1-06. 湖畔
渓谷を抜けて湖畔に着く頃には、昼が近くなっていた。荷物を置き、昼食まではしばらく自由時間になる。
湖畔には芝生が広がり、その先に穏やかな水面が見えた。歩き通しだった一年生たちも、ようやく気が抜けたらしい。朝倉、森田、三浦は、荷物を下ろすと水辺の方へ歩いていった。
紗良は千晶と木陰のベンチへ腰を下ろした。
「やっと座れる」
「疲れた?」
「普通に疲れました」
千晶はペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ。
「相馬先輩、体力ありますね」
紗良も、少し離れたところにいる嶺を見た。
「ずっと動いてるね」
午前中、嶺はほとんど休んでいなかった。先頭を歩いていたかと思えば、いつの間にか最後尾まで戻っている。湖畔に着いてからも荷物や案内板を確認し、今度は受付の方へ向かっていた。
「日向先輩も大概ですけど」
「私は今休んでる」
紗良が笑った時、水辺からひよりの声がした。
「あ、いた」
近くにいた朝倉が振り返る。
「何が?」
草の間にしゃがんでいたひよりが立ち上がった。両手の中に、小さなカエルがいる。
朝倉がさっと身を引いた。
「桐谷、それ持ってくんなよ」
「かわいいよ」
「いい。そこで見て」
「ほら」
ひよりが一歩近づく。
「いや、来んなって」
その瞬間、カエルがひよりの手から跳ねた。
「うわっ!」
朝倉が勢いよく後ずさり、足を滑らせた。
「あ」
片足が水際のぬかるみに沈み、とっさについた手まで泥に入る。森田と三浦が動きを止め、ひよりも目を丸くした。
「朝倉くん、大丈夫?」
「お前のせいだよ」
「私、何もしてないよ」
「カエル近づけただろ!」
朝倉は立ち上がろうとして、妙な姿勢で止まった。
「……あれ」
「どうした?」
三浦が足元を覗き込む。
「靴、抜けない」
ちょうど受付から戻ってきた嶺が、騒ぎに気づいて水辺へ向かった。
「何?」
三浦が朝倉を指す。
「朝倉がカエルで……」
「俺はカエルじゃない」
嶺は朝倉の足元へ目を落とした。
「靴?」
「抜けないです」
「無理に引っ張んな。靴だけ残るから」
近くに落ちていた枝を拾い、足元へしゃがむ。
「朝倉、スマホ持ってる?」
「ポケットです」
「先に出して」
朝倉が泥だらけの手を見た。森田がすぐに近づく。
「俺取る」
「悪い」
スマートフォンを預けたのを確かめてから、嶺は靴の周りの泥を枝で崩していった。少しずつ足が動くようになり、ようやく靴ごと抜ける。嶺は朝倉の腕を取って、芝生へ上がらせた。
「怪我してない?」
「大丈夫です」
「じゃあ、靴洗おう。水道あっち」
朝倉が泥のついた靴を脱ぐ間に、嶺は三浦へ顔を向けた。
「三浦、肩貸してやって。俺、手汚れてるから」
「はい」
「森田は荷物持ってて」
「分かりました」
三人が水道へ向かうと、嶺はひよりを見た。
「桐谷」
「はい」
「嫌がってるのに近づけるなよ」
「すみません」
返事だけは素直だった。嶺は深く息を吐き、水道へ向かいかけたところで、また呼び止められた。
「相馬、ちょっといい?」
「手、洗ったら行く」
紗良は苦笑しながら、その背中を見送った。
「また呼ばれてる」
「ほんと忙しいね」
しばらくして、靴を洗い終えた朝倉が戻ってきた。濡れた靴を片手に持ち、少し気まずそうな顔をしている。
「足、大丈夫だった?」
紗良が声をかけると、朝倉は頷いた。
「はい。全然」
「よかった」
朝倉は少し間を置いてから言った。
「……カエルくらいで、情けないですよね」
「怖いものは仕方ないよ」
「こっち来ると思わなくて」
「びっくりしたね」
「次から桐谷が何か持ってたら、先に逃げます」
「それがいい」
紗良は笑った。森田が朝倉へスマートフォンを返し、三人は荷物の方へ戻っていった。
やがて嶺が戻り、ようやくベンチに腰を下ろした。そばに置いていたペットボトルを取って水を飲む。ちょうど通りかかった小松を見上げた。
「……今年の一年、どうなってんの」
「今さら?」
「いや、こんな予定じゃなかったんだけど」
千晶も笑った。
「普段は普通ですよね」
「普通だったよ」
嶺は一年生たちへ目を向けた。
「黒田と桐谷が絡むと事故る」
紗良は笑ってしまった。
「まだ昼前なのにね」
「先が思いやられます」
心底疲れたような声だった。嶺がこんなふうにぼやくのは珍しい。紗良は笑いを収めながら、もう少し休ませてあげたいと思った。
昼食の時間になり、芝生に敷いたシートへ集まった。朝倉は濡れた靴を日の当たるところへ置き、替えの靴下に履き替えてから腰を下ろした。
「日向先輩、元気ですね」
弁当を開きながら、朝倉が言った。
「そう?」
「全然疲れてなさそうです」
「疲れてはいるよ」
「意外と体力ありますね」
「意外とって何」
紗良が笑うと、朝倉は少し慌てた。
「いや、華奢ですし」
「日向さん、これでもエースアタッカーだったから」
隣で嶺が言った。朝倉が目を丸くする。
「そのギャップ、いいですね」
朝倉が素直な調子で言う。紗良は笑ってお茶を飲んだ。隣で嶺が朝倉へ顔を向けた。
「相馬くんもだったよ」
「それは全然意外じゃないです。すごい打ち込みそう」
紗良は笑った。
千晶は弁当を食べながら聞いていたが、ふと遊歩道の方へ目をやった。
「小松先輩、また知らない人と喋ってます」
そういえば、さっきまでいた小松がいない。紗良もそちらを見ると、少し離れたところで、犬を連れた年配の女性と話していた。
「犬撫でてるね」
「多分、最初は犬だったんでしょうね」
しばらくして、小松が戻ってきた。弁当の前に座り直したところで、千晶が尋ねる。
「何話してたんですか」
「犬の話」
「ずっと?」
「途中から旦那さんとか、娘さんの話」
「もう家族構成まで知ってるじゃないですか」
「向こうが話したんだよ」
小松は何でもないように箸を取った。
「あと、今日焼肉するから食べに来るかって」
千晶の箸が止まる。
「今会った人の家に?」
「うん。この近くらしい」
「予定なかったら行くんですか?」
小松は少し考えた。
「焼肉なら行くかも」
「行くんですね」
その時、遊歩道の方から声が飛んできた。
「圭介くーん! お肉いっぱいあるから、遠慮しなくていいからねー!」
全員が振り返った。小松は普通に手を上げる。
「キャンプあるんで! でも、ありがとうございます!」
女性は笑顔で手を振り、犬と歩いていった。
千晶が小松を見る。
「もう圭介くんなんですね」
「名前聞かれたから」
「初対面ですよね?」
「そうだけど」
小松は不思議そうに答え、弁当へ箸を伸ばした。
千晶が呆れたように紗良を見る。
「相変わらずだね」
紗良は笑って、頷いた。
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