1-02. 出発
キャンプの集合場所は、駅前のロータリーだった。朝六時半。
紗良が着いたときには、すでに三台の車の後部扉が開き、部員たちが荷物を積み込もうとしていた。
「紗良さん! 久々にご一緒できてうれしいです」
紗良の到着に気づいた理学部二回生、森千晶が声を掛けた。
「千晶ちゃん。元気そうだね。私もうれしい。楽しみだね」
森千晶は、紗良に懐いており、サークルに来られない間も時々連絡をしていた。
「おはようございます」
近くで固まって話していた一年生らしい男子が紗良に気づき、少し緊張した顔で頭を下げる。
「おはよう」
その隣にいた二人も、つられるように挨拶をした。
「日向先輩。今日、同じ班らしくって。俺たち初めてなんですけど、足引っ張らないように頑張ります。よろしくお願いします」
「そうなんだ。よろしくね」
三人とも今回が初めてらしい。紗良が名前を聞こうとしたところで、少し離れた場所から声がした。
「おはようございます」
聞き慣れた声だった。振り向くと、ナイロンパーカーを羽織った嶺が、車の後ろに立っていた。片手に参加者名簿を持ち、もう一方の手で誰かの荷物を受け取っている。
周囲を見ながら必要なことを先回りして片づけていく姿も、誰かに声をかけられれば軽く笑うところも、以前と同じだ。
「本当に来たんですね」
「相馬くんが誘ったんでしょう」
「そうでしたっけ」
「そうだよ」
本当に忘れているのか、とぼけているのか。本心がわからない。嶺は昔からこうだった。特別に慕ってくれているのかと思えば、他にもたくさんいる先輩の一人に何気なく声を掛けただけなのだ、と突きつけられる。適度に頼り、適度に甘え、先輩という属性の懐に入り立ち回るのが上手い。誰に対しても自然だから、自分だけに向けられたものだとは思わないようにしている。
紗良にとっては、付き合いが長く、よく慕ってくれるかわいい後輩だ。だから些細なやり取りでも忘れたりしない。だが嶺は交友関係が広いから、そういうこともあるのかもしれない、とも思う。
嶺は紗良の荷物へ視線を向けた。
「それ、預かります」
「重いからいい。自分で持っていく。ありがとう」
積み荷作業を行っているところへ進もうとすると、嶺が呼び止めた。
「先輩は一号車で、班員は初参加の一年生三人と記録係の小松と、俺です」
「わかった。フリーは私だけだから、一年生をフォローするようにするね」
「久々なのに、すみません」
「その為にきたから、いいよ」
そう答え、その場を離れた。後ろから明るい声が聞こえた。
「嶺、これ持って」
そっと振り向くと、嶺と同じ教育学部三年の鷹村みちるだった。嶺に大きめのバッグを差し出している。
「自分で持て」
「重い」
「見れば分かる」
「じゃあ持ってよ」
「何でだよ」
そう言いながらも、嶺は結局片手で受け取った。
「やった。ありがと」
みちるが笑う。髪は明るめで、服装も、本人の性格を表現するかのような鮮やかな色彩だ。紗良は何となく、そのやり取りを見ていた。仲がいいんだなと思った。嶺も、いつもより少し言葉が雑だ。それがかえって親しさを感じさせる。
「相馬、あとこれも」
「それは自分で持って」
「ケチ」
「一個持ってるでしょう」
「じゃあ半分」
「甘えんな」
嶺が笑う。みちるも笑っている。楽しそうだった。紗良は手元の荷物に視線を戻す。自分と嶺の間には、どうしても先輩と後輩という距離がある。ふざけても、どこか一線を残す。けれど、みちるとは違う。同じ学年で、同じ学部で。遠慮なく頼って、遠慮なく断られて、それでも笑っている。紗良にはできない距離だった。
同じ空気を共有できて、明るくて、素直で。嶺ともよく似合って見える。きっとああいう子が、嶺には合う。そう思う度、胸の奥が少しだけ重くなる。理由は考えなかった。
紗良はリュックを下ろそうと、片方の肩紐から腕を抜いた。もう片方も外そうとしたところで、途中で引っかかる。
「……あれ」
もう一度腕を動かすと、首の後ろがつんと引かれた。髪が服かリュックに絡んでいるらしい。紗良は空いている手を後ろへ回した。指先で探ってみるが、自分ではどこに挟まっているのか分からない。動かすたびに髪が引かれて、首を傾ける。
「何してるんですか」
すぐ横から声がした。顔を向けると、いつの間にか嶺が近くまで来ていた。
「髪が引っかかったみたい」
「見せてください」
紗良がもう一度腕を動かそうとすると、嶺の手がリュックを押さえた。視界の端から嶺の手が伸びて、リュックを押さえた。
「動かないでください」
短く言って、嶺が背後へ回った。背中側に人が立つ気配がする。さっきまで風が通っていた首元が、急に狭くなったように感じた。髪に触れる指の動きに合わせて、首の後ろが少しずつ引かれる。
「適当でいいよ。切ってもいい」
紗良は言ったが、嶺は返事をしなかった。すぐ後ろで、バックルが小さく鳴る。髪を一束ずつ拾っているらしい。紗良には見えない。ただ、ときどき肩越しに嶺の腕が見える。袖口から出た手。長い指が、自分の髪を慎重にほどいている。
その光景が妙に近く感じて、紗良は前を向いた。次の瞬間、指先が首筋をかすめた。ほんの一瞬だった。それでも、触れたところだけがはっきり分かる。紗良はわずかに肩をすくめた。嶺の手が止まる。
「痛いですか」
声が近い。
「痛くない。びっくりしただけ」
「じっとしててください」
「うん」
低い声が、頭の少し上から落ちてくる。紗良は言われた通り動かず、静かに息を吸った。妙に深く吸いすぎた気がして、今度はゆっくり吐く。嶺は髪を引っ張らないよう、バックルへ巻きついた部分を少しずつ外している。指先が髪をすくうたび、ときどき首元にかすかな感触が残った。触れているのか、髪が動いているだけなのか、よく分からない。
「もう少しです」
「うん」
返した声が、思ったより小さかった。紗良は何となく前髪を耳にかけた。動かないでと言われたばかりなのを思い出して、すぐ手を下ろす。背後で嶺が小さく笑った気がした。
「何?」
「いや」
「何」
「ちゃんとじっとしてるなと思って」
「言われたから」
「偉いです」
「子ども扱いしないで」
今度は本当に少し笑った。その声が近すぎて、紗良もつられて口元を緩める。最後の一束が抜けた。首元を引かれていた感覚が、ふっと消える。
「はい、取れました」
振り返ろうとしたところで、嶺が先にリュックを肩から外した。
「これも、もらいます」
嶺がリュックを受け取る。背中にあった気配が離れ、紗良はそっと息を吐いた。
「ありがとう」
嶺はもういつもの距離に戻っている。
「どういたしまして」
何でもなかったみたいに言って、紗良のリュックを自分の荷物と一緒に持った。紗良はその背中を少しだけ見てから、あとを追った。
◇
「それ、二号車の奥にお願いします」
嶺が収納ケースを抱えた男子へ声をかける。誰かが指示を待つ前に、次の配置を決めていく。荷物の量を見て、空いている場所を確認して、次々に人を動かしている。紗良は地面に置かれていたテントの袋を持ち上げた。車の横へ運ぼうとしたとき、嶺が荷台の奥へ身体を入れるのが見えた。
大きな収納ケースを両手で押し込み、そのまま片腕を伸ばして奥の隙間を確かめている。Tシャツの背中が動きに合わせて引かれた。高校の頃より、少し逞しくなった。
ふとそう思った、そのときだった。
嶺のすぐ横に積み上げられていた荷物がぐらつく。上に載せられた工具箱が傾いた。嶺はまだ気づいていない。考えるより先に、紗良は右手を伸ばしていた。
硬い金具が手の甲を掠める。
「っ」
小さめの工具箱なのに、見た目よりずっと重い。鈍い痛みが手の甲を走った。軌道を外れた工具箱が車体へ軽く当たり、そのまま地面へ落ちる。
金属の混じった重い音が響いた。
「日向さん」
振り向いた嶺の顔から、表情が消えた。目を見開いて、荷台からすぐに降りてくる。落ちた工具箱を一度見て、それから紗良の右手へ視線が落ちた。
「手、見せて」
「大丈夫。少し擦っただけ」
左手で庇っていた右手を、そのまま取られる。思っていたより強引だった。紗良は一瞬、言葉を止めた。嶺の手の中に、自分の手がすっぽり収まっている。手の甲には浅い擦り傷ができていて、白い皮膚の上に赤い血が滲んで周辺も少し赤くなっている。嶺はそこをじっと見ている。眉間に薄く皺が寄っていた。
「大丈夫」
安心させるつもりで言ったのに、嶺は顔を上げなかった。
「洗って、絆創膏貼って、冷やしましょう」
「これくらいなら平気。作業に戻って」
「だめです」
返事が早い。言いながら、もう救急箱を取りに車の前方へ向かっている。
「救急箱、どこ?」
「助手席の下です」
近くにいた部員が答えた。
「怪我ですか?」
「俺、やるから」
嶺は迷わず取り出し、そのまま戻ってきた。別の部員に二、三指示を出してから、紗良を水道へ連れていく。流水に手を差し入れると、傷口が少し沁みた。思わず指先に力が入る。その横で、嶺はずっと紗良の手を見ていた。
「すみません」
水音に紛れそうな声だった。紗良は横を見る。
「相馬くんが謝ることじゃないよ。自分でやったことだから」
「俺の確認が甘かった」
「全部予測するのは無理だよ」
水を止める。
「頭に当たらなくてよかったよ」
少し離れた車止めに腰掛け、救急箱を開いていた嶺の手が止まった。一瞬だけ。すぐにガーゼを取り出し、何事もなかったように包装を破る。紗良はその横顔を見る。
「相馬くん?」
「はい」
「どうしたの」
嶺は手元を見たままだった。
「次からは助けないでいいです」
「……見殺しにはできないよ」
「見殺しで、いいです」
語尾が、わずかに掠れた。紗良は嶺の顔を見る。怒っているようにも見える。けれど、それだけではない。眉尻が少し下がっていて、ひどく困ったような顔だった。これくらいの怪我なら、嶺自身がしたところで笑って流すだろうに。
「すぐ治るよ、これくらい」
嶺は小さく息を吐いた。何か言いたそうに見えたが、結局何も言わない。代わりにハンカチを差し出した。
「拭いてください。絆創膏貼ります」
「ありがとう。どうやってハンカチ取り出そうかなって考えてた」
左手で受け取って、水気を拭う。嶺は絆創膏の包装を剥がした。
「手を」
言われて見ると、嶺が手のひらを上に向けている。そこへ乗せろということらしい。紗良は一瞬だけ迷った。
それから右手を重ねる。指先が触れた。温かい。水で冷えた自分の手のせいかもしれない。
嶺の手は思っていたより大きくて、紗良の指先がその手のひらの中に収まる。傷へ触れない位置を選んで、下から軽く支えられた。
「ずれてたら言ってください」
「うん」
俯いた嶺の前髪が少し落ちる。紗良の手を持ったまま、もう片方の指で絆創膏を当てる。長い指が手の甲を覆う。傷には触れず、端だけを指の腹で丁寧に押さえていく。紗良は何となく、その動きを見ていた。
手際がいい。サークルでは誰かが擦り傷を作ることも珍しくない。こういう処置だって、きっと何度もしている。誰にでもすることだ。そう分かっているのに、自分の手の下にある嶺の体温だけが妙にはっきりしていた。
「痛くないですか」
絆創膏の端を押さえる指が少し移動する。
「うん。平気」
嶺が顔を上げた。思ったより近いところで目が合う。紗良は思わず先に視線を落とした。
「これで大丈夫です」
確認を終えると、嶺はすぐに手を離した。温かさがなくなる。ほんの数秒前まで触れられていた場所が、 急に涼しく感じた。紗良は無意識に指を軽く曲げてから、手を下ろす。
「ありがとう」
「はい」
嶺はもう救急箱へ視線を戻していた。さっきまでのことを切り離すような、あっさりした離れ方だった。紗良はポケットへ右手を入れた。
「ハンカチ借りちゃったから、これ使って」
まだ使っていない自分のハンカチを取り出して渡す。
「ありがとうございます」
嶺が受け取る。一瞬、また指先が触れた。今度は本当に一瞬だった。
「今日は右手で重いもの持たないでください。なるべく使わないで」
「この程度で?」
「動かすと傷が広がるかもしれないし、跡が残るかもしれないので」
嶺は救急箱を閉じる。少し待っているように言われ、待っていると、コンビニで冷やすための袋状のアイスを買ってきた。
「しばらく冷やしてください。」
「ありがとう」
「重いものあったら俺が持ちます」
「気にしなくていいよ」
紗良は絆創膏の貼られた手を見る。
「でも気をつける。ありがとう」
嶺はまだ少し不満そうだった。それでも何も言わず、救急箱を持って立ち上がる。紗良も後を追った。車のそばまで戻ると、千晶がすぐに駆け寄ってきた。記録係なので、首からカメラを下げている。
「紗良さん、怪我したって。大丈夫ですか」
「全然大丈夫だよ。小さい傷だし」
「紗良さんの綺麗な手が」
千晶は心配そうに眉を下げて、紗良の右手をそっと取った。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
さっきと同じように、手を取られている。けれど一瞬だけ、水で冷えた指先の下にあった、嶺の手の温度を思い出した。紗良はすぐに千晶へ笑った。
荷物を積み終え、車ごとの点呼が始まった。定員の関係で小松は二号車へ乗るらしい。何気なく目をやると、小松は笑いながら何か捲し立てる千晶を車内へ押し込んでいる。相変わらず賑やかだな、と思いながら紗良は一年生三人と一号車へ向かう。
後部座席にはすでに三人分の荷物が置かれていた。それを見つけ、男性よりは細身の自分が後部座席の真中へ座った方がいいのでは、でも、よく知らない年上の女と密着する方が気を遣うだろうか、と迷っていると、背後から嶺の声がした。
「日向さんは前に。ナビしてください」
「運転できる人の方が運転も楽ですから」
有無を言わせない口調にどこかほっとして、助手席のドアを引いた。
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