第8話 妹から「王宮へ戻ってきて」と頼まれました
『お姉様。お願いです。王宮へ戻ってきてください。アルベルト様が、私を見てくださらないのです』
私は、その一文を三回読んだ。
一回目は、意味が分からなかった。
二回目は、意味は分かったけれど理解したくなかった。
三回目。
ようやく。
「……何これ」
声が出た。
怒っているのか。
呆れているのか。
悲しいのか。
自分でも分からない声だった。
「その妹は、馬鹿なのか?」
隣から、アレクシス公爵が言った。
「公爵様」
「なんだ」
「今の私は、たぶんものすごく複雑な気持ちなんです」
「ああ」
「だから、あまり妹を悪く言わないでください」
「分かった」
「……でも」
「ああ」
「否定はできません」
「そうか」
「そこで納得しないでください!」
「難しい女だな」
「誰のせいですか!」
「妹だろう」
「そうですけど!」
駄目だ。
この人と話していると、怒りが変な方向へ逃げる。
私はもう一度、手紙を見る。
続きがあった。
『お姉様がいなくなってから、アルベルト様はいつも機嫌が悪いのです』
『私が話しかけても、上の空で』
『昨日までは優しかったのに』
『お姉様なら、どうすればいいか分かるでしょう?』
私は。
そこで読むのをやめた。
「……知るか」
口から出た。
驚いた。
自分で言ったのに。
「知るか、って」
「どうした」
「私、今、知るかって言いました?」
「ああ」
「声に出ていました?」
「かなりはっきりと」
「……そう」
生まれて初めてかもしれない。
妹に対して。
知るか、なんて思ったのは。
「もう少し読むか?」
「読みません」
「そうか」
「読んだら、たぶんもっと腹が立ちます」
「なら燃やすか」
「どうしてすぐ燃やそうとするんですか」
「処分するなら早いほうがいい」
「燃やしません」
「では捨てる?」
「捨てません」
「なら取っておくのか」
「分かりません!」
思わず声が大きくなった。
アレクシス公爵が黙る。
私も黙る。
それから。
「……すみません」
「なぜ謝る」
「怒鳴ったからです」
「怒っているのだろう」
「だからって、あなたに怒鳴っていい理由には」
「俺は気にしていない」
「私は気にします」
「面倒だな」
「悪かったですね」
「悪いとは言っていない」
「言い方です!」
まただ。
また怒って。
また言い返している。
昨日までの私なら。
こんなことは絶対にしなかった。
怒っても飲み込んだ。
悲しくても笑った。
困っても、大丈夫ですと言った。
でも。
今は。
全然、大丈夫ではない。
「私」
私は手紙を握った。
「本当に、怒っているんです」
「ああ」
「セシリアに」
「ああ」
「私の婚約者を奪っただけでも十分なのに」
「ああ」
「自分がうまくいかなくなったら、今度は私に戻ってきてくれって」
「ああ」
「おかしいでしょう?」
「ああ」
「少しくらい言い返してください」
「なぜだ」
「ずっと、ああ、しか言わないからです!」
「聞いている」
「分かっています。でも」
そこで。
言葉が止まった。
「……でも」
何だろう。
何が言いたいのだろう。
「お前は」
アレクシス公爵が言った。
「妹を憎みきれないのだな」
胸の奥に。
何かが刺さった。
「……そういうことを」
「ああ」
「簡単に言わないでください」
「なぜ」
「分かってしまうからです」
私は手紙を膝の上に置いた。
「子供の頃」
話すつもりはなかった。
なのに。
なぜか、言葉が出た。
「セシリアは、よく私の部屋に来たんです」
「そうか」
「雷が怖い夜とか。お父様に怒られた日とか」
「お前を頼っていた?」
「たぶん」
私は少し笑った。
「ベッドに入ってきて、狭いのにくっついて眠るんです。寝相が悪くて。朝になると私の布団を全部取っているんですよ」
「お前も寝相は悪いだろう」
「今、その話をします?」
「枕十個を」
「忘れてください!」
「無理だ」
「もう!」
腹が立つ。
でも。
少しだけ救われた。
苦しい話ばかりにならないから。
「昔は」
私は続けた。
「可愛かったんです」
「今は?」
「……可愛くないです」
「そうか」
「今のはあなたが否定するところでは?」
「会ったことがない」
「妙なところで真面目ですね」
「ああ」
「でも」
私は手紙を見た。
「本当に、昔は可愛かったんです。私の後ろをついてきて。お姉様、お姉様って」
「今も書いてある」
「そういう意味じゃありません」
「分かっている」
アレクシス公爵の声は静かだった。
「だから」
私は言った。
「腹が立つんです」
「ああ」
「知らない人なら、もっと簡単に嫌いになれた」
「ああ」
「でも、セシリアなんです」
声が。
少し掠れた。
「私の妹なんです」
そう。
それが。
一番、面倒なのだ。
裏切られたからといって。
七年間。
十年間。
十五年間。
積み重ねてきたものが、全部消えるわけではない。
笑ったことも。
泣いたことも。
手を繋いだことも。
全部残っている。
「嫌いです」
私は言った。
「今は、本当に嫌い」
「ああ」
「でも、嫌いだからって、何も感じなくなるわけじゃない」
「ああ」
「だから腹が立つんです」
アレクシス公爵はしばらく黙っていた。
それから。
「人間は面倒だな」
言った。
私は思わず彼を見る。
「なんですか、それ」
「違うか」
「違いません」
「ならいい」
「もう少し慰めようとか思わないんですか?」
「何と言えばいい」
「例えば」
考える。
出てこない。
「……私も分かりません」
「なら俺にも分からない」
「そうですね」
少し笑った。
本当に。
私たちは二人とも。
ずいぶん不器用らしい。
◇
その日の午後。
「王宮へ行きます」
私がそう言うと。
アレクシス公爵は、一瞬だけ黙った。
「そうか」
「反対しないんですか?」
「する」
「するんですか」
「ああ」
「でも止めない?」
「ああ」
「どうして?」
「お前が決めたからだ」
少し。
意外だった。
「もっと、行くなと言われると思いました」
「言ってほしいのか」
「そういう聞き方、ずるいです」
「またか」
「またです」
アレクシス公爵は机の上の書類を閉じた。
「なぜ行く」
「聞きたいことがあります」
「誰に」
「セシリアに」
「王太子ではなく?」
「……はい」
「本当に?」
「何ですか、その聞き方」
「確認だ」
「また?」
「ああ」
「公爵様」
「なんだ」
「もしかして」
言いかけて。
やめた。
いや。
まさか。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「嫌です」
「なぜだ」
「あなたの真似です」
「そうか」
「少しは悔しがってください」
「面倒だな」
「誰のせいですか!」
このやり取りにも慣れてきた。
それが少し怖い。
「とにかく」
私は言った。
「セシリアに聞きたいんです。どうして、私に戻ってきてほしいのか」
「手紙に書いてある」
「本当の理由をです」
「王太子が自分を見ないからだろう」
「それだけなら、私は行きません」
「他にあると?」
「分かりません」
正直に言った。
「でも」
胸の奥がざわつく。
「何かがおかしいんです」
「何が」
「セシリアは甘えています。でも、馬鹿ではありません」
「さっき馬鹿だと言った」
「あなたがです!」
「否定しなかった」
「それは……今は置いておいてください!」
「便利だな」
「うるさいです」
私は真面目な顔に戻った。
「王太子殿下が自分を見ないからといって、普通なら私を呼び戻そうとはしません」
「なぜだ」
「だって、私が戻ったら」
言葉が止まる。
「自分が、もっと惨めになるでしょう?」
アレクシス公爵の目が細くなった。
「なるほど」
「だから、何か別の理由がある気がします」
「王宮の混乱か」
「おそらくは」
昨日。
王宮の使者も言っていた。
問題が起きている、と。
私がいなくなっただけで。
そんなに。
本当に?
「お前が処理していた仕事は」
「何ですか?」
「どれくらいある」
「普通です」
「具体的に」
「外交使節団の受け入れ準備。王太子殿下の日程調整。王妃執務院から回ってくる書類の確認。各国から届く贈答品の返礼手配。社交行事の日程重複の整理。それから」
「待て」
「はい?」
「それを普通と言ったのか」
「はい」
「馬鹿なのか?」
「今日はよく人を馬鹿呼ばわりしますね!」
「全部やっていた?」
「全部ではありません。補助です」
「誰の」
「王太子殿下の」
「……」
「何ですか」
「何でもない」
「また?」
「ああ」
でも。
何でもない顔ではなかった。
少し怖い。
「公爵様」
「なんだ」
「怒っています?」
「ああ」
「誰に?」
「王太子に」
「どうして」
「今はまだ言いたくない」
「子供ですか」
「黙れ」
珍しく。
本当に機嫌が悪い。
「とにかく」
アレクシス公爵が立ち上がった。
「行くなら支度しろ」
「はい」
「俺も行く」
「やっぱり?」
「ああ」
「でも」
「夫だからだ」
「契約上の」
「夫だ」
「そこ、毎回強調しますね」
「事実だからな」
「……」
「何だ」
「いえ」
少しだけ。
胸が鳴ったことは。
言わないでおく。
◇
王宮へ向かう馬車の中。
私は落ち着かなかった。
手を組む。
離す。
また組む。
「緊張しているのか」
「していません」
「嘘だな」
「……しています」
「そうか」
「少しくらい励ましてください」
「何と言えばいい」
「例えば、大丈夫だ、とか」
「大丈夫なのか?」
「それを聞かないでください!」
「嘘は言いたくない」
「知っています!」
私は窓の外を見た。
見慣れた王都。
昨日まで。
当たり前だった景色。
「怖いです」
ぽつりと言った。
「何が」
「戻ったら」
「ああ」
「昨日までの私に戻りそうで」
王太子の婚約者。
完璧な令嬢。
怒らない。
泣かない。
言い返さない。
役に立つ。
それだけの私に。
「戻らない」
アレクシス公爵が言った。
「どうして分かるんです?」
「お前はもう俺に枕を投げた」
「それ関係あります?」
「ああ」
「ありませんよ」
「ある」
「どこが」
「昨日までのお前なら、俺に枕を投げなかっただろう」
確かに。
「それに」
「まだあるんですか」
「俺を馬鹿だとも言った」
「言ってません」
「性格が悪いとは言った」
「それは言いました」
「つまり戻らない」
「どういう理屈ですか」
「俺には分かる」
めちゃくちゃだ。
でも。
笑ってしまった。
「ありがとう」
「何が」
「何でもありません」
「言え」
「嫌です」
「なぜだ」
「あなたの真似です」
「二回目だな」
「数えていたんですか?」
「ああ」
「本当に細かい」
馬車が止まった。
王宮だった。
胸が。
強く鳴る。
「リリアーヌ」
「はい」
「手」
「え?」
アレクシス公爵が手を差し出した。
「降りるのだろう」
「あ」
エスコート。
ただそれだけ。
なのに。
少し迷った。
それから。
その手に、自分の手を重ねた。
温かい。
「震えている」
「言わないでください」
「怖いか」
「少し」
「そうか」
「それだけ?」
「ああ」
「やっぱり励ましてはくれないんですね」
アレクシス公爵は少し考えた。
それから。
私の手を。
ほんの少しだけ強く握った。
「俺がいる」
それだけだった。
本当に。
たった、それだけ。
でも。
それで十分だった。
「……ずるいです」
「またか」
「またです」
私たちは王宮へ入った。
見慣れた廊下。
見慣れた使用人たち。
でも。
皆、私を見る。
そして。
その隣のアレクシス公爵を見る。
噂はもう広がっているらしい。
案内されたのは。
かつて何度も入った。
王太子の私室だった。
「こちらでございます」
侍従が扉に手をかける。
私は息を吸った。
扉が開いた。
最初に見えたのは。
アルベルトだった。
昨日までの婚約者。
その隣に。
セシリア。
二人とも立ち上がる。
アルベルトが私を見る。
次に。
アレクシス公爵を見る。
そして。
私たちが繋いだままの手を見る。
彼の顔から。
表情が消えた。
「リリアーヌ」
名前を呼ばれる。
懐かしい声だった。
でも。
昨日までと違って聞こえた。
「その手を」
アルベルトの声が。
わずかに震えた。
「なぜ、グランツ公爵と繋いでいる?」
私は答えようとした。
その前に。
アレクシス公爵が言った。
「夫婦だからだ」
部屋の空気が。
一瞬で凍った。
セシリアが息を呑む。
アルベルトの顔が歪む。
そして。
昨日、私を捨てた男は。
初めて。
自分が何を失ったのかを。
目の前で見ることになった。




