1-05.渓谷
嶺は一人、来た道を戻った。木陰に入ると、汗ばんだ首筋に風が触れた。後ろから聞こえていた話し声が遠ざかり、靴底が土を踏む音だけが残る。
最後に二人を見たという曲がり角を過ぎると、斜面の脇に古い横穴があった。入口の周りには落ち葉が溜まり、奥は暗くて見えない。
嫌な予感がした。入口の手前で足を止め、声をかける。
「黒田、森田? いる?」
少し間を置いて、奥から声がした。
「相馬先輩ですか?」
森田だった。妙に切羽詰まっている。
「黒田もいる?」
「います!」
「出てこられる?」
今度は黒田志乃の声が返ってきた。
「私は出られます」
奥で何か言い合う声がしたあと、黒田が出てきた。
「森田は?」
黒田は一度、横穴を振り返った。
「何があったの」
「森田くん、動けないって」
「……怪我?」
「怪我はしてません」
嶺は入口の奥へ目を凝らした。森田の姿は見えなかった。
「分かった。黒田はここにいて。絶対、動くなよ」
スマートフォンのライトを点け、中へ入る。空気がひんやりして、湿った土の匂いがした。光を足元から奥へ動かすと、それほど深くないところに森田がいた。壁際で両腕を身体に引きつけ、立ち尽くしている。
「森田」
「すみません」
「どうしたの?」
森田は少し黙ってから言った。
「……怖くて」
「なんで入ったの?」
「黒田単独はまずいと思って……」
「ああ。とりあえず外出よう」
「分かってるんですけど、後ろに何かいる気がして」
「後ろ見なくていいから」
嶺は森田の前に立ち、ライトを出口へ向けた。
「つかまってていいから」
「いいんですか」
「うん」
森田は迷ってから、がっしりした身体を縮めるようにして嶺の袖を掴んだ。布が肘の方へ引かれる。嶺はその手が離れない速さで歩き出した。
数歩進んだところで、奥から小さな音がした。
森田が叫び、嶺の腕にしがみつく。急に体重がかかり、嶺は片足を踏ん張った。
「大丈夫だから。前だけ見て」
「……はい」
袖を掴む指に、さらに力が入った。何の音だったのか確かめるより、今は外へ出す方が先だった。
そのままゆっくり歩き、二人で外へ出る。森田は眩しそうに目を細め、すぐに手を離して息を吐いた。
嶺は黒田を見た。
「黒田」
「……はい」
呼んだだけで、黒田は肩をすくめた。丸い目を伏せ、両手を身体の前で握る。
「勝手にああいうところ入らないで。何の穴かも分かんないし、危ないから」
「……すみません」
「次から先に誰か呼んで」
「はい。本当にすみません」
暗い横穴へ自分から入ったとは思えないほど、小さくなっている。
「怒ってないから」
付け足しても、黒田は目を上げなかった。
嶺は少し困って森田を見た。森田も黒田に目をやってから、何も言わずに口を閉じる。
「じゃあ戻ろう」
◇
休憩場所に戻ると、紗良たちはベンチの周りに集まっていた。
「おかえり」
紗良が三人を見た。
「横穴に入ってました」
「えっ。なんで?」
「中、どうなってるのか気になって」
黒田が小さく答えた。隣で森田が渋い顔をする。外へ出てしばらく経つが、まだ顔色が悪かった。
「止めたんですけど。すみません」
「森田くん、顔色悪いね。ついてこなくてよかったのに」
志乃が小声で言った。森田は気まずそうに視線を落とす。嶺が口を開く前に、紗良が黒田へ声をかけた。
「志乃ちゃん。今度からそういうのは、誰かに相談してからにしよう?」
黒田は顔を上げ、姿勢を正した。
「はい。すみません」
嶺はちらりと志乃を見た。自分が注意した時には、全く目を合わせなかった。今は紗良を見て、普通に返事をしている。
男が苦手だという噂は、本当らしい。
「森田くん、志乃ちゃんを一人にしなかったの、えらいよ」
森田が顔を上げた。固くなっていた口元が、少し緩む。
「いや、でも、結局、相馬先輩に助けてもらったので」
「うん。でも、追いかけたのは森田くんだよ」
「……はい」
森田は顔を綻ばせた。嶺は森田の顔を横目で見た。
「森田って、暗所恐怖症?」
朝倉が横から顔を覗き込む。
「……暗くて狭いとこが無理」
三浦が少し笑った。
「よく黒田について行ったな」
「自分でもそう思う」
森田も笑った。もう大丈夫そうだった。
嶺は人数を確認し、先頭集団へ報告に行った。
戻ってくると、紗良がベンチから顔を上げた。
「相馬くん」
差し出された手に、個包装のチョコが載っている。
「食べる?」
「くれるんですか?」
「うん。さっきからずっと動いてるね。休憩したら?」
嶺は受け取った。
「ありがとうございます」
空いていた紗良の隣に腰を下ろす。歩いている間には気にならなかった脚の重さを感じた。
包みを開けると、チョコは少し柔らかくなっていた。
「溶けてない?」
「大丈夫です」
口に入れると、甘さが広がった。思っていたより腹も減っている。
紗良は嶺を見て、ほっとしたように笑った。
「相馬。次の分岐なんだけど」
別のグループから呼ばれ、顔を上げた。
「今行く」
紗良が呆れたように笑った。
「忙しいね」
「まだ午前中なんですけどね」
包みを畳み、立ち上がる。
「ちゃんと水分も摂ってね」
「はい」
何年経っても年の差は埋まらないまま。面倒を見ているつもりで、こちらも見られている。
嶺は水筒を取り出して一口飲んでから、呼ばれた方へ向かった。
◇
休憩を終えてしばらく歩くと、水音が大きくなった。木々の間に、白く落ちる滝が見える。
「わ、滝」
桐谷ひよりが足を止めた。
三浦も木々の隙間から滝を見た。葉が重なって、下の方はよく見えない。
遊歩道から少し上がったところに、平たい岩場が張り出していた。
「上からの方が、綺麗に見えそう」
ひよりは迷わず石段を上がっていく。
「三浦くんも行く?」
「せっかくだし」
三浦も続いた。先を行くひよりの靴と、次に足を置く段を見ながら上がる。段数はそれほど多くなかった。
「こっち、よく見えるよ」
「ほんとだ」
岩場に立つと、滝が下まで見えた。白い水が落ち、岩に当たって散っている。水音も遊歩道にいた時より大きかった。
ひよりがスマートフォンで写真を撮る間、三浦も滝を眺めていた。
「じゃ、戻ろう」
ひよりが石段へ向かう。三浦も後を追い、そこで初めて下を見た。
遊歩道が遠かった。
上ってきた段が、下へ向かって急に細くなったように見える。次に足を置く場所は分かるのに、そこへ体重を移すところが想像できない。
三浦は石段の手前で足を止めた。
ひよりはもう下に着いている。
「写真撮れました」
「見せて」
下から紗良の声が聞こえた。三浦は岩場の端から離れ、しゃがんだ。立っているよりは落ち着いたが、膝に置いた手に力が入る。
少し待てば平気になる気がした。
けれど、石段へ目を向けると、腹の奥がひやりとする。
「三浦、まだあそこにいません?」
朝倉の声だった。
「三浦くーん」
「今行く」
ひよりに答えた。答えた以上、立とうと思ったが、脚が動かなかった。
「降りてこないの?」
「うん」
自分でもおかしな返事だと思った。
「三浦くん?」
「大丈夫です」
紗良にまで声をかけられ、ますます立ち上がりにくくなる。下から何人も見ていた。
「三浦、何してんの?」
相馬先輩が戻ってきていた。
「何でもないです」
「何でもない人、そんなとこで固まらないだろ」
三浦は口を閉じた。
相馬先輩が石段の下へ来る。
「もしかして、高いとこ苦手?」
認めたくなかったが、このまま待っていても降りられそうになかった。
「……はい」
「行きは平気だったの?」
「上しか見てなかったんで」
「子猫みたい」
相馬先輩が少し笑った。三浦は眉を寄せた。
「笑わないでください」
「ごめん。今行く」
相馬先輩は石段を上がり、三浦の横へ来た。同じ高さに誰かがいるだけで、少し息がしやすくなった。
「一緒に降りよう。下見なくていいよ。前だけ見て」
「はい」
「そこ一段下りて」
三浦は立ち上がり、指された段へ片足を伸ばした。靴底が石に触れる。まだ上の段に置いている足から、なかなか体重を移せなかった。
「そう。次、右」
「はい」
相馬先輩の声に合わせて、もう片方の足を動かす。
一段下りられた。それでも次の段を見ようとすると、その向こうの地面まで目に入ってしまう。
途中で、また足が止まった。
「無理そう?」
「……ちょっと」
「俺の肩つかんでいいよ」
三浦は一瞬迷ってから、相馬先輩の肩に手を置いた。掌の下に、しっかりした支えがある。そこを掴んだままなら、次の足を出せそうだった。
「次そこ。大丈夫」
「はい」
靴底が段に着くたび、肩を掴む指を少し緩めた。また次の段で力が入る。相馬先輩は急かさず、その都度足を止めてくれた。
最後の段を下り、平らな地面に両足が着いた。
三浦は肩から手を離した。息を吐くと、自分が思っていたより浅く呼吸していたことに気づく。
「すみません」
「いいよ。次は上る前に、帰り道も見て」
「そうします」
もう一度上を見ようとして、やめた。
前方から名前を呼ばれ、相馬先輩はそちらへ歩いていった。入れ替わるように紗良が横へ来る。
「大丈夫?」
「……はい」
ようやく降りたのに、今度は気まずさで顔を上げにくかった。
「行く時は本当に平気だったんです」
「うん。そういうこともあるよ」
紗良は笑った。
「ちゃんと降りられてよかった」
「相馬先輩いなかったら、もうちょっとかかってました」
「でも最後は自分で降りたでしょう」
三浦は紗良を見た。
「怖いのに、頑張ったね」
「……ありがとうございます」
目を逸らす。さっき同じように森田も褒められていた。ただ階段を下りただけだ。揶揄うわけでもはく、頑張ったと労ってくれるのか、と思った。
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