隣の男は、私の手を離さなかった。
「なぜだ」
アレクシス公爵が聞く。
「なぜって……」
「俺が妻の手を握るのに、お前の許可が必要か?」
「妻?」
アルベルトの顔が歪んだ。
「本当に?」
今度は私を見た。
「リリアーヌ。本当に、君はこの男と結婚したのか?」
「はい」
「昨日だぞ」
「はい」
「昨日まで、君は俺の婚約者だった」
「そうですね」
「それなのに、どうして!」
アルベルトの声が大きくなった。
思わず。
私は聞いてしまった。
「どうして、とは?」
「だから!」
彼が言葉に詰まる。
私は待った。
七年間。
ずっとそうしてきた。
アルベルトが言葉に詰まれば待った。
怒れば黙った。
迷えば助けた。
そうするのが婚約者の役目だと思っていたから。
でも。
今はもう違う。
「殿下」
私は言った。
「私との婚約を破棄なさったのは、あなたです」
「分かっている」
「私には女としての魅力がないと仰ったのも」
「それは……」
「血が通っていないようだと仰ったのも」
「リリアーヌ」
「私の妹を、次の婚約者に選んだのも」
隣で。
セシリアの肩が震えた。
分かっている。
責めているように聞こえる。
実際。
たぶん私は責めている。
綺麗なふりをしても仕方がない。
私は腹を立てている。
この二人に。
「全部、殿下が決めたことです」
「そうだ」
「でしたら、どうして今、私の結婚に驚いていらっしゃるのですか?」
「早すぎるだろう!」
即答だった。
思わず黙る。
「普通は!」
アルベルトは続けた。
「七年も婚約していた男と別れた翌日に、別の男と結婚などしない!」
「俺は普通ではない」
アレクシス公爵が言った。
私は思わず彼を見た。
「公爵様」
「なんだ」
「今は黙っていてください」
「なぜだ」
「話が余計にややこしくなります」
「そうか」
本当に黙った。
アルベルトが呆然としている。
たぶん。
氷獄公爵にそんな言い方をする女を初めて見たのだろう。
私だって昨日まではできなかった。
「リリアーヌ」
アルベルトが言う。
「君は、本当に自分の意思で結婚したのか?」
「はい」
「脅されていない?」
「いません」
「弱みを握られているとか」
「ありません」
「本当に?」
「しつこい」
アレクシス公爵が言った。
「公爵様」
「黙っていた」
「三十秒くらいです」
「十分だろう」
「十分ではありません」
アルベルトの顔が、ますます険しくなる。
「どうして」
低い声だった。
「どうして君は、その男とはそんなふうに話すんだ」
「……はい?」
「俺には一度もそんな顔をしなかった」
胸の奥が痛んだ。
そう。
その通りだ。
私はアルベルトにこんなふうに言い返したことがない。
馬鹿だと言ったことも。
しつこいと言ったことも。
枕を投げたこともない。
「いつも笑っていた」
アルベルトが続ける。
「いや。笑ってすらいなかった。いつも同じ顔で、はい、分かりました、承知しました。それだけだった」
「それは」
「なのに、どうしてその男には怒る?」
答えられなかった。
私自身。
まだ分からないから。
「俺には、そんなふうに笑わなかった」
アルベルトの声が掠れた。
「一度も」
私は。
何も言えなかった。
すると。
「それは違う」
隣から声がした。
アレクシス公爵だった。
「何がだ」
アルベルトが睨む。
「リリアーヌが笑わなかったのではない」
「何?」
「お前が、笑える場所を作らなかっただけだ」
部屋が静かになった。
私はアレクシス公爵を見る。
彼はアルベルトだけを見ていた。
「俺は」
アルベルトの顔が赤くなった。
「俺は七年間、彼女と一緒にいた!」
「ああ」
「昨日会ったばかりのお前に、何が分かる!」
「分からない」
「なら!」
「だが昨日だけで、少なくともお前より何度も怒鳴られた」
「それは自慢することではありません!」
思わず口を挟んだ。
アレクシス公爵が私を見る。
「違うのか?」
「違います!」
「そうか」
「どうして少し残念そうなんですか!」
セシリアが。
小さく息を吐いた。
私は彼女を見る。
妹は俯いていた。
「……ずるい」
聞こえた。
「セシリア?」
「ずるいわ、お姉様」
顔を上げる。
泣いていた。
「どうして」
セシリアは震える声で言った。
「どうして、そんなに楽しそうなの?」
胸が。
ざわついた。
「私が?」
「そうよ!」
セシリアが叫んだ。
「私、ずっとお姉様が羨ましかった!」
知らなかった。
思いもしなかった。
私が。
セシリアを羨ましがることはあっても。
「お姉様は何でもできた。勉強も、外国語も、礼儀作法も。お父様だって、何か大切なことがあると、いつもお姉様に任せた」
「それは、あなたが」
「私は馬鹿だから?」
「そんなこと言ってない!」
「皆そう思っていた!」
セシリアが泣きながら笑った。
「可愛いだけ。愛想がいいだけ。何もできないって」
「私はそんなふうに」
「お姉様が一番そう思ってた!」
言葉を失った。
「何でも代わりにやってくれたでしょう? 私が失敗すると、お姉様が直した。私が泣くと慰めた。私が困る前に全部やってくれた!」
「それは、あなたが妹だったから」
「だから嫌だった!」
分からなかった。
本当に。
分からなかった。
私は守っているつもりだった。
それが。
セシリアにとっては違った?
「アルベルト様だけだったの」
セシリアが言う。
「私を可愛いだけじゃなく、一人の女として見てくれた」
その言葉には。
少しだけ。
私にも分かるところがあった。
誰かの一番になりたい。
特別になりたい。
それは私も同じだったから。
「だから」
セシリアはアルベルトを見る。
「私、この人が欲しかった」
アルベルトの顔が強張る。
「でも」
妹の声が震えた。
「手に入れたら、私を見てくれなくなった」
「セシリア」
「昨日までは優しかったのに!」
「今は王宮が混乱していて」
「だからお姉様なの?」
セシリアが叫んだ。
「お姉様がいないから? お姉様ならできたから? お姉様を呼び戻せば全部うまくいくから?」
「違う!」
「じゃあ、どうしてずっとお姉様の話をするの!」
アルベルトは黙った。
その沈黙が。
答えになってしまった。
セシリアの顔が歪む。
「私、戻ってきてほしいの」
今度は私を見る。
「お姉様が王宮にいれば、全部元通りになるでしょう?」
私は何も言わなかった。
「仕事をしてくれて。アルベルト様の機嫌も戻って。私は」
「あなたは?」
「私は……」
セシリアは言えなかった。
でも。
分かってしまった。
私が仕事をする。
セシリアが愛される。
昔と同じ。
私が支える側。
妹が愛される側。
「それは嫌よ」
私は言った。
セシリアが目を見開く。
「嫌」
もう一度言った。
「戻らない」
「お姉様」
「私はあなたのために、アルベルト殿下の機嫌を取る係ではない」
「そんな言い方……」
「じゃあ、どんな言い方ならいいの?」
自分でも。
驚くほど冷たい声だった。
「優しく言えば、私を傷つけていないことになる?」
「……」
「昨日、あなたは私の婚約者を奪った」
セシリアが唇を震わせる。
「今日、うまくいかなくなったから助けてほしいと言った」
「私は、ただ」
「分かってる」
私は息を吐いた。
「あなたにも、あなたなりのつらさがある」
「だったら」
「でも」
言葉を遮った。
「あなたがつらいことと、私が助けなければならないことは別よ」
それを言うのは。
思っていたより苦しかった。
妹だから。
泣いているから。
助けてあげたいという気持ちが、まだどこかにある。
だから。
余計に腹が立つ。
「お姉様は変わった」
セシリアが呟く。
「そうかもしれない」
「前なら助けてくれた」
「そうね」
「その人のせい?」
アレクシス公爵を見る。
「その人がお姉様を変えたの?」
「違う」
答えたのは。
アレクシス公爵だった。
「彼女は最初からこうだった」
私は彼を見る。
「我慢していただけだ」
胸が痛んだ。
優しい言葉ではなかった。
でも。
誰かに。
初めて私を見つけてもらったような気がした。
「リリアーヌ」
アルベルトが一歩近づいた。
「もう一度、話そう」
「何をですか」
「二人で」
アレクシス公爵の手に。
少しだけ力が入った。
痛くはない。
でも。
分かった。
「公爵様」
「なんだ」
「握る力が強いです」
「そうか」
緩んだ。
素直。
……いや。
今はそこではない。
「リリアーヌ」
アルベルトがもう一歩近づく。
「俺は、君に謝りたい」
「殿下」
「昨日は感情的だった」
「……」
「君の価値を分かっていなかった」
その言葉を。
昨日までの私なら。
どれほど待っていただろう。
認めてほしかった。
ありがとうと言ってほしかった。
でも。
「それは」
私は言った。
「私がいなくなって困ったからですか?」
アルベルトが黙る。
「それとも、私を失って寂しいから?」
「俺は」
「どちらです?」
「分からない」
正直だった。
それが少しだけ悲しかった。
「分からないんです」
私は言った。
「私も」
「なら」
「だから戻れません」
「なぜだ!」
「また同じになるからです!」
初めて。
アルベルトに怒鳴った。
彼が目を見開く。
「私が戻ったら、また全部やります。あなたが困る前に助けて。怒れば謝って。妹が泣けば我慢して」
「そんなことは」
「します!」
分かる。
私はそういう人間だから。
「だから、戻りません」
「リリアーヌ」
「私、今」
隣を見る。
アレクシス公爵がいた。
「少しだけ、自分がどんな人間なのか知り始めたところなんです」
怒る。
笑う。
枕を投げる。
嫌なことを嫌と言う。
たったそれだけ。
でも。
私には難しかった。
「だから」
言った。
「今は帰りません」
「帰る?」
アルベルトの顔が歪んだ。
「君の帰る場所は、王宮だったはずだ」
「昨日までは」
「あの男の屋敷が家だと言うのか」
「少なくとも」
私は答えた。
「昨夜、眠れた場所です」
アルベルトが。
固まった。
しまった。
そう思ったときには遅かった。
「……昨夜?」
「はい」
「眠った?」
「はい」
「どこで」
「公爵邸で」
「そうではない!」
アルベルトの顔が赤くなった。
「まさか、同じ寝室で?」
「アルベルト様!」
セシリアが叫ぶ。
私も顔が熱くなる。
なぜこんな話を、この四人でしているのだろう。
「それは」
「同じベッドだ」
アレクシス公爵が答えた。
「公爵様!」
「事実だ」
「何でも正直に言えばいいわけではありません!」
「そうなのか」
「そうです!」
アルベルトの顔が。
明らかに変わった。
「お前」
アレクシス公爵を睨む。
「リリアーヌに何をした」
「何も」
「同じベッドで寝て何もしていないだと?」
「枕を投げられた」
「その話はしないでください!」
「事実だ」
「今それは必要ありません!」
セシリアまで呆然としている。
もう嫌。
帰りたい。
「リリアーヌ」
アルベルトが近づいた。
「君は騙されている」
「殿下」
「こんな男と一緒にいる必要はない」
「私は自分で」
「戻ってこい」
その言葉。
昨日とは逆だった。
昨日は。
出ていけと言われた。
今日は。
戻ってこい。
人間は。
本当に勝手だ。
「もう一度考え直そう」
「何を」
「婚約を」
セシリアが息を呑んだ。
「アルベルト様?」
「今すぐではない。ただ、昨日のことは一度白紙にして」
「私がいるのに?」
「セシリア、今は」
「私がいるのに!」
妹が泣いた。
アルベルトが困った顔をする。
昨日まで。
きっと私は。
その顔を見れば助けていた。
でも。
今は助けなかった。
「リリアーヌ」
アルベルトが私へ手を伸ばす。
「君は俺と」
その手が。
私に触れる寸前。
止まった。
アレクシス公爵が。
アルベルトの手首を掴んでいた。
「公爵様?」
「離せ」
アルベルトが言う。
「嫌だ」
「これは俺とリリアーヌの話だ!」
「違う」
灰銀色の目が。
冷たく光った。
「俺と、俺の妻の話だ」
「契約だろう!」
アルベルトが叫んだ。
私は息を止める。
なぜ。
それを。
知っている?
一瞬。
アレクシス公爵の表情も変わった。
でも。
すぐに戻った。
「それがどうした」
「お前たちは本当の夫婦ではない!」
胸が。
少しだけ痛んだ。
その通りだ。
一年間だけ。
恋愛感情を求めない。
ただの契約。
なのに。
アレクシス公爵は。
アルベルトの手を離さなかった。
「今はまだな」
低い声だった。
「……え?」
思わず彼を見た。
今は。
まだ?
どういう意味?
でも。
聞く暇はなかった。
アレクシス公爵は。
アルベルトをまっすぐ睨み。
はっきりと言った。
「俺の妻に触るな」
心臓が。
大きな音を立てた。
それは。
呪いのため?
契約だから?
それとも。
ほんの少しだけ。
別の何か?
私はまだ。
その答えを知らなかった。
ただ一つ。
確かなことがある。
この瞬間。
昨日まで私を捨てた男と。
今日、私を妻と呼ぶ男の間に。
決して元には戻れない何かが。
確かに生まれたのだ。




