1-03. 往路の車内
車に乗り込むと、一年生の一人が、紗良の手に気づいた。
「手、怪我したんですか?」
「ぶつけちゃって。大丈夫だよ」
「痛そう」
「荷物、持ちますから言ってくださいね」
一年生たちは、口々に心配してくれた。
「ありがとう。本当に大したことないから」
笑って返しながら、少し居心地が悪かった。心配してもらえるのはありがたい。けれど、さっきの嶺の顔を思い出すと、これ以上大事にされるのも何となく気まずい。
紗良はシートベルトへ手を伸ばした。いつもの癖で右手を使おうとした瞬間。
嶺がこちらを見た。何も言わない。ほんの一瞬、視線が紗良の顔から右手へ落ちただけだった。紗良は伸ばしかけた手を止めた。
「……」
左手に持ち替えて、シートベルトを引く。身体の前を斜めに通し、バックルへ差し込む。小さく音がしたところで横を見ると、嶺の口元がわずかに緩んでいた。
「いえ」
嶺は前を向いたまま、キーに手をかける。
「ちゃんと聞いてくれたなと思って」
紗良は一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。
「今のは、明らかに目線で言ってたでしょう」
「伝わったならよかったです」
しれっと返されて、また笑ってしまう。
「過保護すぎるよ」
「今日はずっと監視してますからね」
嶺もつられて笑った。冗談めかした声だった。
「こわい」
「ちゃんと左手使ってれば何もしません」
「はいはい」
後部座席を見ると、一年生の三人が何となく不思議そうな顔でこちらを見ていた。紗良は急に少し恥ずかしくなって、前を向く。
全員がシートベルトを締めたのを確認すると、嶺は車を発進させた。窓の外を、駐車場の景色がゆっくり後ろへ流れていく。
運転する嶺は、さっきまでとはまた少し違って見えた。片手でハンドルを回し、車体の位置を確認してから、滑らかに道へ出る。
紗良は何となくその横顔を見た。前を向いた目。ハンドルに置かれた手。袖口から覗く腕。すぐに窓の外へ視線を戻す。
後部座席の三人は、共通の授業の話でぽつぽつと会話をし始めた。
しばらくして、膝の上に置いていたスマートフォンが振動した。取ろうとして、右手を動かす。
その瞬間。また横から視線を感じた気がした。紗良は手を止める。嶺は前を向いている。
「……今、見た?」
「何をですか」
「今」
「運転中ですよ」
声だけ聞けば、何も知らないような返事だった。紗良は少し眉を寄せながら、左手でスマートフォンを取る。
ちょうど赤信号で車が止まった。横を見る。嶺もこちらを見た。その視線が、紗良の左手にあるスマートフォンへ落ちる。それから目が合った。
やっぱり見ていた。
「監視してるじゃん」
「言ったでしょ」
嶺が少し笑って、また前を向く。信号が青に変わった。車が動き出す。それからも、紗良が何かしようとするたび、自分でも右手を意識するようになった。
飲み物を取ろうとするとき。髪を耳にかけようとするとき。膝の上で手を組み替えるとき。そのたびに、嶺の視線が一瞬だけこちらへ来るような気がする。実際に見ているのかは、途中からよく分からなかった。
さっき水道のそばで、嶺の手のひらに重ねたときの感触を思い出した。水で冷えた自分の指。傷に触れないよう、下から支えていた温かい手。紗良は無意識に、絆創膏の貼られた手を左手で包んだ。
窓から入る日差しが、指先に白く落ちている。たったこれだけの傷なのに。嶺が気にするせいで、自分までずっとそこを意識している。
出発して程なくすると後部座席の三人も少しずつ緊張が解けてきた。最初は遠慮していたらしい会話が、やがて履修やサークルの話へ広がっていく。嶺は運転しながら、必要なときだけ話へ加わった。誰かの声が小さければ聞き返し、話題が途切れれば自然に次を振る。慣れた様子で全員を会話へ入れる。
紗良は助手席でナビを確認しながら、ときどき後ろを振り返った。
「日向先輩って、法学部なんですよね」
朝倉が尋ねた。
「そうだよ」
「授業、やっぱり難しいですか」
「慣れればそうでもないよ」
「すげえ。法学部って偏差値、抜きんでてますよね」
隣の森田が言う。
「私はたまたま入れただけだから」
「公務員試験、受けてるんですよね」
三浦が静かに口を挟んだ。
「そうだよ」
「もう決まりそうなんですか?」
「これから面接だね。まだ全然」
「大変ですね」
「日向先輩なら、楽勝でしょ」
紗良は少し笑った。まだ、屈託のない誉め言葉が微笑ましい。
「今日、会ったばかりなのに」
「久々なのにさりげなく動いてたし、すごいなって思いました」
朝倉はそう言ってから、少し照れたように窓の外を見た。森田も続ける。
「話しかけにくい人かと思ってました」
「どうして?」
「法学部の四年生って聞いてたし」
そこで一度、言葉を切る。理由はそれだけではなさそうだったが、紗良は追及しなかった。
「実際は普通でしょう」
「普通というか、話しやすいです」
三浦が言う。
「ありがとう」
紗良が笑うと、三人の空気が少し明るくなった。
「日向先輩と相馬先輩って、仲がいいんですね」
朝倉が何気なく言った。
「高校が一緒だからね」
「え、そうなんですね。」
「うん。部活も。小松くんも一緒だった」
「そうなんですね」
「何部だったんですか」
「バレー」
「強かったんですか」
「全然。県内レベル。あ、でも、相馬くんたちは最後、勝ち上がったよね」
「ブロック大会行きました。すぐ負けましたけど」
嶺は前を向いたまま、淡々と答えた。
「へえ。相馬先輩、背も高いし、バレー部っぽいですね」
「小松くんも高いし、相馬くんたちの代は結構強かったよね」
「まあ。先輩達よりは」
「ひどい」
紗良は笑った。
「相馬先輩って、前からこんな感じだったんですか?」
嶺は軽く答えバックミラーへ一度目を向けた。
「こんな感じって?」
紗良は言った。
「何でもできる感じ」
「……そうだね。器用だし。要領もいいし」
紗良は少し考えた。
「でも、入学してきた頃は今よりも小さくて。かわいかった」
「先輩」
嶺が静かにでも少し不満げな様子を滲ませながら口を挟む。
「何?」
「後輩の前で変なこと言わないでください」
「本当のことでしょう。一年生の途中で急に伸びたんだよね。あの時はびっくりした」
「小さい相馬先輩、想像できないです」
後部座席から笑いが上がる。
「もっといい話も知ってるでしょう」
「なんだっけ」
紗良は笑った。軽いやり取りだった。嶺は誰とでも率なく話す。紗良との間でもそうだというだけだ。
少し間が空いたタイミングで、紗良は後ろを振り返った。
「休みの日はどんなことしてるの?」
「俺、最近カメラ買ったんで、写真撮ってます」
朝倉が答えると、森田がすぐに続けた。
「俺はライブ。今度の日曜も行きます」
「三浦くんは?」
「古本屋巡り」
「本、好きなんだ」
紗良が笑うと、三浦も少しだけ笑った。
「相馬先輩は、何してます?」
「うーん。結構ふらっと出掛ける。遠くまでは行かないけど」
嶺は前を見たまま答えた。
「先週は、海を見に行った」
「何しに?」
「ただ見るだけ」
「車で行ったんですか?」
「うん」
「彼女と?」
森田が何気なく尋ねた。紗良は窓の外へ目を向ける。
「いや、一人で」
「なんか、かっこいいですね」
「そう?」
嶺が短く笑う。
「日向さんも、結構一人で行きますよね」
紗良は顔を戻した。
「うん」
「美術館とか、お寺とかよく行く。海もいいね」
「よかったですよ。ベンチもあって」
「へえ」
「しばらくぼーっと眺めてました」
「いいね、そういうの」
前の信号が赤に変わり、嶺はゆっくりブレーキを踏んだ。
車が止まる。後ろでは朝倉が森田にライブの話を振った。
嶺はちらりと紗良を見て言った。
「……行きます?」
紗良は意味をとりかねて、少し首を傾けて言った。
「……サークルで?」
「それもいいですね」
嶺は薄く微笑んで言った。信号が青に変わった。車がゆっくりと動き出す。
「相馬先輩って、彼女いるんですか」
後部座席から朝倉の声が飛んできた。紗良は目線だけで嶺の横顔を見た。
「いないよ」
「意外です」
「どういう意味? 」
「普通にいそうだから。モテますよね」
「そうでもないよ」
答えは簡潔だった。話を広げるつもりはないらしい。
「日向先輩は?」
今度は朝倉が尋ねた。
「私? いないよ」
「じゃあ、募集中ですか」
「うーん、募集はしてないかな」
「就活があるからですか」
「それもあるけど」
紗良は少し考えてから答えた。
「あと一年もしないうちに卒業するでしょう。就職したらどこへ行くか分からないし。今から付き合って、すぐ遠距離になるのもなって」
三人は素直に頷いた。
「理性派っすね」
「まあ現実的にそうですよね」
三人は素直に頷く。
「遠距離、嫌なんですか」
不意に嶺が口を挟んだ。嶺は前を向いたまま、変わらない顔でハンドルを握っている。
「嫌っていうか、大変そうじゃない?」
「まあ、近いよりは」
「でしょう」
「でも、それだけで始めないんですか」
「始める前なら、考えるかな。相手にも負担をかけるし」
「相手が、それでもいいって言ったら?」
紗良は嶺を見る。
「ずいぶん食いつくね」
「考え方が気になっただけです」
嶺は少し笑った。
「やってみないと分かんないこともあるじゃないですか」
軽い口調だった。
「そのときは、そのとき考えるかな」
「なるほど」
嶺はそれ以上追及しなかった。ただ質問を終えてからも、何か考えるように少しの間前方を見たまま黙っていた。
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