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はじまりの夏 series 理性か、衝動か  作者: 日蔭野泉


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1-08. 設営後

 設営が一段落すると、部員たちは木陰に集まり、水分を取った。

 紗良も折り畳み椅子へ腰を下ろす。右手を見ると、朝貼ってもらった絆創膏の端が浮いていた。汗と作業のせいだろう。剝がれた部分を左手で押さえる。貼り直せば済みそうだが、粘着面には細かな砂がついている。


「日向さん」


 顔を上げると、嶺が目の前に立っていた。視線は紗良ではなく、右手へ向いている。


「剝がれかけてます」

「うん。あとで替えるよ」

「今の方がいいです」

「休憩中でしょう」

「だから今」


 嶺は近くの荷物から救急箱を取り出し、紗良の前へしゃがんだ。


「自分でできるよ」

「左手だけで?」

「……できると思う」


 嶺は答えず、新しい絆創膏を取り出した。


「砂が入ってるので、一度洗った方がいいです」

 

 よく見ると、傷の近くにも細かな汚れがついている。


「本当だ」


 紗良が立ち上がると、嶺も救急箱を持った。


「水道まで行きましょう。水を汲むついでです」

「……ありがとう」


 水道へ着くと、紗良は絆創膏をはがし傷口を流水で洗った。嶺は少し離れたところで、水を汲んでいる。洗い終える頃には、いつの間にか近くへ戻ってきていた。


「ここへ置いてください」


 嶺は救急箱の上へ清潔なハンカチを広げ、紗良の手を置く場所を作った。紗良が右手を置く。


「……朝より赤くなってる」

「そう?」


 紗良も右手を覗き込む。言われてみれば、確かに少し腫れているようにも見える。


「ほんとだね」

「痛みは?」

「少しはあるけど、このくらいなら平気」


 嶺は答えず、傷を見ている。


「痣になるかも」

「すぐに治るよ」


 紗良は笑った。


「高校の頃なんて、痣だらけだったでしょう。部活で」


 練習のあと、膝や腕に青紫の痣ができていることなど珍しくなかった。いつできたのか分からないものまであったくらいだ。

 嶺は笑わなかった。


「それとこれは別です」

「なんで」


 嶺が黙った。新しい絆創膏を手にしたまま、視線を落とす。少し間があった。


「……俺のせいでできた痣なのが嫌なんです」


 紗良は嶺を見る。


「相馬くんのせいじゃないから」

「でも、俺がちゃんと見てれば、先輩が庇う必要なかったから」


 朝と同じことを、まだ気にしていたらしい。紗良は目を伏せた嶺の顔を励ますように覗き込んだ。


「工具箱が落ちてきたのは相馬くんのせいじゃないよ」

「積み方確認したの、俺なんで」

「関係ないよ」

「先輩が手出さなかったら、俺に当たってただけですし」

「うん。だから、止めてよかった」


 嶺が顔を上げる。


「よくないです」

「なんで?」

「先輩が怪我したから」


 あまりに迷いなく返されて、紗良は一瞬言葉を止めた。

 嶺はまた右手へ視線を落とした。伏せられた睫毛の影が、頬に薄く落ちている。自分の怪我なのに、嶺の方がよほど痛そうな顔をしていた。


「……相馬くん」

「はい」

「私が勝手にやったの」

「分かってます」

「分かってる顔じゃないよ」


 嶺は何も言わない。紗良は小さく息を吐いた。


「すぐ治るよ」


 右手を少し持ち上げる。


「これくらい、本当に大丈夫」


 それでも嶺の表情は晴れない。紗良は少し困って、その顔を見た。


「だから、そんな顔しないで」


 そう言ったときだった。左手が、ふと動いた。俯いた嶺へ向かって、指先が伸びる。あと少し。

 そこで、紗良は手を止めた。何をしようとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、ひどく落ち込んでいる嶺を見ていたら、自然と身体が動いた。紗良は何事もなかったように左手を引き、膝の上へ戻した。嶺は気づいていない。


「……貼りますね」

「うん」


 嶺は新しい絆創膏の包装を開いた。傷を避けて位置を合わせ、端から慎重に押さえていく。朝と同じような手つきだった。けれど今度は、指先の温度よりも、さっきまでの嶺の顔の方が気になった。


 嶺は端が浮いていないことを確認してから、ようやく手を離した。


「……本当に無理しないでください」

「しないよ」

「信用できない」

「ひどい」


 紗良が笑う。嶺もようやく、ほんの少しだけ口元を緩めた。それを見て、紗良は何となくほっとする。


「はい。これで大丈夫です」

「ありがとう」

「また剥がれたら言ってください」

「毎回貼ってくれなくていいよ。皆にやっていたら大変でしょう」


 嶺は救急箱を閉じながら、わずかに眉を寄せた。


「それぐらいはさせてください」

「……うん」

「自分で作業しないで、なるべく指示に徹してくださいよ」


 嶺は救急箱を閉じ、立ち上がった。救急箱と水の入った容器を持って、ほかの部員たちのところへ戻っていく。紗良はその背中を見送ってから、新しく貼られた絆創膏へ目を落とした。それから、膝の上に置いた左手を見る。さっき伸びかけた指を、そっと握り込んだ。


       ◇


 夕飯の支度を始めるには、まだ少し早かった。張り終えたテントの前で休む者もいれば、飲み物を取りに行く者もいる。


 紗良はテーブルの上に残っていたペグやロープをまとめながら、辺りを見回した。


「小松くんは?」

「薪もらいに行きました」


 近くで荷物を整理していた嶺が答えた。


「結構前じゃなかった?」

「また誰かとしゃべってるんじゃないですか」

「ああ」

「いつものことです」


 あまりに普通に言うので笑っていると、管理棟の方から小松が戻ってきた。両腕に薪を抱えている。その隣には、日に焼けた五十代くらいの男性が、もう一束抱えて歩いていた。


「圭介、こっちも使え」

「え、いいんですか?」

「昨日割ったやつ余ってるから。こっちの方が乾いてる」

「ありがとうございます」


 男性は小松の横に薪を下ろした。


「夜はけっこう冷えるぞ」

「分かりました」

「今度来る時、ギター持ってこいよ」

「俺、そんな弾けないですよ」

「コード三つありゃなんとかなる」

「それ絶対田村さん基準でしょう」


 男性が笑って、小松の肩を叩いた。


「じゃあな、圭介」

「はい。また後で」


 男性が手を上げて管理棟へ戻っていく。紗良はその背中を見送ってから、小松を見た。


「……知り合い?」

「今日初めて会いました」

「また下の名前で呼ばれてる」

「名乗ったから」


 紗良は笑った。


「小松くん、昔からそうだよね。知らない人とすぐ仲良くなるの」

「ああ」


 嶺も笑う。


「高校の大会でも、他校の先生と二、三回話しただけで『圭介』って呼ばれてたし」

「向こうが覚えてくれてただけだろ」

「海の家のおじさんにも試合応援されてたよね」


 紗良が言うと、嶺が吹き出した。


「いた。『圭介ー!』って。俺も同じチームなのに、小松しか応援されてなかった」

「名前知らなかったんじゃない?」

 小松がさも当然のことように言った。

「なんでお前のだけ知ってるんだよ」

「名乗ったから」

「だから、名乗っただけで全員そうならないんだって」


 紗良は笑いながら小松を見ていて、ふと別の記憶を思い出した。

「あ」

「何ですか」

「女子五人に詰め寄られてたやつ」

 

 小松の手が止まった。


「五人?」

「高校の時。雨の日」

「ああ、あれ。五人もいましたっけ」


 嶺がすぐに笑う。


「いた。あれはすごかった」

「相馬まで乗るなよ」


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